歴史の世界

古代ギリシア 前古典期(アルカイック期)①(ポリスの誕生)

古代ギリシアの時代区分の話

私たちが「古代ギリシア」と聞いてイメージするのはポリスが林立する小さな世界。

そのような世界は暗黒時代の後に起こり、アレクサンドロス大王の大帝国建設(それ以降をヘレニズム(時代)という)まで続く。

この間の歴史区分は前古典期(アルカイック期)と古典期に分かれる。

大雑把な歴史区分だと以下のようになる。

前古典期 前8世紀~前6世紀
古典期 前5世紀~前4世紀

ポリスの誕生

前8世紀に入り人口が急増し、各地に多くのポリス林立するようになる。ポリスとは都市国家の一種とされる。つまり政体を持った都市のことだ。ただし、アテネなどの例外を除けば人口は数千人規模でしかない。

ポリスがメソポタミアのように「都市国家→領域国家」とならなかった理由については統一見解はないらしいが、周藤芳幸氏は以下のように説明する。

ギリシアの土壌が相対的に貧弱なうえに広大な平野がないため、巨大な富を集積させて強力な支配者の地位に君臨するような存在が出現しにくかったこと、山岳が多く、近隣のポリスとの交流が、至難ではないにしても容易では無かったことが、おもな理由としてあげられるかも知れない。

出典:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p54(周藤氏の筆)

なお周藤氏によれば、ポリスの他に「エトノス」と呼ばれる共同体があった。ポリスが分布する地域とエトノスが分布する地域が併存した。ただし、「エトノスとはなにか」と語れるほど研究は進んでいないとのこと。

ポリスの特質

ポリスが作る政治システムは、ミケーネ文明のそれと全く違うものだ。

ミケーネ文明でも小国が林立していたが、国家には王がいて宮殿があって大きな墓があった。

これに対し、ポリスには王の代わりに(前古典期の場合は)貴族層が政治を担い、宮殿や大きな墓の代わりに神殿や劇場が建設された。これらの建物は貴族層が独占しているわけでなく一般人も利用できた。

前古典期の政治については資料が乏しいらしく、上述の『ギリシア史』では前700年頃の農民詩人ヘシオドス『仕事と日』のみから「たぶんこんな感じだろう」みたいな感じで書かれている *1。 それによれば、政治は貴族政ではあったが、文字ができ普及したことにともなって、一般人に有利な成分法が作成された。貴族と一般人は比較的に格差は小さかったと言える。

アクロポリスアゴ

アクロポリスアゴラはポリスの話とセットで出てくる用語だ。すべてのポリスにあったかどうかは知らないが、とりあえず必須単語として理解しておこう。

アゴ
古代ギリシア社会で、市民の政治、経済にまたがる生活の中心をなした広場。市民総会や公開裁判の慣行を早くから有したギリシアのポリス(都市国家)社会に特有の公共施設である。もともとは民の集会を意味したが、集会の開かれる場所にも転用され、ホメロスには双方の用例がみいだされる。[以下略]
[馬場恵二]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/アゴラとは - コトバンク

アクロポリス
古代ギリシアのポリス(都市国家)において、アゴラとともに中心市の主要部を構成した小高い丘。市街を見下ろす要害の地が選ばれ、ポリスの守護神をはじめとする神々の神殿が建てられていた。アクロポリスは緊急の際の避難所や要塞(ようさい)としての役割も有しており、またその神殿の内部はポリスの国庫として利用された。アテネアクロポリス、コリントのアクロコリント、テーベのカドメイアなどが有名である。[以下略]
[前沢伸行]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/アクロポリスとは - コトバンク



*1:p55, 59-60

古代ギリシアの暗黒時代(初期鉄器時代)

前回からの続き。

歴史区分:「暗黒時代」と「初期鉄器時代

前1200年頃にミケーネ文明は崩壊したことは前回書いた。ミケーネ文明はエーゲ文明の最後の一つなので、エーゲ文明もここで終わった。

古代ギリシアの新しい歴史区分は「暗黒時代」と言われてい。しかし20世紀末頃には専門家の間では「初期鉄器時代」とも呼ばれるようになる。

ただし、2017に出版された本にも「暗黒時代」と「初期鉄器時代」とが併記されている *1。 一般にはこの移行は浸透していないように思われる。

「暗黒時代」と呼ばれたのは、ミケーネ文明崩壊後に文字資料が無くなったことが主な理由だ。これが無くなったことで詳細なことが分からなくなった。このほかにも、人口減少や土器の質の低下が見られた。

