歴史の世界

法家(6)韓非子(「勢」と「術」)

今回は「勢」と「術」について。

「勢」

「勢」については別の記事の《慎到の節》 で書いたので、先に読んでほしい。

韓非子』難勢篇は慎到の勢の概念に賛同する論説だ。

そして以下のように「勢」について書いている(『韓非子』難勢篇より)。

堯・舜、そして桀・紂などは、賢聖、暴君としての両極であり、千年にひとり出るか出ないかの存在である。われわれが考えねばならないのは、そのような例外に属する人物ではなく、ごく平凡などこにでも転がっている輩であり、世の中それが大多数を占める。したがって堯や舜の聖人の出現を待つなどということは、千年に一度の偶然を期待するようなもの、乱世を千年我慢して、ただの一度の治安を願うに等しい。しかも、たとえ堯・舜が出てきたとしても一個人としては自らの能力には限りがある。全体、大多数を治めるには、然るべき地位・権威を盾に褒賞・刑罰をシステマティックに運用していくことが一番である。

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p146-147

結局のところ、君主の地位と その地位が有する権勢(すなわち「勢」)がシステマティックに動く体制を構築せよ!ということになる。

「術」

「術」については内儲説上篇に「七術」がある。

権勢、地位よりもいっそう技術的、テクニックに傾くものとして、君主はいまひとつの「術」を習得しておかねばならない。「術」とは、臣下・部下の操縦術、掌握術であり、功利的行動を人がとり、それゆえ「人を信ずれば、人に制せらる」という教訓から導き出されたものであった。

韓非子』内儲説上篇に「七術」篇があり、そこで七種類の操縦術を開陳している。

  1. 多くの手がかりを集めてそれを突き合わせて総合的、実証的に判断する。
  2. 威厳をもって、必罰をおこなう。
  3. 能力を発揮させるために、然るべき者に恩賞を与える。
  4. 個別に分離独立して意見を聴取し、実績に従って結果責任を問う。
  5. 不可解な命令や態度をわざとして、臣下を疑心暗鬼にさせ、また臣下をそれで試す。
  6. 知らないふりをして、質問して、どう応えるのか観察する。
  7. 意図することの逆のことを言ったりしたりして、相手の反応を見る。

右にいう「信賞必罰」「実物証拠主義」は、改めていうまでもなかろう。[中略]

徹底した人間不信は、なんといっても(5)(6)(7)であろう。「七術」に挙がる具体例はこんな例である。

県の長官であった龐敬は、市の役人を視察し、責任者を呼び出した。しばらく立って対面していたが、別に何も命令せずにそのまま帰した。役人たちは、長官と自分たちの責任者が何か自分たちのことに関して話し合ったに違いないと疑心暗鬼になり、何もしないでも統制がきいた。[中略]

不可解な命令を出し、疑心暗鬼にさせるこれが例である。

韓の昭侯は、爪を切手そのひとつを自分で隠しておき、部下たちにはなくしたといって探させた。ある者が自分の爪を切って、それをなくした爪だといって差し出した。昭侯はそれで誠実な部下と不誠実な部下を見極めた。

「知らないふりをして、部下を試す」という例である。

第一には、法律を準則としてそれに忠実に乗っ取る、刑罰と徳を運用における推進力とする。第二には、為政者個人の資質に過度な期待をせず、権威・地位という装置の上で、臣下を掌握する術を会得して政治をおこなう、そうすればどんな凡人君主でも一定の成果をあげることができ世の中の安寧秩序は達成できる。これが韓非の政治論であった。

出典:冨谷氏/p148-150

  • 「刑罰と徳」の徳とは、儒家の言う道徳のそれではなく、「アメとムチ」のアメに近い。

もうひとつ、「形名参同術」について。

もともとの形名参同術を発案した人物は申不害。この人物と形名参同術については記事の 《申不害の節》 に書いた。

韓非子』はこのアイデアを採用したのだが、『韓非子』の指向に合うように改変している。

韓非子は先輩の申不害から、形名参同術の理論を導入したのだが、韓非子は術的法や厚賞厳罰、君主の権勢などを、形名参同術と密接に結合する形に理論を進展させている。こうした操作によって形名参同術は、形名術に委ねれば自動的に臣下を督責でき、君主は賢智を用いた煩雑な判断をせずに無為でいられるといった申不害の段階から、法と賞罰による威嚇を背景に、より積極的に君主権への絶対服従を強制する段階へと、その威力を増大させたのである。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p264

