歴史の世界

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑥ ペルシア湾岸文明(その3)バールバール文明

前回書いたウンム・ン=ナール文明からバールバール文明に移る。

バールバール文明

ウンム・ン=ナール文明があったオマーン(マガン)には銅鉱山と湾岸交易の中枢(首都機能)があったが、やがて、前三千年紀末または前2000年頃、首都機能は銅鉱山と切り離され、湾岸交易の支配者たちはバーレーン島に移った。あるいは支配者の交代が起こったのかもしれない。これがバールバール文明だ。(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015/p146-152)

オマーンのウンム・ン・ナール文明がマガンと呼ばれるのに対して、バーレーン島のバールバール文明はディルムンと呼ばれた。むかしに湾岸地域の代名詞『ディルムン』が復活したようだ。

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出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p165

さらなる植民、ファイラカ島へ

湾岸における古代文明は、常にメソポタミアの要求を満たすために存在した。そうするためにはいかなる努力も惜しまなかった。もちろん湾岸文明側にも莫大な利益があったからだ。バールバール文明が、成立直後の前2000年頃に行なった重要なイノベーションは、より湾奥に位置するクウェイト沖のファイラカ島に、対メソポタミア貿易の拠点を設置したことである。そしてメソポタミア人のディルムン観はすべてここから作られた。

出典:p155-156

ファイラカ島は上の地図にあるようにメソポタミアの湾岸のすぐ南の小島だ。ここはディルムン国(バールバール文明)の出先機関ショールーム付きの「海外営業本部」だった(p200)。

ウル第三王朝時代滅亡後のイシン・ラルサ時代のメソポタミアにとってディルムンはファライカ島のことだった(p118)。

経済的目的でそこを訪れるメソポタミアの商人は、その地はディルムン国の出先で、本土はより遠方にあるバハレーン諸島であるという情報を、ファイラカで得ていたであろうが、ビジネス上そこを訪問する必要はなかった。

出典:p188

政治上は、ウル第三王朝時代以前とは違い、イシン・ラルサ時代のメソポタミア諸勢力は湾岸地域に影響力を発揮することはできなかったようだ。

ファライカ島には銅加工の工房もあった。オマーンにあった工房が消費地メソポタミアに近いファライカに移転した。「地域ごとの役割・機能の分化は都市文明の大きな特徴である」(p152)。

ちなみに、ウンム・ン=ナール文明衰亡後のオマーンは、ディルムン人の支配下で銅鉱石の採掘・精錬が行われる場所として機能した。

衰退

ディルムン国(バールバール文明)は、その前身であるマガン国(ウンム・ン=ナール文明)の役割を引き継ぎ、メソポタミアとインダスにおける二つの大農耕文明の間で、イランの陸上交易文明とリンクしつつ、商業的利益を上げることを最大任務とする海上交易文明であった。前二千年紀初頭におけるメソポタミア南部の衰退、インダス文明の衰亡が、ディルムンの衰退を引き起こす契機となったのである。

緩やかに進行する衰退の中で、[中略]ディルムンの首都と交易活動の中心はファイラカ島に移っていたであろう。この頃でも、バハレーンとスーサとの交易関係は以前続いていた。バハレーンがファイラカの支配下にあり、インダス文明が消滅し、メソポタミア南部が政情不安となった時期のディルムンは、エラムのスーサを最大の交易相手としたであろう。

出典:p255

その後、ファライカ島にはメソポタミア南部の勢力「海国」からの移民の急増し、「海国」の滅亡(前1475年)の後、カッシートの影響下に入って一時期繁栄するが、その後衰亡したようだ。

前回の記事にもすこし書いたが、銅の供給地としての役割も、アナトリア、東地中海地域に取って代わられ、ディルムンとの交易の記憶すら薄れていった。(前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報/2007<pdf>)

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑤ ペルシア湾岸文明(その2)ウンム・ン=ナール文明

前回は湾岸文明の先史までを書いたが、今回は文明の時代に入る。

前回の記事でハフィート期(ハフィート文化)を紹介した。 ここにヒーリー8遺跡が出てくる。

この遺跡は次の時代すなわちウンム・ン=ナール文明の遺物も出土するので、ハフィート期を第Ⅰ期(前3100-2800年)、第Ⅱ期をウンム・ン=ナール期(前2800-2000年)としている。

ウンム・ン=ナール期の文化は、ハフィート期の文化が経年変化したもので、前2500年頃になると、湾岸で最初の国際性の高い都市文明が成立する。アブー・ダビーのウンム・ン=ナール島にはその首都と首都住民のための墓地が作られた。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015/p107

ハフィート期にはイラン(テペ・ヤヒヤ)からの人々が現在のアル・アインに移住してきた。彼らは故郷の黒色彩文土器(BOR)をアル・アインの土で作った。ヒーリー遺跡ではハフィート期(第Ⅰ期)を通してBORが出土し、ウンム・ン=ナール期の第Ⅱa~c1期までその傾向が続く。

[しかし]第Ⅱc2期〔前2500年〕になると、地元で作られた砂質の「ブライミー式」土器が出現し、以後のかく時期では全体の95%以上を占めるほどに増加する。第Ⅱc2期におけるこの画期は、生活文化の大きな変化、すなわちこの土地において独自の都市文明が成立したことを反映している。そして以後BORは副葬用に限られることとなり、集落遺跡からは姿を消す。

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p108

「ウンム・アン=ナール<wikipedia」によれば、この地名の意味はアラビア語で『火の母』を意味する。アブダビ島の東南に位置する小さな島である。

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出典:ウンム・アン=ナール<wikipedia

ウンム・ン=ナール島の居住期間は前2700-2200年だが、この島は前2500年頃に特別の人々が住む特別の場所になった(ソポタミアとインダスのあいだ/p111)。前述のヒーリー遺跡にも「立派な家系」の存在を示す立派な墓が発見されて、この文明の二大拠点の一つであった(p120)。

ウンム・ン=ナール文明 誕生の背景

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出典:後藤氏/p66

ウンム・ン=ナール文明はインダス文明とイランのトランス・エラム文明と同じ時期(前三千年紀中頃)に誕生している。

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出典:後藤氏/p113

イラン地方の人々はメソポタミア文明誕生以前からメソポタミアとの交易を行なっていたが、メソポタミアの文明が大きくなるに従って、イランの交易ネットワークも拡大した。

全体図を考えてみよう。イラン高原には、原エラム文明以来、ラピスラズリの産地であるアフガニスタン北東部、バダクシャン地方にあるショルトゥガイから東南部のムンディガク、セイスターンのシャハル=イ・ソフタ、ケルマーン地方のシャハダード、テペ・ヤヒヤというルートがあった。ヤヒヤからはファールス地方を経てエラム地方のスーサに至る南回りの路があった。もう一つはシャハル=イ・ソフタからイラン北部のテペ・ヒッサールに至り、テペ・シアルク経由でスーサに至る北回りの路である。南北の路は、世界有数の乾燥地帯であるルート砂漠を迂回している。これに海路がリンクするとどうなるのか?テペ・ヤヒヤから海岸(ホルムズ海峡)に至る路があったに違いない。ここから海の世界が始まった。ハリージー〔アラビア海(ペルシア海)の運搬に携わる海洋民〕たちは、イラン側とアラビア側を普通に往来していた。そしてマクラーン海岸に沿ってインダス河口に至るルートを開発した。[中略]

