歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その12 言語・文字/世界帝国

前回まででアケメネス朝の通史は終わったので、ここではこれまで書いていなかった事項を書いておく。

言語・文字

広大な地域を支配したペルシア帝国には、土着の言語と共通の言語があった。

共通の言語はアラム語だ。

オリエント世界を最初に統一した新アッシリア帝国では、アラム語と、メソポタミアで古くから使用されていたアッカド語が話されていたが (新アッシリア⑤ ニネヴェの図書館/言語/行政/アッシリアの強さ 参照)、ペルシア帝国のダレイオス1世の頃にはアラム語になった。

文字に関して言えば、この時代は書記媒体が粘土板からパピルスへの過渡期が終わろうとする頃で、アラム語の文字(アルファベット)が主体でアッカド語の文字(楔形文字)では書かれなくなった。(青木健/ペルシア帝国/2020/講談社現代新書/p64)

普及した文字はアラム文字だが、エラム語やアッカド語やペルシア語の文字も使用された(ただし、どの程度の使用度だったのかは私には分からない)。有名なベヒストゥン碑文(ベヒストゥン碑文 - Wikipedia 参照)はこの3つの文字で書かれている。

ペルシア文字はダレイオス1世が作らせた文字だったが、公的な碑文以外は使用されず普及する前に使われなくなった。(阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p99)

世界帝国

まず、「世界帝国」という言葉は定義が定まった用語ではない。とりあえず「帝国」の定義について。

通常は自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家をいう (大英帝国大日本帝国など) 。その原型は古代ローマ帝国にあるが,近代においては海外に植民地をもったヨーロッパの列強をさすことが多い。さらに軍事力で広大な領域を支配している国や侵略主義的な大国も帝国と呼ばれる。 (→帝国主義 , 植民地主義 )

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/帝国とは - コトバンク

帝国主義」という言葉があるように、近現代史で使用される「帝国」には抽象化または比喩化された意味合いが混じってくるので注意が必要だ。

基本的には前半部分の広大な規模を有する国家を表現する言葉だ。そしてさらに規模が大きいものを「世界帝国」と呼ぶ、と考えればいいだろう。

歴史用語全体に言えることだが、理科系の用語のような厳密な定義はないと思った方がいい。こんなこと言ったらプロに怒られるか。

さて、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国』という本がある。いままでの勉強で大変お世話になった本だ。

阿部氏はペルシア帝国こそが史上初の世界帝国だと言っている。別の候補としてペルシア帝国の前にオリエント世界を統一した新アッシリア帝国があるのだが、それと比べて何故ペルシア帝国が「史上初」なのか?阿部氏は「はじめに」で手短に説明している。

アケメネス朝ペルシアは、揺籃の地の位置するアジアを越え、アフリカ、ヨーロッパにまで、その支配領域を拡張したのである(新アッシリアはエジプトを征服したものの有効支配できず、ヨーロッパとアナトリアの大部分には当地が及ばなかった)。

阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p11

  • 揺籃の地とはおそらく文明の発祥地のメソポタミアのことだろう。

上記に加えて支配期間のこともあるだろう。オリエント統一を達成したのはアッシュルバニパルの治世だったが、彼が死ぬと帝国のシステムは崩壊した。

ただし、私がここで言っておきたいことは、ペルシア帝国の帝国統治システムはほとんどが新アッシリア帝国のそれの使い回しだということだ。統治システムを開発したのは新アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世だ、と私は思っている。

彼が行なった行政や軍制などは以前からあったものなのだが、それらを一つの統治システムとして統合したことがすごいのだ。

個人的には「史上初の世界帝国」は新アッシリア帝国だと思っている。ただ、ここらへんは厳密な成否はないと思うので個々人が別々の説を採用しても自由だと思う。



アケメネス朝ペルシア帝国 その11 ダレイオス3世とペルシア帝国滅亡

前回からの続き。

ダレイオス3世はアケメネス朝ペルシア帝国の最後の王で、アレクサンドロス大王によって滅ぼされる。

ダレイオス3世と前回のアルタクセルクセス3世の間に一人の王がいる。その名はアルタクセルクセス4世だが、ギリシア文献だと「アルセス」という呼び名のほうが通っているそうだ。

