『韓非子』は、神秘主義・理想主義を排除して、現実主義の立場を採った。この時、『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を採用した結果、人間の一人ひとりの理性や能力に期待することを頭の中から排除した。
『韓非子』は一貫して君主の立場に立って考え、臣下・庶民は集団としてしか扱わなかった。
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この件についてのテキストは冨谷至『韓非子 ── 不信と打算の現実主義』(中公新書/2003)。
「一個人」を考慮しない理由
世の人間のうちですぐれた資質を有する人物、特異な才能をもつ者は少数であり、数にして絶対多数を占める世の人間は、その資質においては凡庸な輩である。人間観を形成し、何にもまして人間を対象とする政治を考えるうえで、視点を置かねばならないのは凡庸な資質を有する者である。
出典:冨谷氏/p156
『韓非子』の絶対多数の「凡庸な輩」は「理性的判断をおこなわず、本能的に功利へと、打算へと向かう」と冨谷氏は書いている。
前回に書いたことだが、『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を持っている。儒家が根本倫理としている親子・家族の関係でさえ、『韓非子』は、利益と打算で成り立っている、と言い放つ。
冨谷氏が「理性的判断」と「本能的功利」を対置して書いているところに注意。冨谷氏の説明において、「理性」という言葉は重要なキーワード。先に進む。
東洋と西洋の法的思考の違い
『韓非子』はよく『君主論』のマキャベリと比較されるが、冨谷氏の本では、マキャベリだけでなく『リヴァイアサン』のホッブズと「罪刑法定主義」を打ち出したアンゼルム・フォイエルバッハとも対比させている。
そして彼らとの比較によって冨谷氏が言いたいことは、法を語る時に「統治の対象たる人間を集団として捉え、個人、個性にはきわめて冷淡である」こと、言い換えれば、一個人の理性的判断のことを考慮していないこと。(p167)
このことが「東洋と西洋の法的思考」、の根本的な違いとなっている(p166)。これは、より正しく言えば現代中国と現代西欧の法的思考の違いである。日本は現代西欧の法的思考を受容して現在に至っているので、現代中国との法的思考とは全く違う。
そういうことで、この記事で扱う問題は、現代の世界規模での問題に関係している。
マキャベリとの比較
『君主論』からの引用。
まずは共通点から。
人間というものは、一般に恩知らずで、空惚(そらとぼ)けたり隠し立てをしたり、危険があればさっさと逃げ出し、設けることにかけては貪欲であるから、彼らに恩恵を施しているあいだはひとり残らずあなたの側へついてくる……いざという時には当てにならないのだから。そして人間というものは、恐ろしい相手よりも、慕わしい相手のほうが、危害を加えやすいのだから。……邪(よこしま)な存在である人間は、自分の利害に反すればいつでも、これ(恩愛)を断ち切ってしまうが、恐怖のほうは、……付きまとって離れない処罰の恐ろしさによって、つなぎ止められているから。(第17章)(p159-160)
「人は利で動く」という点は共通している。
次に相違点。
外敵よりも民衆のほうを恐れる君主は、城砦を築くべきだが、民衆よりも外敵のほうを恐れる君主は、これ無しで済ませるべきだ。……最良の城砦があるとすれば、民衆に憎まれないことだ。(第20章)
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どのようにすれば君主が側近を見分けられるのか。それには決して過(あやま)たない方法がある。すなわち、あなたから見て、側近があなたのことよりも自分のことのほうを考えているときには、またすべての行動においてひたすら自分の利益を追求していることが明らかなときには、そういう輩は忠実に保たせるためには、側近のことを思いやり、その名誉を称え、彼を富ませることによって、自分への恩義を深めさせ、数々の地位と任務とに彼を与(あずか)らせて、君主がいなければ自分が存在し得ないことを、……配慮しなければならない。互いにこのような関係になったとき、一方が他方を信頼できるようになる。(第22章)(p161)
上の文章を引用した後に冨谷氏は両者の相違を《人間の中に存在する「理性」を認めるかどうかにかかっているのではないだろうか》と書いている。または『君主論』は《他者が理性にもとづいて判断し、行動するものと考え、それにより導き出される結果を期待》して、『韓非子』はその可能性を排除する。(p161-162)
上の引用では『君主論』は民衆や臣下を信頼することが可能であることを示している。その一方で『韓非子』はそのような可能性を端(はな)から考慮に入れていない。『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を徹底している。