形名参同術については『韓非子』揚権篇に書いてある。

法術思想の矛盾

以下は浅野裕一氏の見解。

法術の士について。

韓非子は、「智術の士は、必ず遠見にして明察。明察ならざれば、私を燭(てら)すこと能わず。能法の士は、必ず強毅(きょうき)にして勁直(けいちょく)。勁直ならざれば、姦を矯(ただ)すこと能わず」(『韓非子』孤憤篇)と、いかなる誘惑にも乗らず、どんな迫害にも屈せずひたすら君主と国家の安泰のみを願って闘い続ける、法術の士の存在を強調する。また法術の士のパートナーとして、法術の士の価値を認め、要職を占める重臣たちの妨害を排除して、彼の意見を採用する名手の存在をも記す。

国家の要職を占める重臣たちは、その権力を悪用して、さまざまな陰謀をめぐらす。いかにも国家や君主のためにしているかのように見せかけながら、その裏では私腹を肥やし続ける。[中略]

だが法術の士は、どんなに利益を餌にみせられても、決してつられたりはしない。どんなに脅迫されても、決してひるんだりはしない。法術の士は、自分の利益には目もくれず、命を落とす危険も顧みない。[中略]

法術の士が活躍するためには、その価値を高く評価して任用してくれる君主が必要である。そうした君主を韓非子は「明主」とか「明王」と呼ぶ。明主と法術の士。韓非子によってこの二種類の人間だけは、曇りなき叡智を備え、欲望に目が眩(くら)まず、恐怖にたじろがず、決然として国家の前途に深謀をめぐらす、純粋な仕事師、ピューリタン的人間として描かれる。だがそうした人間が出現する保証は、実はどこにもない。

出典:浅野氏/p266-268

韓非子』難勢篇において、堯・舜のような聖人も桀・紂のような暴君も千世に一度しか現われず、他の君主は彼らに比べれば平凡な君主たちで、その凡主たちでも国の秩序を保てるようにするために「勢」という概念を編み出した慎到に賛同している。

しかし『韓非子』は上の引用のように「明主」を求めている。

韓非子は、現実の暗さに目覚めよと説いて、偶然の幸運に頼る統治を甘美な幻想として退け、一貫して「必然の道」(『韓非子』顕学篇)を追い求めた。だが韓非子の鋭い理論も、実はその根柢に、明主と法術の士の出現といった偶然性に一切を託さんとする、大いなる幻想を宿していた。理想主義者の魂を現実主義者の仮面と衣装で演じ続けようとしたところに、韓非子の思想の、そして韓非子の人生そのものの悲劇が存在したのであり、彼もまた地上のあまりの暗さに耐え切れず、架空の幻夢の中に、己と世界を救済しようとしたのである。

出典:浅野氏/p268

手厳しい。

韓非子』は現代においても利用されている思想書なので、単なる幻想・妄想の類いのアイデアではないことは確かだ。



法家(5)韓非子(「法」)

今回は『韓非子』の「法」について。

法家の思想は法によって世の中を治めようという政治思想だ。そしてこの「法」とは成文法のことで、文書化して世に示して人々に従わせることを基本とする。

これを前提として、『韓非子』の「法」の目的とはどういうものか?

「法」の目的

第一は、法令を無視して私的権力の拡大を狙う重臣を摘発・排除し、君主権の強化を実現することである。第二は、法や賞罰によって、民衆の価値基準を農耕と戦闘にのみ統一し、富国と強兵を実現することである。第三は、法治により犯罪を防ぎ、社会秩序を維持して、民衆すべてに安全な社会生活を保障することである。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p258

上の目的は法を君主の名のもとに公布することを前提とする。法を破ることは君主の命令に背くことを意味する。簡単に言えば以下のようになる。

「第一」の目的は君主権の強化
「第二」の目的は富国強兵
「第三」の目的は治安維持 *1

「第一」の目的の考えは、申不害と慎到の思想に影響されたと考えられている。この中には、重臣(大貴族)の政治・行政の裁量権を制限することで彼らの権力の源を縮小することも含まれる。これも君主権の強化につながる。

ただし申不害と慎到は法の客観性・中立性を強調し、君主の恣意的な法の運用をも戒めている。そうすることで君主が暗愚の場合でも法によって国の秩序が保つことができる、というのが両者の主張だ。

「第二」の目的の考えは、商鞅の思想に影響されたと考えられている。

商鞅の考え方の中には、富国強兵の実現の他に、法を用いて君主の意思の実現という目的が含まれる。つまり、法は《君主の意思を実現するための誘導技術》 *2 ということになる。この考えは、上述した申不害と慎到の考えと対立する。韓非は商鞅の方の考え方に重きを置いた。

「第三」の目的については以下に新たに節を作って書いていこう。

刑罰について

さて、「第三」の目的、治安維持について。治安は刑罰によって維持する、とする。

刑罰については、冨谷至著『韓非子』(中公新書*3に頼る。

まず、時代と国境を超えた一般的な刑罰の目的は以下の3つ。

  1. 犯罪者に応分の罰を与える。応報。
  2. 犯罪者ではなく、将来の犯罪を防ぐための予防・抑止。
  3. 犯罪者の更生・教育。

そして『韓非子』の刑罰の目的は2番目の予防・抑止が唯一でありそれ以外は存在しない *4。 予防・抑止については「刑を以て刑を去る」(内儲説上・飭令)の他にも以下の文章が挙げられる。

