歴史の世界

メソポタミア文明:ウル第三王朝① 概要

これから幾つかの記事に亘ってウル第三王朝について書くが、最初に概要を書いておこう。

年表


前2112年 ウルナンムがウルで独立し、ウル第三王朝成立。

前2094年 二代目シュルギ即位。

前2074年 王朝の最盛期。

前2028年 五代目そして最後の王イビ・シン即位。即位して間もなく目に見える形で王朝の崩壊が始まる。

前2017年 イシュビ・エラがイシンで独立(イシン第一王朝)。

前2004年 エラム人が最後のイビ・シンをアンシャンに連行。王朝滅亡。*1


文書行政システムと二元支配体制

おそらく前21世紀の末、ウルにおいてウル・ナンムが即位して、ウル第三王朝がはじまった。王は5人、彼らの治世期間はあわせて100年程度にすぎないが、この時期は前3000年にわたるメソポタミアの歴史のなかでもきわだっている。この時期に公的機関の文書行政システムが極端なまでに整えられ、驚くほど精密な記録が大量に作成されたからである。[中略]

ウル第三王朝時代の繁栄は、二代王シュルギ治世の後半で頂点に達した。彼は外征をくりかえし、メソポタミア周辺の諸国家にウル王朝への臣従、朝貢を誓わせ、いっぽうメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の都市には知事を派遣して直接支配を行った。中心地域の都市には、シュメールの最高神エンリルの神殿での輪番奉仕を義務づけ、いっぽう中心地域の北方、ディヤラ川から上・下ザブ川地域にかけては軍団による軍事支配を実現した。

ウル第三王朝の支配は中核と周辺という二分法にもとづいていた。王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域には込みこませたのである。

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前田徹「メソポタミアの王・神・世界観」(2003年)より転載。前田は、ウル王朝が、ディヤラ流域地方を軍事力によって統治したことを強調している。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p42-43

  • ディヤラ川流域は東方からアッカド地方への侵入点の一つ。

ウル第三王朝は東地中海沿岸からイラン高原にいたる広い地域を支配下に組み込んだが、その支配は均一ではなかった。

中核となるのはシュメル・アッカドの地であった。だがウル市の王朝にしたがうとはいえ、各都市の独立志向は根強かった。最高神エンリルを祀ることでなんとか統一を維持していたが、すでに第2章で紹介したようにニップル市など諸都市はウル市とはちがう月名を使用していた。

シュメル・アッカドの外側には貢物を持って来る服属国があり、西方ではマリやエブラ、東方ではマルハシやアンシャンなどが朝貢にやって来ていた。

さらにその外側の、グティ人の侵入経路であったティグリス河東岸地域、ディヤラ河および大小ザブ河流域は軍事的に重要視された地域であった。

ウル第三王朝は約100年と短期間であったが、第二代シュルギ王治世後半以降に膨大な数の行政経済文書が記録された。各地から出土していて、丸剤約四万枚が公刊されているが、まだ多数の文書が未解読のままである。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p252-253

ウルのジッグラト

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

出典:ジッグラト<wikipedia*2

  • 「ジッグラト」については 記事「テル(遺丘)とジッグラト」の第二節「ジッグラト」に書いた。

ウル遺跡に残るジグラトは、すでに初期王朝時代に建立されていたが、ウル第三王朝初代ウルナンム王が修復、拡大した。このジグラトはエテメンニグル(「畏怖をもたらす基礎の家」の意味)と名づけられていた。

出典:シュメル/p253-254

ウルナンムによる修復/拡大は二代目シュルギ治世に完了する。

このジッグラトはイラン・フーゼスターン州にあるチョガ・ザンビールのジッグラトに次いで最も保存状態が良いもの。

ジッグラトの中でおそらく最も参照され、最も著名なものである(チョガ・ザンビールのほうはシュメール人ではなく、エラム人により建築されたから参照されないのかもしれない)。

