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春秋戦国:戦国時代⑨ 諸子百家 その1 諸子百家とは?

これから諸子百家について書いていく。儒家墨家などは別の記事で書くとして、ここでは諸子百家とはなんぞやということについて書いていく。

諸子百家とは?

中国の戦国時代 (前 403~221) に輩出した多数の思想家の総称。「子」とは先生,「家」とは学派のことである。『漢書』によれば,189家があげられており,儒家道家陰陽家,法家,名家,墨家縦横家,雑家,農家,小説家の 10派に分類されている。ほかに兵家があり,なかでも,思想的に重要なのは,儒,道,墨,法の4家であった。諸子百家 (用例の初出は前漢史記』の賈誼伝) のなかにすでに中国的思考のあらゆる原型が出ており,後世の思想史の最大の要素,源泉となった。

出典:諸子百家(しょしひゃっか)とは - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

歴史

無秩序の時代(春秋末期~戦国初期)

春秋時代末期、それまで覇者として君臨していた晋をはじめ、各諸侯国内で権力争いが激化して秩序が乱れた。身分秩序が揺らいで下剋上が起こる状況で各地の権力者は有能な人材を集めるようになった。

このような状況で、思想家個人が門人を集めて学団を形成するようになる。この先駆なる人物が孔子で、彼は礼をもって秩序を回復し国を統治することを訴えた。これに墨家が続き孔子儒家と対立するように勢力を増していった。道家老子(老耼、ろうたん)や兵家の孫武孔子と同時代の人物だ。

春秋時代末期から戦国時代初期までの学団の門人は、『墨子』によれば、どうやら高級官僚に仕官することを目指す人々だったようで、思想を身につけることはその手段に過ぎなかったようだ。現代日本で言えば、松下政経塾のようなものかもしれない。

百家争鳴、隆盛期(戦国中期)

諸子百家が隆盛の時期を迎えるのは戦国中期に入ってからだ。この頃になると斉の威王が王都・臨淄の城門のひとつである「稷門」の近くに学堂を構えて各地から学者を募った。これら学者を「稷下の学士」、学問(=思想)を「稷下の学」と呼ぶ。

稷下の学士は、直接斉の政治に関与する人々ではなかったが、卿につぐ次官級の俸禄を与えられて優遇された。人数は、数百人から千人ともいわれている。おそらく彼らは斉の政府が政治を行う上での案を採る対象として招かれた、もしくは集まった人々であると思われる。しかし、中には例外もいる。稷下の学者村の初代村長となった淳于髠は、何度も他国に使節として派遣されている。

出典:稷下の学士 - Wikipedia

儒家墨家・法家・兵家に加えて、縦横家陰陽家・農家・名家など様々な思想が出現するが、これらは戦国中期にまでには出揃っていたという*1

これらの諸子により、世界のあるべき姿や、国家の望ましい統治方法、理想的人間像などについて、多彩なアイデアが提出された。彼らは門人を引き連れて各地を遊説し、行く先々の君主に対し、自己の理想を受け入れるよう弁論活動を繰り広げた。

当然、異なる学派があちこちで鉢合わせする結果となり、至る所で論争が展開された。論戦に敗れると、騶衍との論争に敗北した公孫龍が、客として厚遇してくれていた平原君から退けられたように君主の保護を失ってしまい、経済的に困窮することにもなるため、学派間の論争は熾烈を極めた。そうした論戦の過程で、異質な思想同士が刺激し合って、相手から新しい要素を取り入れながら、それぞれの学派はさらに思索を深めていく。

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p36

諸子百家 (図解雑学)

諸子百家 (図解雑学)

臨淄だけでなく ところ構わず侃々諤々と論戦を繰り広げていたわけだ*2

そして引用にあるように、別の学派からも相互し合っていた。

その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。

出典:諸子百家 - Wikipedia

ほかに重要なのは やはり文字使用の拡大だ。戦国時代は まだ紙が発明されていないため、細長い竹に書いた。これを竹簡という。木製バージョンは木簡。ひとまとまりの竹簡を紐で結んで一冊の読み物にした。これとは別に絹布に書かれた帛書というものも戦国時代の墓地から発見されている。

有名なものの一つは郭店楚簡というもので、「郭店楚簡 - Wikipedia」で簡単に説明されている。膨大な竹簡は前300年頃に造影された墓地から発見されたので、「成書時期は紀元前300年を下ることはなく、およそ戦国時代の中期とみられている」。内容は儒家道家の類だ。

このような思想書が(ごく一部かもしれないが)流通していた*3 *4

これらの学を修めた人々が仕官したり、前述の平原君のような有力者の庇護下に入ったりした。

吉本道雅氏によれば、遊士(遊説家)の活躍は前320年以降に頂点に達したという。有名なところでは秦の宰相・張儀(?~前310年)や燕などの宰相を勤めた蘇秦(?~前284年)。「『戦国策』は、合従連衡に携わった遊士の弁論を載せるが、前329年~前280年の半世紀に属するものが6割以上を占める」とある。(中国史 上/昭和堂/2016/p55)