インターネットがそうであるように、「網」というものは、ルートの変更が容易に可能である。たとえ途中に通行不可の箇所が生じても、それに次ぐ別ルートが使用できる。陸海のネットワークがリンクすることで、人とモノはどこへでも移動することができるようになった。

出典:p113-114

このようにウンム・ン=ナール文明は巨大化した物流ネットワークの一部として誕生した。ウンム・ン=ナール島に「立派な家系」と首都機能と独自の文化が現れたが、基本的にはトランス・エラム文明を動かしている人々に従属的だったろう。ちなみに、アラビア海内のタールート島(上の地図参照)には古式クロライト製品の「第二工房」が設置されている(主工房はテペ・ヤヒヤにあり、その周辺(現在のケルマーン州)から原石と工人が島に運ばれた。古式クロライト製品については記事「エラムまたはイラン(その2)トランス・エラム文明」第二節「主力輸出品、ラピスラズリと「古式」クロライト製品」参照)。

銅山開発、銅製品、「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」

ウンム・ン=ナール文明は前の時代(ハフィート期)に引き継ぎ銅山開発が行われていた。

バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群

前回の記事でアラブ首長国連邦の「アル・アインの文化的遺跡群」を紹介したが、この遺跡の国境を挟んだ隣にオマーンの「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」がある。どちらの遺跡群も世界遺産登録されている。

「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」は、世界遺産の公式のページ「Archaeological Sites of Bat, Al-Khutm and Al-Ayn」によれば、その始まりは前三千年紀だということだ。アフダル山地の銅鉱脈からの採掘、精錬、銅製品作成を行ない、メソポタミアへ輸入した。

発掘された遺物群によれば、ウンム・ン=ナール文明圏の銅製品は釣り針、縫い針、剣、斧がある。後藤氏は「ウンム・ン=ナール文明はオマーン半島の銅を採掘し、初期の加工を行なった後に、製品を遠隔地へ個繰り出すという目的でオマーン半島に作られた文明である」と主張する(p139)。

前三千年紀には青銅器時代が到来していたが、この文明圏では青銅器の出土品はほとんど無い。

ウンム・ン=ナール文明と「ディルムン」と「マガン」、「メルッハ」

アッカド王朝初代王サルゴン治世

サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、後世の写本である。

キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。

王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。

ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。

5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、サルゴンの前で毎日食事をした。(略)

サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。

メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、マガンはアラビア半島オマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)はペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島にあたるといわれている。三カ所ともに銅の交易拠点であった。また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。

サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を中心とした交易を掌握し、富を得た。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175-176

初期王朝時代までは、メソポタミア人には「マガン」や「メルッハ」の地名は知られていなかった*1が、アッカド王朝初代サルゴン王の頃には知られるようになった。

上の「マガンはアラビア半島オマーン」というのがウンム・ン=ナール文明のことである。

アッカド王朝四代目ナラムシン治世

アッカド王朝四代目ナラムシンの治世になるとペルシア湾はマガンの海(または下の海)と解されるようになる。これは交易の海路の中継地がディルムン(バーレーン)からマガン(オマーン)に代わったことを示すのだろう。ウンム・ン=ナール文明の人々がペルシア湾の海(とその交易)を牛耳っていた。

彼(ナラムシン)はマガンを征服し、マガンの支配者(EN)マニウムを捕虜にした。その(マガンの)山で彼は閃緑岩を掘り出し、彼の市アッカドに運んだ。(その石で)彼の像を造り、[―神に奉納した]

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p103

ナラムシンはマガンに遠征して支配者を捕虜にしたが、マガンを直接支配することはなかった。ウンム・ン=ナール文明は続いたことは考古学の遺物から明らかだ。

もうひとつ、マガンからは閃緑岩は採れない。これはメソポタミアへの輸出用のイラン地方の石材(閃緑岩)をマガンが保管していたものをナラムシンが奪ったのだろう。『メソポタミアとインダスのあいだ』(p141)には、これを「国家によるきわめて積極的な経済活動の一つ」と解している。つまりマガンが閃緑岩その他の交易品の値段を高く設定していることに対して武力で対抗した結果だということ。

後藤氏は上のナラムシンの碑文(?)を次のように解している。

こうした記事のもつ支配者の「業績表」という性格から、もし相手国の出先も本土もことごとく攻略に成功したのであれば、彼の祖父サルゴンがそうしているように、個別の地方名をことごとく、時には必要以上に列挙して誇るのが普通であり、単に「マガンを征服した」などとはかかないのである。このように単一の征服地名を記していることは、マガン国の一部、おそらくメソポタミアから地理的に最も近い一拠点を攻撃し、政治的および経済的目的を達成したことを示しているのである。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/p142-143

ウル第三王朝時代

ウル第三王朝時代になってもウンム・ン=ナール文明は健在だった。

この時代になるとメソポタミアとメルッハの直接交流が無くなる。さらにディルムンの言及が激減し、マガンの地名は頻繁に言及される。つまりマガンがペルシア湾交易をほぼ全部を担っていた。いっぽうメソポタミアからも頻繁にマガンに出向くようになり、メソポタミア―マガン間の交易は国家としても かなり重要なものになっていた。この交易を管理する最高責任者は王族も就くことがあった高い地位にあり、中央政府と直結していた。*2

マガンの方の動きを見ると、彼らはメソポタミアに より近いバーレーン島に積極的に移民をしていた。上にある年表(考古学の編年表)のバハレーン(バーレーン)島のⅠa,b期の遺物は土着のバールバール式の土器が大多数だが、少量ながらマガンの土器も出土する。ウンム・ン=ナール文明は前2000年頃に衰亡するが、上の移民行動は文明の移転つまり中継地の移転の前段階だった、と後藤氏は主張する(メソポタミアとインダスのあいだ/p146-152)。

ウンム・ン=ナール文明の滅亡

すぐ上で既に書いてしまったが、この文明はオマーンからバーレーン島に移転した。オマーンの「銅鉱山プラス中継地拠点」という利点を捨てて、よりメソポタミアに近いバーレーンを中継地拠点に選んだ。

イシン・ラルサ時代以降のことになるが、マガンの銅供給地としての役割も無くなってしまった。

こののち銅はアナトリア、東地中海地域からメソポタミアにもたらされるようになる。ほぼ時期をおなじくして、東方ではインダス文明が姿を消す。もはやメソポタミアの人々は、メルハをインダス河地域と認識できなくなるであろう。

出典:前川和也・森若葉/2007



オマーン半島」というのは正式な地名ではないようだ。

*1:前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報/2007<pdf>

*2:前川和也・森若葉/2007

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺④ ペルシア湾岸文明(その1)文明の先史

この記事のペルシア湾岸文明とはアラビア半島側の文明のことを指す。反対側のイラン(またはエラム)の文明は前回までの記事で書いた。

湾岸文明の先史から時系列を追うように書いていこう。

農耕文明と非農耕文明

人間の歴史は、多くの場合、農耕民の手によって、彼らの世界を中心に書かれてきた。「農耕社会こそ正しい社会だ」という自身に満ちた価値観は、近代の歴史学歴史教育においても継承されている。多くの時代において、農耕民は数において圧倒的であり、物質文化の豊富さに加え、文字による記録を多数遺してきたが、だからといって、彼らの歴史・文明だけが人類の歴史・文明であるということにはならない。そもそも農耕民だけで作られた文明などあるのだろうか?彼らの歴史と接する非農耕民の歴史・文明をも包括することで、はじめて人類の歴史・文明が偏りなく理解される。このことが理解され始めたのはそれほど昔のことではない。日本では江上波夫の「騎馬民族征服説」(1948年)に代表される歴史観が、非農耕文明の意義を一般人に広める最初の契機となった。他方湾岸では、1950年代以降、同地における近代考古学の研究が本格的に始められてから、もう一つの非農耕文明である海洋民の文明が、明らかになってきた。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015

