歴史の世界

戦後直後の日本経済について⑤ 歴史を歪めるもの

前回からの続き。

歴史を歪めるもの

ここまで書いてくるのに、主に高橋洋一『戦後経済史は嘘ばかり』(2016年)という本を参考にした。

なぜ嘘がまかり通ってきたのか?

それほど確固たる証拠はないのだが、とりあえず書き留めておこう。

左翼史観の残滓

その昔、「自虐史観」という言葉がある程度流行した。

冷戦終結後の1990年代から、日本において日中戦争・太平洋戦争などの歴史を再評価する流れが表れ、自由主義史観を提唱した教育学者の藤岡信勝などによって「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、主に近現代史における歴史認識について「自虐史観」であるとし、いわゆる戦後民主主義教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し、戦勝国側の立場に偏った歴史観を日本国民に植え付け、その結果「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識が生まれたと批判した。

出典:自虐史観 - Wikipedia

私は教育業界とは縁がないので藤岡氏の主張に対して「全くそのとおりだ」とまでは言えないが、1990年代に出版された日本近現代史関連の本を見る限り、彼の言う通りなのだろうと思っている。

戦後直後の歴史に関して言えば、GHQが占領当初に日本を弱体化しようとしたことは高校日本史では教えていない(らしい、としか言えないが)。

藤岡氏がいうところの「自虐史観」とは違う見解(たとえば「弱体化」のこと)を主張しようものなら「あいつは歴史修正主義者だ」とか「右翼だ」とレッテルを貼られた。

現在はそのような圧力はどうってことないが(弱まっているそうだが)、昔はその圧力は相当強かったらしい。引用に「冷戦終結後の1990年代から」藤岡氏らの活動が活発化したということは、冷戦終結以前は左翼の力が強かったということだ。

最近は左翼は高齢化が進んでいると言われ、共産党の支持者は高齢者がほとんどだと言われている。

それでも教育・出版・マスコミ業界などでは左翼連中が一定の力を持っている(チャイナ・コリアからの工作員が紛れているという話もあるが、真相は知らない)。

9年前(2013年)に出版された倉山満『常識から疑え! 山川日本史 近現代史編 上 「アカ」でさえない「バカ」なカリスマ教科書』では副題にあるように、その歴史の記述は「アカ」でさえない「バカ」なのだそうだ。左翼史観の残滓は残っているが、編集者はそのようなことは気にしていない、ただクレームが少なくなるように汲々として作っているだけだ、とのこと。

9年前から少しは変わっていてほしいが、田中秀臣『脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている』(2021年)を読むと、それほど定説は変わっていないようだ。

歴史を歪曲しようというエネルギーだけでなく、本当の歴史を知ろうというエネルギーも減少しているかもしれない。

財政均衡派(財政緊縮派)の人たち

GHQが行なった財政均衡政策を肯定する人たちがいる。その総本山が財務省だ。彼らは世界に通用しない経済思想(つまり財政均衡≒財政緊縮)を持つ。世界標準の(というか普通の)マクロ経済学を彼らは理解していない。

高橋洋一氏、田中秀臣氏はリフレ派と呼ばれることがあるが、彼らは普通のマクロ経済学に沿って経済政策を主張しているが、日本では少数派だ。その原因はマスコミや経済学者・エコノミストの多くが財務省におもねっているからだ。

有沢広巳(有澤廣巳)

傾斜生産方式という政策は石橋湛山が行なったものだが、いまは有沢広巳氏に紐付けられている。

以下は対談の一部。

 和田(みき子氏) 有沢はこれらの復興政策を自分の手柄にするため、石橋の仕事の痕跡を抹消することに腐心してきました。そして彼が傾斜生産の担い手として日本社会党をあてにしていたことも文献によって確認できます。さらに第一次吉田内閣退陣後に政権についた社会党片山内閣との折り合いが悪くなると、今度は傾斜生産を自分とGHQの業績のみによるものだった、とまで言い出します。このような有沢の画策は従来の研究では一切言及されてきませんでした。一方、当の石橋はといえば有沢の画策を取るに足らないものだと思っていたはずです。なぜなら石橋にとっての戦後復興における最重要課題は自由貿易の再開だったわけですから。[以下略]

出典:実利に基づく平和思想を唱えた人 『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に 対談=原田泰×和田みき子/読書人WEB](https://dokushojin.com/reading2.html?id=8056

小説『官僚 たちの夏』

日本の戦後の高度経済成長は、通称産業省(通産省→現在の経済産業省経産省〉)が適切な産業政策を行ったからだ、と信じている人が多くいます。「通産省日本株式会社の司令塔だ」という声もありますし、城山三郎の小説『官僚 たちの夏』は、そんな英雄的な官僚像を高らかにうたいあげました。

しかし、これはあくまで「伝説」にすぎません。実際には、産業政策が効果を上げたことなどほとんどなく、通産省の業界指導は役に立たなかったのです。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 10). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

このことは上念司氏がニュースコメンテーターとして口を酸っぱくして何度も言ったいることだが、要するに「官僚は商売をやったことなど一度もないのに、商売人よりも経済センスがあるわけはないだろ!センスがあるなら安月給の公務員辞めて商売してるわ!」とのこと。



