歴史の世界

儒家(4)孔子(「礼」と「孝」)

儒教にとって、最重要の礼と孝を説明してみる。

「礼」とは何か

礼記(らいき)』は中国古代王朝・周の礼の規定とその精神を雑記した書物で、49篇からなります。本文の主要な篇の最後には規定を補足する「記」が付き、礼の背後にある精神が述べられています。

「礼」は支配層氏族内部の階層秩序の規定、つまり敬天・崇祖(天を敬い、先祖を崇拝する)の日常儀礼を伴う父系血縁集団の組織規定であり、祭・政・教・一致の秩序規定です。祖孫(先祖と子孫)・父子の上下を根幹として孝悌道徳(父母に真心で仕え、兄によく従う道徳)によって維持しようとしたものです。

出典:呉善花(お・そんふぁ)/日本人として学んでおきたい世界の宗教/PHP/2013/p219-220

日本人として学んでおきたい世界の宗教

日本人として学んでおきたい世界の宗教

  • 作者:呉 善花
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2013/06/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

孔子儒教の言うところの「礼」は単なる作法や型ではなく、上のように秩序や道徳を含む社会全体を覆うものである。

「礼」は孔子儒家が創作した

孔子は礼学の大先生だった。孔子は、古代の礼制を復元すれば中原(中華世界)に秩序が復活すると主張した*1

しかし孔子の生きた春秋時代末期は夏・殷はおろか西周滅亡からも300年も後の時代であり、各王朝の礼制を忠実に再現するような手がかりはほとんど無かった。

結局のところ、孔子の礼学の中身はそのほとんどが彼の空想の産物だった(浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999/p30)。浅野氏は『論語』よりこれを論証してみせたが(前回の記事「「儒」の起源」 参照)、西周代の金文からもその事がわかる。

『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』などは、孔子の後学となる儒家たちが春秋後半期から戦国・秦・漢期にかけて体系化してまとめた。

礼記』の諸篇では天子・諸侯・卿・大夫・士・庶人と身分ごとの守るべき礼制を提示しているが、このうち卿・大夫という呼称自体が西周末以前には存在しない。

『周礼』は、西周の官制や、その官が担う職掌儀礼などを記録したものとされているが、近年になって中国の沈長雲・李晶が、『周礼』に見える官制は西周の金文に見える官制よりも春秋期の諸侯国の官制に近いと指摘している。

要するに儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素(その中には本当に西周に由来するものも多少含まれていただろうが)を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p187

(礼制と金文の関係については上の本のp185-187。)

「孝」:儒教における最重要な要素

上述の佐藤氏は、儒家が礼制に道徳を付加したと説明し、最初に「孝」を説明しはじめる(周/p187)。ただしこの本での説明はわかりにくいので他の図書に頼ることにする。

儒教では、子の親に対する愛である「孝」に始まり、これを万人にまで拡大してゆけば人類愛としての「仁」に至ると考え、これは天から人間に与えられた人間の本性の働きであるとします。そのように、家族、社会、国家を一貫する普遍的な倫理・道徳があり、それにすべての者たちが従う形をもって、国家の法や一般社会の規範との一体化がはかられ、秩序が形成されるとします。

そのため儒教では、家父長制家族の倫理・道徳が、そのまま政治的な国家統治の倫理・道徳(法)にまで延長されます。またその哲学・思想は、家父長制観念の無限拡大といえる性格をもちます。

儒教社会では、民間に古くからある父系血縁集団(宗族)の霊魂観が、儒教の教えと強く結びついています。この霊魂観では、亡くなった父の霊は再び子の世に戻ってきて息子(長男)に憑依し、なおもこの世で生き続けると考えられました。そのようにして一族の霊魂は、息子から息子へと伝わっていって、永遠にこの世に生き続けるのです。古くは中国でも朝鮮半島でも、そうした霊魂観に基づき、父が亡くなると父の霊を呼び戻して息子に憑依させ、これをもって一家の新当主とする民間儒教儀礼が執り行われていました。

ここに、儒教が父系血縁集団の倫理・道徳として強く作用してきた理由があります。

日本に見られる先祖供養や葬式の形式は、もとは仏教のものではなく、中国の民間儒教の影響を強く受けたものといわれます。

儒教社会での最高の徳目は「孝」だといえます。日本では一般に、孝といえば親孝行のことで、両親への敬愛の範囲を出るものではないでしょう。しかし、儒教社会での孝とは、両親と祖先に対する孝であり、同時に結婚して子供を、とくに家系を継ぐべき男子を生むことまでをふくんでいます。

