歴史の世界

メソポタミア文明:ウル第三王朝③ 二代目シュルギ

ウル第三王朝の特徴として挙げられるもののほとんどはシュルギの治世に創設・整備された制度である。諸制度の創設・整備と同時並行して、シュルギは外征を繰り返して最大版図を築きあげた。つまりウル第三王朝の代表的な版図もシュルギの時代のものだ。

諸制度の創設・整備

ウル第三王朝第二代のシュルギ王は有能な王であった。彼の48年にわたる長い治世は「年名」からたどることができ、治世20年頃に諸改革をおこなっている。出土した行政経済文書の多数は治世20年代の後半以降に書かれ、中央、地方を問わず行政組織が整えられた。各都市の文書の形式、用語も統一され、度量衡も統一された。

治世20年の「年名」に「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」があって、この年に常備軍が作られたようだ。20年以降に外征についての「年名」が増え、なかでもフリ人征伐に力を注いでいる。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p201

シュルギの治世に創設・整備された制度を幾つか箇条書きにしてみる。(上の『シュメル』と前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1(p138-139)を参照)

  • 文書による行政。
  • 文書の形式、用語の統一。
  • 度量衡の統一。
  • 貢納制。
  • 統一的会計システム。

ウルナンム法典もシュルギの治世にできたと主張する学者もいるそうだ。ちなみに裁判制度については何時出来上がったのかは分からないが、中央集権的なものではなく、各都市で整備され、専門の裁判官を任命した(前掲書/p180)。

版図と支配体系

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出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p140

上の図は前田氏とシュタインケラー氏の考える2つの案である。シュタインケラー氏の案(steinkeller 1987)は、前田氏によれば通説化しているという(ちなみに「Third Dynasty of Ur<wikipedia英語版」にこの図が載っていた)。

前田氏の案は、まず大きく中心地域と周辺地域に分けて、周辺地域を朝貢国地域と軍政地域に分けている。

いっぽう、シュタインケラー氏の方は、CORE(中心地域)とPERIPHERY(周辺地域)とVASSAL STATES(半独立的な臣従国)の3区分を採用している。

上の本では、シュタインケラー氏の主張と対比させながら前田氏が持論を展開している(p139-152)。

中心地域

まず、中心地域とは、シュメール・アッカド地方のことだ。この地域はアッカド王朝以前の都市国家の体制を維持しながら、彼らに「バル義務」を課した。バル義務とは、主要な都市の支配者に輪番で月ごとにニップルにおいて最高神エンリルをはじめとする神々に奉仕すること(前掲書/p142)。

これに対して、前川和也氏は、「シュメールやアッカド地方の諸都市は、交替でウル王権にたいして穀物などの貢納を負担した」と手短かに書いてある。これはおそらく「Bala taxation<wiki英語版」と対応しており、通説に近いかもしれない。Bala taxationはようするに徴税システムのことだ。ただ、前田氏のバル義務はこれとは別の義務なのかもしれないが、よく分からない。

前田氏の挙げるバル義務を課された主要な都市は、その多くは初期王朝時代から続く都市だが、興味深いのはイシンやスサもこの義務に加わっている。イシン(シュメール地方の北部の都市)とはウル第三王朝末期に独立したイシン第一王朝が興った都市だ。スサは中心地域ですらないが、エラム地方の中心都市ということでバル義務を課された(ただし一度だけ)。

シュルギ治世から最後の王イッビシンまでを通して見ると、バル義務を課された都市は、アッカド地方ではバビロンなど10都市を数えシュメール地方のその数を遥かに凌駕する。シュメール地方よりもアッカド地方の優位性が際立っている。ウル第三王朝時代よりも前からシュメール地方は塩化に悩まされ続けていたが、他地域より際立って肥沃な大地だったシュメール地方はついにその優位性を失ったようだ。

王朝は都市から軍事権を取り上げることには成功した(p150)。そして王朝は各地で神殿を建設したが、祭儀権までは取り上げられなかった。都市国家の伝統を受け継ぐ有力都市は従来の祭りを行うとともに暦についても従来のごとく独自のものを使用した。王朝はこれらに介入を試みたが、従来の形態を壊すことはなかった(p169~)。

王朝と有力都市の関係は連邦制国家に近い。有力都市には支配者(エンシ)がいて内政を支配していた。

ちなみにこの記事の最初の方で「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」という徴兵についての「年名」を引用したが、諸都市に対しての徴兵はできなかった。ウルの王は「王直属の軍事組織を創設し、フリ系などの異民族出身者などを将軍とした」(p160)。

朝貢国地域

前田氏の主張では朝貢国地域は周辺地域にの下に置かれる。

朝貢国地域は西は地中海東岸から東はエラム地方のアンシャン、南はペルシア湾地域のマガンまで広範に亘る。各地より定期的もしくは臨時に朝貢が為されるが、家畜以外にあらゆる物資が中央へ送られた。この貢納をグナ貢納という(p145)。

興味深い貢物の一つとしてシリア地方エブラからはレバノン杉が送られる。レバノン杉は建材や船材として良質で歴史を通じてオリエントで使われていた。

東西の朝貢国地域の差

同じ朝貢国地域であっても、西と東の地域では様相が異なる。朝貢国地域の西半分、マリの上流部とティグリス川を遡り東地中海岸に至る地域では、そこから派遣されてきた使節たちにウルの王は贈り物を与え優遇した。加えて、臨時のグナ貢納あったとしても、マリを含めてシリア地方の都市からの恒常的な貢納持参の記録がない。ウル第三王朝の直接支配を受けないで、むしろ両者は独立王国間の外交的関係で結ばれていた。

出典:初期メソポタミア史の研究/p146

これに対して東のエラム地方は王朝成立時の敵であり、頻繁に遠征を実施された常時要警戒の地域だった。王朝は、年単位の貢納・降嫁そして遠征を駆使してエラム地方の諸勢力の分断・孤立化政策をとった(p147-148)。この頃から既に分断統治(Divide and rule / Divide and conquer)が行われていた(分断統治については「分断統治wikipedia」参照)。

軍政地域

上の地図(上図)にあるように軍政地域はメソポタミア(≒イラク)の北東にある。ここはエラムからのメソポタミア侵入口の一つで、特に防備を厚くしなければならない地域だった。