いったい厳刑は、誰しもが畏れるもの、重罰は誰しもが嫌がるもの。したがって、聖人は畏れるものを公布して、邪悪を防ぎ、嫌がるものを設定して、悪事を予防した。だから、国が安定して暴乱が起こらないのだ。(姦劫弑臣)(冨谷氏/p113)

韓非子』の刑罰の特性について3つ。

  1. 刑罰はその法律の明文を認識させることで予防を期待するのではなく、厳刑の執行を人々に知らしめて、同様のことをしないようにさせることを期待する。
  2. 罪を犯した人間には、確実に刑罰を実行しなければならない。そうしないと予防効果が発揮できない。
  3. 「萌芽の措置」。大事件につながる小さな犯罪・違反に対して重刑を科す。大事件を萌芽の段階で未然に防ぐことを目的とする。 *5

以上が冨谷氏の解説。

韓非子 不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子 不信と打算の現実主義 (中公新書)

現代中国まで続く『韓非子』の「法」思想

ところで、東洋史家・宮脇淳子氏によれば、中国の法律は現代に至るまで「見せしめ刑」だという *6

宮脇氏によれば、人口が多くなりすぎた中国において罪を犯した人間に確実に刑罰を実行することは無理なので、厳刑によって未来の犯罪の予防・抑止を期待する方法を採っている。だから賄賂に対する刑罰が死刑になるわけだ。これは現代でも変わらない。現代中国は「西側諸国」の法のシステムが違うことはこのブログで何度も書いてきた。

韓非子』の「法」の思想は現代中国まで受け継がれているが、全てそのまま継承されるとまではいかなかった。『韓非子』にも「時代が変われば、政治も変わらなければならない」という趣旨のことが書いてあるので、『韓非子』の思想の受容も代わって当然だ。



法家(4)韓非子(『韓非子』とは?/著者と時代背景)

この記事より『韓非子』について書いていく。

今回は、時代背景の話がメイン。荀子と韓非の関係について。

韓非子』とは?

韓非子』は法家を代表する書。この書は戦国末期の韓非によって書かれた(ただし後代の複数の人々の手も入っている)。『韓非子』には法家の先人たちの主張が盛り込まれており、法家の集大成と言われている。

内容については次回から何回かに分けて書いていく。

著者・韓非の生涯

韓非の生涯は司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、貝塚茂樹は韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解を示しているが、いずれにしろ、その著作である『韓非子』にも『戦国策』にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわからない。[中略]

荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに紀元前260年の長平の戦い以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない(“且夫韓入貢職、与郡県無異也”)」といった状況であった(『韓非子』「存韓」編)。

故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。

韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。

出典:韓非 - Wikipedia

時代背景

上述したように、著者・韓非は戦国末期の人。彼が生きた時代は以下のような時代だった。

秦の独走が決定的になると、縦横家の口舌による外交はもはや無用のものとなり、戦国諸国では、国制の合理化が急速に進む。その帰結が秦漢専制国家である。現行の諸子百家の文献のほとんどは、この時期に成書したが、『管子』『司馬法』『周礼』『商君書』などは、来るべき理想国家のモデルを示すべく編纂されたものである。秦の相邦・呂不韋(?~前235)の『呂氏春秋』編纂など、思想統制の趨勢が現れ、儒家では孟子楽天的な性善説を否定する荀子(前340?~前245?)の性悪説が登場し、その弟子で法家の韓非子(前280?~前233)は、奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p56‐57(吉本道雅氏の筆)

戦国中期の諸子百家の全盛期と比べて、より現実的・合理的な風潮になっていったようだ。

韓非子』について《奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した》というのは個人的には言いすぎだと思うが、吉本氏は戦国中期の思想に比べて面白みに欠けると思っているのかもしれない。

韓非の師匠とされる荀子も時代の影響を受けた一人である。

荀子の影響について

韓非 - Wikipedia》に「荀子の影響」という説がある。そこからの引用。

韓非の思想への荀子の影響については諸家において見解がやや分かれる。

  1. 貝塚茂樹は韓非と荀子の間に思想的なつながりは認められなくはないが、商鞅や申不害らからの継承面の方が大きく、荀子の影響が軸となっているとの見解ではない。
  2. 金谷治荀子の弟子という通説を否定はしないが、あまり重視せず、やはり先行する法術思想からの継承面を重視する。
  3. それに対し、内山俊彦荀子性悪説や天人の分、「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから、「先王」の道を重んじ自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく、「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。