百家争鳴の終焉(戦国後期と秦帝国統一以降)

秦の独走が決定的になると、縦横家の口舌による外交はもはや無用のものとなり、戦国諸国では、国制の合理化が急速に進む。その帰結が秦漢専制国家である。現行の諸子百家の文献のほとんどは、この時期に成書したが、『管子』『司馬法』『周礼』『商君書』などは、来るべき理想国家のモデルを示すべく編纂されたものである。秦の相邦・呂不韋(?~前235)の『呂氏春秋』編纂など、思想統制の趨勢が現れ、儒家では孟子楽天的な性善説を否定する荀子(前340?~前245?)の性悪説が登場し、その弟子で法家の韓非子(前280?~前233)は、奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p56‐57(吉本道雅氏の筆)

そして秦による中華統一後び有名な焚書坑儒により、諸子百家の歴史は断絶する。

秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。

これにより、民間人が所持していた書経詩経諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。

翌(紀元前212年)、盧生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。

紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された[1]。また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており[2]、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって提案されていた政策だった。

出典:焚書坑儒 - Wikipedia

前漢代に挟書律を解かれた後に思想界は再出発した。秦帝国がわずか13年ほどで滅亡したので戦国末期の学者は健在であっただろう。また焚書されずに済んだ書籍も少なからずあったようだ。

それでも思想界に百家争鳴のような賑わいが戻らなかった。どうしてだろうか?

[戦国時代において]既存の体制が日々崩壊していくにもかかわらず、未来への展望は全く開けてこない混乱状態。一般の民衆にとっては迷惑この上ない時代なのだが、思想家にとっては絶好のチャンスが到来した時代でも有った。もしかしたら、世界は自分が案出した構想通りに統一されるかもしれない。自分の思想が地上に実現されるかもしれない。そうした可能性が現実に存在したからである。こうした夢が氏桜花を勇気づけ、彼らを膨大な思索と著述、情熱的な遊説活動へと駆り立てた。[中略]

一方、各国の君主の側も、積極的に諸子の遊説を受け入れ、しばしば客として厚遇した。諸侯もまた、国家の安定的統治策や、敵国の脅威への対応策などを模索しており、遊説に訪れる諸子から、何か有益な秘策が得られるのではないかと期待したからである。しかも高名な学者を賓客として迎え入れることは、君主の名声を高め、国威を発揚する手段ともなったから、なおさら諸侯は諸子の来訪を歓迎した。

諸子百家が盛んに活動し、中国学術史上、稀有な黄金時代を築いた背景には、こうした歴史的状況が存在していた。だが秦の思想弾圧を経て漢代に入ると、かつて諸子百家の思想活動を支えていた社会状況そのものが失われてしまう。たしかに漢は秦と違って、学術を保護・奨励する方針をとった。しかし諸子の活動にとって何より重要だったのは、上記のような世界の分裂状態だったのである。

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p42

後漢以降、「分裂状態」は何度もあったが、諸子百家の状況が出現しなかったのはなぜなのだろうか?よく分からない。

当てずっぽうで書いてみると、戦国時代は中華統一後にどのような政治体制にするのか決まっていなかったが、後漢後は、「秦漢専制国家」というモデルが存在していたので、戦国時代ほどの思想界の隆盛は出現しなかったのだろう。

百家争鳴の世界史的な位置と重要性

諸子百家」は中国史において初めて思想の探求が流行した時代だった。このような時期はどの地域でも有ったそうで、ヤスパースはそのような時期を枢軸時代と呼んだ(枢軸時代 - Wikipedia)。

枢軸時代については記事「四大文明から三大文明圏へ(枢軸時代/遊牧民)」で書いたので詳細はそちらに譲る。

諸子百家のところだけ抽出する。

それ以前の素朴な呪術的・神話的思惟方式を克服して、あれこれの日常的・個別的経験を超えた普遍的なるもの……を志向し、この世界全体を統一的に思索し、そのなかにおける人間の位置を自覚しようとするものであった。じつにここに人間の精神史が始まったというべきである。……中国の精神文明は現在にいたるまで本質的にこの時代に形成されたものをそのまま持続させている点も、ここに注目しておかなければならない。われわれが今日、東洋の思想的遺産として語っているものは、本質的にこの時期につくられたものにほかならない。

出典:伊東俊太郎/新装版 比較文明/UPコレクション/2013(初版は1985年出版)/p68

そういうわけで、戦国後期の百家争鳴が中国の文化の土台となっている。



*1:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p36

*2:余談だが「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」と 「侃侃諤諤(かんかんがくがく)--NHK放送物価研究所」というウェブページがあったので備忘録

*3:流通手段は出版ではなく書写

*4:郭店楚簡の出どころの墓地の被葬者は楚の太子の教育係ではないかと言われている--佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p232