軍政地域は「周辺地域」の一部ではあるが、朝貢国地域とは軍事面と貢納により違いが生じている。軍事面では中央から将軍(シャギナ)が率いる軍隊が駐留した。民政は在地勢力が行うが将軍が軍民両政を握ることもあった(p149)。この地域の貢納は「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」(軍隊の経費に充てられた?)であり、服従・恭順を示すグナ貢納とは違う、というのが前田氏の主張。この貢納はシュシン治世3年にグナ・マダ貢納と名称変更された。これに対してシュタインケラー氏はグナ貢納とグナ・マダ貢納の区別をせず、両方とも「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」と捉えた。

  *   *   *

以上が中心地域と周辺地域の支配の模様となる。「ウルの王が、支配領域の全域・全十味人に対する収奪、土地台帳を基礎にした地税と、戸籍をもとにして人頭税を課すという一円支配を目指すことはなかった」(p152)。

四方世界の王

「四方世界の王」という王号はアッカド王朝の絶頂期を築いたナラムシンが使用したものだ*2。ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」を名乗ったが、シュルギは治世20年、外征を始める前にこれを名乗った。当時のシュルギは、ナラムシンに憧れて彼と同等の最大版図を築き上げようという大志を表明したのかもしれない。

ナラムシンの後継はこの王号を受け継がなかったが、シュルギの後継は継承した。(p138)

王の神格化

これもナラムシンがやったこと*3。ナラムシンがなった神はアッカド市の守護神(アッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位)だったが、シュルギがなったのも大いなる神々の下位における支配領域の安寧を保証する守護神という地位だった。王の神格化も継承された(p154-155)。



メソポタミア文明:ウル第三王朝② 初代ウルナンム

即位まで

アッカド王朝末期については 記事「アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期」で書いた。

  • 王朝が滅亡する過程の中でラガシュ、ウルクグティの勢力が台頭した。ウルナンムはウルク王ウトゥヘガル配下の将軍だった。

  • 将軍ウルナンムはウトゥヘガル王にウルに派遣されたが、そこで独立して「ウルの王」となった。これが いちおうウル第三王朝誕生の瞬間。

  • その後、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った。

支配状況

私が入手した参考文献の中で、ウルナンムがどのようにシュメール・アッカド地方を攻略したか について書かれているものはほとんど無い。

小林登志子著『シュメル』*1(p252)によれば、「ウルナンムはグティ人の侵入で混乱したシュメル・アッカドの地を再統一すると・・・」とさらっと書くのみである。

「ウル・ナンム<wikipedia」には「彼は独立状態にあった他のシュメール都市国家を次々と打ち破り統合していったが、その具体的な過程は殆ど知られていない」とある。

入手できたものので唯一詳細にかかれている図書は前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*2だけだ。以下はこの本に頼って書く。

シュメール地方

『初期メソポタミア史の研究』(p126-128)によれば、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った後、ウルナンムは勢力拡大のための活動を開始した。諸都市に各都市の都市神の神殿を建設し、ニップルに城壁を築き運河を開削した。こうしてウルナンムは都市国家の上級支配権を獲得した。上級支配権という言葉がよく分からないが、おそらく江戸幕府における外様大名に対する中央政府の命令権(支配権)のようなものだと思われる。

上記の本では「ラガシュを例外として、ほぼシュメール地方を掌中した」(p128)とあるが、ウルナンムはラガシュの権益であるペルシア湾の交易とグエディンナの一部を奪取し、且つ、ラガシュ王ナムハニ(ナンマハニ。ラガシュの王名表では第2王朝の最後の王)を破ったので、ウルナンムの治世中にラガシュを陥落出来なかった(または安定した支配が出来なかった)としても、それは時間の問題だったと思われる。

ちなみに「Lagash<wikipedia英語版」によれば、ウル第三王朝以降、古バビロニア時代に言及される文書が少し遺っている以外に見当たらなくなる。ラガシュが初期王朝時代およびアッカド王朝末期に持っていた重要な地位はその後 回復することはなかった。

アッカド地方

ウルナンムがシュメール地方を掌握しようとしていた頃、アッカド地方はエラムの王プズルインシュシナクが支配していた(前掲書/p128/p216-218)。

アッカド地方をエラムが支配したことについては、『ウルナンム法典』に「そのとき、ウンマ(=アクシャク)、マラダ、ギリカル、カザルとその村落、そしてウザルムがアンシャンの故に奴隷状態にあったが、私(ウルナンム)の主ナンナ神の力によって、その自由を回復した」(RIME 3/2、48)とあり、プズルインシュシナクは、スサを本拠に、アンシャンまでのイラン高原全域を支配下においていた。

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出典:初期メソポタミア史の研究/p218(地図はp217)

ウルナンムはエラム勢力をアッカド地方から奪取した。

開放されたカザル、アパアク、マラダは、ウル第三王朝時代を通じて、ほかの都市とは異なる支配形態を取るようになる。ウル支配下の有力都市は、通常、在地勢力の有力者がなるエンシの支配であるが、カザルなどは、将軍がエンシを兼ね、軍民両政を担った。ウルナンム以後も、ウルの王はこの地域が軍事な要地であるという認識を持っていたのである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p129

上のような地域が「軍政地域」となることは記事「ウル第三王朝① 概要」第2節「文書行政システムと二元支配体制」で触れた(地図も参照)。この軍政地域はエラムまたは東方の勢力がディアラ川流域から中心地域(アッカド・シュメール地方)への侵入を防ぐために必要だと考えたからだろう。

『初期メソポタミア史の研究』では小林氏の『シュメル』に書いてある「グティ人の侵入」に触れないのは、著者前田氏がグティ人がシュメール・アッカド地方を支配したという(以前の?)通説を否定しているからだろう。

ウルナンム法典と社会正義

ウルナンム法典は現存するもので最古の法典と言われている。これとともに重要なのは、社会正義が王の責務に加わったことだ。

『シュメル』(p160-162)では法典の幾つかの条文を載せているが、どのような内容かは「ウルナンム法典<wikipedia」に書いてある。

ここでは見出しのとおり、ウルナンム法典と社会正義を合わせて書いてみよう。

 アッカド時代までの王の責務

「正義」は、シュメール語で「ニグシサ」、アッカド語で「ミーシャルム」と言いますが、どちらも文献上に最初に現れるのは、アッカド時代の終わりころです。そして、次のウル第三王朝時代になると、前田徹氏が指摘するように、「正義」を維持することが王の重要な責務の一つになります。

