歴史の世界

エジプト文明:初期王朝時代② 王朝時代の王名表/誰がエジプトを統一したのか?

「誰がエジプトを統一したのか?」「王朝時代の最初の王は誰か?」という疑問は当然興味が湧く問題だろう。この問題については、異論はあるものの、いちおう決着がついているようだ。

これに関連して王名表の話も書いておこう。

王朝時代の王名表

初期王朝時代の王統を記録している資料は限られているが、複数存在する。

これらを簡単に調べて書こうと思ったらすでに完成品が存在していたので、そちらを紹介する。

王名表と時代区分資料/古代王国 歴史之書 -王権の記録-

これらの資料の中で最も有名なのがマネトーの『エジプト史』だ。

マネトーはプトレマイオス王朝に、王家のために”エジプトの偉大な歴史を纏めて世間に公表しますよ”という意味で歴史書を書いた人で、いわば政府の雇われ知識人。マネトーはギリシャ語で本を書いていたので、ヒエログリフなどの古代エジプト語の読み方が忘れられてしまっていた時代でも資料として使うことが出来ました。

出典:上記のページ

また上記のページによれば、マネトーは「プルタルコスによれば」*1

マネトーが書いた『エジプト史』が「何のために書かれたか」は上記のように「王家のため」なのだが、さらに突っ込むと以下のようになるらしい。

プトレマイオス王家は、いわば突然エジプトで王になった、ぽっと出の一族。
しかも首都アレクサンドリアは、もともと町も何もなかった場所でその土地には歴史も何も無い。

となると、王家としては知識人を雇ってウチは歴史ある正当な王家ですという雰囲気を演出しないといけない。そこで雇われた一人がマネトー… というわけである。あるいは逆にマネトーが、プトレマイオス王家に対して「エジプトで王やるからには、こーしたほうがいいですよ」と上梓したともとれる。[中略]

たとえポッと出の王家であっても、何千年にも及ぶエジプトの歴史につなげられれば、即座に立派な伝統と格式を持つことが出来た。

出典:マネトーと「エジプト誌」の時代 ~その1~/現在位置を確認します。

プトレマイオス朝に箔をつけるために書いた、というわけだ。古代エジプトは最後のプトレマイオス朝を含めて全32王朝あるが、『エジプト史』は第31王朝まで書いている。

『エジプト史』自体は現存していないが、後世によく引用されたため、これらをつなぎ合わせたものが現在利用されているとのこと。

引用、孫引きで内容が違っていることもあるらしいが、『エジプト史』自体も他の資料によれば間違いがあるらしい。

現在、「第□王朝」のように書かれているのは『エジプト史』に倣った書き方。

誰がエジプトを統一したのか?

マネトーの『エジプト史』によれば、上下エジプト統一を果たした王、つまり第1王朝の初代はティニス出身のメネス。第1王朝はメネスを含めた8人の王から成るという。

他の王名表はどのように書いているのか。

現在われわれにしられている「トリノ王名表」、「アビドス王名表」、そして「サッカラ王名表」には、いずれも古代エジプト初代の王としてメニという人物の名前が挙げられている。[中略] このことから、ギリシア・ローマの古典資料の1千年ほど前に造られていたこれらの王名表の中で表された、エジプト初代の王とされるメニ王の名前が後世に伝わりミン、メネス、メナスとして伝えられたと考えることができる。[中略] これらの文字史料から、メニ、ミン、メナス、メネスという人物が同一人物であり、最初のエジプト王と考えられているのである。

出典:大城道則/ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p65

これにより、「メネスは誰か?」というのがエジプト学者(古代エジプト研究者)たちの研究や議論の対象の一つだった。

この議論が大きく進展したのは20世紀初頭のことだった。ピートリー(イギリスの考古学者)によってアビュドス遺跡が発掘調査された結果、同遺跡のウム・アル=カーブ(ウム・エル・カアブ)において第1王朝の王墓群が確認された。

アビュドス遺跡はティニス(現在のギルガ近傍)に近接している。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p84

  • U-j墓はナカダⅢ基の南西に王墓(第0王朝の墓)がある。
  • これに連続するように第1王朝の歴代王が連なっている。

多くの王墓の近くには2基1対の石碑が建てられていて、そこに所有者である王の名前が「ホルス号」の枠の中に記されていた。いずれの王墓もすでに著しい盗掘を被っていたものの、ラベル、印章を押捺した封泥(以下、「印影」と呼ぶ)などに記された文字・図像資料や、土器、石製容器、家具などをはじめとする考古学的資料を豊富に提供した。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p46

しかしこれで解決にはならなかった。

当時の王たちが自らの記念物に用いた王名は、「ホルス名」とよばれる王の即位名であった。一方、後の時代につくられた王名表に記された王名は、おそらくは誕生したときにつけられたと思われる別の名前であったため、同時代の記念物に両者を併記するようになった第5代デン(ウディム)王以前の王について、王名表との対比は容易ではない。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p9

こうしてナルメル以外にアハなども「メネス」の候補とされていた。

これが、ようやくナルメルに絞られるようになるのは20世紀末になってのことだった。ギュンター・ドライヤー氏を含むドイツの調査隊がウム・アル=カーブを再調査した時に、デン王の印影とカア王の印影を発見した。

「デン王の印影には5人の、カア王の印影には8人の第1王朝の王名が、統治順に記されていた」(高宮氏/2006/p47)。この最初の王がナルメルであることからナルメルが第1王朝の初代であることが確認された。残りの7王の実在・順序も確定した。

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出典:高宮氏/2006/p48

第1王朝の順序は以下のとおり。

  1. ナルメル
  2. アハ
  3. ジェル
  4. ジェト
  5. デン
  6. アネジイブ
  7. セメルケト
  8. カア*2

これに対する異論や後世の人々が考えたメネスとナルメルが本当に一致しているのかと言う問題はあるものの、ナルメルの名を記した資料が「南はヒエラコンポリスから北はデルタやパレスチナまで多数出土しているのでナルメルが全土を掌握した可能性は高い(高宮氏/2006/p47)。



*1:帝政ローマギリシア人著述家

*2:高宮氏/2006/p20 より