アルセスの治世については史料が無いので書かない。

ダレイオス3世即位までの経緯

この経緯も例によって(?)確定されていない(王による史実の改竄が度々疑われている)。

前1世紀の古代ギリシア人ディオドロス『歴史叢書』によれば、以下の通り。

  • アルタクセルクセス3世の治世の宦官で宮廷内の実力者であったバゴアスという人物が大王を毒殺して実権を握り、アルセスを王位に就けた。

  • バゴアスはアルセスを孤立化させるために兄弟も殺した。そしてアルセス自身が反抗的になったため、彼自身と彼の子どもたちも殺害した。

  • バゴアスは彼の友人であったダレイオス(3世)を王位に就けた(ディオドロスはダレイオスが王族か否かについて言及していない)。

  • しかし結局のところ、2人は仲違いし、バゴアスがダレイオスを暗殺しようとしたところ、その企みが事前に発覚したためにダレイオスがバゴアスに毒杯を飲ませた。これで一連の経緯は終わる。

基本的に上記のシナリオが史実の有力な候補と考えられているようだ。アルタクセルクセス3世は自然死であるという史料もあるにはある。ダレイオスが王族か否かについては両者に論拠があり、現在も確定していないようだ。(以上、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』 *1 参照)

阿部氏はディオドロスのシナリオに論拠がある(ただの作り話ではない)としながらも、もう一つの可能性に言及している。

それは、ダレイオス(3世)首謀説で、バゴアスに全ての罪をかぶせたというもの。その論拠は(私個人的には)弱いと思うが(ここには書かない)、アケメネス朝の公式見解は数度史実を捻じ曲げているので、可能性はゼロだとは言えない。

滅亡

ダレイオスが即位したのが前336年で、アレクサンドロス大王の東方遠征が前334年、ダレイオス自身が死ぬのが前330年。ダレイオスの事績はアレクサンドロスに負けた以外に分かることは私には無い。

アレクサンドロス大王の東方遠征の詳細や彼の強さについては別の機会に書くとして、ここでは当時のペルシア帝国の弱さ・脆さについてだけ。

青木健『ペルシア帝国』 *2 によれば、帝国中央の騒ぎの後、西部諸州の独立傾向が止まらぬ中、絶好のタイミングでアレクサンドロス大王が攻めてきた、となる。

この戦いの数十年前(あるいは百数十年前)にはペルシア帝国はギリシア人の将軍や傭兵に少なからず依存していたことからも、ペルシア帝国後期の国内の軍事力はそれほどではなかったと思われる。

前330年、連敗したダレイオスは東方のバクトリア(現在のアフガニスタン北部辺り)に逃げたが、バクトリア総督(サトラップ)のベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡した。

なお、 ベッソスは自らをペルシア王アルタクセルクセスと名乗ったが、アレクサンドロスの軍に捕らえられて処刑された。彼はペルシアの王としては数えられていない。 (ベッソス - Wikipedia

これでペルシア帝国の歴史は終わった。



*1:中公新書/2021/p220-225

*2:講談社新書/2020/p103

アケメネス朝ペルシア帝国 その10 アルタクセルクセス3世

前回からの続き。

即位と国内平定

今回の代替わりでも後継者戦争が起こった。後継者争いが毎回のように起こるのは、アケメネス朝に後継者を決める取り決めが無かったからだという。

長命のアルタクセルクセス2世は多くの王子を授かったのはいいが、彼らが後継者争いを始めたら最期、収拾できなくなった。

けっきょく、熾烈な後継者争いを勝ち残ったオコスが即位し、名をアルタクセルクセス(3世)と改めた。

即位後、王位の候補となった兄妹のみならず、継承権のない姉妹までも大量虐殺した。

このような武断的なやり方は、宮廷の外まで続く。

[アルタクセルクセスは]即位すると、西部諸州で独立王朝化しているクシャサパヴァン[=サトラップ]たちを軍事力によって打倒すべく、メディアから小アジアへ遠征を試みている。この作戦はおおむね成功し、西部諸州の独立に一時的に歯止めをかけた。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p95-96

反乱が多発する西部を抑えた後、いよいよエジプト遠征に乗り出す。

エジプト遠征

当時のエジプトの王朝は第30王朝。ペルシア帝国から独立した王朝が第28王朝。

さてペルシア帝国のエジプト遠征は2回行われた。

前351年(または前350年)、第1回は大王みずから軍を率いたが失敗した。撃退した主力はギリシア人傭兵部隊だった(青木氏/p96)。その挙げ句にはキプロスフェニキアパレスチナ)、キリキア(小アジア南東)で反乱が起こった。

大王は第2回遠征に取り掛かる前に、まず反乱地域を鎮圧しなければならなかった。

フェニキア地方の反乱の首謀者はシドン王テンネスだった。テンネスはエジプトと同盟を組んで支援を要請し、エジプトはギリシア人傭兵部隊を派遣した。

しかしテンネスはペルシア軍が大挙して向かってくる報を聞くとペルシア帝国に寝返った。アルタクルセクセスは彼の寝返りを受け入れてシドンを占拠するとテンネスを殺し、ギリシア人傭兵部隊を自陣に組み込んだ(前347-345 *1 )。