シュメール都市国家時代以来、都市国家の防衛、および豊饒と平安の確立の確保が、王にとっての2つの重要な責務であると考えられてきました。

都市国家の防衛とは、都市に周壁を築いて外からの攻撃に備え、万一攻められたときには、軍隊を率いて外敵と戦うことです。豊饒と平安とは豊かな収穫と不安のない生活の確保のことで、それらを保障してくれる神々の神殿の建設や修復、また農耕に欠かせない運河の開削や浚渫を意味しました。

 ウル第三王朝以降の王の責務

ウル第三王朝時代になると、バビロニア全土とその周辺地域を支配する統一国家が完成します。

この時期に、国家の防衛と豊饒・平安の確保に加えて、新に「正義」の維持が王の責務に加わりました。[中略]

ここでいう「正義」とは社会正義のことです。孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときには、その正義を回復することが、王の責務となったのです。

 ウルナンム法典

正義の維持者としての王の責務が具体的な形をとったのが、王による「法典」の作成です。最も有名なのはハンムラビ法典ですが、メソポタミア最古の法典は、ウル第三王朝初代の王ウルナンム(在位前2112-2095年)が作らせたウルナンム法典です。ウルナンム法典はシュメール語で書かれています。現在残っているのは、粘土板に書き写された断片的な写本数点のみですが、その前書きの最後に、「わたしは、憎しみ、暴虐、そして正義を求める叫び声(の原因)を取り除いた。わたしは、国土に正義を確立した」と述べており、ウルナンムが正義の維持に強い関心を持っていたことをよく示しています。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p106-108

前書き(前文)にはウルナンムが最高神エンリルより王権を賦与されたことが書かれ(初期メソポタミア史の研究/p137)、そして前文の最後にあるように王としての役割である社会正義の実現を高らかに宣誓している。

正義(ニグシサ)が用語として確定する以前の初期王朝時代では、社会の不公正や社会階層の分解による不安定さを是正するために、「寡婦、孤児を力有る者のもとに置かない」と宣言する弱者救済や、債務奴隷から自由民に戻す「自由を与える」ことを、都市支配者は宣言した。社会正義とは、個々の施策である債務奴隷からの解放や弱者救済を包含し総称する概念と捉えることができる。ただし、社会の公正さと平安を意図することは同じであっても、「自由を与える」ことと、法典における「社会正義」の擁護とは相違するところがある。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

まず「自由を与える」という言葉は、初期王朝時代ⅢB期のラガシュ王エンメテナとウルイニムギナ(ウルカギナ)が使用している*3。彼らは債務奴隷などを解放して「自由を与えた」。

『シュメル』(p152)によれば、「自由」のシュメール語は「アマギ」と言い、《アマギは字義通りには「母」アマに子を「戻す」ギであることから、本来あるべき姿に戻すことを意味するので、「自由」と翻訳されている》。

ただし、債務奴隷などの解放を何度も行ったら逆に社会が乱れるだろう。債務奴隷は非合法に奴隷に落とされたわけではないのだから。王は即位や神殿の落成などの慶事の機会を用いて「勅令」と言う形で奴隷解放を命じた。いわば恩赦だ。

それに対して、法典に示された条文は、「正義の定め」としての普遍的な規則、神が定めた守るべき秩序や準則を例示するものであって、ときに言われるような立法権を行使して王が定めた方ではない。ウルナンム以下の3法典は、あくまでもその条文に示された社会正義を実行するように人びとを導くことにあった。王は決して立法者ではない。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

ウルナンム法典は「正義の定め」を知らしめるために作られたが、その条文の罰則はかなり具体的なものだ(シュメル/p160-162)。これらが実際の裁判で適応された証拠は無く、裁判と法典は無関係だと見ることが多いということだが、著者の前田氏は「筆者もそのように捉えてきたが、ウル第三王朝時代に、「法典」の編纂と裁判制度の整備が同時並行的に行われているので、無関係と切り捨てることはできないと考えるようになった」と言って、「法典」が裁判において定期王された例を示している(p135)。



*1:中公新書/2005

*2:早稲田大学出版部/2017

*3:初期メソポタミア史の研究/p131

メソポタミア文明:ウル第三王朝① 概要

これから幾つかの記事に亘ってウル第三王朝について書くが、最初に概要を書いておこう。

年表

前2112年 ウルナンムがウルで独立し、ウル第三王朝成立。
前2094年 二代目シュルギ即位。
前2074年 王朝の最盛期。
前2028年 五代目そして最後の王イビ・シン即位。即位して間もなく目に見える形で王朝の崩壊が始まる。
前2017年 イシュビ・エラがイシンで独立(イシン第一王朝)。
前2004年 エラム人が最後のイビ・シンをアンシャンに連行。王朝滅亡。*1

文書行政システムと二元支配体制

おそらく前21世紀の末、ウルにおいてウル・ナンムが即位して、ウル第三王朝がはじまった。王は5人、彼らの治世期間はあわせて100年程度にすぎないが、この時期は前3000年にわたるメソポタミアの歴史のなかでもきわだっている。この時期に公的機関の文書行政システムが極端なまでに整えられ、驚くほど精密な記録が大量に作成されたからである。[中略]

ウル第三王朝時代の繁栄は、二代王シュルギ治世の後半で頂点に達した。彼は外征をくりかえし、メソポタミア周辺の諸国家にウル王朝への臣従、朝貢を誓わせ、いっぽうメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の都市には知事を派遣して直接支配を行った。中心地域の都市には、シュメールの最高神エンリルの神殿での輪番奉仕を義務づけ、いっぽう中心地域の北方、ディヤラ川から上・下ザブ川地域にかけては軍団による軍事支配を実現した。

ウル第三王朝の支配は中核と周辺という二分法にもとづいていた。王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域に運びこませたのである。

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前田徹「メソポタミアの王・神・世界観」(2003年)より転載。前田は、ウル王朝が、ディヤラ流域地方を軍事力によって統治したことを強調している。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p42-43