戦後直後の日本経済について④ ドッジ・ラインという失敗

前回からの続き。

復興金融金庫とインフレ

前回に貼り付けた引用を再掲。

終戦後の経済復興策として1946年12月に第1次吉田内閣が傾斜生産方式を閣議決定した。[中略]それを賄う目的で1947年1月に復興金融金庫が設立された。

復興金融金庫の融資資金は復興金融債権(以下、復金債)の発行により調達された。しかし、その債権の多くが日本銀行の引き受けるところとなった。これにより市場に供給する貨幣の量が拡大してその価値が下がることとなり、インフレーションが引き起こされた。これが復金インフレである。

出典:復金インフレ - Wikipedia

傾斜生産方式という政策がアメリカから物資援助を引き出すための政治的駆け引きだったことは以前に書いた。そして復興金融債権(復金債)も、どうやらその一環だったようだ。

高橋洋一氏は、復金債が傾斜生産方式の生産拡大に寄与しなかったことを記した後に以下のように書いている。

[復金債が] 意味 が あっ た のは、「 お金 を ばらまい た」 こと でし た。 政府 が 個別 の 産業 を ターゲット に し て お金 を ばらまい ても ほとんど 効果 は あり ませ ん が、 市場 全体 に お金 を 供給 する こと は 経済 を 活性化 さ せ ます。

お金 が 出回れ ば 多く の 人 が 商売 を し たく なり ます。 物 不足 で、 つくれ ば すぐ に 売れる 時代 です から、 企業 は どんどん 設備投資 を しよ う と し ます。

そういう 意味 では、 日銀 が 復 金 債 を 買い取っ て お金 を 市場 に 供給 し た のは 悪い 政策 では なかっ た と 思い ます。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (pp. 29-30). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

日本は戦前から経済大国だったので、物資と資金があれば経済は復活できる。石橋はこの問題に真正面から取り組んだ。彼の経済政策は彼が大蔵大臣を退いた後でも継承されたことは前回書いたが、これにより実質経済成長は二桁の伸びを見せた *1

この結果は石橋の政策のみのものではない。世界史の大きな流れとしては米ソ対立という大きな流れの中で日本経済復興が語られるわけだ。しかしこのチャンスを日本が適切につかむことができたのは石橋の適切な政策があってのことである(世界情勢によって起こるチャンスを適切に捕らえられないのが今の日本だ)。

日本の景気回復傾向を潰したドッジ・ライン

以上のように石橋の経済政策(それを継承した片山政権下も含む)は、一定の成功を見せていた。これに水をかけたのがドッジ・ラインと呼ばれる緊縮財政方針だ。

この時のインフレは物不足によるものなのだが片山政権とGHQ、そしてアメリカ本国は復金債を出しすぎがインフレ原因であると考えた。

このインフレの違いを当時の人々がどれだけ見極めていたかは疑問の余地がある。つまり、当時の人達は「財政均衡(≒緊縮財政)が政権が目指す方針」と思っていたからだ。これはGHQアメリカ本国もそのように思っていた(現在のマクロ経済学によればこれは誤りなのだが、日本の財務省はいまだにこれを「絶対正義」だと主張している)。

もっとも、 当時 は マクロ 経済学 が まだ ほとんど できあがっ て おら ず、 国民経済 計算 も きちんと でき て い ませ ん でし た ので、 仕方 の ない 面 も あり まし た。   現在 の マクロ 経済学 から さかのぼっ て 当時 を 見 た「 後知恵」 では あり ます が、 緊縮財政 は 間違っ た 政策 でし た。 現在 の 知見 に 基づい て 政策 を 打つ ので あれ ば、 緊縮財政 はやら なかっ た はず です。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 47). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

そして前述のとおり、ドッジ・ラインは財政均衡政策を採用した。

ジョセフ・ドッジが提案した政策は全てダメだったわけではない。GHQが拒否していた自由経済を認めたり、1ドル360円の単一為替レートの設定は後の日本の経済成長に大きく寄与した。

しかし、この条件と引き換えに日本政府は超均衡予算を飲まされた。赤字予算から黒字予算になったわけだが、それは市場のカネが極端に少なくなることを意味する。そしてそれは当然の結果、不況を招いた。

当時のインフレは物不足によるものなのだから、石橋の経済政策方針を継続していれば設備投資により供給が需要に追いついてインフレは解消されていた(時間はかかったが)。これを途絶させたのがドッジ・ラインだ。ドッジ・ラインによる不況をドッジ不況と呼ぶ。

ドッジ・ラインに対して高い評価をしている人がいれば、現在のマクロ経済学を知らないのだと思えばいい。

朝鮮特需

ドッジ不況、それだけでなく戦後直後の不況を一気に解消させたのが朝鮮特需だ。

こうした状況を一気に変えたのが朝鮮戦争(1950~1953年)の勃発である。

米国は朝鮮半島に大量の物資を供給する必要に迫られ、好むと好まざるとにかかわらず日本は米軍の後方支援拠点となった。日本企業には空前の注文が殺到した[中略]

