歴史の世界

儒家(3)孔子(「儒」の起源)

wikipediaから引用。

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。

出典:儒教#起源 - Wikipedia

つまり、孔子より前の「儒」とはシャーマニズムの一種だったということだ。

加地伸行著『儒教とは何か』(中公新書/1990)を中心に もう少し詳しく書いていこう。

「原儒」

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

加地氏は孔子より前の儒を原儒と呼ぶ。原儒は職業シャーマンで、大半が超能力者の類ではなく、祈祷と葬送儀礼を職業としていた(p52-54)。

岡田英弘氏は原儒について次のように書いている。

本来の儒教[原儒のこと―引用者]は、先祖を祀ることを重んじ、その儀礼をいちいち定めた信仰であった。いわば葬式専門の学派だったらしく、葬式や副葬の儀礼についてはひどくうるさい。墨家の文献に『非儒篇』というのがあり、その中に当時の儒家について書かれている部分があるが、それによると、儒家というのは人が死ぬとやって来て、屋根に上がってホイホイと魂を呼んだり、鼠の穴をほじくって出てこいと叫んだりするので、バカバカしくてしょうがないとある。どうやらこれが儒教の本来の姿、つまり一般民衆の生活に根ざした姿であったようだ。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC/p179-180

原儒もいろいろな流儀があったのだろう(墨家儒家に批判的、岡田氏は中国に批判的な向きがあることに注意)。

祈祷や葬礼は現代日本では神主や坊さんがやってるが、孔子の時代には原儒がやっていたと思えばいいだろう。

大儒と小儒

儒教とは何か/p56-58)

原儒はもともとシャーマンだったが、いつからか「大儒」と「小儒」の2つの階層に分かれた。孔子はそれぞれ「君子儒」「小人儒」と呼んでいる。いつ分かれたのかは分からないが、私は識字率が上がるのは春秋時代末期の秩序が乱れた時期だと思っているので、孔子の時代かその直前だったのではないかと考える(春秋時代⑨ 孔子の登場 その1 時代背景 )。

「小儒」とは「シャマン系下層の儒」、つまり元来の原儒だ。「大儒」とは「王朝の祭祀儀礼・古伝承の記録担当官と遠く関わりを持つ知識人系上層の儒」。大儒が小儒から派生したということだろう。

もちろん、孔子は大儒(君子儒)に属した(『儒教とは何か』にはそう書いていないが)。

孔子は礼学の塾を開いて門人を集めたが、大儒というものが孔子の時代に確立していたのならば、孔子より前に礼学の塾があり孔子はそこで学んだと想像できるのだがどうだろう。

もう一つ、別の想像をするのならば、大儒の派生が春秋末期とすると、下剋上の徒が成金趣味でハイソな祭祀儀礼をしたいと原儒に依頼したのに対応するように大儒が出来たのかもしれない。孔子は成金の依頼に対応した大儒だったのだろうか。

孔子の学識の根拠はどこにあったのだろう?

夏や殷の礼制に関する孔子の特殊な知識は、いかなる方法で獲得されたのであろうか。孔子は語る。夏王朝の礼制がどのようなものであったのか、わしにはきちんと説明できる。だが杞の国の礼制は、わが学説を証明するに足る徴証とはならない。杞は殷に滅ぼされた夏王朝の祭祀を絶やさぬため、夏の末裔たちを封じた国家で、実際にその礼制に基づいて、各種の祭祀儀礼や国家行事が取り行われていたのである。もとより、長い年月の間に失われた部分もあろうし、変容した部分もあろう。それでもなお、夏王朝の礼制を復元しようとする場合、生きた化石のごとく現存する杞の礼制こそは、依拠すべき最大の物的証拠となるはずである。

しかるに孔子は、杞の礼制では、自分の理論の正しさを証明できないと言う。それでは、「夏の礼は吾能く之を言う」と誇る孔子の礼学的知識は、いったい何を論拠に組み立てられたのであろうか。[中略]

この不可解な現象に対し、孔子はその理由を「文献足らざるが故なり」と説明する。つまり文字資料(文)と賢者が伝える口頭伝承(献)が足らないので、杞や宋で現に実施されている礼制と、自分がそうであったと説明する夏や殷の礼制を埋め、両者を連続させることが出来ないのだ、というわけである。[中略]

要するに孔子は、語るに落ちる形で夏や殷の礼制に関する自分の学説には、ほとんど何の証拠もないと、自ら告白したのである。[中略] 孔子の学説は、ほとんど彼が観念の中に作り上げた、空想の産物だと言わざるをえない。[中略] 「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ」(『論語』為政篇)と教え諭した孔子の学問の、これが実態であった。

出典:浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999/p30

当時の礼学の大先生だった孔子がこのような知識量だ。

浅野氏の言い分が正しいとすると、大儒の知識はそれほど蓄積されていたわけでもなさそうだ。となると大儒が小儒から派生した時期は春秋時代末期だったのではないか。