歴史の世界

法家(11)韓非子(『韓非子』とその後の中国史)

秦帝国

韓非の死後、秦の国王嬴政と丞相李斯が中華統一を果たす。秦帝国は李斯の指揮の下で法家の政治をもって全国を統治した。

しかし始皇帝を継いだ二世皇帝 *1 胡亥は凡愚な皇帝で『韓非子』の法術を使いこなす能力は無く、暗君でも国政を維持できるほどの国家体制は安定していなかった。始皇帝・二世皇帝の寵臣であった趙高が全権力を握り李斯をも死に追いやった。

始皇帝が死んだ翌年に早くも農民の反乱が起こる(陳勝呉広の乱)。彼らは北方防備の為に徴発された大雨のために指定の場所に到着することができない事態となった。遅刻すればいかなる理由があっても斬首という状況で、農民たちは反乱に踏み切った。

この乱は鎮圧されたものの、反乱は全土に広がって一気に滅亡してしまった。

前漢

秦帝国に代わって漢帝国を築いた劉邦は苛烈な秦の法を止めて簡略な法律を作ると宣言した(法三章)ことは有名だ。

しかし実際は秦の法律のほとんどを踏襲して、これに加減したというのが実態だ *2

ここでは、前漢の安定期の最後の皇帝宣帝(第9代)と下り始めの皇帝元帝のエピソードを紹介しよう。『漢書元帝紀の冒頭から。

元帝という人物は、いたって柔和な、文人皇帝であった。儒学に造詣が深く、彼自身は徳治主義を理想としていたのだが、例に漏れず、慈愛と仁徳は為政者に必要な果敢さと決断力をそぎ、元帝は為政者としては劣等であった。

「陛下は、刑罰を用いること厳しすぎはしませんか。儒者の意見ももっとお聞きになるべきです」

当時皇太子であった元帝のこの言葉を聞いて、宣帝は唖然とせざるをえなかった。

「わが漢帝国には政治の方針があるのだ、覇道と王道を併存させるという。徳だけで事が済むか。ヘボ学者は時代の趨勢が分からず、古いことは良いことだと言って、理想と現実の区別がつかず、何が重要なのかまったく分かっていない。そんな奴らに何ができるのか。……わが国家をダメにするのは、太子かもしれぬ」

はたして、元帝の優柔不断さは皇后一族の権力壟断を招き、その中からお羽毛がのし上がってくるのである。

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p181

覇道と王道とはすなわち法治と徳治、法家思想と儒家思想のことで、徳治主義を全面に出して、実際は法家主義で国家を統治するというのが宣帝がいうところの政治方針だ。

これが中国歴代王朝の政治方針の基本となった。

受け継がれる「見せしめ刑」の伝統

韓非子』の刑罰の目的は、威嚇・予防によって犯罪抑制の効果を意図するものだ。重罰の刑の執行をもって人々の犯罪を抑止しようとするもの、つまりは見せしめ刑である。

いったい厳刑は、誰しもが畏れるもの、重罰は誰しもが嫌がるもの。したがって、聖人は畏れるものを公布して、邪悪を防ぎ、嫌がるものを設定して、悪事を予防した。だから、国が安定して暴乱が起こらないのだ。(姦劫弑臣)(冨谷氏/p113)

この刑罰に対する考え方は中国史を通して伝統となっている。

以下は唐代と明代のもの。

凡愚は情欲のままに行動し、見識が低く、罪を犯してしまう。これまで、法制度がなかったことなどなく、刑をもって刑を止め、殺をもって殺を止めるといわれてきたのである。国にあって刑罰は緩めてはならず、家庭では笞(むち)を廃(や)めてはいけないのだ。(『唐律疏義』所引「唐律釈文」)(p189)

人間というものは、欲望を捨て去ることはできず、欲望によって情が増大し、欺瞞が増幅し、弱肉強食の状態となる。だから、聖人は法律を制定し、刑法を定めて犯罪を予防し、悪人を畏れさせ善人に安寧をもたらそうとしたのである。(洪武七年〈1374〉大明律を進める表)(同ページ)

そして、このブログで何度も紹介しているが、 宮脇淳子氏は中国の法律が見せしめ刑と言っている。 (youtube 【9月8日配信】歴史人物伝「●●もビックリの中国論?!大隈重信を語る」倉山満 宮脇淳子【チャンネルくらら】 )

また、「中華人民共和国における死刑 - Wikipedia」を読めば、現代中国でも『韓非子』の考え方が受け継がれていると考えられるだろう。



*1:「二世皇帝」が皇帝としての名

*2:このことは記事「前漢・高祖劉邦④:法三章/蕭何の九章律と秦律」で書いた。