1951年から1953年の3年間で10億ドルを上回る発注が日本企業に出されたが、1ドル=360円で換算すると日本円で約3600億円となり、これは日本の年間輸出総額に匹敵する水準であった。また、当時のGDPは4兆円程度なので、1年あたりの発注金額はGDPの3%に相当する。単純比較はできないが、今の状況に当てはめると年間16兆円もの注文を受けた計算となる。

日本経済にとってこれが神風となり、1951年の名目GDPは前年比でなんと38%という驚異的な成長を実現し、日本経済は一気に息を吹き返した。

出典:加谷珪一/日本の高度経済成長は“偶然”という歴史的事実…朝鮮戦争なければ東南アジア並みの国

これでドッジの緊縮政策はなし崩し的に消えてしまった。

1954年12月からは神武景気と呼ばれる好景気が起こる。ここから高度経済成長期が始まる。ちなみに高度経済成長の最大の要因は、高橋洋一氏によれば円安(1ドル=360円)とのこと。



*1:田中秀臣氏/第2章緊縮財政の呪縛 - 第10節葬り去られた戦後復興

戦後直後の日本経済について③ 石橋湛山の経済政策方針

前回からの続き。

傾斜生産方式と復興金融金庫と復金インフレの問題設定

以下は通説になっている(なっていた?)説明。

終戦後の経済復興策として1946年12月に第1次吉田内閣が傾斜生産方式を閣議決定した。[中略]それを賄う目的で1947年1月に復興金融金庫が設立された。

復興金融金庫の融資資金は復興金融債権(以下、復金債)の発行により調達された。しかし、その債権の多くが日本銀行の引き受けるところとなった。これにより市場に供給する貨幣の量が拡大してその価値が下がることとなり、インフレーションが引き起こされた。これが復金インフレである。

出典:復金インフレ - Wikipedia

しかしこの説明はいろいろと問題がある。

ここでキーマンとなるのが石橋湛山だ。

石橋湛山の経済政策

石橋湛山は第1次吉田内閣の大蔵大臣だった。この内閣は1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続く。

この 21 年 から 23 年 の ハイパーインフレ の 時代 の 過半 を、 蔵相 として 務め た のが 石橋湛山 で あっ た。 22 年 5月 に 石橋 は 公職追放 を 受け た が、 23 年度 も 基本 的 に 石橋 の 財政 路線 が 踏襲 さ れ て いる。 その ため、 当時 の 石橋 は インフレ の 責任者 として 厳しく 批判 さ れ た。

出典:田中 秀臣. 脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている (PHP新書) (Kindle Locations 691-693). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

石橋は傾斜生産方式と復興金融金庫を生み出した責任者だが、これらを実際に指導した時期は短かった。それでも彼の意図とこれらの方策は継承された。だから批判(もしくは評価)されるべきは彼で間違いない。

吉田第一次内閣の直前の経済状況

石橋が大蔵大臣になる前、つまり吉田第一次内閣の直前もインフレの状態だった。

すでに書いたような物不足によるインフレに加えて、戦後処理の膨大な財政支出が重なってさらにインフレが加速した。

政府は価格統制をして対応しようとしたが、これはヤミ市を発生させるだけで何の成果も生み出さなかった。その他の政策も失敗し続けたまま、吉田内閣に政権を譲った。

石橋大蔵大臣の経済政策の方針

吉田第一次内閣となり、石橋大蔵大臣が誕生する。

石橋はまず初めに、闇市場へのインセンティブをつくっている価格統制をより柔軟に運用することから始めます。具体的には、1946年6月以降、公定価格は毎月改定されるようになりました。

また、闇市価格より著しく安く設定されていた公定価格を実勢価格に調整するために支給されていた価格調整補給金が増額されます。

出典:上念司/経済で読み解く日本史 大正・昭和時代/飛鳥新社/2019/p210

石橋が価格統制を撤廃しなかった理由は、そうすることをGHQが拒否し続けていたからだ。実のところ、前政権でも価格統制政策は経済正常化どころか悪化させることに気づいていたのだが、政策変更をGHQに拒否されていた。

石橋はこの状況に対応するために、「価格統制をより柔軟に運用」した。つまり「骨抜き」にすることを企図したということだ。GHQが日本の弱体化を気としているのだから、狐と狸の化かし合いに勝たなければならない。

次に1946年12月に傾斜生産方式が閣議決定され、翌年1月に復興金融金庫が設立される。傾斜生産方式が「化かし合い」のための方便であったことはすでに書いた。そして復興金融金庫もおそらくは方便だった。

復興金融金庫 の よう な「 政策金融」 が、 特定 の 産業 の 振興 や 経済 発展 の ため には 不可欠 だっ た、 と 主張 する 人 も い ます。 しかし、 今、 述べ た よう に、「 お金 を ばらまい た」 こと は 効果 が あっ た ものの、 特定 の 産業 を 伸ばし、 成功 さ せる という 政策金融 の 本来 の 目的 に関して は、 戦後 の 復興金融金庫 は 実際 には、 それほど 役に立ち ませ ん でし た。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 31). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

おそらくは、石橋の意図は、名目的に「傾斜生産方式を制作するために復興金融金庫を設立した」ということにして、その本当の目的は「 お金 を ばらまい た」 こと の方にあった。

