前回からの続き。
泰山封禅と始皇七刻石は、全国巡幸の一部として行われた。そういうわけで、この2つも秦の皇帝が天下の支配者であることを万民に知らしめるための行為だ。
泰山封禅
封禅とは?
中国古代に天子の行った天と地の祭り。山上に土壇をつくって天を祭り、山の下で地を祓(はら)い清めて山川を祭った。
封禅は自然神祭祀の一環。馬彪氏によれば *1 、周王たちは諸侯を引き連れて泰山で自然神祭祀を行った。(泰山については後述)
封禅を行うことは天下を支配する君主(王・皇帝)の特権であり、場所は泰山に限られていたようだ。それと同時にこれを行うことで、天下の支配者の継承することを天界と地上界に表明することを意味する。
鶴間和幸氏によれば *2、 始皇帝は封禅の正式なやり方を知ることができず、秦で行っていた天を祭るやり方を採用した。その方式も記録されなかったので後世には遺っていない。
『史記』封禅書の斉桓公と管仲の逸話
『史記』には「封禅書」という巻がある。藤田勝久氏によれば *3、 司馬遷の父である司馬談が前漢武帝の巡幸に随行した際に情報収集をしたものが書かれている。
封禅書には春秋斉の桓公と管仲の逸話が書かれている。この逸話が作り話だとしても、後世の人々はこれを信じた。始皇帝は司馬談・司馬遷よりも前の時代の人間だが。
覇者となった桓公が封禅を行おうとしたところ、管仲がそれをたしなめた。
管仲曰く、
- 有史以来,封禅を行った帝王は72人(そのうち管仲の記憶するところで12人)
- 天命を受けたうえで封禅は行われる
- 封禅を行うためには祥瑞(しようずい)の出現が必要である
このように列挙して、桓公に対して「資格があるとお思いでしょうか?」と問い詰めた。桓公は引き下がらざるを得なかった、というのが逸話の中身。
桓公が封禅を行おうとしたのは自らが天下の支配者だと言いたいが為であったが、管仲は分不相応な行為が後の不幸をもたらすことをよく知っていた。
以上のように、管仲が桓公を諌めるために語ったことだが、封禅に関する上の内容は、後世では事実として語り継がれた。
泰山
ここで天下の祭祀がどうして泰山なのかという話を書く。
まずは場所から。
東方大平原の中央にある山東丘陵は平均500メートルほどの高さしかない。西高東低という中国の地形では、西方には数千メートル級の山々はいくらでもある。天により近づこうと思えば、そうした山に登ればよい。しかしあえてそうしなかったのは、東低の黄河下流の大平原の中央に鎮座する山東丘陵に、当時の人が畏怖を感じたからであった。大河の黄河でさえも山東丘陵を南北に避けるようにして東の海に注ぐ。こうした泰山の立地によって1524メートルという高さ以上の威容を感ずる。
泰山は始皇帝よりも前の時代から信仰の対象とされていた。後世の宗教にも少なからず影響を与えている。
以上のような信仰を支配することは、泰山封禅の目的の一つであっただろう。
始皇七刻石
始皇七刻石とは、秦の初代皇帝・始皇帝が権力誇示のために国内6ヶ所に建てた、秦及び始皇帝の徳を讃える7基の顕彰碑の総称。
始皇帝の側近であった李斯の筆と言われるが定かではない。秦の公式書体である篆書体で刻まれ、篆書体の数少ない書蹟として知られる。
- 「始皇七刻石」という呼び方はwikipediaに倣ったもので、特に定まった呼び方があるわけではないようだ。
- 現代にはこのうちの2基の一部が遺っており、篆書体の数少ない書蹟として書道方面からも注目されている。
引用にあるように始皇帝の業績を讃えた内容になっている。
場所については、鶴間氏によれば *4、 東方の山川祭祀の重要な場所に建てられている。
人民の支配と同時に、「私が地上の支配者です」と、天界へのアピールであったのかもしれない。
*2:鶴間和幸/中国03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国/講談社/2004/p70
*3:《PDF》中国古代の交通と祭祀-泰山の信仰 henro.ll.ehime-u.ac.jp › wp-content › uploads › 2001/12