歴史の世界

法家(4)韓非子(『韓非子』とは?/著者と時代背景)

この記事より『韓非子』について書いていく。

今回は、時代背景の話がメイン。荀子と韓非の関係について。

韓非子』とは?

韓非子』は法家を代表する書。この書は戦国末期の韓非によって書かれた(ただし後代の複数の人々の手も入っている)。『韓非子』には法家の先人たちの主張が盛り込まれており、法家の集大成と言われている。

内容については次回から何回かに分けて書いていく。

著者・韓非の生涯

韓非の生涯は司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、貝塚茂樹は韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解を示しているが、いずれにしろ、その著作である『韓非子』にも『戦国策』にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわからない。[中略]

荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに紀元前260年の長平の戦い以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない(“且夫韓入貢職、与郡県無異也”)」といった状況であった(『韓非子』「存韓」編)。

故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。

韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。

出典:韓非 - Wikipedia

時代背景

上述したように、著者・韓非は戦国末期の人。彼が生きた時代は以下のような時代だった。

秦の独走が決定的になると、縦横家の口舌による外交はもはや無用のものとなり、戦国諸国では、国制の合理化が急速に進む。その帰結が秦漢専制国家である。現行の諸子百家の文献のほとんどは、この時期に成書したが、『管子』『司馬法』『周礼』『商君書』などは、来るべき理想国家のモデルを示すべく編纂されたものである。秦の相邦・呂不韋(?~前235)の『呂氏春秋』編纂など、思想統制の趨勢が現れ、儒家では孟子楽天的な性善説を否定する荀子(前340?~前245?)の性悪説が登場し、その弟子で法家の韓非子(前280?~前233)は、奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p56‐57(吉本道雅氏の筆)

戦国中期の諸子百家の全盛期と比べて、より現実的・合理的な風潮になっていったようだ。

韓非子』について《奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した》というのは個人的には言いすぎだと思うが、吉本氏は戦国中期の思想に比べて面白みに欠けると思っているのかもしれない。

韓非の師匠とされる荀子も時代の影響を受けた一人である。

荀子の影響について

韓非 - Wikipedia》に「荀子の影響」という説がある。そこからの引用。

韓非の思想への荀子の影響については諸家において見解がやや分かれる。

  1. 貝塚茂樹は韓非と荀子の間に思想的なつながりは認められなくはないが、商鞅や申不害らからの継承面の方が大きく、荀子の影響が軸となっているとの見解ではない。
  2. 金谷治荀子の弟子という通説を否定はしないが、あまり重視せず、やはり先行する法術思想からの継承面を重視する。
  3. それに対し、内山俊彦荀子性悪説や天人の分、「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから、「先王」の道を重んじ自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく、「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。

出典:韓非#荀子の影響 - Wikipedia

「先王」というのは堯舜や西周の初期の王を含む儒家が聖人として崇めている伝説上の王たちのこと、「後王」は春秋戦国時代で「現実に努力した王」 *1 たちのこと。

性悪説」で大事なことは、「人間は生まれながらに邪悪な心を持っている」という論ではなく、「生まれたての赤子は欲望むき出しの行動をする」という意味。荀子の言う「悪」とは「人の性は、生まれながらにして利を好むこと有り」(『荀子』性悪篇)、つまり欲があることで、これを矯正せずに放置しておけば、他人に危害を加えることとなる、だから教育が必要だ、というのが「性悪説」の考えだ。

そして荀子の場合の教育は「礼」だ。これに対して、韓非は「法」を教育して遵守させようと考えているのだが、この部分を除けば韓非は「性悪説」を認めていると言えるかもしれない。「性善説」論外だ。

「天人の分」とは、天(=自然現象。天災など)と人間との間には相関関係は無いとする説。当時は天命思想とか天人相関説など天(=自然現象。天災など)と人間との間には相関関係があるとする風潮が流行していた。 *2

荀子は占卜などのオカルト(当時は科学だと思われていた)も無駄なことだと主張した。

韓非もこれらと同意見で、卜占に関しては例えば以下のように言っている。

越王勾践(こうせん)は、国宝の亀を使った占いを恃(たの)みとして、呉と戦って敗退し、臥薪嘗胆の日々を送ることになる。以後亀などは棄ててしまって、法律を明確にし、人民の支持を得て呉に復讐を遂げた。(『韓非子』飾邪)

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p85-86

また天(自然現象)と人間の関係については語る必要があるどころか《正面から論ずるに足らない命題でしかなかった》*3

これらを見れば、韓非は荀子に影響を受けたと言えるようだ。ただし、韓非は当時の風潮(の一部)に従っただけなのかもしれない。まあ、こういうことを疑い出すと切りが無い。

(荀子については記事 《儒家(6)荀子》 に書いた。)