しかしこの時代の研究が進むに連れて、暗黒時代と呼ぶに値しないという議論が為されて代わりに「初期鉄器時代」という名称が使われるようになった。 *2

オリエントも前1200年を境に、青銅器時代から鉄器時代に代わる。

暗黒時代(初期鉄器時代)の中の時代区分

暗黒時代(初期鉄器時代)と呼ばれる時代は前1200年から前750年まで。専門的には違うらしいがとりあえずここではこのようにしておく。

下記の時代区分は桜井万里子編『新編世界各国史17 ギリシア史』による(筆は周藤芳幸氏)。この時代区分(編年)はアテネのケライメコス遺跡の研究成果によって成り立ってるようだ *3。 ケライメコスは初期鉄器時代を通して墓の役割をしていた(その後もその役割は続いた)。

前12世紀 ミケーネ文化期
前11世紀後半 亜ミケーネ文化期
前10世紀 原幾何学文様期
前9世紀~前750年 幾何学文様期

幾何学文様期は初期・中期・後期と分かれるがここではそこまで細かくは見ていかない。

各時代の様子

下記も主に『ギリシア史』に依っている *4

前1200頃にミケーネ文明の政治システムは崩壊したが、ミケーネ文化は前12世紀が終わるまで続いた。

前11世紀。土器の様式がミケーネ文化のものを受け継いでいることから「亜ミケーネ文化期」と呼ばれている。

前11世紀に入ると遺跡・遺物が激減する。これらの原因としてはギリシア全体を通して牧畜中心の移動性の高い社会が基本であったことが挙げられる。人口が激減したようにみえるのも、これに関連するかもしれない。

前10世紀の原幾何学文様期の名称の由来は同心円などの簡単な幾何学的な文様が特徴の土器に由来する。この頃の特徴として火葬が挙げられる。

アテナでは火葬した骨はアンフォラ(大型土器)に納められて埋められたのだが、この時にアンフォラの取っ手の位置によって男女の区別をした。このことは、後の古代ギリシアの男女差別につながっているかもしれない(異論もある)。

前10世紀になると、大規模な建築物が再び見られるようになった。これらの建物の主は在地の有力者の居館だとされている。これらの有力者は人類学でビッグマンと呼ばれる。

ビッグマンとは……統治を維持するための機構に支えられた首長とは異なり、個人の優れた素質と能力を背景に君臨する一代かぎりの支配者のことである。

出典:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p46(周藤氏の筆)

ビッグマンの居住は彼の埋葬とともに破壊され、円形の塚となった。しかし、ビッグマンを戴く社会は不安定で、後代のポリスに発展しなかった。この社会は明らかにミケーネ文化のものとは違う。

これと対象的にアテネやクノッソス、アルゴスなどはポリスに発展したわけだが、その社会構造についてはよく分かっていないらしい。

いずれにせよ、当時のギリシア地域はミケーネ文明のような斉一的なものではなく、各地域の差異が大きかった。その代表例が、ビッグマンの社会と過去にポリスに発展する社会だった。

前9世紀から前8世紀(の前半)の幾何学文様期と呼ばれる時代は緩やかに(人口的にも、文化文明的にも)回復した時代だった。さらには交易も盛んになる。この当時は、前1200年の崩壊からいち早く立ち直っていたフェニキアが東地中海の交易ネットワークを構築していた。後発のギリシア諸勢力は彼らを追いかけるように交易集団として発展していく。

前8世紀の後半になると、いよいよ「暗黒時代」が終わり、ポリスの時代が幕開けする。



エーゲ文明④ ミケーネ文明の構成/崩壊

前回からの続き。

ミケーネ文明の担い手は誰か?(線文字Bについて)

ミノア文明の担い手(支配者層)はおそらくはオリエント出身の人たちだったのに対し、ミケーネ文明のほうはインド・ヨーロッパ語族系(印欧語族系)の人たちであると考えられている。