傾斜生産方式のおかげで物資が国内に流入するようになり、次は市場に資金を流入しなければならなかった。カネがなければ商売も設備投資もできない。逆を言えば、カネさえあればそれらが復活し、生産力(供給力)が増えて、最終的にインフレが安定する方向に向かった(ただし、物資、資金ともに十分でなかったので、経済復興も十分とはいえなかった。

このような石橋の方針は功を奏した。この方針は石橋が(内閣交代のために)大臣から退いた後も継承された)。

GHQの対応への疑問

しかし、このような方針をなぜGHQが許したのかが疑問が残る(GHQは日本を弱体化しようとしていた)。その理由として考えられるのは2つ。

  • GHQが経済政策についての知識が足りてなかった。
  • 米ソ対立が表面化する前であったが、この時期はすでに流れが出来つつあった。

1つ目。当時のGHQの中で権力を振るっていたのは民政局(Government Section、通称:GS)だった。倉山満氏によれば、彼らはニューディーラーと呼ばれる社会主義者だったが、「本国では相手にされないオチコボレたち」だった *1。 倉山氏によれば、当時の大蔵省主計局長だった福田赳夫によってG2を手玉にとった。(余談だが、現在の日本の国会議員たちも財務省に手玉に取られている)

2つ目。いわゆる「逆コース」。この話はすでに書いた。ただし、民政局を手玉にとった福田赳夫は民政局によってパージされたことを考えれば、くだんの方針を許可した理由が「逆コース」というのは間違っていると判断しなければならない。

よって、民政局がポンコツだったので、日本経済はなんとか食いつなげるレベルを保つことが出来たというべきだろう。

経済回復の始まり

1947年5月、第一次吉田内閣の総辞職により石橋は大蔵大臣を辞する。しかし次の政権である片山内閣は石橋の経済対策の方針を継承した。和田みき子氏によれば、この継承を促したのはGHQだった *2

片山内閣期《昭和22年(1947年)5月-昭和23年(1948年)3月》から経済回復が始まる。

1948 年の生産の回復はほかに重要な要因がふたつあった。ひとつは企業にとっての深刻な不確定要因であった「集中排除、独占禁止、賠償撤去などの諸問題について緩和の方針が示され・・・これら企業の生産意欲を喚起」(注6)したことであった。それにもまして重要であったのは、1947 年8 月から制限つきながら民間貿易の再開が許されたことと、1948年9 月からイロア(経済復興援助資金)によって原材料輸入に対する援助が始まったことである。

(注6)経済企画庁(1952)『昭和27 年度年次経済報告』6 頁。

出典:《PDF》大来洋一/傾斜生産方式は成功だったのか

上の要因の中では、「イロア」が特に重要だった。「イロア」に比べれば、他の要因は大して重要ではなかった。

「イロア」は通常「エロア資金」または「エロア援助」と呼ばれる。

エロア資金(エロアしきん)とは、占領地域経済復興資金 (EROA Fund:Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund) のことである。

救済的政策を付与されたガリオア資金と共に、第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国政府の軍事予算より拠出された。経済復興を目的としたため、石炭や鉄鉱石、工業機械など生産物資の供給のために充当された。

出典:エロア資金 - Wikipedia

ガリオア資金はエロア資金より前の援助で、食料などの生活物資を援助するものだったが、経済を安定させる最低限度には全く届いてはいなかった。アメリカが日本弱体化を狙っていたので当然だ。

そして、上記の引用の要因はアメリカの方針転換(逆コース)を意味する。日本の復興はこの方針転換によって始まったのだ。

この大きな流れからすれば、石橋の経済政策方針は相対的に小さな評価になってしまう。そして石橋が設立した復興金融金庫の復金債による過度のインフレが石橋の評価をさらに下げている。

次回は復興金融金庫について書く。



戦後直後の日本経済について② 「傾斜生産方式」の神話

前回からの続き。

「傾斜生産方式」の神話

戦時中、日本の国富と生産力の多くは戦争に注ぎ込まれた。そして国の窮乏化と悪性インフレが進んで終戦に至る。

そして、冒頭で引用したGHQによる「経済民営化」の話につながる。

「経済民営化」の諸政策とともに効果的だった政策として「傾斜生産方式」というものが挙げられている。

この政策が「効果があった」ということも、他の通説と同じように、間違いであったことが分かっている。

ここで、歴史の流れからは逸れるが、「効果があった」ことが間違いであることを書き留めておく。

とりあえず「傾斜生産方式」というものがどういうものだったかというところから話を始めよう。

1946年から 49年まで,第2次世界大戦後の経済復興のための重点生産政策として実行された産業政策の呼称。「石炭,鉄鋼超重点増産計画」という名のもとに推進された。経済復興に必要な諸物資,資材のうち石炭,鉄など,いわゆる基礎物資の供給力回復が最も急務であるという観点から,これら部門に資金,人材,資材などを重点投入する政策をとった。これにより石炭,鉄鋼の生産が大きく回復するなど一定の成果を上げたが,復興金融金庫 (のちの日本開発銀行) から大量の融資が行われ,急激なインフレーションの一因となった。このため 49年のドッジ・ライン実施により終止符を打たれた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/傾斜生産方式とは - コトバンク