  • ディヤラ川流域は東方からアッカド地方への侵入点の一つ。

ウル第三王朝は東地中海沿岸からイラン高原にいたる広い地域を支配下に組み込んだが、その支配は均一ではなかった。

中核となるのはシュメル・アッカドの地であった。だがウル市の王朝にしたがうとはいえ、各都市の独立志向は根強かった。最高神エンリルを祀ることでなんとか統一を維持していたが、すでに第2章で紹介したようにニップル市など諸都市はウル市とはちがう月名を使用していた。

シュメル・アッカドの外側には貢物を持って来る服属国があり、西方ではマリやエブラ、東方ではマルハシやアンシャンなどが朝貢にやって来ていた。

さらにその外側の、グティ人の侵入経路であったティグリス河東岸地域、ディヤラ河および大小ザブ河流域は軍事的に重要視された地域であった。

ウル第三王朝は約100年と短期間であったが、第二代シュルギ王治世後半以降に膨大な数の行政経済文書が記録された。各地から出土していて、丸剤約四万枚が公刊されているが、まだ多数の文書が未解読のままである。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p252-253

ウルのジッグラト

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

出典:ジッグラト<wikipedia*2

  • 「ジッグラト」については 記事「テル(遺丘)とジッグラト」の第二節「ジッグラト」に書いた。

ウル遺跡に残るジグラトは、すでに初期王朝時代に建立されていたが、ウル第三王朝初代ウルナンム王が修復、拡大した。このジグラトはエテメンニグル(「畏怖をもたらす基礎の家」の意味)と名づけられていた。

出典:シュメル/p253-254

ウルナンムによる修復/拡大は二代目シュルギ治世に完了する。

このジッグラトはイラン・フーゼスターン州にあるチョガ・ザンビールのジッグラトに次いで最も保存状態が良いもの。

ジッグラトの中でおそらく最も参照され、最も著名なものである(チョガ・ザンビールのほうはシュメール人ではなく、エラム人により建築されたから参照されないのかもしれない)。

以下は「Ziggurat of Ur<wikipedia英語版」と「エ・テメン・ニグル<wikipedia(日本語版)」に依る*3

  • ウルのジッグラトは元々ウルの都市神ナンナ(月神男神最高神エンリルの長子*4によると、三層より成るジッグラトだったが、最下層はウル第三王朝時代で、2-3層は紀元前6世紀(ナボニドゥス王治世)の建築だった。

  • サダム・フセイン治世に、最下層のファサード、階段が改築

上述のチョガ・ザンビールは1979年に、ユネスコ世界遺産に登録されたが、ウルのジッグラトはされていない。上記のように後から手が加えられたからかもしれない。

ウル・ナンム法典

ウル・ナンム法典(ウル・ナンムほうてん)は、メソポタミア文明のウル第三王朝・初代王ウル・ナンムによって発布された法典。 紀元前1750年頃のものとされるハンムラビ法典よりおよそ350年程度古く、影響を与えたと考えられる、(現存する)世界最古の法典とされる。[中略]

後世のハンムラビ法典の特徴が「目には目を、歯に歯を」の一節で知られる同害復讐法であるのとは異なり、ウル・ナンム法典では損害賠償に重点が置かれている。殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されており、特に、殺人・強盗・強姦・姦通は極刑に値する罪と見なされた。

シュメルには鋳造貨幣(コイン)はなかったため、損害賠償は銀の秤量貨幣によって行われた。[後略]

出典:ウル・ナンム法典<wikipedia*5

ウル第三王朝版「万里の長城

ウル第三王朝の滅亡は早かった。ジグラトどころではなくなり、代わって城壁を造らざるをえなくなった。シュメル版「万里の長城」の建造である。[中略]

マルトゥ、つまりアモリ人の侵入が勢いを増し、現代のバグダード北方80キロメートルの所にユーフラテス河からティグリス河へと、防御のための城壁を築いて侵入を阻止しなければならなくなった。これがシュメル版「万里の長城」である。

城壁建設は第ニ代シュルギ王(前2094-2047年頃)の治世に始まっていて、前で話したように治世37年の「年名」は「国の城壁が建てられた年」であった。[中略]

また、第四代シュ・シン王(前2037-2029年頃)の治世4年の「年名」も城壁建造であったことはすでに第6章で紹介した。

出典:シュメル/p263-265

王朝最後の王、第五代イッビ・シン王に至っては治世6年の年名は「ニップルとウルの大いなる城壁を造った年」*6。もはやメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の統治も出来ない状況が示されている。

ウルの滅亡

周辺地域およびアッカド地方の統治機能の崩壊

ニップル市(アッカド・シュメール両地域の境界あたりの都市)の近くに、第ニ代プズリシュ・ダガン王はプズリシュ・ダガンという街を建設した。ここは周辺地域からの家畜群の集積管理センターだった。この重要な場所がイッビ・シン王治世2年末に早くも機能しなくなった。ウンマ市の最後の行政・経済文書は治世5年、ギルス(ラガシュ)市は6年で途絶える。(世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p197-198(前川和也氏の執筆部分) )

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Map of the main cities of Lower Mesopotamia during the Akkad and Ur III periods (c. 2300-2000 BC), with the approximate course of the rivers and the ancient shoreline of the Gulf.