ペルシア湾

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出典:ペルシア湾wikipedia

ウバイド文化とペルシア湾岸:ウバイド系文化

記事「先史② ウバイド文化」第三節「ウバイド文化の拡大」で少し書いたが、ペルシア湾岸は南メソポタミアの交易相手の一つだった。ウバイド文化が栄えて四方に文化と交易ネットワークが拡大するのはウバイド文化Ⅲ期になってからだが、ペルシア湾岸の遺跡にはウバイド文化Ⅱ期の土器も発見されている。

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p25


アラビア湾岸におけるウバイド系遺跡の分布は当時の海岸(湖岸)付近に限定されるので、その担い手は海産物、特に真珠貝の採集集団であったと考えられている。アブー・ハーミスでは、クウェイトのH3遺跡と同様に、大量の真珠貝殻のほか、穿孔用の石錐も多数出土しているので、真珠や真珠母(貝殻内面の平面真珠。漆器螺鈿に使われるものと同じ)の工房があったものと思われる。現在もそうであるように、利用可能な真珠棚はアラビア湾内に限られていたものとみえ、それを求めた人々が遺したウバイド系遺跡の分布は、オマーン湾アラビア海には広がらないのである。[中略]

ちなみに現在のところ、ウバイド系文化の痕跡はイラン側では知られていないが、なぜだろうか?それはたぶん湾の両側の海底の地形に原因がある。一般的にだが、アラビア側は極端な遠浅であるのに対して、イラン側はその逆であることが多く、最重要な海産物である真珠の生育に違いがあったのだろう。

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p30-31

湾岸に遺る初期の遺跡は、基本的にウバイド人のものだった。ウバイド人は真珠漁期である5月半ばから9月半ばにかけて湾岸に住みついた。彼らはウバイド文化の最も普通の方法で家を建て、持ってきた土器が足りなければ地元の土でウバイド文化の土器を作った。

これらの遺跡に遺る文化を筆者の後藤氏はウバイド系文化と名づけた。この文化は南メソポタミアでウバイド文化からシュメール文明に代わった後、消滅した。ウバイド系文化は湾岸に影響を残すことは無かった。(p30-31)

ハフィート文化とディルムン

メソポタミアはウバイド期からウルク期(シュメール文明の初期。前3500-3100年)に代わる。

ウルク期のシュメール人はウバイド人のようにペルシア湾に赴かなかったようだ。つまりこの頃の遺跡が湾岸には無い。

メソポタミアとインダスのあいだ』ではウルクの人々が海上の往来に不慣れだった可能性を書いている(p48-49)。もっと単純な考えとしてウルク人が真珠に興味を持たなかったか、もしくは別のルートで入手できた、というのはどうだろうか。

ウルク期より後のことになるが、シュメール人ラピスラズリ(青い貴石)を好んで、紅玉髄(カーネリアン、赤い貴石)は不人気だったことを思えば、真珠が漁をするほどの価値を持たなかったと仮定することは無理のないことだと思う(仮定に過ぎないが)。

ジェムデト・ナスル期(前3100-2900年)になると湾岸とメソポタミアの関係が復活した。アラブ首長国連邦(UAE)のオマーンとの国境に位置する都市アル・アインに古代遺跡群があるが、その中の一つ積石塚墳墓群の墓室内からメソポタミア製のジェムデト・ナスル式彩文土器が出土した。

この遺跡群の一つ、ヒーリー8遺跡では、ハフィート期以降の全ての時期で銅製品が存在し、加工も行われていた。ハフィート期の採鉱の場所はまだ特定されていない(p56)が、オマーン半島における銅山の開発事業はハフィート期にすでに始まっていたというのが、多くの研究者の考えである(p107)。

ハフィート文化の銅製品はメソポタミアへ輸出されたが、アル・アインメソポタミアのあいだのバハレーン(バーレーン)島の古代遺跡からはジェムデト・ナスル期の土器や印章が出土する。

ハフィート文化の担い手

次にハフィート文化の担い手の話に移る。

ハフィート期の人々とは何者だったのだ。彼らは採掘した銅鉱石を加工し、また製品を使用してもいた。それまで土器作りの伝統もなく、農耕も満足に行なった形跡のない、オマーン半島の石器時代人が、突然銅山の開発を始め、製品を輸出するというのは、いくらなんでも無理がある。それならば、ハフィート人はどこから到来した人々ではなかったか。

出典:p57

著者後藤氏の主張によれば、それはイラン東南部のテペ・ヤヒヤの人々だった。言い換えれば、テペ・ヤヒヤがオマーン半島を銅山開発のために植民地にした。

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エラム文明の物流ネットーワーク

出典:後藤氏/p43

  • 「ハフィート山」「ヒーリー8」と書いてあるのが、アル・アインの遺跡群。
  • 「?(原ディルムン)」となっているところがバハレーン(バーレーン)島。

この主張の根拠となる物はヒーリー8遺跡で出土した黒色彩文土器(Black-on-Red Ware、BOR)だ。この土器はテペ・ヤヒヤから出土する土器と酷似しているのだが、胎土の理化学分析の結果、オマーン半島製だった(p52-53)。テペ・ヤヒヤの人々は銅山開発のためにオマーン半島に植民して、その地の土で故郷と同じ様式の土器を作成した。これはウバイド人が真珠漁のために湾岸に一時季移民して移民先の土で土器を作成したのと同じだ。そして銅山開発が真珠漁と違うところは、真珠漁が一時季に限ることに対して銅山開発と銅製品作成は年中続けられた。文化が根づいたか根付かなかったかの違いはここにある。

これが上のような原エラム文明のネットワークの一部に組み込まれていた(記事「シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明」参照)。

ディルムン

ヒーリー8遺跡ではメソポタミア製土器も出土した。どうしてハフィート期の人々の出自がメソポタミアではないといい切れるのか?それは当時のメソポタミアの人々は河口より南のことはほとんど何も知らなかったである。彼らは湾岸地域を漠然と「ディルムン」と呼んで湾岸地域については銅製品を含む舶来品が来る地域くらいのイメージしか持っていなかった(p55)。楔形文字の前身である古拙ウルク文字の粘土板にはDILMUNと読める語彙が見られるという(p54)。ディルムンは上述したようにメソポタミア人に舶来品の来る地域と思われていたが基本的には良いイメージを持っていたようだ。