以下は「Ziggurat of Ur<wikipedia英語版」と「エ・テメン・ニグル<wikipedia(日本語版)」に依る*3

  • ウルのジッグラトは元々ウルの都市神ナンナ(月神/男神最高神エンリルの長子*4によると、三層より成るジッグラトだったが、最下層はウル第三王朝時代で、2-3層は紀元前6世紀(ナボニドゥス王治世)の建築だった。

  • サダム・フセイン治世に、最下層のファサード、階段が改築

上述のチョガ・ザンビールは1979年に、ユネスコ世界遺産に登録されたが、ウルのジッグラトはされていない。上記のように後から手が加えられたからかもしれない。

ウル・ナンム法典

ウル・ナンム法典(ウル・ナンムほうてん)は、メソポタミア文明のウル第三王朝・初代王ウル・ナンムによって発布された法典。 紀元前1750年頃のものとされるハンムラビ法典よりおよそ350年程度古く、影響を与えたと考えられる、(現存する)世界最古の法典とされる。[中略]

後世のハンムラビ法典の特徴が「目には目を、歯に歯を」の一節で知られる同害復讐法であるのとは異なり、ウル・ナンム法典では損害賠償に重点が置かれている。殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されており、特に、殺人・強盗・強姦・姦通は極刑に値する罪と見なされた。

シュメルには鋳造貨幣(コイン)はなかったため、損害賠償は銀の秤量貨幣によって行われた。[後略]

出典:ウル・ナンム法典<wikipedia*5

ウル第三王朝版「万里の長城

ウル第三王朝の滅亡は早かった。ジグラトどころではなくなり、代わって城壁を造らざるをえなくなった。シュメル版「万里の長城」の建造である。[中略]

マルトゥ、つまりアモリ人の侵入が勢いを増し、現代のバグダード北方80キロメートルの所にユーフラテス河からティグリス河へと、防御のための城壁を築いて侵入を阻止しなければならなくなった。これがシュメル版「万里の長城」である。

城壁建設は第ニ代シュルギ王(前2094-2047年頃)の治世に始まっていて、前で話したように治世37年の「年名」は「国の城壁が建てられた年」であった。[中略]

また、第四代シュ・シン王(前2037-2029年頃)の治世4年の「年名」も城壁建造であったことはすでに第6章で紹介した。

出典:シュメル/p263-265

王朝最後の王、第五代イッビ・シン王に至っては治世6年の年名は「ニップルとウルの大いなる城壁を造った年」*6。もはやメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の統治も出来ない状況が示されている。

ウルの滅亡

周辺地域およびアッカド地方の統治機能の崩壊

ニップル市(アッカド・シュメール両地域の境界あたりの都市)の近くに、第ニ代プズリシュ・ダガン王はプズリシュ・ダガンという街を建設した。ここは周辺地域からの家畜群の集積管理センターだった。この重要な場所がイッビ・シン王治世2年末に早くも機能しなくなった。ウンマ市の最後の行政・経済文書は治世5年、ギルス(ラガシュ)市は6年で途絶える。(世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p197-198(前川和也氏の執筆部分) )

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Map of the main cities of Lower Mesopotamia during the Akkad and Ur III periods (c. 2300-2000 BC), with the approximate course of the rivers and the ancient shoreline of the Gulf.