出典:Bala taxation<wikipedia英語版*7

シュメール地方の統治機能崩壊

ウル第三王朝時代にはシュメル地方では土壌の塩化が進み、大麦の収量倍率が激減していた。初期王朝時代末期(前24世紀中頃)にはラガシュ市において76.1倍であったものが、前21世紀のウル第三王朝の属州ギルス(以前のラガシュ市)では30倍に減少していた。この数字はシュメル地方のほかの地域でもそうちがわなかったと考えられる。

第五代イッビ・シン王(前2028-2004年頃)の治世になると、東方からはエラム人、西方からはマルトゥ人(アモリ人)と外敵の脅威が増し、しかも同王の治世6年にウル市で発生した飢饉は数年続いて、穀物価格が60倍にも高騰した。

出典:シュメル/p265-266

  • アモリ人とはアムル人のこと。

イシン市の独立

イシン市はニップルの西南にある都市。

上述の危機的な食糧不足の状況で、イッビ・シン王は、マリ市出身のアムル人イシュビ・エラ将軍をイシン市へ派遣した。しかし、この将軍は滅びゆく王朝を見限りイシン市で独立した(前2017年)。イシン第1王朝の誕生である。ウル第三王朝滅亡の前にイシン・ラルサ時代が始まっていた。(イビ・シン<wikipedia

エラムの侵攻(王朝滅亡)

ウル第三王朝を滅ぼしたのはエラムだった。エラム人はウル市に侵入してイッビ・シン王を捕らえてアンシャンへ連れ去った(前2004年)。イッビ・シン王がその後どうなったのかは誰も知らない。

シュメール文明の終わりと継承

シュメル人の統一王朝にして最後のウル第三王朝(前2112-2004年頃)は前2004年頃にエラムの侵入によって滅亡したが、シュメル人はその後も行き続けていた。だが、シュメル人は古くから共生していたアッカド人に加えて、アモリ人(マルトゥ人)が侵入したことによってセム語族の圧倒的文化のなかに埋没せざるをえなかった。

出典:シュメル/p274

ウル第三王朝の後継を自認したイシンのイシュビ・エラ王はシュメール語による王碑文を遺したが、日常の言語はシュメール語からアッカド語に変わった。

ただし、シュメールの文化がここで途絶えたわけではない。特にシュメール人が作り上げた神々と神話はメソポタミア神話に受け継がれ、メソポタミアを越えて古代オリエントと地中海(ギリシア、ローマ)へと伝わった。

シュメール文明について『シュメル』のはしがきでは「シュメル社会は現代社会の原点である。当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」とあり、あとがきでは「起きるべきほどのことはすでにシュメル社会では起きていた」と書いてある。

名称

この王朝の名称は「ウル第三王朝」だが、古代メソポタミアまたは西アジアの年表には「第一」や「第ニ」は出てこない。

「ウル第三王朝」の名称は、シュメール王名表に依る。シュメール王名表については記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第3節「シュメールの「王名表」から」と記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」で書いた。

シュメール王名表は史実とフィクションが入り混じっていて正確ではない。「ウル第一王朝」には実在する王が書かれているが、そうだとしても「一都市国家の王」でしかない。「ウル第ニ王朝」に載っている王の名は遺物などで確認できないし、年代的はウルクの王に支配されている時期だ(初期メソポタミア史の研究/p125)。このようにこの名称は史実に基づかないが、慣例によりこの名称は使い続けられている。



ウル第三王朝はシュメール文明の最後の王朝にしてシュメール文明の集大成というべき王朝だと思うが、世界史関連の本やサイトでは注目されていない。

次回から、個々の事象について書いていく。

*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表)

*2:作者:wikiwikiyarou(パブリック・ドメイン)、ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88#/media/File:Ziggurat_of_ur.jpg

*3:日本語版は英語版をまとめたもの

*4:前田徹著『初期メソポタミア史の研究』(早稲田大学出版部/2017/p126)によれば、ナンナ神の系譜を最高神エンリルの長子にしたのは創始者ウルナンムである)) )のためのもの。

  • 紀元前6世紀、新バビロニア帝国最後の王ナボニドゥスにより改修された。

  • 1939年のレオナード・ウーリーの発掘レポート((Woolley, C. Leonard (1939). The Ziggurat and its Surroundings. Ur Excavations. 5.

    *5:この記事は『シュメル』(p158-162)に依っている

    *6:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p189

    *7:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png#/media/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png

  • メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期

    この記事では、王朝の滅亡までと、ウル第三王朝までの都市国家分立期を書く。都市国家分立期は一般的には、便宜的にアッカド王朝時代の中に含まれる。

    王朝滅亡まで

    シュメール王名表によれば、シャルカリシャリの後に「誰が王で誰が王でなかったか」と書かれて、次に「たった3年のうちに4人の王が立った」とある(Sumerian King List<wikipedia)。

    この次にドゥドゥという者が王に立ったが、この王がサルゴンの血統を継ぐものかどうかは分からない。ドゥドゥの碑文や印章がシュメールとアッカド両地方から出土しているから両地方の支配はまだ続いていたと思われる。次にドゥドゥの子のシュトゥルルが王を継ぐが彼の支配を示す出土品はシュメールからは見つかっていない。そしてシュトゥルルがアッカド王朝最後の王とされる。滅亡の詳細は分かっていない。(前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p113-115)

    王朝の年代

    アッカド王朝の年表は複数提案されているが、ここでは現在よく使われている中年代説(Brinkman 1977)*1と前田氏の私案を載せよう。

    f:id:rekisi2100:20170713124740p:plain

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p116
    および Akkadian empire<wikipedia英語版

    上によるとアッカド王朝は両方とも180年間つづいたことになる。

    都市国家分立期

    アッカド王朝滅亡からウル第三王朝までの間は中年代説が42年間、前田氏私案が16年間になる。

    ただし滅亡前においてアッカド王朝の支配力が落ちていくと、シュメール地方の各都市は自立か他の勢力への従属を迫られた。

    このような状況で大勢力を張ったのは、ウルク、ラガシュ、グティだった。

    ウルク

    ウルクは、シャルカリシャリ治世に反乱を企てて、鎮圧されたのち、『シュメールの王名表』ではウルク第四王朝とされるウルニギンとその子ウルギギルなど5代の王が自立して統治する時代になる。ウルクはシュメール都市のなかで最も早くに独立した一つであり、周辺に勢力を伸ばした。

    ウルニギンとウルギギルは、同時代史料から確認される。[中略]

    『シュメールの王名表』はウルギギルのあとになお3人の王の名を記すが、彼らについては同時代史料から確認できない。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p119

    • 上の本(p117)によると、 ウルニギンはアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

    このあと、王名表にはウルク第五王朝にウトゥヘガルが唯一の王として載っている。第四王朝との系譜関係は不明。ウトゥヘガルも実在が確認されている。彼は のちにウル第三王朝を建てるウルナンムをウルに将軍として派遣した王である。

    ラガシュ

    ラガシュは、ウルクと同時期にアッカド王朝から離反する動きを見せた。プズルママは王号をエンシ(都市支配者)からルガル(王)に変更し、アッカドの支配からの離脱を目指した。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p120

