歴史の世界

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺② エラムまたはイラン(その2)トランス・エラム文明

前回の記事の第三節「スーサと原エラム文明の考古学」で前27世紀頃に原(プロト)エラム文明が崩壊したことを紹介した。

今回はその後継というべきイランの地の交易ネットワーク「トランス・エラム文明」について書く。

トランス・エラム文明

トランス・エラム文明については後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015)の第二章「イラン高原の「ラピスラズリの道」――前三千年紀の交易ネットワーク」に書いてある。

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出典:後藤氏/p113

「トランス・エラム」とは字義通りにはメソポタミアから見て隣接のエラム(スーサ中心の地域)の向こう側(東方)を意味する。そして原エラム文明に代わるイランの地の交易ネットワークを考古学では「トランス・エラム文明」と呼んでいる(p77)。その中心都市はアラッタ。後藤氏はアラッタを現在のイラン国ケルマーン州ジャハダードに比定している(p76)。

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出典:後藤氏/p66

アラッタについて

メソポタミアとインダスのあいだ』では、まず最初にアラッタについて詳しく紹介している。

アラッタについては 記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」第二章「ウルク第1王朝」第一項「エンメルカルとルガルバンダと都市アラッタ」でも紹介した。

メソポタミアの伝説の中で『エンメルカルとアラッタの主(しゅ)』と『ルガルバンダ叙事詩』でアラッタについて語られている(詳しくは「エンメルカル<wikipedia」「ルガルバンダ<wikipedia」参照)。

「ルガルバンダ<wikipedia」には以下のような記述がある。

補足:アラッタではウルクにはない瑠璃などの宝玉、貴金属に恵まれ、それらを細工する技術と職人も持ち、それらの製品交易によって経済力も確かなものだったと思われる。エンメルカルはしばしばアラッタの君主と対決してきたが、今回の遠征目的はそんなアラッタの貴金属とその加工技術、そして貿易路の確保と導入によってウルクの発展に貢献することであった。

出典:ルガルバンダ<wikipedia

物語からはそう読み取れるが、後藤氏によれば、アラッタは他地域から以上の物を集め、消費地メソポタミアに輸出しただけだった。アラッタは鉱物に恵まれ技術者も揃えていたから重要な都市だったのではなく、イランの地の交易ネットワークの中心都市だったから重要だったのだ。

主力輸出品、ラピスラズリと「古式」クロライト製品

ラピスラズリ

上の引用で瑠璃というのはラピスラズリの和名。ラピスラズリの語源は「ラピスラズリwikipedia」によれば、「ラピス」が「石」を表し「ラズリ」はアフガニスタンにある鉱山の地名とのこと。ラピスラズリアフガニスタンからイランを経由してメソポタミアに輸入された。

シュメール人はこの貴石を特に珍重したらしい。この石は「霊力に満ちたものと考えていたようだ」(後藤氏/p77)。

「古式」クロライト製品

クロライト=緑泥石は鉱物の一種だが、鉱物をそのまま輸出したのではなくあらゆる製品を作成した。これらの製品を「古式」クロライト製品という(別の時代の「新式」と区別するため)。その多くは容器だが、飾板や分銅などもある。

主たる工房はテペ・ヤヒヤにあった(近傍に露頭で得られる原石があった)。

器表の装飾は浮彫表現で複雑な図文を描いたもので、具象的な図像と幾何学的な地文、それらの中間的な文様もある。具象的なものとして、人物(に似た神)、動物(龍、ライオン、禿鷹、魚、ライオン頭の鳥「アンズー」、サソリ、牡牛など)、棗椰子の木、「神殿文」などがある。浮彫には、赤、緑、黒などの顔料の塗布、貴石の象嵌が遺されている例もある。主文の背景となる地文として、山形、三角形、「筵(むしろ)の目」、煉瓦の目地などに似たものなどがある。これらの主文と地文の組み合わせによって器表に表現された図像は、宗教的意味をもつ非日常的モチーフによるもので、こうした容器が日曜雑器の類とは大きく異なる聖なる器物であったことを示している。

出典:後藤氏/p78-79


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左:テペ・ヤヒヤ出土のクロライト製飾り板(Lamberg-Karlovsky & Tosi 1973, Fig. 136) 右:バハレーン島サール古墳群出土のクロライト製容器(バハレーン国情報相発行のCalendar 1993による)

出典:後藤氏/p84

日本語のウェブサイトだとこの時代のクロライト製品は見つけにくいが、google画像検索で「chlorite vessel」で検索するといろいろ出てくる。

入念に加工された古式のクロライト製容器は、ケルマーン初、トランス・エラム文明のいわば「国際的ヒット商品」で、西はシリア、東はインダス河流域までの広い範囲に流通した「宝器」といえる。それは、一流の都市とその住民だけが持つことのできた宗教的器物であり、そこに描かれた精神世界は、トランス・エラム文明に共通の観念であると同時に、それらが出土するイランの域外、特に自前の神々の体系をもつメソポタミアにおいても、好ましいものとして受容すべき対象であった。精神世界においても、メソポタミアとイランの文明は、互いに影響を及ぼしあいながら発展した隣人であった。

出典:後藤氏/p85-86

トランス・エラム人がインダス文明を作った

トランス・エラム文明とインダス文明の関係については記事「インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)」で書いた。

ここでは、『メソポタミアとインダスのあいだ』からの引用を再掲する。

トランス・エラム文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉と成る所はないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた。その西側、バルーチスターンの山地に住むハラッパー文化の人びとと、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。彼らは低地に降りていった。

旧世界において、前2600年より早い時期から都市文明が存在したのは、エジプト、メソポタミア、そしてイラン高原の三カ所であった。都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人びとに、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導のもので行われたことが明らかで[ある]。

出典:後藤氏/p87

トランス・エラム文明の終焉

メソポタミアとインダスのあいだ』には、その終焉が書いていなかった(見落としているのかもしれない)。

前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1によれば、アッカド王朝の初代サルゴン王からイラン方面への遠征を繰り返し行い、三代目マニシュトゥシュはアンシャンまでをも征服した(p206-209)。

上に引用した年表によれば、トランス・エラム文明はアッカド王朝時代に終わっているので、アッカド王朝の歴代の王たちの遠征によって崩壊させられたのかもしれない。



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*1:早稲田大学出版部/2017