歴史の世界

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明

シュメール地方の西方にはエラムがあった。エラムは東方からシュメールまでの物流ネットワークの要地であった。エラムはその近さからシュメール文明の影響を多大に受けながらも独自の文化文明を築いた。

今回はその初めの文明「原(プロト)エラム文明」について書く。

エラムの地理

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出典:エラムwikipedia*1

エラムの地はザグロス山脈ペルシア湾に挟まれた地域を指す。この地域の中心都市はスーサ(スサ)と言い、「スーサとその周辺」を意味する「スシアナ」はエラムと同義に使われることがある。

このエラムの地は現在はイラン国のフーゼスターン州(の一部)である(スーサの現代名はシューシュShush)。

フーザスターン州は基本的に平野部と山岳地帯に二分される。平野部は南西方面に広がり、カールーン川、キャルヘ川、ジャラーヒー川によって灌漑されている。山岳地帯は北西方面で、ザーグロス山脈の南嶺をなす。

常流する大河が州内を貫流する自然環境は、その豊かさにおいてイラン国内で追随を許さない。

出典:フーザスターン州<wikipedia

この州の気候は地中海性気候とステップ気候のどちらかだが、スーサ(シューシュ)は河川のおかげで農耕が可能な地域であっただろう。しかし私が読んだ参考図書にはスーサの農耕についての言及は無かった。少なくともシュメール地方のように肥沃な土壌は持っていなかったのだろう。

エラムの範囲の変化について

エラムの地」と言えば上記のような地域を指すのが一般的だが、時に、エラム人が実効支配した地域を指したり、彼らが築いたネットワーク圏を指したりすることがある。

エラムの中心都市スーサと南メソポタミア(特にシュメール地方)の関係

シュメール地方は肥沃な土地を有しているが、木材はあまり(ほとんど?)育たず、鉱物などは無かった。つまり食糧以外の必要物資はほとんど輸入に頼った。

いっぽう、エラムの中心都市スーサに繋がるイラン高原は乾燥地帯で農耕はほとんどできない地域だが、鉱物など物資はそこそこあった。この地の人々は原材料を加工してシュメール地方に売り込むこともした。

エラムの中心都市スーサはイラン高原からザグロス山脈を横断してシュメールに入るルートの西側に位置していた。

スーサの最初期は独自の文化を持っていたが、上記のような位置関係から交易の要地として発達し、基本的にはイラン高原を含む(シュメールから見て)東方の人びとの交易の拠点の役割を果たした。しかしシュメール人の支配を受けることも数度あった。

スーサと原エラム文明の考古学

時代区分(編年)は後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015/p38-)による。


スーサⅠ期 前五千年紀末~前3500年頃
スーサⅡ期 前3500年~前3100年頃
スーサⅢA期 前3100~前2900年頃
スーサⅢB期 前2900~前2750年?
スーサⅢC期 前2750年?~?
前27世紀 原エラム文明の終わり


Ⅰ期メソポタミアはウバイド期の頃だがほとんど無関係で独自に発達した。

Ⅰ期の集落は全貌を知ることができないが、「単なる民家を超える規模」の建物、巨大な多葬墓が発見されている。Ⅰ期の後半では、多数のスタンプ印章が出土しており、その型式も変化に富んでいるので、前四千年紀前半のスーサには、他地域との交流のあるエラムの中心的都市が存在したことがわかる。

出典:後藤氏/p39

Ⅱ期メソポタミアウルク期と並行する。この時期の都市ウルクの人びとは各地に物資を求めて交易ネットワークを築いた。いわゆるウルクネットワークシステムだ*2

このネットワーク網にスーサも組み込まれる。この時期の遺物からは土着のイラン的要素が消えてウルクからの文化に変化した(メソポタミア化した。後藤氏/p39-40)。

ⅢA期メソポタミア期のジェムデト・ナスル期と並行する。前3100年頃にウルクネットワークシステムが崩壊し、スーサは再び独自の文化を蘇らせた。

「原(プロト)エラム文字」(絵文字)はこの時期に初現し、この文字で書かれた「原エラム文書」はイラン高原やスーサの東南方面からも出土している。これはウルクネットワークに代わるものが築かれたことを意味する。後藤氏はこれを「エラム文明」と書いている。

イランの地からは「スーサから配布された、あるいはスーサから来た書記によって書かれた原エラム文書や、非メソポタミア的な印章やその捺痕など」(p47)が出土しており、スーサがこのネットワークを主導している表している。

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エラム文明の物流ネットーワーク

出典:後藤氏/p43

ⅢB期メソポタミアの初期王朝時代Ⅰ期に並行する。この時代になると、再び「メソポタミア化」が進む。すなわち「初期王朝時代Ⅰ期の土器が主体を占めるようになり、原エラム文書は減少する。このことは原エラム文明の衰退と理解してよいだろう」(p42)。

ⅢC期メソポタミアの初期王朝時代Ⅱ期に並行するとされているが、わずかな史料しか得られていないので詳細は不明(p42)。

この時代のあいだに、シュメールの有力都市のキシュ市の王エンメバラゲスィ(エンメバラゲシ)がエラムを侵略したという説があることは、記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」第三節「シュメールの「王名表」から」で紹介した。