なぜ、こんなことをやらなければならなかったかというと、アメリカが輸入を制限していたからだ。

占領初期のGHQは海外からの資源調達を厳しく制限していた。そのために石炭や鉄鋼など基幹産業が機能せず、広範囲なモノ不足と高いインフレが生じていたのだ。

GHQの経済的援助は当初はせいぜい食料への援助があったぐらいで、それも日本には自由度はなかった。[中略]

45年9月からほぼ2年間、基本的に原材料の輸入を許さないことで、日本経済は見殺し状態であった。

出典:田中氏

戦後経済は廃墟から立ち上がったと言うイメージを私自身も抱いていたが、全国の工場はほとんど残っていたわけで、あとは物資があれば、生産力は回復できたわけだ。

1946年(昭和21年)5月に第一次吉田内閣が発足する。

吉田首相がGHQに掛け合って特例として重油の輸入を認めさせました。その後も繰り返し交渉を重ねていたのですが、結局第1次吉田内閣期には実現できませんでした。それが次の片山内閣期には一気に課題が解決方向に進み、自由貿易もある程度制限はかけられていたとはいえ、許可されるようになったのですね。

出典:読書人WEB/『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に 対談=原田泰×和田みき子(引用部は和田氏)

「傾斜生産方式」は吉田のブレーンであった有沢広巳の功績だと言われているが、実際は当時の大蔵大臣・石橋湛山だった。石橋は「この政策を成功させるために」という名目で、GHQから援助を引き出すことに成功した、というのが現在の大半のエコノミストの同意するところだ(と高橋 洋一『戦後経済史は嘘ばかり』に書いてあった)。

吉田政権がGHQとどのような交渉をして援助を勝ち取ったのかは分からない。さらにその援助も「食いつなぎ」程度でしかなかった。それでも食いつなげただけでも吉田政権あるいは石橋大臣の功績と言えるのだろう。

ちなみに余談ではあるが、有沢広巳がこの政策を自分の手柄にするために、石橋の仕事の痕跡を抹消することに腐心したことは上記のリンク先で和田氏が語っている。

「日本弱体化計画」からの方針転換 ~逆コース~

上記の引用で片山内閣期に一気に回復の目処がついたことが書いている。片山内閣は1947年(昭和22年)5月に発足した。ではこれまでに何が起こったのか?

それが、《「日本弱体化計画」からの方針転換 ~逆コース~》だ。

第一次吉田内閣に限らず、これまで日本政府に従事してきた人間たちは共産勢力の増長に危機感を持っていた。共産勢力の中にはソビエト工作員がいて日本国民を扇動した。煽られた人々の絶頂が「二・一ゼネスト」だ。

1947年(昭和22)2月1日午前零時を期し、官公労働者約260万人を中心に計画されたゼネラル・ストライキゼネスト)で、マッカーサー連合国軍最高司令官の命令で中止された。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/二・一ストとは - コトバンク

マッカーサーは弱体化を推し進めていたこともあり、共産勢力の動きにたいして「寛容」だった。そしてGHQの中には「容共派」といわれる組織があった。これが民政局(GS)の連中だ。「ニューディーラー」の人たちだ。

これに疑念を持ったのが、GHQ参謀第2部(G2。情報担当。諜報と検閲)のチャールズ・ウィロビーだった。彼が吉田と連携して、最終的にゼネストの中止にこぎつけた。

この流れとは別に、アメリカ本国では1947年3月に共産主義封じ込め政策 「トルーマン・ドクトリン」が発せられた。

国務省の後押しを受けたウィロビーはGSを抑え込み、勢いが衰えない共産主義社会主義勢力の抑制に回る。

これを「逆コース」という。

第二次世界大戦後の民主化政策を見直し改革に逆行しようとする政策路線。1948年(昭和23)の占領政策の転換に始まるが、系統的になるのは1951年に第3次吉田茂内閣が首相の私的諮問(しもん)機関「政令諮問委員会」の答申に従い、法体制を一変する時期以後である。[中略]労組・知識人・学生自治会などは「治安維持法の再来」と反対し、国民の間に「逆コース」と非難する風潮が高まった。同年4月、吉田首相は国会で「自衛のための戦力は合憲」と答弁、7月には保安庁法を公布、10月、警察予備隊を11万に増強し、7590名の海上警備隊を加えて保安隊を創設し、1954年には米国から「相互防衛援助協定」による軍事援助を受け、陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊からなる自衛隊を発足させ、再軍備に踏み切った。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/逆コースとは - コトバンク

共産主義社会主義勢力が「逆コース」に対してどれほど憤ったかが察せられる文章だ(笑)。

日本経済復興の始まり

結局、アメリカは共産主義封じ込め政策のために日本を共産主義国にしないために、弱体化計画を破棄しなければならなかった。その始まりが、前述の片山内閣期だということだ。



戦後直後の日本経済について① アメリカ・GHQによる日本弱体化計画

通説

今までの「教科書」的な占領期の経済政策のイメージは次のようなものだろう。

戦争で廃墟になった日本経済は、GHQによる「経済民主化」――財閥解体、労働の民主化、農地改革など――で自由経済の余地を拡大し、そして傾斜生産方式により経済復興の足掛かりを得た。

