歴史の世界

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メソポタミア文明:先史② ウバイド文化

メソポタミア文明の最初期はシュメール文明。シュメール文明は最古の文明と言われているが、その直前はウバイド文化で、それなりに栄えていた。

このウバイド文化とシュメール文明の差はなにか、という問題は別の記事でやるとして、この記事ではウバイド文化について書く。

ウバイド文化の誕生

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3(図1-1)、p6(図1-2)

前六千年紀の中頃にサマッラ文化が中部メソポタミア沖積平野の北部に興った。この文化で最古の灌漑農耕が初められたとされる。

メソポタミアは、それまで西アジア先史時代の主要舞台であったレヴァントや北メソポタミアとは、全く異なる自然環境が広がる別世界であった。[中略]ウバイド文化が始まるまで、人々はこの水と太陽が支配する沖積低地を自らの住処として開発する術を知らなかったようである。南メソポタミアに人々が定住的な農耕集落を作り始めたのは、農耕が西アジアで始まってから数千年が経過した紀元前5500年頃のことであった。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p99

川の氾濫のおかげで肥沃な大地はあるものの、雨は少なく木材が無く鉱物も無いこの地域に、灌漑農耕という技術だけがほとんどの頼みの綱のような状態から、文明へとつながるウバイド文化が始まる。

ところで、この本ではサマッラ文化は紀元前5300年の直前*1に興ったと書かれているが、サマッラ文化はウバイド文化より先行しているように書いている。

他の書籍も参照にすると、以下のようなことが想定される。

  • サマッラ文化が興った直後にその担い手の一派が南メソポタミアに植民して灌漑農耕を始めた。
  • 時が経つと南メソポタミアの文化は変質してサマッラ文化と異質のものとなった。これがウバイド文化と呼ばれるようになる。

西アジアの考古学』では「オゥエイリーのウバイド0期と呼ばれている層は、文化要素的には、サマッラ文化に帰属するといってもおかしくないほどである」(p101)と書いてある。ウバイド1期(年代は分からない)になるとエリドゥの遺跡から小さな小型の建物が発見された。これはウルク期まで拡大しなが続く神殿の一番最初のものとされる。

このウバイド1期の文化層から出動する土器は、文様などにサマッラ土器やハラフ土器の影響を受けつつも器形的には独自の要素が強く、ウバイド土器の祖型としての範疇で捉えられる時である。文化指標として土器を一義的に考えるならば、ウバイド1期から真性のウバイド文化が始まったといえるだろう。

出典:西アジアの考古学/p101-102

ちなみにウバイド文化の中の時代区分は基本は1期~4期、これに南メソポタミアに文化が現れた最初期を0期とし、最終文化層として5期が加えられた。(西アジアの考古学/p100)

ウバイド文化の大変革

ウバイド2期までは他の地域に比べて優位とは言えなかった。

ウバイド3層期にはいって、メソポタミア最南部地方の灌漑農業に大変革がおこったようにみえる。それは農耕具の改良を出発点としていたであろう。この時期には、それまでの石刃を装着した木製収穫具にかわって粘土製の鎌が大量に出土しはじめる。おそらくこれは、前代にくらべて耕地面積が拡大したことを示している。とすれば、役畜を犂(すき)につないで土地耕起を行う技法も、この頃に本格的に導入されたのかもしれない。要するに、はじめてメソポタミア最南部地域で大人口が養えるようになり、また彼らによって余剰生産物が作り出されるようになったのであろう。この地域では鉱産物などはほとんど産しない。だから、これらは西アジア各地から輸入されていた。そして、交易にさいして送り出されるべき対価物(羊毛製品、沼沢地のアシを原料としたバスケット類など)も、はじめて最南部地方で大量に生産されはじめたのであろう。もちろん「ウバイドの拡大」によって創出された均質的な空間は、交易を容易にしたであろう。

[中略]ウバイド3層期にいたって、のちのシュメール時代の「町」や「都市」の原型が姿をあらわしたのである。

出典:前川和也 編著/図説 メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p16

  • 西アジアの考古学』によればウバイド3期は前4500年にはじまる(p102)。

ウバイド文化の故地である南メソポタミアでのウバイド3、4期の文化的特徴としては、建築の上からは3列構成ブランを基本とする住居の盛行と定型的な神殿の出現、土器では器形の多様化と文様の単純化、彩文土器の減少、成形に回転台の導入、生業面では、コムギや六条オオムギに加えてナツメヤシなど在地産の食料の開発、ヒツジ・ヤギへの依存の相対的低下とウシとブタの重要性の高まり、道具では鎌に代表されるテラコッタ製農耕具の盛行、などをあげることができよう。このうちのいくつかは南メソポタミア固有の地域的特質を反映した要素であるが、それ以外の、建築や土器の要素の多くがウバイド的要素として南メソポタミアの外へ広がっていった。

西アジアの考古学/p103

灌漑農耕の骨の折れる労働

これらの大きな共同体と、それを支える余剰食糧は、骨の折れる労働による多大な犠牲を払うことで実現したものだった。毎年秋および冬になると、人びとは男も女も狭い運河沿いに集まり、沈泥を除去し、鍬と掘り棒を使って雑草取りに励んだ。運河のなかには、川から5キロも離れた乾燥地帯までつづくものもあった。さらに別の作業班が、この間に粘土と泥土で堤防を強化し、夏の氾濫期に水を溜めておく自然の貯水池の周囲も固めた。どの家族も、沖積土で農業だけを営むわけにはいかなかった。すべてのことが、慎重に配備されたうえ、よく組織された作業班にかかっており、そのなかで人びとは公共の福祉のために汗水たらさなければならなかった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p188