後藤氏は以下のような例えを書いている。

「ディルムン」とは、シュメル語の世界では、ちょうど日本語の「漢」や「唐」のように使われていたことがわかる。漢や唐は本来は良き地名(国号)であり、そこからもたらされた漢詩や漢方、唐三彩や唐物のような良きものを指していたが、唐辛子のように、必ずしも中国起原ではないものや、唐紙のように自国製の高級品に冠された例もある。

p55

このような環境の中で、オマーン半島の銅や銅製品も「ディルムン産」というブランド商品としてメソポタミアに運ばれた(p63)。

別の文献の引用をしよう。

私たちが知りうるかぎり、この時期〔初期王朝時代Ⅲ期〕のメソポタミア楔形文字文献にはディルムン〔バーレーン〕のみが言及される。マガン〔オマーン〕やメルッハ〔インダス文明地域〕はあらわれない。じっさい当時、ディルムンは、シュメールの人々が海路で物産を輸入するさいの唯一の中継地であったらしい。人々は船でディルムンまで出向き、そこでさらに遠方から(たとえばメルッハやマガンから)到来していた商人たちと交易交渉をおこなっていたのであろう。なおこの時代やそれ以降に書かれた楔形文字テキストで「ディルムンの船」がしばしば言及されるが、おおくのばあい、この語は「ディルムン人の船」の意味ではなく、ディルムンまでの航海に耐えられるように、南部メソポタミアで建造された船を指している。前24 世紀中葉のラガシュでは、人々はしばしば「ディルムン船」の形状をした青銅容器を神殿に奉納していた。

この時期のラガシュ王朝の創始者ウル・ナンシェは、ディルムンから船で木材をラガシュまで運んだとくりかえし語っている。また王朝の末期に記された行政記録には、「商人(damgar3)」が王室のためにディルムンの銅を輸入したとある。いうまでもなくディルムン(バーレ-ン)は銅の産出地ではない。銅はマガン(オマーン)から、あるいはさらに遠方からディルムンに送られてきていたにちがいない。

出典:前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報2007(pdf

メソポタミア人が実感できる湾岸地域の南端はバーレーン島であり、それ南のオマーンも、あるいは海を渡って東方のインダスも、「ディルムン」と一緒くたにしていた。

ハフィート文化は原エラム文明の一部

以上のようにハフィート文化はテペ・ヤヒヤからの植民によってできたもので、大きな枠から見れば原エラム文明もしくはその物流ネットワークの一部であり、独自の文化とは言えないようだ。独自の文化が出現するのは、この後の時代、ウンム・ン=ナール文明期のことになる。



関連記事

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺③ エラムまたはイラン(その3)「原(プロト)エラム文明」後のエラム

「原エラム文明」の交易ネットワークは「トランス・エラム文明」が引き継いだが、その頃、エラムはどうなっていたか?

この記事ではその頃のエラムの話を書く。

「原エラム文明」の終わり(おさらい)

前回の記事の第三節「スーサの考古学」に引用したが、後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015/p68)によれば、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。後藤氏によれば南メソポタミアの有力都市キシュ市の王エンメバラゲシがスーサに侵攻した、としている。

ただし、これはシュメール王名表に書いてある「キシュのエンメバラゲスィ、エラムを撃つ」という文句と、スーサ(エラム)の考古学研究の成果から推測した後藤氏の主張である(記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」第三節「シュメールの「王名表」から」参照)。

初期王朝時代ⅢB期のエラム

初期王朝時代ⅢB期(前2500-2335年)はシュメール文明の時代区分。シュメールは前2500年頃に文字体系が整い、この頃から碑文やその他の文書が出土する。

こうした中でエラムが最初に文書に登場したのは、南メソポタミアの有力都市ラガシュの王エアンナトゥムの碑文である(エアンナトゥム王の戦勝碑(禿鷹碑文/禿鷲碑文) )。前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1(p202-203)によれば、この碑文はエアンナトゥムはウンマ、ウル、ウルク、キシュ、アクシャク、マリ、そしてエラムと東方の勢力を相手に戦勝したことが書いてある。

もうひとつ、エアンナトゥムの3代後のエンアンナトゥム2世治世にもラガシュ-エラムの戦争があった記録が遺っている。

前田氏は「シュメールとエラムの都市/国家の間に、恒常的な敵対関係があったことは確かである」(p206)と主張するが、上記2つの文書以外は記録がないようだ。初期王朝時代末期の覇者であるウルク王エンシャクシュアンナやウンマ王ルガルゲザシはエラムに関する記録を遺していない(p206)。

アッカド王朝時代のエラム

前田氏は、アッカド王朝時代のエラムを「エラム=スーサ」と「エラムエラム地方(スシアナ、スーサと周辺地域)」という二つの意味で使用している。(p206~)

初代王サルゴン治世にはエラム地方にはスーサ(エラムと呼ばれていた)だけでなく、パラフシという有力国家(勢力)が存在していた。スーサとパラフシの支配者は「ルガル(王)」を名乗り、これらに従属する勢力の支配者は「エンシ」を名乗った。つまりメソポタミアの初期王朝時代末期の上下関係がエラム地方にも存在した。(p207)

(このパラフシは後世ではマルハシと呼ばれ、おそらくテペ・ヤヒヤを含む地域を表す。メソポタミア人が珍重したクロライト=マルハシ石の産地として有名だった。現在のジーロフト遺跡。ケルマーン州に当たる。*2

サルゴンから三代目のマニシュトゥシュまで遠征を繰り返し、マニシュトゥシュの治世には当時のイラン地方の第二の中心都市と言われる(メソポタミアから見て)スーサよりも東方の都市アンシャンまで支配下に置いた。四代目のナラムシン治世はイラン地方の支配は安定していた(ナラムシンは東方ではなく西方の遠征に注力した)。

しかし五代目シャルカリシャリの時代になると、エラム勢力アッカド地方の北辺アクシャクまで及ぶ事態になっていた。シャルカリシャリはエラム勢力アッカド地方への侵攻を撃退したが、その後もエラム勢力の勢いは衰えなかったようだ。(p206-210)

エラム」という地名の範囲の変遷

エラムという地名は長く、スーサを指す言葉だったり、あるいはスーサの周辺を意味する「スシアナ」と同じ言葉だった。これが変化する時期はシャルカリシャリ治世以降のことだった。

アッカド王朝が崩壊した後の有力都市ラガシュのグデア王の記録によると

エラムであるアンシャンの町を武器で打った。その戦利品を、ニンギルス神のために(主神殿である)エニンヌ神殿に運び入れた。

とあり、この「エラムであるアンシャンの町」というのが、エラムがスーサからアンシャンに亘るイラン高原一帯を指す言葉に変わる 初めの記録だった。(p210-214)

高原一帯ということは東へだけでなく、エラム勢力アッカド地方の周辺にまで及ぶことにより、エラムは北方へも伸長した。

ただし、イラン高原の北東は砂漠だったため、勢力は存在しなかったようだ。

プズルインシュシナクの登場

シャルカリシャリ以降のアッカドの衰退の中、イラン地方(≒エラムイラン高原)を統一したプズルインシュシナクという傑物が現れ、エラム地方を統一した。

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出典:初期メソポタミア史の研究/p217

プズルインシュシナクはアッカド王朝時代末期からウル第三王朝時代草創期の人物で、エラム地方を統一し、アッカド地方も占拠していたが、ウル第三王朝の初代王ウルナンムにより、アッカド地方より外に追い出された。プズルインシュシナクの治世は長かったが、上の地図のような支配領域は彼一代限りのようで、ウル第三王朝二代目シュルギの治世中にエラム地方はウル王朝の支配下に組み込まれた。*3