ホッブズとの比較
人間は生まれつき与えられた同じ条件下で、等しく自己の保全、利己的快楽を求める。不信・競争心そして虚栄心、それが人間の本性である。この本性に従って人は力と奸計によって他者を支配しようとし、そこに戦争状態が生まれる。いわゆる「万人の万人に対する戦い」にほかならない。(水田洋訳『リヴァイアサン』第13章、岩波文庫)(p163)
「人は利で動く」という点では同意見。
しかし、ホッブズが自然法・自然権を述べているところに決定的な相違点がある。
自然権とは「各人が彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力をもちうるという、各人に賦与されれている自由である。彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段と思われるあらゆることを、おこなう自由である」(『リヴァイアサン』第14章)(p163)。
また自然法とは「人間の本性の中には、秩序ある状態への志向が備わっており、それに従って一定の秩序が形成される規範」と定義づけられている。(p108)
『リヴァイアサン』では「万人の万人に対する戦い」から脱却して秩序ある社会を作るために、コモンウェルス(国家)の設立が必要だ、そして国家との社会契約により自然権を放棄して国家主権者に服従しなければならない、と主張する。
これに対して、『韓非子』はそもそも一個人の自然権など全く考えていない。『韓非子』は一個人の理性、さらに言えば一個人を考慮することすらしていない。
『韓非子』の主張する統治方法の根底にある考えは以下のようなものだ。すなわち、人間(集団)は自己の利益でしか動かず、彼らを統治するには威嚇を用いて一方的に統制するしか功を奏さない。(p165)
そして、一方的な統治は当然のことながら独裁体制となる。
罪刑法定主義、フォイエルバッハとの比較
罪刑法定主義とは《いかなる行為が犯罪とされ,これに対していかなる刑罰が科せられるかが,あらかじめ法律によって定められていなければならないという近代刑法の原則(法律なければ刑罰なし)》 *1。
罪刑法定主義と『韓非子』の共通点としては法律の明文化、罰則規定を持つ成文法が挙げられる。
しかし、罪刑法定主義は個人と国家(庶民と為政者)の契約(社会契約)の下の法である点で『韓非子』と異なる。
さらに、罪刑法定主義を確立したとされるアンゼルム・フォイエルバッハとも考えが異なる。
罪刑法定主義の論拠となるフォイエルバッハの心理強制説について冨谷氏は以下のように簡潔に説明する。
犯罪によって得られる利益と、それに対して科せられる刑罰の不利益を考察して、後者を前者よりも少し大きくして、犯罪と刑罰を法典に規定しておけば心理的に抑制がきき、一般の予防が成就される。(p119)
罪刑法定主義と『韓非子』の違いは、前者が法の条文で威嚇して犯罪を予防しようとするのに対し、後者は刑罰の執行を庶民に見せることによって威嚇して予防しようとする点にある。
言い換えれば、前者が庶民の理性的判断(心理的抑制)を前提としているのに対し、後者は理性ではなく本能的功利的判断(人は利で動く)を前提としている。(p119-120)
まとめ
以上のように、法・政治思想を語る時に、近代西欧が個人の権利を配慮する一方で、『韓非子』はそれらを全く考慮しないところに決定的な違いがある。
現代日本は近代西欧の価値観を共有する。その一方で、現代中国は『韓非子』の法思想を受け継いでいると思われる。現代中国が独裁体制を堅持できているのは『韓非子』の思想がいくらか貢献しているのかもしれない。
関連事項
以下は『韓非子』とは直接関係ない話。
現代中国の法と体制に関する話。
現代中国の法の運用は今でも見せしめ刑の様相が根深いそうだ *2。現代でも『韓非子』の法思想が続いていると言っていいかもしれない。
宮脇淳子氏によれば中国の法律が見せしめ刑であるのは中国の人口が多すぎるせいだと説明している。 *3
また、「アジア的専制と生態史観--もぎせかチャンネル」で、梅棹忠夫『文明の生態史観』の説明によれば、遊牧民(モンゴル人)に支配されたユーラシア(ロシア・中国など)の社会システムは独裁体制で、その端にある西欧・日本はパブリックまたは「和」を尊重し、これを基にして民主体制を敷いている。このことは、地政学のランドパワー・シーパワーと話がつながっている。
中国史において、人口増加や遊牧民支配は『韓非子』が編纂された後の時代に起こった出来事なので、『韓非子』が中国の体制・法体系を作った原因だ、とは言えない。
むしろ、人口増加・遊牧民支配の結果 出来上がった中国社会を統治するために『韓非子』が採用された、と言ったほうが辻褄が合うだろう。