歴史の世界

前漢・霍光政権②:昭帝の死去から宣帝即位まで/霍氏一族の族誅

霍光独裁政権は宮廷・朝廷内でいろいろな事件はあったものの、内外の政治は基本的に順調だった。霍光は天珠を全うした。霍光の一族はその権力を受け継いだが、宣帝がこれを誅滅した。約3300字。


前79年 匈奴に属していた烏桓が離反して抗争状態になる。
前74年 昭帝死去。宣帝即位。
前72年 霍光、5人の将軍と十数万騎の軍を派兵、匈奴は戦わずに逃げる。
前68年 霍光死去。
前66年 霍禹処刑される。霍一族族誅。


霍光政権の対匈奴・西域政策

桑弘羊を誅して霍光は全権を握ったが、霍光は恤民政策を採用したが桑人羊の富国強兵策も継承され続けた(規模は縮小されたかもしれないが)。

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出典:匈奴wikipedia*1

匈奴武帝代の「輪台の詔」(前89年)の頃にはすでに弱体化していた。

前79年、匈奴に属していた烏桓が離反して抗争状態になる。

[前79年]、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の恥に報復した。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。漢の大将軍の霍光は、この情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせ、遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏桓匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏桓に攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還し、平陵侯に封ぜられた。(参考資料:『漢書匈奴伝)

出典:壺衍テイ単于wikipedia

前72年には、西方の烏孫匈奴に攻撃されると漢に支援要請をする。霍光はこの要請を受け、5人の将軍と十数万騎の軍を派兵したが、匈奴は戦わずに逃げた。

しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。(参考資料:『漢書匈奴伝)

出典:壺衍テイ単于wikipedia

以上のように匈奴勢力は弱まる一方だが、霍光の死後もその傾向は変わらない。

眭弘の禅譲進言事件

昭帝の元鳳3年(紀元前78年)、泰山の莱蕪山で数千人の人の声が聞こえ、人々が見に行くと、3つの石を足にして大きな石が自立しており、その傍らに白い烏が数千羽集まった。さらに昌邑国では社の枯れ木がまた息を吹き返し、上林苑でも枯れて倒れていた柳の木が自立し、葉には文字のような虫食いの穴があった。その穴は「公孫病已立」と読めた。

眭弘はそれを「廃されて民となっている公孫氏から新たな天子があらわれる予兆である」と解釈し、友人の内官長を通じて「漢の皇帝は賢人を探し出し、帝位を譲り渡して自分は殷王、周王の末裔のように諸侯となって天命に従うべきである」と上奏した。

当時、若い昭帝を補佐して実権を握っていた大将軍霍光はこれを問題視して廷尉に下し、眭弘と内官長は大逆不道の罪で処刑された。

その後、戻太子劉拠の孫の劉病已が民間から迎えられて皇帝に即位すると、眭弘の子を郎とした。

出典:眭弘<wikipedia

この事件に対して西嶋氏は「当時の思想界の一端を知るうえでも、また、後年の王莽政権の成立と比較するうえでも、そしてまた、元服前の少年皇帝と霍光との関係を知るうえでも、注目すべき事件である」*2としている。さらに

ようするに、怪異現象によって、皇帝の退位を求め、代わりに賢人を探して皇帝とせよ、という趣旨である。この説は明らかに董仲舒の災異説を発展させたもので、その神秘的な呪術主義と禅譲説とを結合させた革命説である。当時の儒家の一派は、このような神秘主義と深く結びついていた。しかも、虫喰いのあとが文字となって現れたということは、いわゆる図讖(としん)である。

図讖とは、予言が人力によらない文字となって現れることであり、これを逆に作為して帝位に即いたのが後年の王莽である。それゆえ、この眭弘の上言は王莽時代の図讖の先駆形態であった。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p318-319

昭帝の死去から宣帝即位まで

昌邑王賀の即位・廃位

前74年、昭帝は21歳の若さで病死した。昭帝に子はなく、武帝の孫の昌邑王賀が帝位に即いたが、品行に難があったため27日で廃位され、かわって民間で育てられていた戻太子の孫の病已(へいい、当時18歳)が立てられて宣帝(在位前74年~前49)となった。この間の即位・廃位に関してはすべて霍光が主導した。

出典:太田氏/同著/p422

昌邑王賀の即位・廃位について西嶋氏の前掲書では6ページに渡って詳細に書き不自然さを書き表している*3。曰く「政権を新皇帝の手に収めようとするクーデター計画があり、これが霍光の耳にはいって、逆に霍光側から先制攻撃がかけられ、廃位計画が進められたのではあるまいか」*4と。しかし歴史が史書の通りであろうと西島氏の推測どおりであろうと霍光の正確な処理したことにより、この事件がその後の歴史に与える影響は殆どなかったようだ。自分の使っている参考図書の中でこの事件を詳しく扱ったのは西島氏の本だけだった。

昌邑王賀は即位はしたのだが、皇帝として数に数えられておらず諡もつけられることもなかった。彼の即位は「なかったこと」にされた。

宣帝の即位

紀元前74年、昭帝が崩御、昌邑王劉賀が一時即位するが品行不良を理由に廃立されると、儒教の経典、特に詩経論語・孝経に通じており、「質素倹約に務め、仁愛深い性格だ」という丙吉・霍光らの推薦により上官皇太后の詔を受け、まずは陽武侯に封じられ、間もなく即位した。即位した際に、忌諱が困難であることから即位の際に諱を病已(へいい)から詢(じゅん)と改めている。

昭帝崩御から昌邑王の廃立を経て宣帝の即位に至る一連の動きは、霍光の主導したものであり、政権は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。

出典:宣帝(漢)<wikipedia

宣帝の生い立ちも疑おうと思えばきりがないがこれをひっくり返す資料はない。とりあえず宣帝は霍光のお膳立てに乗ってその役割を全うした。

霍光の死と霍氏一族の族誅

前68年、霍光は天珠を全うして亡くなった。彼の権力は霍氏一族に継承された。霍光の子の霍禹は右将軍となって父の封邑を嗣ぎ、霍去病(霍光の兄)の孫霍山は奉車都尉(軍官)として尚書の事を行った。*5

この時、宣帝は24歳に達していた。彼は霍氏一族の独裁を良しとしなかった。宣帝は親政を意図して尚書の役割を制限した。すなわち、尚書の上奏文の検閲権を無くして、上奏文は皇帝に直接に届けられるようにした。これを皮切りに霍氏一族の権益を順々に削り、最後は霍禹を皇帝にするというクーデター計画の廉で霍氏一族は族誅された。

こうして宣帝は専制を敷くことになった。