ナトゥーフ文化前期や先土器新石器時代温暖湿潤の気候と食料資源が豊富な土地の中で文化が栄えたが、ウバイド文化の繁栄は肥沃な土地以外はほとんど人力と言っていいだろう。前者と後者の違いは特筆に値する。

神殿

このウバイド的要素の中でも最も重要なものは神殿であろう。エリドゥⅦ,Ⅵ層(ウバイド4期)の神殿(図41)は、プラン的にも、内部施設的にも、また基壇上に建設されている点においても、後のウルク期の神殿に直接連なる定型的神殿である。中央室奥壁に腰壁、そこからやや離れて供献台が設けられており、宗教的儀礼がおこなわれていたことは間違いない。ほとんど同様のものが、ウルクのアヌ神殿域地区のウバイド層から発見され、また北メソポタミアのテペ・ガウラⅧ層からも発見されている。このような神殿は、他の遺構と比べてかなり大きくしかも遺跡の中央に近い位置から発見されており、宗教的施設であると同時に集落全体の中枢でもあった可能性が高い。

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西アジアの考古学/p102-104

別の書籍から。

大半の人びとはまだ枝をたわめて屋根を葺いた日干し煉瓦と葦の小屋に住んでいたとはいえ数世紀のうちに、ウバイドの大きな共同体には、堂々とした建物や小神殿が出現するようになったのだ。かなりのちに書かれた楔形文字の銘板を信じるとすれば、古代メソポタミアの宗教はこの時代に芽生えた。詠唱と神話が繰り返され、人間の運命を支配して雨や肥沃な土壌をもたらし、豊作を約束する神々をたたえていた時代である。霊界との媒介者や、人間の生命の復活儀式を執り行う人が、つねに権威をもつようになった。かつてのシャーマンや霊媒師が、この時代には急速に増えた余剰食糧に支えられて、本職の神官となったのである。

出典:古代文明と気候大変動/p188-189

メソポタミアの古代の宗教に関する均質性の土台はおそらくウバイド文化期にできたのだろう。

ウバイド文化の拡大

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ウバイド文化の範囲

出典:ウバイド文化>wikipedia*3

出土土器の分布

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出典:図説 メソポタミア文明/p16

下は湾岸への広がり

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p25

上の「ウバイド系文化の遺跡」はウバイド式土器またはその破片が発見された場所。ウバイド文化(または土器)が湾岸にまで広がった理由として、著者は湾岸付近の真珠の採集にあったとする(p30)。

車輪の発明

「車輪<wikipedia」に「その起源は古代メソポタミアで紀元前5千年紀(ウバイド期)にさかのぼり、元々は轆轤(ろくろ)として使われていた」と書かれてある。

銅の利用とchalcolithic(銅石器時代

無用の混乱を避けるため、ここでは確実に鋳造品と判断できる最古の例について言及するにとどめることにする。

それは、トルコ南部のウバイド併行期の遺跡Mersin-Yumuktepeから出土した銅製のピンである。[中略]近年これらの銅製品に対して詳細な分析が加えられ、精錬された銅を素材としていること、鋳造によって制作されていること、刃部を敲いて鍛えていること、などが判明した。これにより、紀元前5千年紀のウバイド期(銅石器時代)には、すでに本格的な銅冶金が確立されていたと理解することができる。しかし、これはあくまでも確実な最古の例でしかなく、年代的にさらに遡る可能性も考えられる。ただし、遺跡から出土する銅製品の例が増加し、銅関連の工房跡が確認されるようになるのもほぼこの時期に当たることを考えると、紀元前5千年紀を大きく遡る可能性は低いものと思われる。

出典:三宅 裕/古代西アジアにおける銅冶金技術の歴史/2008(PDF

Chalcolithicは “chalco-” が銅を、 “lithic-” が石を表し、銅石器時代と訳される。他の訳として金石併用時代がある。石器時代と青銅時代の間。

上の論文では西アジアにおける新石器時代の次の時代、銅石器時代(chalcolithic)の年代について教えてくれないどころか、「時代名称は、必ずしも銅利用の状況を正確に反映したものとなっていない」「こうした時代名称はあくまでも便宜的なものである」と書いてある。

ちなみに「chalcolithic<wikipedia英語版」によると、最古の銅の鋳造の証拠はセルビアで前5000年だそうだ。

西アジアの技術史的な時代区分において、新石器時代に後続するのが銅石器時代である。この時代、道具として石だけではなく銅も利用されはじめる。銅石器時代は大きく三つの時代に分けられ、前期がハラフ期(約8000~7500年前)、に相当する。銅石器時代の中ごろは都市化前半のウバイド期(約7500~6000年前)、後期銅石器時代は都市化後半のウルク期(約6000~5100年前)にだいたい相当する。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p48

  • 都市化については次回の記事で書く。



次回は都市の誕生について書くが、都市の誕生/形成期と比較してウバイド期のことも書いている。