出典:Bala taxation<wikipedia英語版*7

シュメール地方の統治機能崩壊

ウル第三王朝時代にはシュメル地方では土壌の塩化が進み、大麦の収量倍率が激減していた。初期王朝時代末期(前24世紀中頃)にはラガシュ市において76.1倍であったものが、前21世紀のウル第三王朝の属州ギルス(以前のラガシュ市)では30倍に減少していた。この数字はシュメル地方のほかの地域でもそうちがわなかったと考えられる。

第五代イッビ・シン王(前2028-2004年頃)の治世になると、東方からはエラム人、西方からはマルトゥ人(アモリ人)と外敵の脅威が増し、しかも同王の治世6年にウル市で発生した飢饉は数年続いて、穀物価格が60倍にも高騰した。

出典:シュメル/p265-266

  • アモリ人とはアムル人のこと。

イシン市の独立

イシン市はニップルの西南にある都市。

上述の危機的な食糧不足の状況で、イッビ・シン王は、マリ市出身のアムル人イシュビ・エラ将軍をイシン市へ派遣した。しかし、この将軍は滅びゆく王朝を見限りイシン市で独立した(前2017年)。イシン第1王朝の誕生である。ウル第三王朝滅亡の前にイシン・ラルサ時代が始まっていた。(イビ・シン<wikipedia

エラムの侵攻(王朝滅亡)

ウル第三王朝を滅ぼしたのはエラムだった。エラム人はウル市に侵入してイッビ・シン王を捕らえてアンシャンへ連れ去った(前2004年)。イッビ・シン王がその後どうなったのかは誰も知らない。

シュメール文明の終わりと継承

シュメル人の統一王朝にして最後のウル第三王朝(前2112-2004年頃)は前2004年頃にエラムの侵入によって滅亡したが、シュメル人はその後も行き続けていた。だが、シュメル人は古くから共生していたアッカド人に加えて、アモリ人(マルトゥ人)が侵入したことによってセム語族の圧倒的文化のなかに埋没せざるをえなかった。

出典:シュメル/p274

ウル第三王朝の後継を自認したイシンのイシュビ・エラ王はシュメール語による王碑文を遺したが、日常の言語はシュメール語からアッカド語に変わった。

ただし、シュメールの文化がここで途絶えたわけではない。特にシュメール人が作り上げた神々と神話はメソポタミア神話に受け継がれ、メソポタミアを越えて古代オリエントと地中海(ギリシア、ローマ)へと伝わった。

シュメール文明について『シュメル』のはしがきでは「シュメル社会は現代社会の原点である。当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」とあり、あとがきでは「起きるべきほどのことはすでにシュメル社会では起きていた」と書いてある。

名称

この王朝の名称は「ウル第三王朝」だが、古代メソポタミアまたは西アジアの年表には「第一」や「第ニ」は出てこない。

「ウル第三王朝」の名称は、シュメール王名表に依る。シュメール王名表については記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第3節「シュメールの「王名表」から」と記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」で書いた。

シュメール王名表は史実とフィクションが入り混じっていて正確ではない。「ウル第一王朝」には実在する王が書かれているが、そうだとしても「一都市国家の王」でしかない。「ウル第ニ王朝」に載っている王の名は遺物などで確認できないし、年代的はウルクの王に支配されている時期だ(初期メソポタミア史の研究/p125)。このようにこの名称は史実に基づかないが、慣例によりこの名称は使い続けられている。



ウル第三王朝はシュメール文明の最後の王朝にしてシュメール文明の集大成というべき王朝だと思うが、世界史関連の本やサイトでは注目されていない。

次回から、個々の事象について書いていく。

*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表)

*2:作者:wikiwikiyarou(パブリック・ドメイン)、ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88#/media/File:Ziggurat_of_ur.jpg

*3:日本語版は英語版をまとめたもの

*4:前田徹著『初期メソポタミア史の研究』(早稲田大学出版部/2017/p126)によれば、ナンナ神の系譜を最高神エンリルの長子にしたのは創始者ウルナンムである)) )のためのもの。

  • 紀元前6世紀、新バビロニア帝国最後の王ナボニドゥスにより改修された。

  • 1939年のレオナード・ウーリーの発掘レポート((Woolley, C. Leonard (1939). The Ziggurat and its Surroundings. Ur Excavations. 5.

    *5:この記事は『シュメル』(p158-162)に依っている

    *6:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p189

    *7:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png#/media/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png

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