出典:韓非#荀子の影響 - Wikipedia

「先王」というのは堯舜や西周の初期の王を含む儒家が聖人として崇めている伝説上の王たちのこと、「後王」は春秋戦国時代で「現実に努力した王」 *1 たちのこと。

性悪説」で大事なことは、「人間は生まれながらに邪悪な心を持っている」という論ではなく、「生まれたての赤子は欲望むき出しの行動をする」という意味。荀子の言う「悪」とは「人の性は、生まれながらにして利を好むこと有り」(『荀子』性悪篇)、つまり欲があることで、これを矯正せずに放置しておけば、他人に危害を加えることとなる、だから教育が必要だ、というのが「性悪説」の考えだ。

そして荀子の場合の教育は「礼」だ。これに対して、韓非は「法」を教育して遵守させようと考えているのだが、この部分を除けば韓非は「性悪説」を認めていると言えるかもしれない。「性善説」論外だ。

「天人の分」とは、天(=自然現象。天災など)と人間との間には相関関係は無いとする説。当時は天命思想とか天人相関説など天(=自然現象。天災など)と人間との間には相関関係があるとする風潮が流行していた。 *2

荀子は占卜などのオカルト(当時は科学だと思われていた)も無駄なことだと主張した。

韓非もこれらと同意見で、卜占に関しては例えば以下のように言っている。

越王勾践(こうせん)は、国宝の亀を使った占いを恃(たの)みとして、呉と戦って敗退し、臥薪嘗胆の日々を送ることになる。以後亀などは棄ててしまって、法律を明確にし、人民の支持を得て呉に復讐を遂げた。(『韓非子』飾邪)

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p85-86

また天(自然現象)と人間の関係については語る必要があるどころか《正面から論ずるに足らない命題でしかなかった》*3

これらを見れば、韓非は荀子に影響を受けたと言えるようだ。ただし、韓非は当時の風潮(の一部)に従っただけなのかもしれない。まあ、こういうことを疑い出すと切りが無い。

(荀子については記事 《儒家(6)荀子》 に書いた。)



法家(3)韓非子の先人たち 後編

前回の続き。

申不害

申不害は戦国初期の人で、韓の釐侯(=昭侯)に15年間 仕えた。

紀元前375年に鄭を滅ぼしたものの、戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯えていた。しかし申不害(? - 紀元前337年)を宰相に抜擢した釐侯の治世は国内も安定し、最盛期を築けた。次代宣恵王が紀元前323年に初めて王を名乗ったものの、申不害の死後は再び秦の侵攻に悩まされた。

出典:韓 (戦国) - Wikipedia

そんなわけで、申不害が宰相をつとめた時期が韓が輝いた唯一の時期だったようだ。

さて法家としての申不害の話。

戦国初期は人口増加や戦争の大規模化などが起こり、君主や貴族の能力だけで処理できる規模を大きく超えてしまった。ここで臣下の官僚化が始まることになる。

そのような状況の中で申不害が採った方法は実定法(成文法)と「形名参同術」だった。

実定法、つまり法律が成文化されることは現代では当然だが、これは客観的基準を設けることによって、下部に任務を移譲できる一方で、貴族や臣下の恣意的な行動を抑制することにもなった *1

次に「形名参同術」。

申不害は君主が臣下に仕事を命ずるとき、臣下の申告(名)と、その後の実績(形)を照合する方法を発案した。必要な人員・費用・期間や役割分担、見込まれる成果など、事前に詳細な計画書を提出させる。そして、必ず計画書通りに事業を成功させますと誓約させる。もとよりその契約は、証拠として、すべて文字(名)で記録しておく。申不害のいう名とは、こうした文字記録(文書)を指している。約束の期限がきたら、君主は臣下の実績を査定し、賞罰を与える。この方法で君主が官僚を数の使役すれば、いちいち乏しい賢智を労せずとも、多数の官僚を制御し自動的統治を達成できる。これが、申不害が発明した形名参同術である。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p246

  • 査定時に契約と実績を照合することが「参同」。

上の2つの方法で、君主は複数の下部組織に、事業を移譲・分担させることができたが、このメリットの他に申不害は、君主が才能が乏しくてもこの方法によって安定した統治が可能になる、と一歩踏み込んでいる。

漢書』芸文志には『申子(しんし)』6篇があったと記録されているが、現存するものは逸文(他の文章の中などに一部分だけ残った文章)しかなく、しかもその逸文も疑う研究者がいる。 *2

