歴史の世界

メソポタミア文明:ウル第三王朝③ 二代目シュルギ

ウル第三王朝の特徴として挙げられるもののほとんどはシュルギの治世に創設・整備された制度である。諸制度の創設・整備と同時並行して、シュルギは外征を繰り返して最大版図を築きあげた。つまりウル第三王朝の代表的な版図もシュルギの時代のものだ。

諸制度の創設・整備

ウル第三王朝第二代のシュルギ王は有能な王であった。彼の48年にわたる長い治世は「年名」からたどることができ、治世20年頃に諸改革をおこなっている。出土した行政経済文書の多数は治世20年代の後半以降に書かれ、中央、地方を問わず行政組織が整えられた。各都市の文書の形式、用語も統一され、度量衡も統一された。

治世20年の「年名」に「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」があって、この年に常備軍が作られたようだ。20年以降に外征についての「年名」が増え、なかでもフリ人征伐に力を注いでいる。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p201

シュルギの治世に創設・整備された制度を幾つか箇条書きにしてみる。(上の『シュメル』と前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1(p138-139)を参照)

  • 文書による行政。
  • 文書の形式、用語の統一。
  • 度量衡の統一。
  • 貢納制。
  • 統一的会計システム。

ウルナンム法典もシュルギの治世にできたと主張する学者もいるそうだ。ちなみに裁判制度については何時出来上がったのかは分からないが、中央集権的なものではなく、各都市で整備され、専門の裁判官を任命した(前掲書/p180)。

版図と支配体系

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出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p140

上の図は前田氏とシュタインケラー氏の考える2つの案である。シュタインケラー氏の案(steinkeller 1987)は、前田氏によれば通説化しているという(ちなみに「Third Dynasty of Ur<wikipedia英語版」にこの図が載っていた)。

前田氏の案は、まず大きく中心地域と周辺地域に分けて、周辺地域を朝貢国地域と軍政地域に分けている。

いっぽう、シュタインケラー氏の方は、CORE(中心地域)とPERIPHERY(周辺地域)とVASSAL STATES(半独立的な臣従国)の3区分を採用している。

上の本では、シュタインケラー氏の主張と対比させながら前田氏が持論を展開している(p139-152)。

中心地域

まず、中心地域とは、シュメール・アッカド地方のことだ。この地域はアッカド王朝以前の都市国家の体制を維持しながら、彼らに「バル義務」を課した。バル義務とは、主要な都市の支配者に輪番で月ごとにニップルにおいて最高神エンリルをはじめとする神々に奉仕すること(前掲書/p142)。

これに対して、前川和也氏は、「シュメールやアッカド地方の諸都市は、交替でウル王権にたいして穀物などの貢納を負担した」と手短かに書いてある。これはおそらく「Bala taxation<wiki英語版」と対応しており、通説に近いかもしれない。Bala taxationはようするに徴税システムのことだ。ただ、前田氏のバル義務はこれとは別の義務なのかもしれないが、よく分からない。

前田氏の挙げるバル義務を課された主要な都市は、その多くは初期王朝時代から続く都市だが、興味深いのはイシンやスサもこの義務に加わっている。イシン(シュメール地方の北部の都市)とはウル第三王朝末期に独立したイシン第一王朝が興った都市だ。スサは中心地域ですらないが、エラム地方の中心都市ということでバル義務を課された(ただし一度だけ)。

シュルギ治世から最後の王イッビシンまでを通して見ると、バル義務を課された都市は、アッカド地方ではバビロンなど10都市を数えシュメール地方のその数を遥かに凌駕する。シュメール地方よりもアッカド地方の優位性が際立っている。ウル第三王朝時代よりも前からシュメール地方は塩化に悩まされ続けていたが、他地域より際立って肥沃な大地だったシュメール地方はついにその優位性を失ったようだ。