(プズルインシュシナクはwikipediaでは「クティク・インシュシナク(英語版ではKutik-Inshushinak)」の名前で登録されている。

ウル第三王朝時代のエラム

上に少し書いてしまったが、ウルナンムによりエラム勢力アッカド地方から追い出され、シュルギの治世でエラム地方が支配下に組み込まれた。

ウル王朝は基本的にエラム勢力に対して「降嫁政策」を用いて支配した。ただし、重要都市のスーサには王朝から派遣した官僚を支配者(エンシ)にして、エラム地方の監視の任務を兼務させた。このスーサの支配者は将軍が就く職だったが、四代目シュシンの治世では王の酒杯人が就いた。エラム地方の監視の任務はスッカルマフという職に移譲された。

スッカルマフは、「伝令(sukkal)の長(mah)」の意味である。スッカルマフが、ウルの王宮における最高官職の一つであることに間違いなく、ウルの王の軍事や外交を輔佐し、難問が続出するエラム政策において重要な役割を果たした。スッカルマフのイルナンナが主導することで、ウルのエラム政策が一つの転機をむかえた。

出典:初期メソポタミア史の研究/p237

このイルナンナはスッカルマフの職を三代目アマルシン治世から就いており、シュシン治世に権力を増し、エラム地方全体を管理する任務を担うこととなった。イルナンナは従来の降嫁政策などによる間接統治から直接統治への切り替えを目指していたが、以下に示すようにシマシュキなどの反乱・支配からの離脱が相次ぎ、イルナンナの政策の失敗とともに王朝は滅亡へと向かった。(p222-242)

シマシュキの台頭とシマシュキ王朝成立

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出典:初期メソポタミア史の研究/p227

シマシュキは上の図のスサの北方に位置する。

スーサのエバラト

ウル第三王朝は五代目イッビシンの即位早々から王朝滅亡の危機に直面していた。王朝がスーサを支配していたのはイッビシンの3年までだった。それまでイッビシンの年名が使用されていた。その後「エバラトが王(になった)年」「エバラトが王(になった)次の年」のようにスーサはエバラトの支配下に入った。

このエバラトはシマシュキの支配者だった。彼の名は二代目シュルギの晩年(46年)に記録されており、それから頻繁に王朝に貢納したことが記録されている。貢納するシマシュキの支配者が複数記録されていることからエバラトがシマシュキを統一してそれからスーサを支配したと考えられる。エバラトは四代目シュシンの治世に反乱を起こし破れたが、イッビシン治世にスーサの王になりエラム地方の支配を拡張していった。イッビシン治世にはシマシュキ以外のエラム勢力は王朝からの離脱または反乱を起こしていたが、このような勢力を飲み込んでいったのがシマシュキの勢力だった。(p242-245)

アンシャンのダジテ

ややこしいことにもう一つのシマシュキ勢力が登場する。

アルマシン8年の1文書、シュシン2年の2文書において、シマシュキのエバラトの使節とともに、アンシャンのダジテの使節が記録される。ダジテは常にアンシャンの人と記録される。

出典:p245

ダジテはシマシュキ出身の人物だったが、ラバラトがスーサを支配するよりも先に、アンシャンの支配者になっていた。ダジテはウル王朝に友好的または従属していたが、その後継者インダトゥはそうではなかった。

ウル王イッビシンの9年にキンダトゥはウル王朝に反抗した。この時、スーサのシマシュキ勢力(エバラトもしくはその後継者フトランテムティ)はウルの王に恭順した。

しかしその5年後のイッビシン14年にはスーサはキンダトゥの支配下に入り、ともにウル王朝と戦った。

イッビシン24年、イッビシンは破れてアンシャンに連れ去られたが、この連れ去った勢力の支配者がキンダトゥだった。

シマシュキ王朝の成立

既にウル王朝は滅亡し、キンダトゥはイシン第一王朝のイシビエラと外交交渉を行っていた。

前田氏の主張によれば、キンダトゥはエバラトの娘と結婚し、その息子のイダドゥが後継者となった(p253)。スーサとアンシャンを支配下に置いたシマシュキ勢力の支配者イダドゥは、統一王朝に相応しい体裁を整えるために王都をスーサに移し、王号を名乗った。これでシマシュキ王朝の成立となる(エバラトの後継者だったフトランテムティはその地位を奪われた)。

シマシュキ王朝が成立し、強大な勢力となって以後、エラムは、イシン・ラルサ王朝時代を通して、メソポタミアに政治的影響力を有し、前2千年紀後半には、チョガ・ザンビルに自らの名を採った新都を建設したウンタシュナピルシャや、メソポタミアに侵攻しハンムラビ法典などの戦利品をスサに持ち帰ったシュトゥルクナフンテなどが活躍する最盛期を迎える。こうしたエラムの動向を可能にした土台は、メソポタミア都市国家から統一国家へと反転したと同様に、アッカド王朝末期のプズルインシュシナクと、ウル第三王朝滅亡時のキンダトゥによって達成された全エラムの統合があった。

出典:p255



メソポタミア文明:シュメール文明の周辺② エラムまたはイラン(その2)トランス・エラム文明

前回の記事の第三節「スーサと原エラム文明の考古学」で前27世紀頃に原(プロト)エラム文明が崩壊したことを紹介した。

今回はその後継というべきイランの地の交易ネットワーク「トランス・エラム文明」について書く。

トランス・エラム文明

トランス・エラム文明については後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015)の第二章「イラン高原の「ラピスラズリの道」――前三千年紀の交易ネットワーク」に書いてある。

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出典:後藤氏/p113

「トランス・エラム」とは字義通りにはメソポタミアから見て隣接のエラム(スーサ中心の地域)の向こう側(東方)を意味する。そして原エラム文明に代わるイランの地の交易ネットワークを考古学では「トランス・エラム文明」と呼んでいる(p77)。その中心都市はアラッタ。後藤氏はアラッタを現在のイラン国ケルマーン州ジャハダードに比定している(p76)。

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出典:後藤氏/p66

アラッタについて

メソポタミアとインダスのあいだ』では、まず最初にアラッタについて詳しく紹介している。

アラッタについては 記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」第二章「ウルク第1王朝」第一項「エンメルカルとルガルバンダと都市アラッタ」でも紹介した。

メソポタミアの伝説の中で『エンメルカルとアラッタの主(しゅ)』と『ルガルバンダ叙事詩』でアラッタについて語られている(詳しくは「エンメルカル<wikipedia」「ルガルバンダ<wikipedia」参照)。

「ルガルバンダ<wikipedia」には以下のような記述がある。

補足:アラッタではウルクにはない瑠璃などの宝玉、貴金属に恵まれ、それらを細工する技術と職人も持ち、それらの製品交易によって経済力も確かなものだったと思われる。エンメルカルはしばしばアラッタの君主と対決してきたが、今回の遠征目的はそんなアラッタの貴金属とその加工技術、そして貿易路の確保と導入によってウルクの発展に貢献することであった。

出典:ルガルバンダ<wikipedia

物語からはそう読み取れるが、後藤氏によれば、アラッタは他地域から以上の物を集め、消費地メソポタミアに輸出しただけだった。アラッタは鉱物に恵まれ技術者も揃えていたから重要な都市だったのではなく、イランの地の交易ネットワークの中心都市だったから重要だったのだ。

主力輸出品、ラピスラズリと「古式」クロライト製品

ラピスラズリ

上の引用で瑠璃というのはラピスラズリの和名。ラピスラズリの語源は「ラピスラズリwikipedia」によれば、「ラピス」が「石」を表し「ラズリ」はアフガニスタンにある鉱山の地名とのこと。ラピスラズリアフガニスタンからイランを経由してメソポタミアに輸入された。

