「原エラム文明」の交易ネットワークは「トランス・エラム文明」が引き継いだが、その頃、エラムはどうなっていたか?
この記事ではその頃のエラムの話を書く。
「原エラム文明」の終わり(おさらい)
前回の記事の第三節「スーサの考古学」に引用したが、後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015/p68)によれば、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。後藤氏によれば南メソポタミアの有力都市キシュ市の王エンメバラゲシがスーサに侵攻した、としている。
ただし、これはシュメール王名表に書いてある「キシュのエンメバラゲスィ、エラムを撃つ」という文句と、スーサ(エラム)の考古学研究の成果から推測した後藤氏の主張である(記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」第三節「シュメールの「王名表」から」参照)。
初期王朝時代ⅢB期のエラム
初期王朝時代ⅢB期(前2500-2335年)はシュメール文明の時代区分。シュメールは前2500年頃に文字体系が整い、この頃から碑文やその他の文書が出土する。
こうした中でエラムが最初に文書に登場したのは、南メソポタミアの有力都市ラガシュの王エアンナトゥムの碑文である(エアンナトゥム王の戦勝碑(禿鷹碑文/禿鷲碑文) )。前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1(p202-203)によれば、この碑文はエアンナトゥムはウンマ、ウル、ウルク、キシュ、アクシャク、マリ、そしてエラムと東方の勢力を相手に戦勝したことが書いてある。
もうひとつ、エアンナトゥムの3代後のエンアンナトゥム2世治世にもラガシュ-エラムの戦争があった記録が遺っている。
前田氏は「シュメールとエラムの都市/国家の間に、恒常的な敵対関係があったことは確かである」(p206)と主張するが、上記2つの文書以外は記録がないようだ。初期王朝時代末期の覇者であるウルク王エンシャクシュアンナやウンマ王ルガルゲザシはエラムに関する記録を遺していない(p206)。
アッカド王朝時代のエラム
前田氏は、アッカド王朝時代のエラムを「エラム=スーサ」と「エラム=エラム地方(スシアナ、スーサと周辺地域)」という二つの意味で使用している。(p206~)
初代王サルゴン治世にはエラム地方にはスーサ(エラムと呼ばれていた)だけでなく、パラフシという有力国家(勢力)が存在していた。スーサとパラフシの支配者は「ルガル(王)」を名乗り、これらに従属する勢力の支配者は「エンシ」を名乗った。つまりメソポタミアの初期王朝時代末期の上下関係がエラム地方にも存在した。(p207)
(このパラフシは後世ではマルハシと呼ばれ、おそらくテペ・ヤヒヤを含む地域を表す。メソポタミア人が珍重したクロライト=マルハシ石の産地として有名だった。現在のジーロフト遺跡。ケルマーン州に当たる。*2。
サルゴンから三代目のマニシュトゥシュまで遠征を繰り返し、マニシュトゥシュの治世には当時のイラン地方の第二の中心都市と言われる(メソポタミアから見て)スーサよりも東方の都市アンシャンまで支配下に置いた。四代目のナラムシン治世はイラン地方の支配は安定していた(ナラムシンは東方ではなく西方の遠征に注力した)。
しかし五代目シャルカリシャリの時代になると、エラム勢力がアッカド地方の北辺アクシャクまで及ぶ事態になっていた。シャルカリシャリはエラム勢力のアッカド地方への侵攻を撃退したが、その後もエラム勢力の勢いは衰えなかったようだ。(p206-210)
「エラム」という地名の範囲の変遷
エラムという地名は長く、スーサを指す言葉だったり、あるいはスーサの周辺を意味する「スシアナ」と同じ言葉だった。これが変化する時期はシャルカリシャリ治世以降のことだった。
アッカド王朝が崩壊した後の有力都市ラガシュのグデア王の記録によると
とあり、この「エラムであるアンシャンの町」というのが、エラムがスーサからアンシャンに亘るイラン高原一帯を指す言葉に変わる 初めの記録だった。(p210-214)
高原一帯ということは東へだけでなく、エラム勢力がアッカド地方の周辺にまで及ぶことにより、エラムは北方へも伸長した。
ただし、イラン高原の北東は砂漠だったため、勢力は存在しなかったようだ。
プズルインシュシナクの登場
シャルカリシャリ以降のアッカドの衰退の中、イラン地方(≒エラム=イラン高原)を統一したプズルインシュシナクという傑物が現れ、エラム地方を統一した。
出典:初期メソポタミア史の研究/p217
プズルインシュシナクはアッカド王朝時代末期からウル第三王朝時代草創期の人物で、エラム地方を統一し、アッカド地方も占拠していたが、ウル第三王朝の初代王ウルナンムにより、アッカド地方より外に追い出された。プズルインシュシナクの治世は長かったが、上の地図のような支配領域は彼一代限りのようで、ウル第三王朝二代目シュルギの治世中にエラム地方はウル王朝の支配下に組み込まれた。*3