その理由は、ミケーネ文明圏で発掘された文字、つまり線文字B印欧語族系だったからだ。

印欧語族系のことは以前書いた。

印欧語族系の起源は黒海北部と考えられ、この言語を話す人たちは馬車を使って四方に拡散した。その一部がバルカン半島の南部までたどり着いたのがミケーネ文明の担い手たちだ、ということ。

ちなみに、線文字Bは線文字Aを真似て作成された。行政の記録・管理のために使用されて不必要になれば破棄されたので、現在まで遺っている資料は少ない。オリエントの大国のように歴史を遺すような碑文は作っていなかった。

崩壊/「海の民」

ミケーネ文明の崩壊は前1200年頃。崩壊の原因は諸説あり定まっていないが、いちばん有名な原因は「海の民」だ。

「海の民」については以前に書いた。

複数の民族からなる大規模な集団で、エーゲ海周辺を荒らし回った。議論はあるが、ミケーネ文明のほかヒッタイト文明も滅ぼしたと言われている。最終的にエジプト王国が撃退して霧散した。

しかし結局のところ十分な証拠は得られていないようで、研究者的には「いろいろな要因が重なって崩壊した」とお茶を濁すしか出来ないようだ。

とにかく、ミケーネ文明の諸王国の政治行政システムは崩壊して文字資料は途絶えた。文化的要素はその後も続いたがその後で途絶える。以降は「暗黒時代」と呼ばれる時代となる。



エーゲ文明③ 後期青銅器時代/ミケーネ文明の誕生

前回からの続き。

前回書いたミノア文明の後継がミケーネ文明。

ミケーネ文明とは?

「後期青銅器時代≒ミケーネ文明の時代」

「ミケーネ(あるいはミュケナイ)」はペロポネソス半島西部にある古代都市で、この文明(時代)の代表的な都市。これにちなんでミケーネ文明と呼ばれる。

ただし、ミケーネ文明はミケーネだけが文明の中心だったのではなく、小規模な勢力(王国)がいくつかあった。

そして「互いに合従連衡を重ねた結果、……似通った王国を築いたのだろう」 *1


Map of Mycenaean Greece 1400-1200 BC: Palaces, main cities and other settlements.

出典:Mycenaean Greece - Wikipedia *2

この地域の文化・文明はミノア文明圏の中で発展し、最終的にはその文明を凌駕することになる。

ミケーネ文明の始まりについては諸説あるが、このブログでは周藤芳幸氏に従って、前1650年頃とする。 *3

墓から分かること:その①副葬品の多さと交易ネットワークの広がり

ミケーネ文明の誕生より前までは、ギリシア本土 *4 は、初期青銅器時代の終わり頃に起こった戦乱・崩壊から立ち直れず、他地域に比して文化的に遅れを取っていた。

しかし、前1650年頃の古代都市ミケーネの墓 *5 は、「絢爛豪華たる遺物が副葬されていた」 *6

これらの副葬品はエーゲ海周辺だけでなく、南のアフリカのものから北のバルト海のものまで含まれる *7。 これにより、クレタ島の勢力と比べて北方のネットワークに強みを持っていたと考えられる。

この頃からミケーネ文明の発展が見られる。エーゲ海のネットワークの中心が、時間をかけて、クレタ島からギリシア本土へ移っていく。

墓から分かること:その②新しい文化の流入

副葬品からさらに別の重要なことがわかることができる。

ミケーネ文明はクレタ文明から大きな影響を受けていたが、別の大きな特徴も持っている。

それが武器類の副葬品だ。これに関連して二輪馬車(戦車、チャリオット)が描かれているレリーフもあった。これについて周藤氏によれば、山がちなギリシア本土では戦車は役立たなかったはずで、実用的なものというより支配者たちにとってステイタスシンボルのようなものだった *8

ちなみに、私個人としては、チャリオットが地中海で戦闘の主力になったのはミタンニが大国にのし上がった前1500年以降のことだと思っている。前1650年にエジプトを支配したヒクソスがチャリオットを以って侵略を成功させたという説は間違っていると思っている。