シュメール人はこの貴石を特に珍重したらしい。この石は「霊力に満ちたものと考えていたようだ」(後藤氏/p77)。

「古式」クロライト製品

クロライト=緑泥石は鉱物の一種だが、鉱物をそのまま輸出したのではなくあらゆる製品を作成した。これらの製品を「古式」クロライト製品という(別の時代の「新式」と区別するため)。その多くは容器だが、飾板や分銅などもある。

主たる工房はテペ・ヤヒヤにあった(近傍に露頭で得られる原石があった)。

器表の装飾は浮彫表現で複雑な図文を描いたもので、具象的な図像と幾何学的な地文、それらの中間的な文様もある。具象的なものとして、人物(に似た神)、動物(龍、ライオン、禿鷹、魚、ライオン頭の鳥「アンズー」、サソリ、牡牛など)、棗椰子の木、「神殿文」などがある。浮彫には、赤、緑、黒などの顔料の塗布、貴石の象嵌が遺されている例もある。主文の背景となる地文として、山形、三角形、「筵(むしろ)の目」、煉瓦の目地などに似たものなどがある。これらの主文と地文の組み合わせによって器表に表現された図像は、宗教的意味をもつ非日常的モチーフによるもので、こうした容器が日曜雑器の類とは大きく異なる聖なる器物であったことを示している。

出典:後藤氏/p78-79


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左:テペ・ヤヒヤ出土のクロライト製飾り板(Lamberg-Karlovsky & Tosi 1973, Fig. 136) 右:バハレーン島サール古墳群出土のクロライト製容器(バハレーン国情報相発行のCalendar 1993による)

出典:後藤氏/p84

日本語のウェブサイトだとこの時代のクロライト製品は見つけにくいが、google画像検索で「chlorite vessel」で検索するといろいろ出てくる。

入念に加工された古式のクロライト製容器は、ケルマーン初、トランス・エラム文明のいわば「国際的ヒット商品」で、西はシリア、東はインダス河流域までの広い範囲に流通した「宝器」といえる。それは、一流の都市とその住民だけが持つことのできた宗教的器物であり、そこに描かれた精神世界は、トランス・エラム文明に共通の観念であると同時に、それらが出土するイランの域外、特に自前の神々の体系をもつメソポタミアにおいても、好ましいものとして受容すべき対象であった。精神世界においても、メソポタミアとイランの文明は、互いに影響を及ぼしあいながら発展した隣人であった。

出典:後藤氏/p85-86

トランス・エラム人がインダス文明を作った

トランス・エラム文明とインダス文明の関係については記事「インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)」で書いた。

ここでは、『メソポタミアとインダスのあいだ』からの引用を再掲する。

トランス・エラム文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉と成る所はないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた。その西側、バルーチスターンの山地に住むハラッパー文化の人びとと、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。彼らは低地に降りていった。

旧世界において、前2600年より早い時期から都市文明が存在したのは、エジプト、メソポタミア、そしてイラン高原の三カ所であった。都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人びとに、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導のもので行われたことが明らかで[ある]。

出典:後藤氏/p87

トランス・エラム文明の終焉

メソポタミアとインダスのあいだ』には、その終焉が書いていなかった(見落としているのかもしれない)。

前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1によれば、アッカド王朝の初代サルゴン王からイラン方面への遠征を繰り返し行い、三代目マニシュトゥシュはアンシャンまでをも征服した(p206-209)。

上に引用した年表によれば、トランス・エラム文明はアッカド王朝時代に終わっているので、アッカド王朝の歴代の王たちの遠征によって崩壊させられたのかもしれない。



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インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)


*1:早稲田大学出版部/2017

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明

シュメール地方の西方にはエラムがあった。エラムは東方からシュメールまでの物流ネットワークの要地であった。エラムはその近さからシュメール文明の影響を多大に受けながらも独自の文化文明を築いた。

今回はその初めの文明「原(プロト)エラム文明」について書く。

エラムの地理

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出典:エラムwikipedia*1

エラムの地はザグロス山脈ペルシア湾に挟まれた地域を指す。この地域の中心都市はスーサ(スサ)と言い、「スーサとその周辺」を意味する「スシアナ」はエラムと同義に使われることがある。

このエラムの地は現在はイラン国のフーゼスターン州(の一部)である(スーサの現代名はシューシュShush)。

フーザスターン州は基本的に平野部と山岳地帯に二分される。平野部は南西方面に広がり、カールーン川、キャルヘ川、ジャラーヒー川によって灌漑されている。山岳地帯は北西方面で、ザーグロス山脈の南嶺をなす。

常流する大河が州内を貫流する自然環境は、その豊かさにおいてイラン国内で追随を許さない。

出典:フーザスターン州<wikipedia

この州の気候は地中海性気候とステップ気候のどちらかだが、スーサ(シューシュ)は河川のおかげで農耕が可能な地域であっただろう。しかし私が読んだ参考図書にはスーサの農耕についての言及は無かった。少なくともシュメール地方のように肥沃な土壌は持っていなかったのだろう。

エラムの範囲の変化について

エラムの地」と言えば上記のような地域を指すのが一般的だが、時に、エラム人が実効支配した地域を指したり、彼らが築いたネットワーク圏を指したりすることがある。

エラムの中心都市スーサと南メソポタミア(特にシュメール地方)の関係

シュメール地方は肥沃な土地を有しているが、木材はあまり(ほとんど?)育たず、鉱物などは無かった。つまり食糧以外の必要物資はほとんど輸入に頼った。

いっぽう、エラムの中心都市スーサに繋がるイラン高原は乾燥地帯で農耕はほとんどできない地域だが、鉱物など物資はそこそこあった。この地の人々は原材料を加工してシュメール地方に売り込むこともした。

エラムの中心都市スーサはイラン高原からザグロス山脈を横断してシュメールに入るルートの西側に位置していた。

スーサの最初期は独自の文化を持っていたが、上記のような位置関係から交易の要地として発達し、基本的にはイラン高原を含む(シュメールから見て)東方の人びとの交易の拠点の役割を果たした。しかしシュメール人の支配を受けることも数度あった。

スーサと原エラム文明の考古学

時代区分(編年)は後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015/p38-)による。


スーサⅠ期 前五千年紀末~前3500年頃
スーサⅡ期 前3500年~前3100年頃
スーサⅢA期 前3100~前2900年頃
スーサⅢB期 前2900~前2750年?
スーサⅢC期 前2750年?~?
前27世紀 原エラム文明の終わり


Ⅰ期メソポタミアはウバイド期の頃だがほとんど無関係で独自に発達した。

Ⅰ期の集落は全貌を知ることができないが、「単なる民家を超える規模」の建物、巨大な多葬墓が発見されている。Ⅰ期の後半では、多数のスタンプ印章が出土しており、その型式も変化に富んでいるので、前四千年紀前半のスーサには、他地域との交流のあるエラムの中心的都市が存在したことがわかる。

出典:後藤氏/p39

Ⅱ期メソポタミアウルク期と並行する。この時期の都市ウルクの人びとは各地に物資を求めて交易ネットワークを築いた。いわゆるウルクネットワークシステムだ*2

このネットワーク網にスーサも組み込まれる。この時期の遺物からは土着のイラン的要素が消えてウルクからの文化に変化した(メソポタミア化した。後藤氏/p39-40)。

ⅢA期メソポタミア期のジェムデト・ナスル期と並行する。前3100年頃にウルクネットワークシステムが崩壊し、スーサは再び独自の文化を蘇らせた。

「原(プロト)エラム文字」(絵文字)はこの時期に初現し、この文字で書かれた「原エラム文書」はイラン高原やスーサの東南方面からも出土している。これはウルクネットワークに代わるものが築かれたことを意味する。後藤氏はこれを「エラム文明」と書いている。

