宗教戦争の最後で最大の戦争。ドイツ(神聖ローマ帝国)内の新旧宗派の対立から始まったが、他国の介入により拡大、全ヨーロッパに影響を及ぼした。
前史
プロテスタント同盟とカトリック連盟
ドイツではすでにシュマルカルデン戦争という宗教戦争を経験していたが、アウクスブルクの和議(1555)でいちおう収まった *1。 このあと半世紀の間に断続的に新旧宗派の対立が緊張の度合いを高めていった。
1607年から1608年にかけて、プロテスタントの帝国自由都市であったドナウヴェルトが、バイエルン公マクシミリアン1世によって強行的に併合され、カトリック化された。直後の帝国議会でカトリック勢力とプロテスタント勢力の対立が激化したこともあり、1608年にプファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主としてプロテスタント同盟[引用者註:ウニオン、Protestantische Union]が成立した。これに対抗したカトリック勢力は翌1609年にカトリック連盟(リーガ、Katholische Liga)を組織し、三十年戦争へと向かう両勢力の対立構図が強化されることになった。
皇帝たちの政治能力の欠如
この時の皇帝はルドルフ2世(在位1576-1612)だった。1593-1606年のオスマン帝国との戦争は国家とハプスブルク家を財政難にした。ルドルフは信教の自由を与える方針で事態の収拾にあたったが焼け石に水という状況だった。 *2
次代の皇帝を約束されていた弟マティアス(在位1612-1619)は兄と仲が悪かった。状況悪化に業を煮やしたマティアスは首都プラハに侵攻して兄から実権を奪取した(1611年。兄が翌年に病死して、弟が正式に皇帝になった)。マティアスも融和政策を進めたが、彼もまた対立激化を止められず1618年に三十年戦争が始まった。そして翌年に病死することになる。 *3
戦争開始の直接のきっかけの事件
きっかけとなった事件はプラハ窓外放擲事件(またはプラハ窓外放出事件)。1618年。場所はボヘミア王国の王都プラハ。
ボヘミア王国は現在のチェコ共和国の前身となる国。ボヘミアはベーメンと併記されるが、前者が英語読みで後者がドイツ語読み。
この時期、ボヘミア王国はハプスブルク家が王位を継承していた。王国だが神聖ローマ帝国の領域内。皇帝マティアスが国王であったが、1617年にフェルディナントに代わる。ただし、ボヘミア王国中央議会が実権を握っていた。プロテスタントも多かった。
1617年にあらたにベーメン王となったハプスブルク家のフェルディナントは、イエズス会修道士の教育を受け、熱心なカトリック信者であったため、ベーメンに対するカトリックの強制を強化し、プロテスタント弾圧を開始した。同時にベーメン王国ではチェコ語が公用語とされていたのに対し、ドイツ人官吏を送り込み、ドイツ語化をはかった。それらのハプルブルク家の信仰の自由と民族性を無視した措置にベーメンのチェコ人は強く反発した。1618年、数名の新教徒の代表がプラハで代官に抗議し、代官を役所の窓から投げ捨てるという挙に出た。
これがプラハ窓外放擲事件と呼ばれる事件。事件当日はフェルディナントは留守だった。
これより三十年戦争が始まる。
ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
三十年千戦争は大きく分けて4つの戦争があるが、その最初がボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)だ。以下、その経緯。
皇帝マティアスは対立を止めようとしたが、間もなく病に伏して影響力を失った(1619年に病死)。
ボヘミア王を追われたフェルディナントは皇帝を継承し、上の方で書いたカトリック連盟「リーガ」の協力を勝ち取った。さらにオランダ独立戦争において休戦中のスペインが軍隊を派遣した。
プラハ窓外放擲事件で代官を放り投げたプロテスタントたちはカトリック派であるフェルディナント及びハプスブルク家の王権を拒否してプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア国王に擁立した。だが、プロテスタントたちは「ウニオン」の協力を得ることができなかった。オランダが協力を申し出たがあまり役に立っていないようだ。
この戦争は1623年まで続いたが、1620年にはほぼ大勢はカトリック側の圧勝と決まっていた。この年にフリードリヒ5世は短い王位を追われ、フェルディナントが返り咲いた。これ以降、ボヘミア王国はハプスブルクの属領になり、プロテスタントは改宗か亡命を迫られた。
ただし、戦争は続く。
次回へ続く。