    • プズルママは、上の本(p117)によると、 ウルニギンとアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

    ラガシュは初期王朝時代より主要な都市国家だったが、なぜかシュメール王名表に全く名が無い。後世にラガシュの王名表を作ったものがいたが、初期王朝時代の王朝を第1王朝、アッカド王朝末期からウル第三王朝までを第2王朝と呼ぶことがある*2。しかし第2王朝は複数の見解がある*3

    『初期メソポタミア史の研究』ではp121に王統が載っている。ただしこの本では、第2王朝と呼ぶ代わりに「グデアの時代」という用語を利用している(後述)。

    この王朝の中で、最盛期はウルバウとグデアだ。

    ウルバウはウルのナンナ神の祭主に自らの娘を送った。この祭主は代々アッカド王朝の娘が送り込まれていたのだが、それが出来ないほど王朝の力が衰えていたのだろう。いっぽう、ウルバウはこれを行ったことでシュメールの王になることを考えていたように思える。グデアはペルシア湾航路を掌握した後、東方アンシャンにまで遠征し、戦利品を都市神ニンギルスに奉納した。(初期メソポタミア史の研究/p122)

    しかし、ウルバウもグデアもルガルを名乗らずエンシを名乗った*4。彼らの碑文の中で最も多く語られたのは戦勝の記念碑ではなく、神殿建設者としての王である*5。上述のルガルを名乗ったプズルママさえもラガシュの伝統的な(復古的な)碑文を残している。

    このようにラガシュの王はシュメールを統一する王(ルガル)を目指すよりも、神に仕える民の代表者(支配者=エンシ)としての役割を全うすることを考えていた、とするほうがいいかもしれない。このようなラガシュの王の伝統的な態度が「シュメール王名表」にラガシュの王が載らない原因なのかもしれない。

    グデアの祈願像と円筒印章と円筒碑文

    グデア王の名は有名らしく、私が利用した参考図書にほとんど名前が載っていた。ラガシュ市はメソポタミア史研究の中でも最も古くより研究され史料も多いが、グデア王に関する遺物は特に多く遺っている。

    中でもグデア王の像は多く出土され、ルーブル美術館にはこれらが集められた部屋があるという。衣服には端正なシュメル語が刻まれている。内容は像の素材の輸入先とかグデアが像に命令を与えて神殿に奉献したなどと書かれている*6

    f:id:rekisi2100:20170714075041j:plain

    出典:Gudea<wikipedia英語版*7

    印章で有名なものが以下の円筒印章がある。印章そのものはなく印影だけが遺っている(これもルーブル美術館所蔵)。

    f:id:rekisi2100:20170714081017j:plain

    出典:Gudea: A good Sumerian king<Sumerian Shakespeare

    • 左上の楔形文字は「グデア、ラガシュのエンシ」と書かれている。

    これについて小林登志子著『シュメル』に解説が載っている(p107)。

    一人剃髪の人物がグデア王である。グデア王の腕を握っているのがニンギシュジダ、グデア王の個人神(特定の個人を守護する神)。グデア王の左は「誰でも守護してくれる、慈悲深いラマ神」。左端の獣はニンギシュジダの随獣(ムシュフシュ<wikipedia参照)。右端は学者によって意見が分かれるところだが、小林氏はラガシュ市の都市神であるニンギルス神としている(他にエンキ神説やエンリル神説がある)。

    この図像はグデア王が個人神を通してニンギルス神に謁見する場面で「紹介の場面」と呼ばれる。円筒印章は はんことして使用されるが、「紹介の場面」の円筒印章は護符としての機能も持つ。

    もう一つ、グデアの円筒碑文というものが有名だ。

    f:id:rekisi2100:20170714102948j:plain

    出典:Gudea cylinders<wikipedia英語版*8

    この円筒碑文には、「なぜグデアが神殿建立を決意するにいたったか、そして建設の過程、建立された神殿への神の招請、祝祭が流麗に語られ、のちのシュメール文学の文体におおきな影響を与え続けた」(図説メソポタミア文明/p41-42)。

    グティ

    グティについては、『初期メソポタミア史の研究』の「第8章 グティ」に詳細に語られている。

    この本ではグティは小規模の君主(豪族)の連合体だと書かれている(p319)。個人的には、匈奴に代表される中央ユーラシアの遊牧民と同種と考えていいと思う。

    アッカド王朝の五代目シャルカリシャリ治世にはグティはシュメール地方の家畜を略奪する程度の勢力だったが、その後 王を戴く大勢力になり、シュメール地方の都市を支配するようになった。シュメール王名表に名前が載っている第18代ヤルラガンと第19代シウがウンマを支配した。ウンマには支配者がいたがグティの王たちはその上の権力者だった(p306-308)。グティは税の一部を上納させていた(言い換えれば みかじめ料をぶんどった)と思われる。これが武力をもつ遊牧民の最も楽な統治形態である。

    f:id:rekisi2100:20170714163938j:plain
    An inscription dated c. 2130 BCE. “Lugalanatum prince of Umma … built the E.GIDRU [Sceptre] Temple at Umma, buried his foundation deposit [and] regulated the orders. At that time, Siium was king of Gutum [or Qutum].” (Collection of the Louvre Museum.)

    出典:Gutian people<wikipedia英語版*9

    また、ウンマの他にアダブも支配した。というかこちらが本拠地だったようだ。ウル第三王朝版『シュメールの王名表』(Steinkeller 2003)によれば、最後のグティ王ティリガンはアダブで滅ぼされた、とある。(p315-317)

    まとめ

    以上により、アッカド王朝末期からウル第三王朝までの期間はウルク、ラガシュ、グティウンマ、アダブ)が分立していた様子が分かる。他の大都市であるキシュとシュルッパクについては詳細は分からない。『初期メソポタミア史の研究/p124-125)

    *1:私が参考図書としてよく利用している前川和也氏編著『図説メソポタミア文明』と小林登志子著『シュメル』もこの編年を採用している。

    *2:Lagash<wikipedia英語版

    *3:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p41

    *4:初期メソポタミア史の研究/p122

    *5:図説メソポタミア文明/p41

    *6:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p225

    *7:著作者:Marie-Lan Nguyen、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg#/media/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg

    *8:著作者:Ramessos、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:GudeaZylinder.jpg#/media/File:GudeaZylinder.jpg

    *9:著作者:Rama、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg#/media/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg

    メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑤ 五代目シャルカリシャリ

    [四代目]ナラムシンの治世にアッカド王朝は最大版図になったが、ローマ帝国に例を採るまでもなく絶頂期が没落の始めであり、支配領域の縮小と滅亡に至る権力の弱体化が顕著になる時代である。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p112

    神にならなかった王

    先代ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用し、自らを神格化したが、シャルカリシャリはその王号も神格化も拒否するように、先々代までの伝統的王権観に回帰した。

    彼は、王権の伝統性を最高神エンリルに選ばれることに求め、自らを「エンリル神が愛する子、強き者、アッカドとエンリル神の統治下にある人々の王」(RIME 2,188)と名乗った。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p112

    シャルカリシャリのあとアッカド王朝が没落することを考えれば、アッカド王朝はシュメールの伝統的王権観を受容した王朝であり、ナラムシンだけがその例外だった、と言えるようだ。*1

    対外戦争

    先代までは「外征」を行ったが、シャルカリシャリは「防戦」を行った。

    アッカド王朝の領地を脅かしたのはグティ、マルトゥ(アムル)、エラムだった。

    マルトゥ(アムル)はシリア方面の遊牧民だった*2。彼らは後世メソポタミアに浸透して政権に関わるようになるのだが、シャルカリシャリ治世においてはそれほどの脅威ではなかった。マルトゥとの戦場もシリア領域だった。

    エラムとの戦場はアクシャクだった。アクシャクはティグリス川の上流部にあり、アッカド地方の入り口に当たる。ここを突破されたら王朝は滅亡の危機に晒されることになる。『初期メソポタミア史の研究』(p113)によると、エラムの侵攻はアッカド地方に甚大な影響を与えて王朝が滅亡する主要因になったと思われる、と書いてあるがその証拠は示されていない。

    グティはシャルカリシャリ治世に初めて史料に登場したのだが、ザグロス山脈方面からメソポタミアに侵入したという以外、殆ど何も知られていない*3

    グティのシュメールへの侵入の証拠はある。シャルカリシャリからラガシュ市にいるアッカドの高官に宛てた手紙だが、グティが家畜を略奪した場合の対処について書かれている。これより治世中にグティがシュメール地方を跋扈していることがわかる。また、この手紙より少なくともこの頃はラガシュ市はアッカド王朝の支配下にあったことが確認される。『初期メソポタミア史の研究』(p304)

    内乱

    二代目と四代目の治世にも内乱の記録が残されているが、シャルカリシャリ治世も内乱があったようだ。ただウルクとナグスが反乱を企て、鎮圧されたことしか分からない(『初期メソポタミア史の研究』(p113、p119)。

    支配のほころびをもうひとつ。

    ラガシュ出土の行政経済文書が支配者の言語アッカド語ではなく、再びシュメール語で書かれ始めた[以下略]。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p113


    まとめ

    五代目シャルカリシャリの時代は絶頂期のナラムシン治世とは真逆の防戦に明け暮れる日々だったようだ。しかし情勢悪化の中でシャルカリシャリは辛くも支配を維持した。混乱期に入るのはシャルカリシャリの後の時代か治世末期からになるだろう。



    前田徹氏はナラムシン治世より統一国家形成期に入ると主張するが、シャルカリシャリが「四方世界の王」の王号も王の神格化も受け継がずに、先々代の伝統に戻したことを考えれば、この主張には納得できない。

    *1:前田氏はナラムシンより後を統一国家形成期としているがこの王の王権観は受け継がれていない以上かれの治世を画期とは考えられない。

    *2:アムル人<wikipedia

    *3:グティ人<wikipedia

    メソポタミア文明:アッカド王朝時代④ 四代目ナラムシン

    遠征

    四代目王ナラムシンは前三代を引き継いで頻繁に外征を行った。そして彼の時代にアッカド王朝の最大版図を築いた。北はスビル(スバルトゥ=アッシリア=北メソポタミア)、西はエブラ・杉森(=シリア)、東はバラフシ(スサよりの東方)、南はマガン(オマーン)までを影響下に置いた。これにより広域の交易ネットワークがナラムシン一人の影響下に置かれた。

    東方は主に前三代が征服し、ナラムシンはユーフラテス川の上流の西方と南方を主に征服した。特にナラムシンは西方の征服を前人未到の快挙として碑文で誇っている。

    ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用した。

    (前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p102-104)

    f:id:rekisi2100:20170710154006j:plain
    ナラムシンがザクロス山脈の勢力Lullubiに勝った時の記念碑。
    ルーブル美術館所蔵

    出典:Victory Stele of Naram-Sin<wikipedia英語版*1

    反乱と統治

    二代目王リムシュの即位直後にシュメール地方で反乱が起こったが、ナラムシンの即位直後にはキシュの王(lugal)を首謀者とする反乱が起こった。シュメール地方の都市国家もこれに呼応したというので、ナラムシンは国の大半を敵に回して戦わねばならなかった。

    ナラムシンはこの反乱を鎮圧したが、統治方法は以前のものを継続したようだ。

    ナラムシンの支配は、サルゴン以来の基本的な形態を変えることなく、領邦都市国家以来の文献的な都市国家的伝統を尊重して、アッカドの権威に従う在地勢力の有力者を支配者に据えて行われた。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p112

    神になった王/神格化

    ナラムシンは上述の反乱鎮圧の後、自らを神格化した。ウルクのイナンナ神を始めとする神々が、ナラムシンが神になることを要請した、と主張した。

    しかしこの神格化は最高神エンリルと同等の地位でもパンテオンの大神と伍するものでもなく、「アッカド市の守護神」であった。これはアッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位にあたるらしい。

    神格化と言っても控えめというか かなり中途半端な感じがするが、自らを神格化した王はメソポタミアではナラムシンが最初である。

    (初期メソポタミア史の研究/p106-107)

    王冠の授与

    都市国家分立期からナラムシン治世より前までは王権の象徴と言えば王杖だったが、ナラムシン以後はこれが王冠になった。これ以降、王冠の授与=戴冠式が行われるようになる。(初期メソポタミア史の研究/p107)