イランの地からは「スーサから配布された、あるいはスーサから来た書記によって書かれた原エラム文書や、非メソポタミア的な印章やその捺痕など」(p47)が出土しており、スーサがこのネットワークを主導している表している。

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エラム文明の物流ネットーワーク

出典:後藤氏/p43

ⅢB期メソポタミアの初期王朝時代Ⅰ期に並行する。この時代になると、再び「メソポタミア化」が進む。すなわち「初期王朝時代Ⅰ期の土器が主体を占めるようになり、原エラム文書は減少する。このことは原エラム文明の衰退と理解してよいだろう」(p42)。

ⅢC期メソポタミアの初期王朝時代Ⅱ期に並行するとされているが、わずかな史料しか得られていないので詳細は不明(p42)。

この時代のあいだに、シュメールの有力都市のキシュ市の王エンメバラゲスィ(エンメバラゲシ)がエラムを侵略したという説があることは、記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」第三節「シュメールの「王名表」から」で紹介した。

なぜエンメバラゲシ王はスーサを攻撃したのか?後藤氏は以下の「シナリオ」を書いている。

メソポタミアの支配者たちが首都スーサに対して行った軍事的侵略によって、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。スーサ以外の都市に対する攻撃は知られていないので、それはネットワーク全体に対する攻撃ではなく、メソポタミアと直接交渉関係にある中心都市スーサ、あるいはそれを含むエラム地方の一部に対する局地的侵略と支配であったと思われる。しかし前2700年頃から前2000年頃までのスーサでは、「王の町」とアクロポリス丘で連続的住居が営まれており、外部からの攻撃で都市機能が壊滅し、廃墟化したわけではなかったことを物語っている。この種の攻撃は、都市の破壊を目的とするものではなく、武力を使って強引に行われる、自らに非常に有利な商取引の一形態だからである。足元を見られて高い買い物をさせられているという、売り手に対する消費者としての憤激から、メソポタミアの支配者たちは「悪徳商人スーサ」の懲罰に赴き、抑え込んでタダで商品を買ったというわけである。

出典:後藤氏/p68(太字強調は引用者による)

エラム文明はこれで終焉を迎えるが、スーサやエラム勢力は存続し続け、シュメール人たちが遺した文書にはエラムやスーサのことが度々言及されている。

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出典:後藤氏/p66

アンシャン(ファールス地方)の中心都市、タル=イ・マルヤーン

ファールス地方はアケメネス朝やサーサーン朝のペルシア人の故地として有名だが、ここではペルシア人(アーリア系)がここに住み着く以前の話をする。

ファールス地方は前三千年紀ではアンシャンと呼ばれていた。狭義のエラム(≒スーサの周辺、スシアナ)とは区別されるが、普通はエラムの一部とされる。

中心都市はタル=イ・マルヤーン(Tall-i Malyan)。原エラム文明の有力都市であり、スーサに次ぐ都市である可能性がある(p46)。

メソポタミアとインダスのあいだ』(p45-46)には、W・サムナー氏の主張を紹介して、タル=イ・マルヤーンの変遷を書いている。

タル=イ・マルヤーンは前六千年紀に定着農耕民が住み着き、前五千年紀末にその人口は頂点に達したが、前四千年紀前半から中盤にかけて急速に減少した。

すなわち定着農耕民の遊牧民化という現象が起こる。その原因は、当初は成功していた河川による灌漑の失敗、土壌の疲弊(塩害の発生)などによるもの[だ]。[中略] 定住農耕村落の解体が、一方ではテントを携えた移動生活への転換、そして他方では農耕に携わらない都市生活の確立という結果をもたらしたものであり、ここではメソポタミアにおけるような農耕社会の成熟・発達とはまさに正反対の理由で、最古の都市社会が誕生したことになる。

出典:後藤氏/p45

この遊牧民の都市の人口は4000人、という数字を紹介している。遊牧民化した人びとは原エラム文明のネットワークの中に組み込まれた。この都市はスーサとは無関係に発生し、メソポタミアとの関係も無かったが、原エラム文明の一部になってから、メソポタミアと断続的に関係を持った。

ここでは営業規模のパン焼き竈や銅製品の生産、専業工人による石器、ビーズ類、象嵌用貝殻片の製作など、多彩な工芸品の生産活動を物語る工房址が明らかにされている。明らかに遠隔地から搬入された素材として、黒曜石、金、ラピスラズリトルコ石、紅玉髄(カーネリアン)などの成品、未成品がある。工芸品に彫刻された図像にメソポタミア的要素は見られず、いずれも原エラム文明に特徴的なものと指摘されている。

出典:後藤氏/p46

このようにして、メソポタミアに原材料(一次産品)を売るだけでなく、加工して付加価値を付けたもの(二次産品)を売ってメソポタミア穀物を得ていた。

タル=イ・マルヤーンは原エラム文明の終焉と同じ時期に人口が極端に減少した(歴史の舞台から消えた)。

エラム文明の実像と諸都市群

上のタル=イ・マルヤーンの変遷は他の原エラム文明の諸都市群も辿った道ではないか、と後藤氏は推測する。とくにイラン高原は乾燥地帯でシュメール地方のように農耕社会からの都市誕生など考えられなかった。これらの都市は大量の商品を買ってくれるシュメール地方が有って初めて成り立つ都市だった。そしてこれを誕生させたのは上位都市(スーサ?)によって始められたのではないだろうか、と。

イラン高原に広く分布する原エラム都市群はメソポタミアウルク文化が示した拡散現象とは異なる性質のものである。ウルク国家は、かつてメソポタミア南部の低地に発し、北部、シリアなどへ植民政策を実施した。したがって、先に述べたそれらの都市では、中心地の文化がいわばパッケージとして移植されたものと捉えることができる。これに対して、原エラム都市群では、考古学的遺物の主体を占める土器にしろ、特殊なもの(遠隔地からの搬入品)を除き、基本的に土着の先史土器の伝統によるもので、各都市に共通の内容をもつものではなかった。スーサはメソポタミアの都市であるかのような土器群をもっていたが、他の都市はそうではなかった。これらの都市に共通しているのは、おそらくスーサから配布された、あるいはスーサから来た書記によって書かれた原エラム文書や、非メソポタミア的な印章やその捺痕などであり、イラン高原の先史諸文化の伝統をもつ地方的文化に、それらが付加されているのが特徴である。

出典:後藤氏/p47

このようにエラムが諸都市群をゆるやかにコントロールして各地から集めた商品をメソポタミアに売りつけた。「原エラム文明とは、総体としてこうしたメソポタミアの必要物資供給を行うための陸上ネットワークであり、メソポタミアの農耕文明とは相互補完の関係にある、非農耕文明であった」(p48)。

メソポタミア文明:ウル第三王朝④ シュルギの後の王たち/滅亡まで

ウル第三王朝は約100年続くが、そのうち48年間はシュルギの治世だった。

前回のシュルギの記事でも書いたが、ウル第三王朝の事柄はシュルギの治世中にできてしまったので、彼より後の王たちについては書くことがあまりない。この王朝はシュルギの後に三代続くが、これをまとめて書いてしまおう。