周藤氏は以下のように書いている。

戦車は前二千年紀の前半に環東地中海世界に普及するようになった当時の最新兵器であり、走行に適した平坦な土地が広がるアナトリア高原やエジプトのデルタ地域では、やがて戦争の主役になっていく。[中略]ミケーネの円形墓域の被葬者たち[=支配者たち]が戦車をきわめて重視してたらしいことは、彼らが環東地中海世界の諸文明の覇者たちと王権をめぐる価値観をともにしていたことを物語っている。

出典:ギリシア史/p36

ここから、戦車を使いこなせていなかったのはミケーネの支配者たちだけではなかったということが分かる。ただし、周藤氏が戦車とミタンニやヒクソスについて私と同じ考えかどうかは分からない。

すくなくとも、印欧語系のギリシア語を話す人々がチャリオットを駆ってギリシア本土に侵略したというシナリオは史実ではないということだ。

墓から分かること:その③権力集中の度合い

上でかいたように、発見された副葬品はミノア文明時代に比べて豪華になっている。これは支配者たちの権力がより強力になっていることを示す。

上では前1650年頃から始まる「円形墓域A(Grave Circle A)」という墓について書いたが、前1500年頃になると「トロス墓」と呼ばれる大規模な墓が造られるようになる。

出典:アトレウスの宝庫 - Wikipedia

トロス墓の代表例が上の「アトレウスの宝庫」。この墓は宝庫でもなければ、ギリシア神話に登場するアトレウスとも何の関連もないのだが、その贅沢な造りが当時の支配者の権力の度合いを物語る。

トロス墓はミケーネ文明圏全土に一様に流行したわけではないが、当時の権力の度合いを示すものとしては十分だ。ちなみに、この墓は個人のみのものではなく、家族墓。

通文化的には、社会の最上層に位置する特定の個人や集団のために大規模な墓を築く習慣は、しばしば首長制社会が発展して初期国家へと移行する段階に出現する。エジプト古王国のピラミッドや、わが国の古墳はその典型的な例である。また、この段階では、権力が首長(王)へ集中していくにつれて、位階的な社会構造を安定させるための統治組織や表象の体系が整備されていくのが一般的である。[中略]この時代の諸王国は、小規模ながらも同時代の西アジアと肩をならべる初期国家へと接近しつつあったのである。

出典:ギリシア史/p36

首長制社会については前回書いた。周藤氏はミノア文明が首長制社会、ミケーネ文明が初期国家としている。

当時の西アジア(特にレヴァント)には小規模な王国がたくさん存在していたが、このような諸王国とミケーネ文明の諸王国が肩を並べるほどになった、とのこと。



*1:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p38(周藤氏の筆)

*2:By User:Alexikoua, User:Panthera tigris tigris, TL User:Reedside - Ιστορία του Ελληνικού Έθνους, Εκδοτική Αθηνών, τ. Α' χάρτες σε σελ. 263-265, σελ. 290, 292-293 (επίσης [1], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61505445

*3:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p34(周藤氏の筆)

*4:ここでの「ギリシア本土」はペロポネソス半島も含まれる。文化の分類上、エウボイア島(エヴィア島)も含まれるらしい

*5:円形墓域A (Grave Circle A, Mycenae - Wikipedia 参照)

*6:ギリシア史/p34

*7:同/p34-35

*8:周藤芳幸/古代ギリシア 地中海への展開/京都大学学術出版社/2006/p57

エーゲ文明② 中期青銅器時代/ミノア文明の興亡

前回からの続き。

初期青銅器時代が終焉し、中期青銅器時代が始まる。そして
「中期青銅器時代≒ミノア文明の時代」

ミノア文明の始まり(初期青銅器時代

ミノア文明は、他の地域と同様に初期青銅器時代から文明化した。他地域との接触は少なかったようで、文明化のテンポもゆっくりだった。初期青銅器時代末期に他地域では戦乱が多発したが、クレタ島はその波が到来せず、中期青銅器時代を迎えることが出来た(ここまでは前回に少し書いた)。

盛期(前2000年~)