王朝は都市から軍事権を取り上げることには成功した(p150)。そして王朝は各地で神殿を建設したが、祭儀権までは取り上げられなかった。都市国家の伝統を受け継ぐ有力都市は従来の祭りを行うとともに暦についても従来のごとく独自のものを使用した。王朝はこれらに介入を試みたが、従来の形態を壊すことはなかった(p169~)。

王朝と有力都市の関係は連邦制国家に近い。有力都市には支配者(エンシ)がいて内政を支配していた。

ちなみにこの記事の最初の方で「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」という徴兵についての「年名」を引用したが、諸都市に対しての徴兵はできなかった。ウルの王は「王直属の軍事組織を創設し、フリ系などの異民族出身者などを将軍とした」(p160)。

朝貢国地域

前田氏の主張では朝貢国地域は周辺地域にの下に置かれる。

朝貢国地域は西は地中海東岸から東はエラム地方のアンシャン、南はペルシア湾地域のマガンまで広範に亘る。各地より定期的もしくは臨時に朝貢が為されるが、家畜以外にあらゆる物資が中央へ送られた。この貢納をグナ貢納という(p145)。

興味深い貢物の一つとしてシリア地方エブラからはレバノン杉が送られる。レバノン杉は建材や船材として良質で歴史を通じてオリエントで使われていた。

東西の朝貢国地域の差

同じ朝貢国地域であっても、西と東の地域では様相が異なる。朝貢国地域の西半分、マリの上流部とティグリス川を遡り東地中海岸に至る地域では、そこから派遣されてきた使節たちにウルの王は贈り物を与え優遇した。加えて、臨時のグナ貢納あったとしても、マリを含めてシリア地方の都市からの恒常的な貢納持参の記録がない。ウル第三王朝の直接支配を受けないで、むしろ両者は独立王国間の外交的関係で結ばれていた。

出典:初期メソポタミア史の研究/p146

これに対して東のエラム地方は王朝成立時の敵であり、頻繁に遠征を実施された常時要警戒の地域だった。王朝は、年単位の貢納・降嫁そして遠征を駆使してエラム地方の諸勢力の分断・孤立化政策をとった(p147-148)。この頃から既に分断統治(Divide and rule / Divide and conquer)が行われていた(分断統治については「分断統治wikipedia」参照)。

軍政地域

上の地図(上図)にあるように軍政地域はメソポタミア(≒イラク)の北東にある。ここはエラムからのメソポタミア侵入口の一つで、特に防備を厚くしなければならない地域だった。

軍政地域は「周辺地域」の一部ではあるが、朝貢国地域とは軍事面と貢納により違いが生じている。軍事面では中央から将軍(シャギナ)が率いる軍隊が駐留した。民政は在地勢力が行うが将軍が軍民両政を握ることもあった(p149)。この地域の貢納は「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」(軍隊の経費に充てられた?)であり、服従・恭順を示すグナ貢納とは違う、というのが前田氏の主張。この貢納はシュシン治世3年にグナ・マダ貢納と名称変更された。これに対してシュタインケラー氏はグナ貢納とグナ・マダ貢納の区別をせず、両方とも「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」と捉えた。

  *   *   *

以上が中心地域と周辺地域の支配の模様となる。「ウルの王が、支配領域の全域・全十味人に対する収奪、土地台帳を基礎にした地税と、戸籍をもとにして人頭税を課すという一円支配を目指すことはなかった」(p152)。

四方世界の王

「四方世界の王」という王号はアッカド王朝の絶頂期を築いたナラムシンが使用したものだ*2。ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」を名乗ったが、シュルギは治世20年、外征を始める前にこれを名乗った。当時のシュルギは、ナラムシンに憧れて彼と同等の最大版図を築き上げようという大志を表明したのかもしれない。

ナラムシンの後継はこの王号を受け継がなかったが、シュルギの後継は継承した。(p138)

王の神格化

これもナラムシンがやったこと*3。ナラムシンがなった神はアッカド市の守護神(アッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位)だったが、シュルギがなったのも大いなる神々の下位における支配領域の安寧を保証する守護神という地位だった。王の神格化も継承された(p154-155)。