(プズルインシュシナクはwikipediaでは「クティク・インシュシナク(英語版ではKutik-Inshushinak)」の名前で登録されている。
ウル第三王朝時代のエラム
上に少し書いてしまったが、ウルナンムによりエラム勢力はアッカド地方から追い出され、シュルギの治世でエラム地方が支配下に組み込まれた。
ウル王朝は基本的にエラム勢力に対して「降嫁政策」を用いて支配した。ただし、重要都市のスーサには王朝から派遣した官僚を支配者(エンシ)にして、エラム地方の監視の任務を兼務させた。このスーサの支配者は将軍が就く職だったが、四代目シュシンの治世では王の酒杯人が就いた。エラム地方の監視の任務はスッカルマフという職に移譲された。
スッカルマフは、「伝令(sukkal)の長(mah)」の意味である。スッカルマフが、ウルの王宮における最高官職の一つであることに間違いなく、ウルの王の軍事や外交を輔佐し、難問が続出するエラム政策において重要な役割を果たした。スッカルマフのイルナンナが主導することで、ウルのエラム政策が一つの転機をむかえた。
出典:初期メソポタミア史の研究/p237
このイルナンナはスッカルマフの職を三代目アマルシン治世から就いており、シュシン治世に権力を増し、エラム地方全体を管理する任務を担うこととなった。イルナンナは従来の降嫁政策などによる間接統治から直接統治への切り替えを目指していたが、以下に示すようにシマシュキなどの反乱・支配からの離脱が相次ぎ、イルナンナの政策の失敗とともに王朝は滅亡へと向かった。(p222-242)
シマシュキの台頭とシマシュキ王朝成立
出典:初期メソポタミア史の研究/p227
シマシュキは上の図のスサの北方に位置する。
スーサのエバラト
ウル第三王朝は五代目イッビシンの即位早々から王朝滅亡の危機に直面していた。王朝がスーサを支配していたのはイッビシンの3年までだった。それまでイッビシンの年名が使用されていた。その後「エバラトが王(になった)年」「エバラトが王(になった)次の年」のようにスーサはエバラトの支配下に入った。
このエバラトはシマシュキの支配者だった。彼の名は二代目シュルギの晩年(46年)に記録されており、それから頻繁に王朝に貢納したことが記録されている。貢納するシマシュキの支配者が複数記録されていることからエバラトがシマシュキを統一してそれからスーサを支配したと考えられる。エバラトは四代目シュシンの治世に反乱を起こし破れたが、イッビシン治世にスーサの王になりエラム地方の支配を拡張していった。イッビシン治世にはシマシュキ以外のエラム勢力は王朝からの離脱または反乱を起こしていたが、このような勢力を飲み込んでいったのがシマシュキの勢力だった。(p242-245)
アンシャンのダジテ
ややこしいことにもう一つのシマシュキ勢力が登場する。
アルマシン8年の1文書、シュシン2年の2文書において、シマシュキのエバラトの使節とともに、アンシャンのダジテの使節が記録される。ダジテは常にアンシャンの人と記録される。
出典:p245
ダジテはシマシュキ出身の人物だったが、ラバラトがスーサを支配するよりも先に、アンシャンの支配者になっていた。ダジテはウル王朝に友好的または従属していたが、その後継者インダトゥはそうではなかった。
ウル王イッビシンの9年にキンダトゥはウル王朝に反抗した。この時、スーサのシマシュキ勢力(エバラトもしくはその後継者フトランテムティ)はウルの王に恭順した。
しかしその5年後のイッビシン14年にはスーサはキンダトゥの支配下に入り、ともにウル王朝と戦った。
イッビシン24年、イッビシンは破れてアンシャンに連れ去られたが、この連れ去った勢力の支配者がキンダトゥだった。
シマシュキ王朝の成立
既にウル王朝は滅亡し、キンダトゥはイシン第一王朝のイシビエラと外交交渉を行っていた。
前田氏の主張によれば、キンダトゥはエバラトの娘と結婚し、その息子のイダドゥが後継者となった(p253)。スーサとアンシャンを支配下に置いたシマシュキ勢力の支配者イダドゥは、統一王朝に相応しい体裁を整えるために王都をスーサに移し、王号を名乗った。これでシマシュキ王朝の成立となる(エバラトの後継者だったフトランテムティはその地位を奪われた)。
シマシュキ王朝が成立し、強大な勢力となって以後、エラムは、イシン・ラルサ王朝時代を通して、メソポタミアに政治的影響力を有し、前2千年紀後半には、チョガ・ザンビルに自らの名を採った新都を建設したウンタシュナピルシャや、メソポタミアに侵攻しハンムラビ法典などの戦利品をスサに持ち帰ったシュトゥルクナフンテなどが活躍する最盛期を迎える。こうしたエラムの動向を可能にした土台は、メソポタミアが都市国家から統一国家へと反転したと同様に、アッカド王朝末期のプズルインシュシナクと、ウル第三王朝滅亡時のキンダトゥによって達成された全エラムの統合があった。
出典:p255