慎到

戦国中期、威王・宣王の頃、諸子百家の中心地である斉の都・臨淄で稷下の学士として大夫の待遇を受けていた。 *3

慎到の著作とされる『慎子』は現在伝わっているのは5篇のみであるが、偽作説など諸説あるらしい。

下の引用は、『慎子』5篇の要点の説明。慎到も申不害と同じように、君主の力量に依存しない統治体制を提案している。

第一は、民衆や官僚への業務委託である。そもそも民衆は、政府がいちいち監督・指導しなくても、それぞれに自活する能力を備えている。だからあ政府が民間への規制や介入を減らし、民間の自活・自営に委ねれば、効率も上がって君主の苦労も減る。また君主が自分の賢智を働かせて率先して指揮を執れば、失敗したときに臣下からその責任を追求される。そこで普段から臣下に官職を割りふり、分業体制で実務を担当させれば、君主は何もせずにすむ。第二の方法は、自動的統治を可能にする勢位の保持である。勢位とは、民衆や官僚が各自の分担に励んで、君主の能力不足を補う、「助けを衆に得る」(『慎子』威徳篇)必治の態勢である。君主の地位や権力、官僚制度や法律といった人工的に機能して君主を助け、必ず国家は治まると言うのである。

浅野氏/p248(下線は引用者)

2番目の「勢位」=「勢」は『韓非子』に採用されている。

「勢」という漢字は「いきおい」が原義。「人間や物事を一定の方向に向かわせる推進力」 *4

ここから派生して次のような意味になる。《政治力、経済力、武力などによる社会的な支配力。他を圧倒する力。権勢。富裕。》 *5 という意味もある。この意味の起源は慎到あるいは『韓非子』だろう。

韓非子』では「勢」を《君主(王、侯など)の地位と、その地位が有する権勢》と定義している(『韓非子』難勢篇)。

さて、上の浅野氏の『慎子』の解説に戻る。

以下は引用文の「勢位」についての説明を図解にしたもの。

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出典:浅野氏/p249

引用文では、上のような統治の体制(引用では態勢)を「勢位」と言い、権勢はその一部ということになる。

ただし、『韓非子』は慎到の主張に賛同する篇(難勢篇)を設けているので、実質的な差異は無いと思われる。



*1:ただし、宮脇淳子氏や石平氏などによれば、下部の官吏は現代中国に至るまで恣意的な法の行使を行っている

*2:申不害(しんふがい)とは - コトバンク

*3:浅野氏/p248

*4:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p145

*5:勢(セイ)とは - コトバンク

法家(2)韓非子の先人たち 前編

この記事では、韓非子より前の人物を紹介していく。

前回の引用の一つに「春秋時代管仲が法家思想の祖」とあり、 「平凡社百科事典マイペディア/法家(ほうか)とは - コトバンク」 によれば、春秋時代の人物としては、鄭の子産《刑書》,晋の范宣子(はんせんし)《刑鼎(けいてい)》,鄭の鄧析《竹刑》の名が挙がっている。

前回の「時代背景」の節で示したように、法家の思想は戦国時代に入ってから より重要性を増したことを考慮して、このページでは戦国初期の人物、魏の李克から話を始める。

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出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p259

李悝(かい)(=李克)

戦国の最初の覇者は魏の文侯で、彼は同時に最初の専制君主だ。政事・軍事を行うに当たって文侯は数人の英才をブレーンとしたが、その一人が李克だ。

りかい【李悝 Lǐ Kuī】
中国,戦国時代,魏の文侯(前4世紀初め)に仕えた政治家。生没年不詳。李克ともいう(別人説もある)。農業生産向上のための〈地力を尽くす〉の政策を文侯に説き,また穀物価格を統制し飢饉に備えるために常平倉の先駆のような制度を考案した。さらに諸国の法を整理して《法経》6編を編纂したといわれる。これは秦の商鞅(しようおう)から漢の蕭何(しようか)へと継承される中国法典の原点といえるものであるが,その実在をめぐっては論議が分かれている。

出典:株式会社平凡社世界大百科事典/李悝(りかい)とは - コトバンク

ちなみに、《法経》については 《最近の日本の学界では実在否定論がほとんど定説に近い。しかし,中国近時の学者には,実在を肯定する向きが多く,この存否の結論は出されていない》 *1 ということだ。

商鞅

商鞅は戦国中期の人物だが、李克と同じく法制改革によって当時 後進国であった秦を強国へと変貌させた。

その内容はどのようなものか?

まず、官僚・役人については斬首した敵兵の数に応じて爵位を与え、爵位の等級に応じて社会的地位を上昇させる。そして、軍功の程度・官爵の等級・社会的序列を厳しく対応させた。これによって従来の貴族による特権階級の既得権益を壊して有能な人材の登用を図った。これは有能な人材による生産性向上だけではなく、君主を脅かす特権階級(貴族)の権力を削ぐ目的も持っていた。こうして専制国家を作り上げていった。

いっぽう、庶民においては連帯責任を追わせる什伍の制や悪事の密告を奨励する告姦の制などの法を敷いた。さらには穀物生産の増大を図った。(浅野氏/p252)

商鞅は、富国強兵に直結する穀物生産と戦闘のみを残す合理性を徹底的に追求し、古い社会体制が宿す多様で曖昧な伝統的価値を一切排除して、全く新しい軍国体制を作り上げようとしたのである(浅野氏/p252)

