今回は第17王朝について。
この王朝がヒクソスを滅ぼし、エジプトを統一する。統一したイアフメス1世は第17王朝の王であったが、エジプトを統一したということで新しい王朝、第18王朝の初代に分類されている(イアフメスの先代王カーメスが第17王朝の最後の王とされる)。
第17王朝
前回に引用したものを再び引用する。
ヒクソスが第15王朝を樹立したことにより、第13王朝のファラオの末裔であるエジプト人の有力者たちはテーベに退くことになった。その支配者たちが第16・17王朝にあたる。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p132
当時の記録が断片的なものしか無いため第13王朝と第16・17王朝が具体的にどのように繋がっているのかは分からないが、とにかく16・17王朝は中王朝時代(第13王朝)のエジプトの伝統を継承したエジプト人による王朝ということだ(第16王朝については前回の記事参照)。
第17王朝の全体的な事柄についても、第2中間期の他の王朝と同じく、史料が少なく詳細なことは分かっていない。
出典:エジプト第15王朝 - Wikipedia (一部改変)
- 下部の焦げ茶色はクシュ王国(ヌビア)。
上は第15王朝と第16王朝とアドビス王朝の地図だが、第17王朝は第16王朝の後継王朝で、両者は第15王朝に臣従していたとされる。領域の変化については分からないが、それほど変わる余地は無い。
エジプト統一戦争
臣従から戦争へ
第17王朝は、おそらくは第15王朝に臣従していたというのが大方の見方だ。このことについては以下の物語から推測されている。
第19王朝時代に成立した『アポフィスとセケンエンラーの争い』という説話によれば、第15王朝のアペピ(アポフィス)王は「テーベの神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すように」という殆ど言いがかりのような要請を送っている。対してセケンエンラー(タア)は使者を親しく迎え入れ、アペピへの二心無きことを誓ったという。これが完全な史実とは考え難いが、タアもまた即位した当初は先代の王たちの方針を受け継いで、親ヒクソスの姿勢を維持していたと考えられる。
これがセケンエンラーの時代に戦争へと変わった転機については"あるミイラ"から推測されている。
上のリンク先でかなり詳しく書いてあるが、2021年にある発表があった。
考古学者のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)元考古相とカイロ大学(Cairo University)のサハル・サリム(Sahar Salim)教授(放射線学)は、セケンエンラー2世は戦場で捕虜となり、その後「処刑式」で殺害されたと結論づけた。
彼のミイラの頭部にはヒクソスの武器(斧や槍)の傷跡があり、手元は変形されているが、その他の身体はほとんど目立った外傷はなかった。このことから上のような結論がなされた。
ミイラの写真はAFPBB Newsやwikipediaのリンク先にある。
敗北から勝利へ
捕らえられた父王に代わってカーメスが王になり、戦争を継続させた。
カーメスについては彼自身が首都テーベのカルナック神殿に奉納した石碑が遺されている。これによると、現状維持を望んでいたの当時の大臣たちの前でカーメス王は以下のように説いた。
アヴァリスに1首長あり、クシュに他の首長あり。而して余はアジア人・ヌビア人の同盟とこのエジプトに割拠せるすべての輩の渦中に座す。…人皆、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。
カーメスは国をまとめてヒクソスに戦争を仕掛け、快進撃でヒクソスの首都アヴァリスの近郊まで兵を進め、そこで略奪をしたあと退却した。
古代エジプトの石碑は誇張が多いため、そのまま史実であると考えるべきではないとされるが、ともかく、カーメスはヒクソスと戦争を続け、次代のイアフメス1世に繋いだ。
エジプト統一
カーメスの弟、イアフメス1世(アアフメス1世、前1570-1546年)が悲願のエジプト統一を実現するイアフメスはヒクソスをパレスチナまで追いかけて滅ぼす。
彼の時代から新王国時代と第18王朝が始まるのだが、その後の話は別の記事で書く。