中期青銅器時代はミノア文明がギリシア地域の中心だった。

盛期の象徴が宮殿。宮殿は王の権力集中を想起させるが、そうではないらしい。

クレタ島の宮殿は、おそらく宗教的な権能の強い王を戴く人たちの精神生活の中心であるとともに、活発な経済活動の拠点でもあった。宮殿支配下の各地に散財する豊かな麦畑、オリーブがそよぎ葡萄やいちじくがたわわに実る果樹園、羊がのどかに草をはむ放牧地などからは、さまざまな物資が宮殿にもたらされ、専門の書紀によって記録された上で、必要に応じて各地に配分された。このような宮殿中心の経済の仕組みは、一般に再分配システムと呼ばれ、階層化された社会(首長制社会)に特有のものである。神聖文字、そして線文字Aというクレタ島独自の文字も、このような仕組みが機能する上で必要不可欠な道具として誕生し、発展を見た。

出典:周藤芳幸/図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて/ふくろうの本/1997/p22-23

周藤氏は別の本で補足的なことを書いていることによれば、以上の政治システムは《在地社会が、そのまま宮殿社会の下地となった》としている *1

「首長制社会」についてググってみたが、研究者の中でいろいろな意見があってわかりにくい。ここでは辞書的な理解だけでとどめて深入りしないでおこう。

しゅちょうせい【首長制 chiefdom】
部族社会(政治的中心をもたず,富や地位の分化もみられない平等社会)と国家社会(権力が中央に集まり,富や地位の分化が確立している社会)との中間に位置する統治形態として,アメリカの文化人類学者E.R.サービスによって導入された概念。部族社会の中で平等な地位にあった血縁集団の間に地位の上下関係が生じ,その一つまたは少数の集団が首長chiefの地位を独占・継承するに至って生まれる。そのような首長は生産と分配を統制し,公共的な仕事を計画し,そのための集団を組織するなどの公権力をもち,その執行の権力ももっている。

出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版/首長制とは - コトバンク

引用に出てくる神聖文字 *2 と線文字Aについては発見された資料が少ないため未だに未解読。前18世紀まで遡ることができるらしい。

有名な宮殿はクノッソスだが、これ以外にも複数あり、さらには宮殿はないが政治行政システムがある場所もある。クレタ島の権力は一つではなかった。

ギリシアの他地域への影響は後述するとして、エジプトにもミノアとの接触の跡があった。

ミノア文明の影響はエジプトにも見られる。前1600年を挟む約100年はエジプト第15王朝と呼ばれる政権があった。この政権の支配者はレヴァントに起源を持つ人々(ヒクソス)。彼らはナイルデルタにアヴァリスという王都を建設したが、その都市は西アジア・レヴァント・ヌビア・東地中海を結ぶ一大交易センターになった。その交易相手の一つがクレタ島だった。 (ヒクソス - Wikipedia 参照)

その他にはアナトリアにも交流の証拠があるらしい *3

ミノア文明の担い手は誰か?(線文字Aについて)

ところで、線文字Aは未だに未解読とかいたが、桜井万里子氏は以下のように書いている。

クレタ島[=ミノア文明]では……線文字Aが使われていましたが、線文字Aが表している言語がギリシア語ではないことは確かで、まだ解読されていませんが、オリエントの言語と構造が似ているようです。[中略]

[ミノア]文明を営んでいた人々はギリシア人ではなく、オリエント系の人々であったことはまず間違いありません。

出典:桜井万里子・木村凌二/集中講義!ギリシア・ローマ/ちくま新書/2017/p23-24

ミノア文明の最盛期と崩壊

ミノア文明の最盛期は前1700~前1500年ころ。かつては前17世紀後期にサントリーニ島クレタ島の北、キクラデス諸島の一つ)の大噴火がミノア文明を崩壊させたという仮説が有力視されていたが、現在では否定されている。

前1450年にクレタ島で破壊と火災の跡が見られる。これが戦乱の跡なのか天災のそれなのか意見が分かれている。しかし前15世紀末になると、クレタ島ギリシア本土で興ったミケーネ文明の勢力に掌握される。詳細は不明。

同時代の他地域(ミノア文明の影響その他)

ミノア文明の影響はキクラデス諸島に強く及び、この地域の文化はミノア文明の影響下に入った。

ギリシア本土では初期青銅器時代末期の戦乱から立ち直れず、長く文化文明が廃れていた。しかし考古学の成果によると、1650年頃の層から「突如として豪華な副葬品をおさめた墓」が発見されている *4。ここからミケーネ文明が始まるわけだが、この文明は次回に書く。