商鞅の国政改革は「変法」と呼ばれる。商鞅・変法については記事 《春秋戦国:戦国時代⑥ 中期 斉・秦の二強時代 秦編 - 歴史の世界を綴る》 で書いた。

商鞅の最期については後述。

呉起

呉起は『呉子』の著者とされる人物だが、法家としての一面も持っている。商鞅と同様に楚の国政改革を行った人物。

楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵・王権強化に成功した。

出典:呉起 - Wikipedia

商鞅呉起の最期

商鞅は孝公に、呉起は悼王に重用されて国政改革を行ったが、君主が死ぬと特権階級にあった貴族たちは反旗を翻して両者は非業の最期を遂げた。

韓非子』和(か)氏篇に商鞅呉起の二人について言及されている。

ふたりの言ったことは、正しかったのである。それなのに、楚では、呉起を殺して手足を切り、秦では、商鞅を車裂きにして殺してしまった。なぜか。大臣が自分を苦しめる「法」をじゃまにし、人民がきちんとした政治をきらったからである。

現在の世の中では、当時の秦や楚の比較にならないほど、大臣は力をのばし、人民は乱に馴れている。それなのに、君主は悼王や孝公とちがって人の意見をきこうとしない。これでは呉起商鞅の二の舞となる危険をおかしてまで、「法術」を説く者が出るはずがない。この乱世に、世を平定する覇王があらわれないのは、このためである。

出典:西野広祥・市川宏 訳/中国の思想 [I] 韓非子徳間書店/p146-147

韓非の書いた書を読んだ秦の嬴政(後の始皇帝)は韓非の法術をもちいて覇王として世を平定した。そして韓非は嬴政に、韓非のライバルであった宰相の李斯のは二世皇帝の胡亥によって殺された。



法家(1)法家とは何か/時代背景/法家と儒家の対立点

この記事より何回かに亘って法家について書いていく。

この法家の思想は、他の諸子百家の思想と同様、現代中国まで影響を及ぼしている。

法家とは何か

中国古代に興り,刑名法術を政治の手段として主張した学派。春秋時代管仲が法家思想の祖とされ,戦国時代の李 悝 (りかい) ,商鞅,申不害,慎到らが法家の系列に属する。韓非子にいたってこの思想が集大成され,その著『韓非子』 20巻は先秦法思想の精華といわれる。法家は法と術とを重んじ,法は賞罰を明らかにして公開し,特に厳刑主義をとって人民に遵守を促すものであり,術は人主の胸中に秘して臨機応変,その意志に人民を従わせる統御術とされた。政治を道徳から切り離した実定法至上主義であり,儒家が徳治,礼治を強調したことと顕著に対立する。法家思想は秦代の政策のうえに大いに具現されたが,漢代以降,学派としては消滅した。漢代には儒法2家の融合をみて,儒家は法的制裁をかりて礼の実現に努め,礼と法とは表裏をなしつつ,その後の中国法の性格を形づくるものとなった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/法家(ほうか)とは - コトバンク

上の通り、法家の集大成は戦国末の『韓非子』であり、「漢代以降,学派としては消滅した」。

韓非子』以前の思想は『韓非子』に吸収され、『韓非子』の後に諸子百家に分類されるの文献は無いのだから、実質的に「法家の思想=『韓非子』の思想」と言っていいと思う。

また「法家は法と術とを重んじ」とあるが、「法」と「術」と同様に重要なキーワードとして「勢」がある。法家の中核として「法・術(法術)」「法・勢・術」と2通りの説明があるのだが、「法・術」の方では「勢」を「術」のカテゴリの中にあると考えているのだろう。

このブログでは、わかりやすくするために法家の中核を「法・勢・術」とする。3つのキーワードについては複数の記事を書いて順々に説明していこう。

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出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p259

いちおう書いておくが、「法」は近代法とは別物だ。近代法は国民だけではなく為政者も束縛する力があるが、法家の「法」は前近代のそれであり、為政者が一方的に庶民を束縛し、法解釈も役人が持っている(三権分立など無い)。とはいえ、役人も上から恣意的な法(または法解釈)の運用によって害を被る。

余談だが、現代中国では、近代法ではなく前近代の法・法家の法がまかり通っている。2019年現在、香港の法律が北京政府によって恣意的に作られていることが、全世界の人々に知れ渡った。さらに言えば、一国二制度は世界に向けた公約なのだが、これをも守ろうとしないのが現代中国政府だ。この状況は中国の文化・伝統なので、たとえ中共独裁政権が倒れても、新政府が近代法で動く可能性は高くないと思う。

時代背景

春秋時代と戦国時代では、各諸侯の国内の政治でも大きな変化があった。春秋時代は貴族制であり、特に大貴族である卿の力が大きく、行政・軍事・外交などの権力を握っていた。しかし、戦国時代になると、大貴族が消滅し、代わって君主が大きな権力をもつ「専制君主制」へ移行した。