また高いインフレが国民の生活を圧迫していたが、それはドッジ・ラインというデフレ政策によって抑制され、やがて朝鮮戦争の特需によって日本は高度成長に移行していった、というものだ。

出典:田中秀臣/GHQによる戦後日本の経済民主化は「経済弱体化」だった | Web Voice

+《 この記事は「田中秀臣『脱GHQ史観の経済学』(PHP新書)の一部を再編集したものです。》

この通説はすでに論破されているらしいのだが、いまだにこの通説はまかり通っているようだ。

アメリカによる日本弱体化計画

当ブログではいつもお世話になっている「世界史の窓」というサイトの記事に以下のものがある。

日本の民主化
第二次世界大戦後、軍国主義的、封建的体制は排除され、政治・経済・社会・教育などあらゆる面での民主化が進んだ。

出典:世界史の窓/日本の民主化

このサイトは高校の世界史の教科書レベルを基準とするサイトだ。たぶん、これを本当のことだと思っている人はたくさんいるのだろう。ずっとこのように教わっていたのだから。

残念ながら、これは間違いである。

田中秀臣氏の記事を再び引用する。

もともとのGHQの方針は、日本の再軍備化の阻止にあった。そのために優先された政策目的は、戦前の経済的なスーパーパワー(財閥、影響力のある経済人、大地主など)の弱体化であった。

民主化は、]この戦前の日本経済を支えていた勢力を弱体化させることが目的であって、経済の自由化をすすめるものではなかった。

出典:前掲

GHQマッカーサーだけでなく、アメリカ本国もそのつもりだった。さらには、当時の連合軍に属した各国にも同じように、日本を弱体化させたいという考えを持つ国家が多かっただろう。

いっぽう、日本国内にも今まで虐げられてきた(または日陰に甘んじてきた)共産主義者・左翼が大日本帝国の復活など許すことができないと思っていたことだろう。彼らの一部はソビエト工作員となって、彼らを扇動した。このことは江崎道朗『日本占領と「敗戦革命」の危機』に書いてある。

戦全日本を振り返る ~戦前日本は資本主義国だった~

歴史を進める前に、戦前の日本の話を確認しておく。

前述の引用のように「第二次世界大戦後、軍国主義的、封建的体制は排除され……」のように書かれると、明治維新以降から第二次世界大戦まで全てにおいてそのように理解してしまう向きがあるが、そうではない。

他の列強国と同様の民主主義 "大国" であり、資本主義 "大国" であった。

[日本は]もともと 資本主義 の 精神 が 根付い て い た 国 です。[中略]

明治維新 の 当初 は 日本 には 産業 が 育っ て い ませ ん でし た ので、 官営 で 産業 振興 が 図ら れ まし た が、 産業 が 育っ て くる につれて、 官営 事業 は 民間 に 払い下げ られ、 民間 中心 の 産業 形態 へと 移っ て いき まし た。

大正 時代 には、 第一次世界大戦 による 好景気 で 成金 が 出現 する など、 むき出し の 資本主義 経済 が 進ん で いき まし た。 金融 の 自由化 も 進ん で い て、 間接金融 よりも 直接金融 が 主体 でし た。 企業 は 株式公開 で 市場 から 資金 調達 し て い まし た ので、 銀行 など 当て に し て い ませ ん でし た。 今 の 日本 よりも、 もっと 資本主義 的 な 経済 の 仕組み だっ た の です。

わかり やすく いう と、 現在 の アメリカ の よう な 状態 です。 当時 は、 経済的 な 規制 は ほとんど なく、 日本 は 貧富 の 格差 も 非常 に 大きい 国 でし た。

出典:高橋 洋一./戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 /(pp. 38-39). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

以上のような状況の中で、当時の政党政治に不満を持った人々はたくさんいた。そして五・一五事件が起こり、政治が軍国主義的という色合いに変わっていき、それに連れて統制経済社会主義的色合いが強い)に移り、さらに戦時経済に移行する。

「ぜいたくしません、勝つまでは」というスローガンがあったように、戦中の国民は我慢を強いられてきた。戦争が敗戦という結果に終わり、被占領という状態ではあるが統制経済がおわり、米国・GHQによる日本経済弱体化が中止されると、日本経済は回復・発展の途に着くことになる。



管子(4)(重令篇/法法篇/五輔篇/七法篇)/止

前回からの続き。

重令篇

この篇は管仲が書いたものではないとされる。

訳者によれば、矛盾が少なくない『管子』の中で比較的に論旨が整然とされている(p209)。

「古代氏族社会」の名残りをとどめる春秋時代、血縁による政治がまだ幅をきかしていた。これにたいし、管仲は "近代化" を主張する。それは法令尊重であり、秩序整然とした基礎づくりであった。(p193)

春秋時代から戦国時代に遷り変わる時代に「古代氏族社会」から中央集権化・専制君主制化が起こった...

