前回の記事「インダス文明①:新旧のインダス文明像」では長田俊樹氏の主張を元にして書いたが、今回は後藤健氏の主張に依存する。
- 作者: 近藤英夫,NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2000/08
- メディア: 単行本
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メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明 (筑摩選書)
- 作者: 後藤健
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/12/14
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後藤氏はアラビア湾(ペルシア湾)の「湾岸文明」が専門の考古学者。NHKスペシャル「四大文明」にも関わっている。上の『NHKスペシャル 四大文明 インダス』では、「インダスとメソポタミアの間」という題で一章を書いている。
この内容を一冊にしたのが二冊目の本『メソポタミアとインダスのあいだ』。前者が2000年、後者が2015年の出版。
トランス・エラム人がインダス文明を作った
原エラム文明
『メソポタミアとインダスのあいだ』の一章は「メソポタミア文明の最初の隣人たち」という題名が付けられている。その「隣人たち」というのがイラン高原とアラビア湾岸に住む人々だ。初期のメソポタミア文明ができた南部(アラビア湾北岸)は肥沃な大地以外に何もなかった。また文明を作り上げたシュメール人は海に出ていって産品を輸入することをしなかった。では誰がメソポタミアに必需品を送り届けたか?それが「隣人たち」だった。
そして、この本によれば、この「隣人たち」のことを「原(プロト)エラム文明」と呼んでいる。
まず、「エラムとは何か」から
エラム(Elam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。紀元前3200年頃から紀元前539年までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である。
ここの連中たちが、メソポタミアに物資を供給する交易ネットワークを作った。アラビア湾の対岸(アラビア半島側)にも植民してアラビア湾からの海路の交易も支配した(植民の目的はアラビア半島のハフィート山の銅山開発*2)。
この文明は前27世紀のうちにメソポタミア側に首都であったスーサを侵略されて終わりを遂げる。
トランス・エラム文明
原エラム文明が推戴した後しばらく経って、交易ネットワークが再生した。これがトランス・エラム文明と呼ばれるものだ。
スーサがメソポタミアに占領され、原エラムのネットワークは崩壊したが、イラン高原には、アラッタを首都とする新たな都市ネットワークが形成さらたことが推察される。
この新しい都市ネットワークを、考古学では「トランス・エラム文明」と呼んでいる。それは、字義通りには、メソポタミアから見て、東方の隣接地帯であるエラム(スシアナ)よりもっと遠い東方、つまりイラン高原(とさらにその延長地域)の文明を指す。この用語はピエール・アミエによって使われたのが最初で原エラム文明の後身であった。
出典:後藤氏/p76-77
ウンム・ン=ナール文明
また聞きなれない文明だが、この文明はトランス・エラム人が作ったようだ。
前2500年頃、アラビア湾のアラビア半島側の地域に「湾岸で最初の国際性の高い都市文明が成立する」*3)。これを後藤氏はウンム・ン=ナール文明と呼んでいる*4。
出典:後藤氏/p113
イラン高原の北部のステップを通る交易路に加え(イラン高原のほとんどが沙漠)て、南路の海路が重要性を増してきた結果だ。
この文明の成立はトランス・エラムとの影響の他に、おそらくメソポタミアの需要の拡大の影響が一番大きいだろう。そして物資供給地域としてインダス文明圏が重要を増してくる。
インダス文明の登場
やっとここでインダス文明の登場。
トランス・エラム文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉と成る所はないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた。その西側、バルーチスターンの山地に住むハラッパー文化の人びとと、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。彼らは低地に降りていった。
旧世界において、前2600年より早い時期から都市文明が存在したのは、エジプト、メソポタミア、そしてイラン高原の三カ所であった。都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人びとに、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導のもので行われたことが明らかで[ある]。
出典:後藤氏/p87
インダス川が流れるシンド(スィンド)地方も乾燥地帯だが、インダス川という大河があり灌漑農業ができた。メソポタミアの灌漑農業の技術をここに移植できたら穀倉地帯になると考えたのだろうか。
前回の記事「インダス文明①」でウィーラー氏がメソポタミアの影響下でインダス文明が生まれたという主張を紹介したが、上のようにトランス・エラム人を間に挟んだとすれば説得力があるのではないか。
出典:後藤氏/p66
インダス文明の輸出品「ラピスラズリとカーネリアン」
インダス文明圏の産物は南北両方の交易ルートを使ってメソポタミアに供給されている(上の地図参照)。
ここで装飾品の輸出の話。
古代の装飾品と言えばラピスラズリが有名だが、インダス文明圏の輸出品目の中ではラピスラズリの他にカーネリアンも挙げられる。カーネリアンは紅玉髄(べにぎょくずい)とも書かれている。
ラピスラズリはアフガニスタンのバダフシャーン州(バダクシャン)が原産地*5(ここもインダス文明圏)、カーネリアンの原産地はロータル遺跡のあるグジャラート州にあった*6。またドーラビーラ(グジャラート州)はカーネリアンをビーズにする加工で栄えた*7。
ラピスラズリが青い石(ラピスラズリ<google画像検索参照)
カーネリアンが赤い石(カーネリアン<google画像検索参照)
NHKスペシャルの本に座談会のコーナーがあって、この二つの装飾品の話が出ていた。
近藤[英夫氏] インダス文明がまだ成立する前の、紀元前3000年から紀元前2500年ぐらいまでの西アジアの話をまずいたします。このころ、東から西に運ばれた代表的な物資はラピスラズリです。ラピスは採れる場所がはっきりしています。アフガニスタンのバダクシャンです。それがイラン高原からスーサを越えてメソポタミア方面へ運ばれていった状況は、ここ20年ぐらいの間にかなりはっきりしてきています。どういう理由からか、紀元前2500年ぐらいを境に物があんまり動かなくなる時期がある。ラピス交易は、紀元前3000年から2500年ぐらいがいちばん盛んなときで、それを越えると下火になるんですね。
ラピスの交易が盛んなころは、まだインダス文明はできてないんです。ヘルマンド川流域のムンディガクとか、シャハル・イ・ソフタ、それからケルマーンのテペ・ヤヒヤ、シャハダードというアフガニスタン、イランの諸都市を結ぶルートの中で動いているのが、紀元前3000年から2500年頃のことで、紀元前2500年を少し過ぎる頃になると、ヤヒヤもシャハル・イ・ソフタも衰退し始めてくる。
替わって動き出すのが紅玉髄(カーネリアン)なんです。紅玉髄の製品が、おそらくインダス川から海路を使ってオマーン半島やバーレーン、すなわちマガンとかディルムンとよばれた湾岸の土地、あるいは直接メソポタミアのウルにまで運ばれたのかもしれない。インダス文明の出土遺物で圧倒的に多い宝飾品は紅玉髄のビーズ類なんです。
前2500年といえば、ウンム・ン=ナール文明が都市文明として成立したころに当たる。この文明を誕生させた原動力の一つとしてカーネリアンが挙げられるかもしれない。装飾品の流行り廃りの交代劇が都市の興亡に関わっているかもしれない。
以上でインダス文明は終わり。
「大文明」という印象は感じられない。アメリカ大陸の古代文明2つを入れて「6大文明」という言葉を提唱している人もいるらしいが、おそらくアメリカ大陸の古代文明のほうがインダス文明より「大文明」で重要なのだろう。
過去の記事「 「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった 」で書いたように「四大文明」は便宜的なものなので否定しても仕方ないが。