戦国時代の専制君主制は、君主権が強化されると同時に、成文法(文章化された法律)・官僚制・徴兵制などが制定されたことが特徴である。また、この時期には、思想の発達や都市部での貨幣経済の浸透、鉄製の農具の普及などもあり、文明としても大きく変化した時代であった。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p84

上の引用の中で、法家の役割は成文法と官僚制だった。貴族ではなく、よそ者を官僚に起用する場合、何らかの取り決めが必要となる。これを成文化することにより、起用される側も「就職活動」しやすくなる(ただし法が常に守られるかどうかという問題が常につきまとう)。

そういうわけで、「春秋時代管仲が法家思想の祖とされ」ているらしいが、実際は戦国時代が下るにしたがって、法の重要度が高り、その中で法家と呼べるようなな人たちが徐々に増えたと考えるのが妥当だろう。

法家と儒家の対立点

法家と儒家は全く違う思想を持っているが、如何にこの世を治めるかという政治的目的を持っていることにおいて共通している。

冒頭の引用にあるように、法家は「政治を道徳から切り離した実定法至上主義であり,儒家が徳治,礼治を強調したことと顕著に対立する。」

法家を「法治主義」、儒家を「徳治主義」と一般的に言われている。

ただし、戦国後期になると荀子が「礼治主義」を唱えて有名になる。彼は徳治主義に限界があると考えたらしく、「人々に礼のルールを学習させ、礼を基準に国家・社会を統治すべきだ」 *1 と主張した。『史記』「老子韓非子列伝第三」によれば、韓非が荀子の弟子であるとのこと。通説になっているが情報が限られているのでなんとも言えないところだ。



*1:浅野氏/p96

道家(29)荘子(『荘子』の有名な言葉)

これから『荘子』が出典の有名な言葉を書いていく。

ネット検索してみると、「荘子の故事成語一覧 - 成句 - Weblio 辞書」というものを見つけた。たくさんある。

この中で気になったものを数点書いていこう。

以下では、意味は「荘子の故事成語一覧 - 成句 - Weblio 辞書」から、原文は「荘子 - Wikisource」から引用する。

現代語訳は、引用文以外は、以下の参考文献を元にして書いてみた。

井の中の蛙、大海を知らず

意味:《狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い知識にとらわれて大局的な判断のできないたとえ。》
出典:秋水篇
原文:《井蛙不可以語於海者,拘於虛也……曲士不可以語於道者,束於教也。》

現代語訳↓

井の中の蛙に海のことを話しても仕方がないというのは、蛙が狭い自分の住処になずんでいるからだ。……見識の狭い人物に大道のことを話しても仕方がないというのは、彼が世間的な教えに縛りつけられているからだ。(池田氏/p372)

蟷螂の斧

意味:〔カマキリが前脚をあげて大きな車に向かってきたという「荘子」などの故事から〕自分の弱さをかえりみず強敵に挑むこと。はかない抵抗のたとえ。
出典:人間世篇
原文:《汝不知夫螳螂乎?怒其臂以當車轍,不知其不勝任也,是其才之美者也。戒之,慎之,積伐而美者以犯之,幾矣! 》

現代語訳↓

貴方はカマキリの話を知らないか?その身よりはるかに大きい、轍をつくるような車に、臂を怒らせて立ち向かうカマキリの話だ。勝てないことも知らないさまは、小才に自惚れて その才が万能だと思って行動している者と同じだ。己を戒めなさい、慎みなさい。貴方も小才を以て上の者に反論しようものなら痛い目に遭いますぞ!

「犯」は「上の者に逆らう」、「幾」は「危(あやう)し」

魯の賢人・顔闔が衛公の太子である悪ガキの守役を任されて、不安になって衛の賢大夫・蘧伯玉に相談した。上はその会話の一部。

蘧伯玉は処世術を語った。人間世篇は処世術を集めた篇だ。

人間世篇の他に天地篇でも同様の比喩で使用している。

至れり尽くせり

意味:すべてに細かく配慮が行き届いていること。
出典:斉物論篇
原文:古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣,盡矣,不可以加矣。

現代語訳↓

上古の人は、知がある究境に到達していた。その到達したいた境地とは、者は存在しないと考える境地である。それは究境に達しており、あらん限りを尽くしていて、最早何も追加することのできない、最高ランクの知である。(池田氏/p79)

「至矣,盡矣」。「盡」は「尽」。「至る」も「尽す」も境地に達していることを示している。

牛角上の争い

意味:〔「荘子則陽」より。カタツムリの左の角の上にいる触氏と、右の角の上にいる蛮氏とが争ったという寓話から〕小国どうしの争い。つまらない事で争うことのたとえ。蝸牛の角の争い。蝸角の争い。蛮触の争い。
出典:則陽篇
原文↓