トロイでもこの時代の初期は繁栄してはいなかった。ただしトロイ遺跡を発見したシュリーマンの乱暴な発掘のせいで分からないことが増えたという面もある。前1800年頃になると再び栄えるようになった。ギリシア神話に出てくるトロイア戦争の舞台は前1800~前1300年の間のどこかと考えられている。



*1:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p31(周藤氏の筆)

*2:Cretan hieroglyphs。聖刻文字または絵文字とも呼ばれる

*3:世界各国史17 ギリシア史/p37

*4:世界各国史17 ギリシア史/p34

エーゲ文明① 古代ギリシア最古の文明の誕生/初期青銅器時代

古代ギリシアを書き始める。

まずはその最古の文明、エーゲ文明(エーゲ海文明)から。

エーゲ文明については周藤芳幸氏の主張を多く採用してくことにする。

新石器時代から青銅器時代

エーゲ文明は青銅器時代初期に始まるが、その前のことを簡単に書いておこう。

ギリシアの地域の新石器時代西アジアの影響を受けている。簡単に言えば西アジアの定住型農業(農耕と牧畜を組み合わせた混合農業)のパッケージを受容した。ギリシア本土は山がちであるが北部・中部に平野地帯があり、この時代の文化はここが中心であった。この文化は西アジア文化のコピーのようなもので、さして特徴のある文化ではないとされている。

これらの文化の担い手は(インド・ヨーロッパ語族の)古代ギリシア語を話す人々ではなかった。担い手がどのような人たちだったのかは未確定だが前記のように西アジアの人々だと推定される。

青銅器時代は前3000年頃に始まる(これより前の数字を示す文献はいくつかあるが、どれが妥当なのか私にはわからないのでとりあえずこの数字を採用する)。

ギリシア青銅器時代のパッケージをもたらした人々も、新しい西アジアからの流入だった。彼らは島嶼部と本土南部に移住し、今度はこれらの地域がギリシアの中心となった。

西アジアの人々の到来は、おそらくは天然資源を探す人々から始まり、交渉・交易する人々などが住み着いたのだと思われる。原住民たちは否応なく新しい時代を受容したのだろう。

エーゲ文明の誕生:初期青銅器時代(前3000-2000年)

研究者たちがなにをもってエーゲ文明の始まりとしているのかが分からない。とりあえず、私個人は
青銅器時代の到来≒エーゲ文明の始まり
としておく。

初期青銅器時代(前3000-2000年)に都市化・階層化・物流のネットワーク化など文明の要素となるイベントがなされた *1 から、数百年かけて徐々に文明化していった、と私は考えることにした。

エーゲ文明(またはエーゲ海文明)は、ミノア(クレタ)文明・ミケーネ文明・トロイア文明などいくつかの文明の総称(上位カテゴリー)である。エーゲ文明に属する個々の文明(あるいは文化)については取り上げていくつもりだが、時系列を優先して書いていこう。

キクラデス諸島:キクラデス文明

出典:Geography of Greece - Wikipedia

キクラデス文明(あるいはキクラデス文化)は、前3000年頃に始まる(「3000」という数字も諸説ある)。

キクラデス文明はキクラデス諸島で栄えた文明だ。いくつかの島に鉱物を有していたが、それだけでなく、ギリシア本土の鉱物をも取り扱い、アナトリア西岸も含むエーゲ海の交易ネットワークを作っていた。

初期青銅器時代が終わる頃にはミノア文明の影響下に吸収される。

ギリシア本土:ヘラディック期

初期青銅器時代ギリシア本土の歴史区分は初期ヘラディック期と呼ばれる *2

古代ギリシアといえばオリーブ油とワイン(ブドウ)だが、初期青銅器時代にはすでに生産されていたらしい。これらは鉱物と共に主要な交易品となった。

ギリシャ本土では……集落跡も大規模なものが見られ、ギリシャにおける最初の都市化が行われた時代と考えられており、集落跡からは印章や封泥が出土、集落中心部の大規模な建物を中心に経済活動が行われたことが推測されている[24]。

[24]桜井万里子編 『ギリシア史』山川出版社、2005年。p25(上記の記述は周藤芳幸氏)