三代目アマルシンと四代目シュシン

アマルシンは「シン神の仔牛」の意味、シュシンは「シン神の人」の意味。シン神はウルの都市神のナンナのこと(それぞれ「アマル・シン<wikipedia」「シュ・シン<wikipedia」参照)。治世期間はどちらも9年。

シュシン王誕生の異なる2つの説

シュルギは48年という長い治世ののちに死ぬ。息子のひとりアマル・スエン(あるいはアマル・シン)が王位を継ぐが(前2046-38)、彼と兄弟(親子という説もある)シュ・シンとの争いがしだいに深刻になった。おそくともアマル・スエンの治世第6年までには、シュ・シンはみずからを王と呼ばせていたらしい。王朝表〔シュメール王名表のこと-引用者注〕はアマル・スエンの治世を9年と数えているが、じっさいには、8年にはすでに死亡していた。首都では政変があり、しかもそれがシュメール各地をまきこんだことは確実で、アマル・スエンの死亡前後に、ウンマ、ギルス、プズリシュ・ダガンでおおくの高級官僚たちが交替させられている。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年(上記は前川和也氏の筆)/p195

上の引用の後もクーデター説の傍証となる事項を挙げている。

もう一つの説。

アビシムティは、夫のアマルシン治世と同様に、息子シュシンが党位したからも、実弟ババティの協力を得て宮廷内に隠然たる勢力を持った。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p157

前田氏はクーデターに関してはそれを示す明白な史料は今のところ無いとしている(p167)。

「アマル・シン<wikipedia」は前者のクーデター説で書かれており、アマル・シンの王妃アビシムティはシュシンに寝返ったとしている。

どちらが正しいかは分からないが、シュシンの治世になってもアビシムティが相当の権力を持っていたことは確実だ。

アビシムティの国家祭儀の創設

祭儀に関して、アビシムティは、イナンナ女神を重視して、新規に、イナンナ神のためのウナアの祭、イナンナの巡幸、それに聖婚儀礼を行うようになった。

新設された祭の一つ、ウナア「(月が)臥(ふ)す日」とは、新月前の朔(さく)、月がまったく見えないときのことである(前田1992b、前田2010a)。当時の暦は、月が見え始める新月を第1日とするので、ウナアとは前月の最後の日になる。ウナアの祭は、アマルシン4年から確認され、アマルシン治世と次のシュシン治世ではアビシムティが主宰し、イッビシン治世ではイッビシンの王妃ゲメエンリルが主宰した。[中略]

ウナアの祭が注目されるのは、月齢の祭であるにもかかわらず、月の神ナンナでなく、イナンナ神のためであり、それもシュメール古来の戦闘の神イナンナでなく、豊饒の神としてのイナンナのためであるという点にある。イナンナ神に捧げられたウナアの祭とは、新月前の朔のとき、宇宙の循環が正常に繰り返されることを保証する豊饒儀礼である。イナンナ神は、当然豊穣神であることが期待された。

アビシムティは、息子シュシンが王位に就いた頃から、イナンナ神を都市神とするシュメール都市ウルク、バドティビラ、それに、ウンマの一市区になっているザバラムを巡幸し、イナンナのための奉納儀礼を行うようになった。イナンナ神を祭る聖地の巡礼、それが第二の革新である。アビシムティが諸都市においてイナンナ神を祭ったのは、それぞれの都市における都市神としてのイナンナ神でなく、国家祭儀の一つとして、ウル第三王朝の領域全体の豊饒と安寧を祈願するためである。

第三の革新として、アビシムティの手動のもとにシュシン治世に始まったのが、豊穣神イナンナの聖婚儀礼である。聖婚儀式とは、新年になったときに行われる祭りである。ドゥムジの役を果たす王とイナンナ神との婚礼儀式の形式を採り、豊饒・多産を祈り、豊かな国土と平安な日々を保証するものである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p157-158

  • 新月前の朔(さく)」について。ここでは「みそか」を意味する。「新月」「朔」ともに複数の意味がある。辞書で引用文に関連のあるものを挙げると、①「新月=朔=見えない月」。②「朔=太陰暦で、月の第1日。ついたち」。辞書では新月は「見えない月」と書いてあるが、「(見えない月から再び)見え始めた月」として使用している場合もあるようだ。引用文もその一つ。「新月=第1日。ついたち」という使い方も辞書にはないが使用例はあるようだ。

聖婚儀礼はおそらくウルク期末期から行われている。このことは記事「ウルクの大杯に学ぶ④(聖婚儀礼・王)」第一節「聖婚儀礼」で書いた。シュシン王が行った聖婚儀礼も古来からの伝統に倣ったものと思われる。

ウルク期の聖婚儀礼ウルク市の豊饒を祈願するものだったが、アビシムティとシュシン王が行った聖婚儀礼は国家儀礼だった。

外からの圧力

シュ・シン(前2037-29年)は、たしかにシュメール・アッカド地方の行政の再建につくしている。けれども、ウル王朝の外部から加わる圧力は、彼の時代にきわめて強くなった。[中略]

アムル人はアッカド語とはわずかに異なるセム語を話したが、アッカド人がはやくから南部メソポタミア地方の北部に住みつき、都市的な生活様式を採用したのにたいして、かなりの数のアムル人が、ユーフラテス河上・中流地方で、部族的紐帯を保ちながら牧民として生活していた。ウル第三王朝時代には、シュメール・アッカド地方に入り込んできたのである。

彼らの流入を防ぐために、すでにシュルギ王は治世37年に「国土の防壁」を建設しているが、シュ・シン治世4年になってさらに長大な防壁が作られる。この年は、「ウル王、神たるシュ・シンがムリク・ティドニム(という名)の西方防壁を作った年」とよばれた。ちなみにシュメール語でいう「西」は、アムル人の住む地域と同義であり、またアッカド語ムリク・ティドニムは、アムル人の一部族ディドヌムを撃退することを意味する。防壁建設を命じられた辺境の軍事司令官は、シュ・シンに手紙を書いて、アムル人たちが近くまで住みついていること、長城を建設するための労働者の数がたりないことなどを訴えた。

イラン高原エラムでも、ザブシャリ国が中心となり、おそらくウルミア湖あたりから南部までの広大な地域が、いっせいに反乱した。結局シュ・シンは大反乱を鎮圧しているが、次王イビ・シンのときエラム人はふたたび南部メソポタミアに侵入して、ついにウル王朝を滅亡させる。

出典:世界の歴史1(上記は前川和也氏の筆)/p196-197

西のアムル人、東のエラム人の他に北のフリ人も反乱を起こしたが、東西の脅威のほうが遥かに大きかった。

五代目イビシンと滅亡

「イビ・シン<wikipedia」によれば、その名の意味は「シン神(ナンナ神)に呼ばれたる人」。治世は24年。しかし彼の治世のあいだに王朝の支配領域は断続的に減少して滅亡に向かった。

滅亡については記事「ウル第三王朝① 概要」第六節「ウルの滅亡」で書いてしまった。詳しくはそちらを参照。

イビシンの2年にはすでに、シュメール地方北部にある家畜群の集積管理センタープズリシュダガンが機能しなくなった。治世17年(前2017年)にはシュメール地方中西部のイシン市が自立する(イシン第一王朝成立)。前2004年、王朝の滅亡はエラム人がウル市に侵入し王を連れ去るという惨劇で幕を閉じる。