惠子聞之而見戴晉人。戴晉人曰:「有所謂者,君知之乎?」
曰:「然。」
有國於蝸之左角者曰觸氏,有國於蝸之右角者曰蠻氏。時相與爭地而戰,伏尸數萬,逐北旬有五日而後反。」
君曰:「噫!其虛言與?」
曰:「臣請為君實之。君以意在四方上下有窮乎?」
君曰:「無窮。」
曰:「知遊心於無窮,而反在通達之國,若存若亡乎?」
君曰:「然。」
曰:「通達之中有魏,於魏中有梁,於梁中有王。王與蠻氏,有辯乎?」
君曰:「无辯。」

現代語訳↓

(戦国初期の魏の恵王が斉王が盟約に背いたことに激怒して暗殺しようと考えた。恵王がこれを何人かの臣下に問うても決断できない様子のところを)宰相の恵施が戴晉人という人物を連れてきてお目通りを願った。
戴晉人が話し始める。「我が君は、カタツムリをご存知でしょうか?」
恵王「知っている」
戴晉人「あるカタツムリの左の角の上に触氏という国があり、右の角には蛮氏という国がありました。両国は土地を争って数万の死者を出しながら半月も戦争を繰り返しました。」
恵王「そんな戯言に何の意味があるのだ?」
戴晉人「では、我が君のために これが戯言でないことを実証しましょう。我が君は宇宙に限りがあるとお思いでしょうか?」
恵王「無限だ」 戴晉人「その無限の宇宙に心を遊ばせた後、この有限の世界の国々のことを考えたら、それらの存在など有るか無いかの存在でしかないことがお分かりになるでしょう」
恵王「その通りだ」
戴晉人「有限の世界の国々の中に魏があり、またその中に王都・梁があり、そしてここに我が君がいらっしゃる。我が君と蛮氏と、どれだけの違いがありますか?」
恵王「... 無いな」

戴晉人が退出した後、恵王は呆然となり、その後 恵施に戴晉人の偉大さを語った、というフィクション。

戴晉人を通して万物斉同を説明している。『荘子』は『老子』と違って、政治に無関心、政治そのものが些末な事だと思っている。

顰みに倣う

意味: 善し悪しを考えずに人まねをする。
出典:天運篇
原文:西施病心而其里,其里之醜人見之而美之,歸亦捧心而矉其里。其里之富人見之,堅閉門而不出,貧人見之,挈妻子而去走。彼知矉美而不知矉之所以美。惜乎,而夫子其窮哉!

現代語訳↓

絶世の美女と知られる西施は眉をしかめるほど胸を患って郷里に帰った。
その美貌に見惚れた郷里の醜女は、村人の前で西施の真似をして胸に手を当てながら眉をしかめて見せた。
すると、村の金持ちは門を閉じて外に出ようとはせず、貧しい者は妻子を連れて村から出ていってしまった。
醜女は西施が眉をひそめるさまが美しいことは理解したが、眉をひそめるさまがどうして美しいのかを理解していなかった。

「矉」が「眉を顰める」「しかめっ面をする」という意味。

この話は、孔子が門人を連れて衛の国に旅立ったことに対して、残った門人の一人の顔回が楽の師匠と交わした問答の中の一節として出てくる。

師匠は顔回に対して、孔子は醜女と同じようなことをしようとしている、と言っている。

つまり、孔子は衛の君主に対して三皇五帝の礼法制度を説こうするだろうが、この時代にあの礼法制度を真似ても成功するはずがない、ということ。

道家の立場からの儒教批判。

胡蝶の夢

意味:〔荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという「荘子斉物論」の故事による〕 夢と現実との境が判然としないたとえ。
出典:斉物論篇 原文:昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。

現代語訳↓

かつて荘周(本書の作者。姓は荘、名は周)は、夢の中で胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶であった。己の心にぴたりと適うのに満足しきって、荘周であることを忘れていた。ふっと目が覚めると、きょろきょろと見回す荘周である。荘周が夢見て胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢見て荘周となったのか、真実のほどは分からない。だからと言って、荘周と胡蝶は同じものではない、両者の間にはきっと違いがある。物化(ある物が他の物へと転生すること)とは、これをいうのである。(池田氏/p96)

以上の不思議な話は荘周の死後の隨分経った戦国最末期~前漢初期の作、だと池田氏は書いている。最後の「物化」について、池田氏は「万物斉同に代わって登場した万物転化の思想」と書いている。(池田氏/p98)

「物化」については池田知久『荘子 全現代語訳 上』 *1 には説明が書かれていないが、別の本に詳しく書かれているようだ。「荘子の「胡蝶の夢」に想う」というウェブページに別の専門家と共に引用されている。ここでは割愛。



*1:講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)