    アッカド地方」の成立

    メソポタミアは北のアッカド地方と南のシュメール地方と区分できるが、アッカド地方と呼び習わされるのはナラムシン以降のことらしい。

    サルゴンアッカド市の王であったにも関わらず、前々回の記事で書いたように、「アッカド市の王」の王号は使用せず、代わりに「全土の王(LUGAL KIS)」の中に「キシュ市の王」の意味を込めていた。サルゴンの時代にはまだ北メソポタミアの中心はキシュであり、彼の後の2代もこれに倣った。

    ナラムシンは「全土の王」は使用せず、「アッカドの王、四方世界の王」と連称することによってアッカドがシュメール文明圏の中心であるという統合理念を示した。これよりアッカド王朝はようやくキシュの伝統的権威から抜け出して、名実ともにアッカドがこの地域の中心となった。「アッカド地方」の成立である。

    ちなみに「シュメールとアッカドの王」という王号が使用されたのはアッカド王朝滅亡後のことである。

    (初期メソポタミア史の研究/p109-110)



    『初期メソポタミア史の研究』で前田氏はナラムシンの治世より「統一国家形成期」が始まるとしているが、いまのところ納得できていない。国内の統治体制は上述のようにサルゴンの統治方法を踏襲しているし、広い地域を影響下に置いたと言っても次代のシャルカリシャリの治世でそれは崩れてしまう。ナラムシンの治世により時代が大きく変わったとは思えない。

    メソポタミア文明:アッカド王朝時代③ 二代目リムシュ/三代目マニシュトゥシュ

    リムシュとマニシュトゥシュの外征

    サルゴンを継いだリムシュも積極的にエラム遠征を行ない、勢力を維持していたバラフシの王を殺し、エラム全土の支配権を掌握した。リムシュはエラム征服の成功を祝って、支配化にある諸都市の都市神に戦利品を奉納した。現在知られるのは、シュメール都市のニップルアッカド地方のシッパル、ディヤラ川流域のトゥトゥブ(ハファジェ)、ハブル川上流域に位置するテル・ブラクである(RIME 2, 62-66)。そのほかに、アッシュルから「リムシュ、全土の王」という銘を刻んだ遺物が見つかっている(RIME 2,71)。リムシュ治世時にアッカド王朝が支配する領域の範囲は、ティグリス川をさかのぼってアッシュルに至り、さらに北上してハブル川の上流域に達する北メソポタミアに広がっていた。

    アッカド王朝第3代の王になったマニシュトゥシュは、安定したエラム支配のもと、イラン高原深く、アンシャン、シェリフムに遠征し、下の海(=ペルシア湾)を渡って都市を破った(RIME 2,75-76)。ただし、それを誇る碑文に、ペルシア湾交易に重要な役割を果たすマガン、ディルムンなどの地名は挙がっていない。

    ティグリス川上流部のアッシュル地方が、アッカドの支配領域になっていたことは、マニシュトゥシュに捧げられたアッシュルの支配者の碑文やニネヴェから出土した古バビロニア時代のアッシリア王シャムシアダド1世の碑文からも知られる。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p90

    シュメール地方の支配状況

    反乱

    リムシュが第2代の王になるとすぐにシュメール諸都市の反乱が起こった。反乱を鎮圧したリムシュの碑文には、反乱軍にはウルの王(lugal)カクと、アダブ、ウンマ、ラガシュ、キアン、ザバラムの支配者(ensi)がいた。リムシュはこれらの王と支配者の都市の全ての城壁を破壊して住民を都市から退去させキャンプに送った。(『初期メソポタミア史の研究』(p92-93) )

    『初期メソポタミア史の研究』(p60)によれば、領邦都市国家期(ウルク王エンシャクシュアンナより前の時代)はlugalとensiは同等の王号だったが、領域国家期(ウルク王エンシャクシュアンナ以降)はlugalは「シュメール全土を支配する王の称号」となり、ensiはこれに従属する都市国家の支配者の号となった。

    リムシュの碑文にはサルゴンのシュメール統一以前にはウルクに従属していたウルがlugalを名乗る一方でルガルザゲシの故郷のウンマがensiだという。

    93ページの説明では納得できなかったので、勝手に解釈すれば、ウルのカクがlugal(シュメール全土を支配する王)となり、他の支配者層がensiとなり、反乱を起こした(または暫定のシュメール地方統一国家を建ててアッカドに戦争を仕掛けた)。

    支配

    サルゴンの碑文に以下のような文がある。

    下の海から(アッカドまで)アッカド市の市民に(シュメル諸都市の)エンシ権(=王権)を選び与えた。

    出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175

    これに対し『初期メソポタミア史の研究』(p97)では「同時代史料によれば、アッカド王朝支配下のシュメール諸都市の支配者(エンシ)は、ほとんどがシュメール語名であり、アッカド人による直接支配は実証されない」としている。

    直接統治(中央集権体制)の証拠は上の碑文の一文だけだが、前田氏は「アッカド市の市民」の訳し方が違っていると主張する。「アッカド市の市民」は「dumu-dumu a-ga-de」(正しい表記は著書参照)の訳だが、前田氏はこれを「アッカドの権威に従って奉仕する者」と訳した。この意味するところは「アッカド王権の要職にある者の子弟と支配に服する諸都市の親アッカド派の子弟」(p98)。

    アッカド市の市民」が正しければ、秦の始皇帝が行ったような中央集権体制を敷いたと言えるが、前田氏が正しければ「外様」が存在したわけだ。

    中央集権化は四代目ナラムシンによって指向されるが、五代目シャルカリシャリ以降、国が乱れると都市国家の自立化傾向が顕著になった(p99)。



    (雑記1)

    リムシュは反乱を起こした都市の住民を退去させた、とあるが、これは強制移住の最古の記録かもしれない。しかし、都市の城壁を破壊したと書いてある碑文はこれ以前にあるので強制移住はその前から行われていたかもしれない。


    (雑記2)

    ウル王のカクの反乱は中国史における楚漢戦争や呉楚七国の乱を想起させる。また、シュメール支配の話で言えば、前漢武帝より前の時代の郡国制と比較できるだろう。