出典:ギリシャの歴史 - Wikipedia

エウボイア島(本土のすぐ東にある、クレタ島に次ぐ大きさを持つ島。現代はエヴィア島と呼ばれている)のマニカ遺跡では、この時代を代表するような都市の跡が見られる。本土とエーゲ海のネットワークを結ぶ要衝として栄えたようだ。(エイボイア島は島だが本土の文化圏にある、と思う) *3

トロイ遺跡

(トロイ遺跡の場所は前回の地図参照)

アナトリアの西北にあり、ダーダネルス海峡に面していた。エーゲ海アナトリアの陸路を結ぶ要衝であった。

トロイ遺跡はいくつかの層に分類されているが第一層(第一市、前3000-2600年頃)は規模は小さかったが第二層は2倍に栄え、エウボイア島のマニカ遺跡とともに初期青銅器時代を代表する都市にまでなった。ただし、初期青銅器時代後期(第三層以降)は戦乱が頻発した跡があり、繁栄は見られない。

この地域についてはあまり語られない。遺跡発見者のシュリーマンの物語はよく語られるのだが、大事なその中身のほうは、要を得た記述はなく、お茶を濁したような言いっぷりで終止している。素人が読む本ではそんな感じだ。

シュリーマンが追い求めていたトロイア戦争の実態については別の機会で。

クレタ島:ミノア文明

クレタ島の場所は上の地図参照)

クレタ島の文明がなぜ「ミノア文明(Minoan civilization)」なのかというと、ギリシア神話にでてくるクレタ王のミノスにちなんでのこと。ミノス文明ともクレタ文明とも呼ばれることがある。

初期青銅器時代において他地域の遺跡には交流の跡が多く出土するのに対し、クレタ島ではほとんど見られない。また他地域では戦乱と文化変化がしばしば行われていたが、クレタ島はそのような変化と無縁だった。

繁栄はある程度していたが、他地域と比べるとペースは遅い。この時代のクレタ島は重要な地域ではなかった。

初期青銅器時代の終焉

考古学の成果により、前2200年前後に断続的に破壊炎上の跡が見られる(ただし上記の通り、クレタ島は除外)。

その原因は未だに確定されていないが、一つの有力な仮説として、インド・ヨーロッパ語族を話す人々の流入による混乱というのがある。

初期青銅器時代の人々は、後に古代ギリシア語と言われる言語(つまりインド・ヨーロッパ語族に属する言語)を話す人々ではなかった。これを話す人々の流入がこの時期だった、という仮説。

ただし、ギリシア語が使用されていた証拠である線文字Bは早くても前1500年前後までしか遡れないこともあり、この仮説は確定されていない。

ちなみに、線文字Aという文字が前1800年頃に使用され始めるのだが、こちらは解読されていないが、どうやらオリエント系の人たちらしい。(線文字Aについては次回に書く。)

いずれにしろ、破壊活動がクレタ島以外の地域で多発してこの時代の繁栄が終焉し、新しい時代に移行することになる。


*1:周藤芳幸/図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて/ふくろうの本/1997/p13-16

*2:「へラディック文化」「へラディック文明」と呼ぶ人もいる。さらに「へラディック」の代わりに「ヘラス」と呼ぶ人もいる

*3:図説ギリシア/p16

「古代ギリシア」シリーズを書く

これから「古代ギリシア」シリーズを書く。これらの記事は「古代ギリシア」のカテゴリーの保存する。

地域的範囲

出典:木村精二他監修/詳説世界史図録/山川出版社/2014/p18

古代ギリシアの範囲は、基本的には左下の地図にある地域、すなわちエーゲ海の沿岸および島嶼だ。その他の地域はこの地域の都市からの植民地。

バルカン半島の地域は「ギリシア本土」と呼ばれるが、バルカン半島最南端部のペロポネソス半島を「本土」とは別個とする人もいる。当ブログでは半島は「本土」の一部とする。

黒海北岸に植民したギリシア人はスキタイの支配下に入ったり抵抗したり交渉したりしたことは以前に書いた。)

時間的範囲

このブログでは、最古の文明であるエーゲ文明が始まった前3000年頃からプトレマイオス朝エジプトが滅亡した前30年までを範囲とする。

ただし、何を持って「エーゲ文明の誕生」とするのかがよくわからないので、前3000年というのも厳密というには程遠い。