なぜエンメバラゲシ王はスーサを攻撃したのか?後藤氏は以下の「シナリオ」を書いている。

メソポタミアの支配者たちが首都スーサに対して行った軍事的侵略によって、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。スーサ以外の都市に対する攻撃は知られていないので、それはネットワーク全体に対する攻撃ではなく、メソポタミアと直接交渉関係にある中心都市スーサ、あるいはそれを含むエラム地方の一部に対する局地的侵略と支配であったと思われる。しかし前2700年頃から前2000年頃までのスーサでは、「王の町」とアクロポリス丘で連続的住居が営まれており、外部からの攻撃で都市機能が壊滅し、廃墟化したわけではなかったことを物語っている。この種の攻撃は、都市の破壊を目的とするものではなく、武力を使って強引に行われる、自らに非常に有利な商取引の一形態だからである。足元を見られて高い買い物をさせられているという、売り手に対する消費者としての憤激から、メソポタミアの支配者たちは「悪徳商人スーサ」の懲罰に赴き、抑え込んでタダで商品を買ったというわけである。

出典:後藤氏/p68(太字強調は引用者による)

エラム文明はこれで終焉を迎えるが、スーサやエラム勢力は存続し続け、シュメール人たちが遺した文書にはエラムやスーサのことが度々言及されている。

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出典:後藤氏/p66

アンシャン(ファールス地方)の中心都市、タル=イ・マルヤーン

ファールス地方はアケメネス朝やサーサーン朝のペルシア人の故地として有名だが、ここではペルシア人(アーリア系)がここに住み着く以前の話をする。

ファールス地方は前三千年紀ではアンシャンと呼ばれていた。狭義のエラム(≒スーサの周辺、スシアナ)とは区別されるが、普通はエラムの一部とされる。

中心都市はタル=イ・マルヤーン(Tall-i Malyan)。原エラム文明の有力都市であり、スーサに次ぐ都市である可能性がある(p46)。

メソポタミアとインダスのあいだ』(p45-46)には、W・サムナー氏の主張を紹介して、タル=イ・マルヤーンの変遷を書いている。

タル=イ・マルヤーンは前六千年紀に定着農耕民が住み着き、前五千年紀末にその人口は頂点に達したが、前四千年紀前半から中盤にかけて急速に減少した。

すなわち定着農耕民の遊牧民化という現象が起こる。その原因は、当初は成功していた河川による灌漑の失敗、土壌の疲弊(塩害の発生)などによるもの[だ]。[中略] 定住農耕村落の解体が、一方ではテントを携えた移動生活への転換、そして他方では農耕に携わらない都市生活の確立という結果をもたらしたものであり、ここではメソポタミアにおけるような農耕社会の成熟・発達とはまさに正反対の理由で、最古の都市社会が誕生したことになる。

出典:後藤氏/p45

この遊牧民の都市の人口は4000人、という数字を紹介している。遊牧民化した人びとは原エラム文明のネットワークの中に組み込まれた。この都市はスーサとは無関係に発生し、メソポタミアとの関係も無かったが、原エラム文明の一部になってから、メソポタミアと断続的に関係を持った。

ここでは営業規模のパン焼き竈や銅製品の生産、専業工人による石器、ビーズ類、象嵌用貝殻片の製作など、多彩な工芸品の生産活動を物語る工房址が明らかにされている。明らかに遠隔地から搬入された素材として、黒曜石、金、ラピスラズリトルコ石、紅玉髄(カーネリアン)などの成品、未成品がある。工芸品に彫刻された図像にメソポタミア的要素は見られず、いずれも原エラム文明に特徴的なものと指摘されている。

出典:後藤氏/p46

このようにして、メソポタミアに原材料(一次産品)を売るだけでなく、加工して付加価値を付けたもの(二次産品)を売ってメソポタミア穀物を得ていた。

タル=イ・マルヤーンは原エラム文明の終焉と同じ時期に人口が極端に減少した(歴史の舞台から消えた)。

エラム文明の実像と諸都市群

上のタル=イ・マルヤーンの変遷は他の原エラム文明の諸都市群も辿った道ではないか、と後藤氏は推測する。とくにイラン高原は乾燥地帯でシュメール地方のように農耕社会からの都市誕生など考えられなかった。これらの都市は大量の商品を買ってくれるシュメール地方が有って初めて成り立つ都市だった。そしてこれを誕生させたのは上位都市(スーサ?)によって始められたのではないだろうか、と。

イラン高原に広く分布する原エラム都市群はメソポタミアウルク文化が示した拡散現象とは異なる性質のものである。ウルク国家は、かつてメソポタミア南部の低地に発し、北部、シリアなどへ植民政策を実施した。したがって、先に述べたそれらの都市では、中心地の文化がいわばパッケージとして移植されたものと捉えることができる。これに対して、原エラム都市群では、考古学的遺物の主体を占める土器にしろ、特殊なもの(遠隔地からの搬入品)を除き、基本的に土着の先史土器の伝統によるもので、各都市に共通の内容をもつものではなかった。スーサはメソポタミアの都市であるかのような土器群をもっていたが、他の都市はそうではなかった。これらの都市に共通しているのは、おそらくスーサから配布された、あるいはスーサから来た書記によって書かれた原エラム文書や、非メソポタミア的な印章やその捺痕などであり、イラン高原の先史諸文化の伝統をもつ地方的文化に、それらが付加されているのが特徴である。

出典:後藤氏/p47

このようにエラムが諸都市群をゆるやかにコントロールして各地から集めた商品をメソポタミアに売りつけた。「原エラム文明とは、総体としてこうしたメソポタミアの必要物資供給を行うための陸上ネットワークであり、メソポタミアの農耕文明とは相互補完の関係にある、非農耕文明であった」(p48)。