出典:呉善花氏/p215-216

  • 「仁」については次回に書く。
  • 霊魂観についてもっと詳しく知りたかったが、他に文献を見つけられたなかった。

さて、一般には最高の徳目は「仁」だとされていると思うが、呉善花氏は「孝」としている。私個人としては呉氏と他の本を読んでみたけっか「最重要な要素」は「孝」であると思う。孔子が古代中国における親子間の道徳倫理を社会全体にまで広げたのが儒教だということだ。

礼と孝

加地伸行氏によれば、「礼」の最単純モデルは親の喪礼であるとする。そこから説明して話を広げていく。

なぜなら、一般的に言って、親が子よりも後でなくなるという特別な事情を除くと、人間はほとんど必ず親の死を迎え、喪礼を行うからである。この必ず経験する、親に対する喪礼を基準として、それを最高の弔意を表すものとする。逆に言えば、最も親しいがゆえに、最も悲しむわけである。

そこで、親の喪礼の規定(礼制)が、こと細かに作られている。礼は形式で示されるから、悲しみの表現を形式に表わすという具体化を行なう。原則は最高度の悲しみの表現であるから、平常の衣服を着ないで、悲しみで身辺のことなどには気を配らないことを表わす喪礼用の姿となる[中略] 。

子は上述のような最も粗末な(それは最高の悲しみを表わす)喪服姿となるが、遺族といっても、死者から遠い関係になるもの、たとえば、死者の孫となると、遺子よりは、粗末でない喪服姿となる。[中略]

死者と弔意を表わす血族の関係あるいは君臣の関係を、喪装やその期間といった具体的な形で規定しているわけである。だから、血縁の関係あるいは君臣の関係が遠くなるにつれて平服に近く、喪に服する期間も短くなってゆく。

これが喪服のほんらいの意味である。だから、現代における葬儀のように、参会者のだれもが黒色の喪服姿というのは、儒教的でない。儒教流に言えば、遺族のみが喪服を着、死者と関係が遠くなってゆくのに比例して平服姿へと近づくべきものである。遺族と同じ喪服を身につけるということは、遺族の悲しみと同じということになり、死者や遺族に対して僭越ということになる。

出典:加地伸行儒教とは何か/中公新書/1990/p72-74

ページを少し飛ばして、「孝」と「礼」について。

孝とは何か、という弟子の質問に対して、孔子はこう答えている。

生〔生きている親〕に〔対して〕は、これに事(つか)うるに礼をもってし、〔親の〕死に〔対して〕は、これを葬るに礼をもってし、〔忌日などに、祖先〕これを祭るに礼をもってす。(『論語』為政篇)

すなわち、死生の上に孝を置き、孝の上に礼を載せている。この礼が社会の規範(それを延長すると最後は政治理論となる)であることは言うまでもない。そして、その礼の基準の役割を果たしているのが、親の葬儀を中心にしている喪礼である。

出典:加地氏/p77-78

礼と形式主義

孔子は、……[親への]愛情や[その死の]悲しみを<形として>表わし、共通の規則あるいは慣行として守ろうとした。すなわち<礼>がその具体的表現である。儒教とは、人間の常識を形として(大小や数量など)表現することでもある。そして、この礼を守ることによって社会の秩序が成り立つと考えた。

もちろん、礼は単なる形式ではない。ほんらい真情の真摯な表現である。孔子は「礼と云い、礼と云う。玉帛を云わんや」(『論語』用貨篇)と述べる。このことばは、「人は礼、礼というが、礼の根本は、それを行なう真情にあるのであって、礼式に使う玉や絹束(帛)の大きさや数がどうこうというのは、端々(はしばし)のことだ」という意味である。この孔子の非難にすでに現れているように、ともすれば、礼は形式に流されやすい。形だけ礼式にあっているが、それをしているときに、ともすれば、心はどこかに行ってしまっている、ということになりがちである。とすると、これもまた偽りとなってくる。

しかし、こうした形式主義への堕落を批判したのが、墨子たちや老子荘子たちである。

出典:加地氏/p109

加地氏はこのように書いているが、そもそも孔子の時代の人々(諸侯・貴族)は、形式的なものを欲して、孔子儒家の主張を採用したのだ。



孔子儒家は「仁」を説いたが、後世の中国を見ると、やはり儒教は形骸化して形式化したとしか思えない。


*1:浅野裕一/古代中国の文明観/岩波新書/2005/p63-64