いや、「古代氏族社会」から中央集権化・専制君主制化した国が強国になり、それができない国は淘汰された結果、時代が変わったというべきだ。

そして中央集権化・専制君主制化の核となる部分の一つが、法令重視だ。これは結局のところ、王の命令に他の有力者(貴族)を従わせるということだ。明文化された法律を基礎として官僚システムを作り上げ、貴族たちの勝手気ままな行動を取り締まり、権力を王と王が選んだ官僚たちに一本化する。

そして、各貴族が持っていた兵力も国王の下にある官僚システムに吸収・一本化する。これで強国が出来上がるわけだ。

冒頭の一文に「およそ国に君たるの重器は、令より重きはなし。令重ければすなわち君尊(たっと)し」とある。意味は「一国の君主にとって、法令ほど重視すべきものはない。法令を重視すれば、君主の尊厳は保たれる」。

法律の作成を独占し、それを守らせることができれば、「君主の尊厳は保たれる」。

法法篇

法法篇は管仲が書いたものではないとされている。

法法は冒頭部の「不法法則事毋常。法不法、則令不行。」からつけられたもの。

この一文の読み下しは「法を法とせざれば、すなわち事 常なし。法、法ならざれば、すなわち令 行われず」

訳は「合理的な法律を制定しなければ、世の中は円滑にいかない。尊重されぬような不当な法律を制定すれば、上からの命令は守られない。」

上記の重令篇は法律作成の独占の話だったが、法法篇は「管仲の法律論」である、と訳者は書いている。

一、法は、道理にかなったものでなくてはならない。
二、しかし、法そのものは絶対的であり、一度きめた法をかるがるしく変えてはならない。
三、法は君主主権確立のための絶対的な手段であるから、批判を許すべきではない。
四、厳法重罰主義の国は栄え、然らざる国は乱れる。
五、法をきびしくすることと、法令を多くすることは区別されねばならぬ。法は簡単なほうがよい。(p222)

前近代の国は国家の安定と「君主主権確立」は同等のものと言っていいだろう。

これを前提として、君主の法律作成独占を維持するためには、自分勝手な法を作ることなど問題外で、「道理にかなったものでなくてはならない」。

訳者はこの法法篇の意義について以下のように書いている。

韓非ほどの鋭さもなく、洞察力もない。が、韓非に先行すること約四百年、君権確立が進歩的役割をになっていた時代背景を考慮において読むと、また別の興味がわこうというものである。(p219)

恣意的または独善的な法(または法ではなく命令)が横行する時代から明文法の時代までの過渡期にあって、法法篇の主張が価値を持つということなのだろう。

五輔篇

人心を掌握し、よい政治を行なうためには「徳」、「義」、「礼」、「法」、「権」の五つの段階をふまねばならぬ。(p226)

「徳」、「義」、「礼」は諸子百家でよく出てくるワードだが、流派によって大なり小なり違いがある。

良い政治をするための5段階も重要だが、上記の五つのキーワードが『管子』ではどのようなものかも興味深い。ただし、読む限りではこの篇に書いてあることがそれぞれのキーワードの定義ということではないらしい。

実務重視の『管子』では、以上のような抽象的なワードも具体的な行動によって示される。

人民が君主に対して「徳がある」と思うようにさせるためには「厚生、経済、水利、寛政(寛容な政治)、救急、救窮の六つを成功させなければならない。(p227)

結局のところ、ここでいう「徳」は「得」であり、君主が得を与えてくれるのならば、人民は従う。

一、親を大切にすること。
二、主君に忠節をつくすこと。
三、礼節を守ること。
四、行ないを慎み、法を犯さぬこと。
五、むだを省き、飢饉に備えること。
六、質実剛健を尚(たっと)び、災害や戦乱に備えること。
七、協力一致して敵の侵略に備えること。(p229)

具体的な行動が盛り込まれているところが『管子』らしい。

君主に徳があれば人民は従順になり、国家は君主の下で一致団結できる。

一、君主は公正にして無死であること。
二、臣下は忠義深く、私党をつくらぬこと。
三、父はいつくしみ深く、子を教え導くこと。
四、子はひたすらに親に孝養をつくすこと。
五、年長者は年少者をいたわり導くこと。
六、年少者は年長者にすなおに従うこと。
七、夫は誠実に妻を愛すること。
八、妻は家事にいそしみ、夫に貞節であること。(p232)

君臣、親子、長幼、夫婦の相対関係にある者同士がお互いの分を犯さずに以上のことを心がけて行動すれば、社会秩序が保たれ、各人の生活は安定する。

ここでいう「法」は身分秩序の安定のことを指す。君主、重臣、行政担当者、士、人民、それぞれの身分の者にはそれぞれの責務がある。

それぞれがこの責務を自覚して全うすれば、身分秩序は安定する。

徳→義→礼→法と各身分の人々が各々の身分秩序を自覚して全うできるレベルになって、その次が最後のステージの「権」となる。

ここで「権」とは何かを一言で表すのは難しいので、まずは「権」を体得するための尺度を引用する。

一、天の時を考えること。
二、地の利を考えること。
三、人の和を考えること。(p235)

「天の時」を考えるとは、具体的には、天災が起こらないようにする方策、または起こった場合の対応・対策のことで、これを十分にできること。

「地の利」は農作物の利益のことで、飢饉が起こらないようにする方策、または起こってしまった場合の対応などを考えること。

「人の和」は団結すること。

それぞれの身分の者がそれぞれの責務を自覚しながら、これらについて考えることができれば、どんな場合にでも臨機応変の対処ができ、大業を為すことができる。

七法篇

「七法篇」は管仲が書いたものとされている。

「七法篇」は軍事に関するものだが、それはだいたいが(軍人の立場からの主張というよりも)政治家の立場から書いたものだ。

兵法に関することというより、戦争をする前にどれだけ準備できるかが勝敗のカギを握るということを主張している。

豊富な物資、良質の武器、優れた人材、鍛錬された兵士、十分な情報、そして臨機応変の処置ができる状態。これが整えば必勝だ。

敵国を攻撃する前に、まず自国の内政の安定をはかるべきである。内政が安定しないのに国外に兵を出すのは、自ら壊滅を招くに等しい。(p244)

内政には物資の充実以外に、上記の五輔篇にあるような全国民のレベルの度合いも含まれるはずだ。

そして彼我の状況を比較検討して有利な形勢の時に仕掛ければ必ず勝つことができる。



管子(3)(立政篇/乗馬篇/軽重篇)

前回からの続き。

立政篇

立政篇も管仲が書いたと言われている。

立政篇は行政上の細則や心得のようなものを集めたものだ。

その中で、訳者が注目している一つが、管仲が「重農主義者」であったということだ。

『管子』は『孫子』や『老子』などの多くの諸子百家の書とは違い、(抽象的でなく)かなり現実に即した即物的な書だ。それは管仲が政治家であるからであり、管仲以外の執筆者もこれを意識していたと思われる。

そういう意味で、管仲は生産力に重きを置いた。その一方で、工芸を贅沢なもの、無駄なものとして過剰なものは禁止するとまで書いている。斉の首都臨淄にはきらびやかなイメージを持っていたが改めなければいけないかもしれない。

またこの篇では監察にも言及している。監察は中国政治の伝統であるが、春秋時代に既にあったようだ。ただし、訳者は「たいていの時代、それが形式だけに終わっていた」と書いている。監察に賄賂を贈る慣習の話は三国志の一つの見せ場だ。

乗馬篇

乗馬篇も管仲が書いたと言われている。

「乗馬」とは兵賦の意味である、と訳者は書く一方で、乗馬篇は「主として税賦の制度を述べた者である」と書いている。

立政篇に続き、ここでも生産性について書かれているが、ここでは「土地は政治の基本」と主張している。管仲は生産性の評価を土地の面積だけで割り出すことを否定し、肥沃度や気候、生産物の質などに注目して課税の算出を考えるべきことを説いている。

私が特に注目したい箇所は以下の訳文だ。

市況は受給状況を示すものである。物価を下げれば商業利潤は薄くなる。商業利潤が薄くなれば、人民は商業に手をださず、農業生産にいそしむようになる。人民の大多数が農業を本務と心得てそれにいそしめば、社会の気風は質実となり、国家の財政は安定する。(p134)

毛沢東の政策を想起させるようなこの文句が、現代では間違っていることは言うに及ばない。現代では人民の大多数が農業をしたら、生産過剰になってしまって農産物の価格が二束三文にしかならない。食うには困らないが、食って寝るだけの人生を生きる人民を「社会の気風は質実」として片付けるのは人民の生活を満足させるに至らない(少なくとも現代では)。

市況に注意すれば、その国の政治の消長を察することができる。市場にぜいたく品が出回っているときには人心は浮ついており、実用品が多いときには政治は落ち着いていると判断してよい。(p134)

これは現在の日本の国政が採用している経済政策に近い考え方だ。そして間違っている。100円ショップが流行っているのは「実用品が多いとき」と言っていいだろう。しかしこれはデフレを表しているわけで、つまりは不況の時である。

「市場にぜいたく品」が出回って、人心が浮ついて金を使うような状況になってはじめて経済成長が見込まれ、国としての発展が見込まれるわけだ。日本以外の国の多くがそのように発展している中で、これは日本が停滞している原因として大きな部分となっている。

ただ、このような考え方は「マクロ経済はある程度コントロールできる」という考えを元にしている。春秋戦国時代の人も現代日本の為政者も「マクロ経済はコントロールできない」と考えているのだろう。

軽重篇

「軽重」は物価を意味する。訳者は「けいじゅう」と読んでいる。「軽重」は管仲が書かれたものではないとされている。

軽重篇は乗馬篇に続き、経済政策に関する篇。甲から康の7つの章があり、多くの紙幅を割いている。

経済政策は現代のものと比べれば取るに足らないものが多いが、独占が国を危うくすることと泥棒を生み出さない社会への言及など注目すべき点もある。

塩の専売

特に塩の専売などは管仲が始めた(ことになっている)そうだ。塩は中国社会の歴史を通じて需要が供給を大きく上回る物資だったので、安定供給のためにも専売は独占禁止の例外にあたるものだった(専売する理由はその収入のほうが遥かにメリットが高いが)。

夷狄掌握の法

軽重篇でもう一つ、興味深い節がある。「夷狄掌握の法」(p167-168)。

管仲曰く「各地の特産物を買い入れて流通を促進し、当方にたいする依存度を深めてゆけば、かれらは自然に入朝してこようというものです」。

これは中国の朝貢の原理だ。管仲が考え出したのかどうか知らないが、これにより交流を深め、衝突を起こりにくくした。