前343年、第2回遠征が行われた。大軍のうち、3つに別れた分隊のひとつが防衛ラインを崩すと、エジプト王ネクタポ2世はナイルデルタからメンフィスへ逃げ、その後防衛ラインが総崩れになるとさらにヌビアまで逃亡してしまった。エジプト王の逃亡で、ペルシア軍はあっけなくエジプトを再占領した。

占領後、アルタクセルクセスが第31王朝の創始のファラオとなった。ただし、ペルシア帝国としてはエジプトは行政区のひとつであり、ペルシア人のサトラップを置いた。

その政治行政は以前のペルシア帝国の寛容さとは違い、神殿から金品を奪い、反乱をさせないように恐怖政治が敷かれた。

死去

この大王の治世の記録はかなり少ないらしく、分かることは少ないらしい。

それでも少ない史料から見ることができる彼の21年の治世は彼の目的が成功裏に適ったものだった。



*1:阿部氏/p216

アケメネス朝ペルシア帝国 その9 アルタクセルクセス2世

前回からの続き。

骨肉の後継者戦争

ダレイオス2世が亡くなるとアルタクセルクセス2世が大王に即位する。骨肉の争いはアルタクセルクセスが即位したあとだった。

アルタクセルクセスはダレイオスの息子で、同腹の弟にキュロスがいた。ただし、両者の母親パリュサティスは弟の方を大王にしたかったようだ。

アルタクセルクセスが即位の儀礼を旧都パサルガダエ *1で行なっている最中にキュロスが暗殺を試みたが失敗した。キュロスは捕まって処刑されるはずだったが、パリュサティスが助命嘆願して赦された。

赦されたキュロスはもとの任務に戻った。キュロスはアナトリア西部のリュディア *2 のサトラップであったが、主要都市サルディアに戻ると傭兵を集めた。

前401年、キュロスはついに挙兵し、サルディスを発って、王都バビロンを向かった。大王軍も都から出て両者はバビロンの北70キロに位置するユーフラテス河畔のクナクサで対峙した (クナクサの戦い - Wikipedia )。

この戦いは、ギリシア語史料 *3 によると、キュロス軍が優勢であったがキュロス自身が先走りしすぎて、敵の投槍を受けて戦死してしまい決着がついた。いっぽう、ペルシア帝国の公式見解によれば、大王アルタクセルクセスとキュロスが戦場で決闘して大王自らの手でキュロスを誅殺した。 *4

いずれにしろ、これにより権力抗争は決着した。

コリントス戦争と大王の和約

コリントス(コリント)戦争はギリシア勢力どうしの戦争だが、ペルシア帝国も深く関わっている。

ペロポネソス戦争の最中にスパルタはペルシア帝国に対して資金援助を申し出た。対価としてアナトリア西岸のギリシア諸都市がペルシア帝国支配下であることを認めることで合意した。この協定によってスパルタはアテナイに勝利できた。(前回参照)

これから数十年が経ち両国の王も代替わりする。前399年、スパルタ王の一人 *5 アゲシラオス2世が、上記の協定を破って、ギリシア都市をペルシアの支配から解放すると称してアナトリアに攻め込んだ (アゲシラオス2世 - Wikipedia )。

この時、スパルタは当てないに代わってギリシアの覇権を握っていたが、ペロポネソス戦争を共に戦った有力都市のコリントスやテーバイはこの戦いには参加しなかった。それどころか彼らはスパルタの勢力拡大志向に警戒していた。

そこでペルシア側が、スパルタに反感を抱く(彼らを含む)ギリシア諸都市にカネを配りながら戦争を煽った。その甲斐あって始まった対スパルタ戦争がコリントス戦争だ(前395年)。ペルシア帝国は各都市に支援金をばらまくだけでなく、自らも戦争に参加した。

しかし、特徴的なのはカネのバラマキ方だ。

コリントス戦争では、ペルシア帝国の支援先は一貫していない。アテナイとスパルタを交互に支援したあげく、最終的にはペロポネソス戦争時と同様、ペルシアの支援によってスパルタを勝たせた(前387年)。

出典:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p189

ギリシア人どうしの戦いの本当の勝者はペルシア帝国だった。この戦争の終結を意味する講和条約の名は(ペルシアの将軍の名にちなんで)「アンタルギダスの和約」と呼ばれることもあるが、もうひとつの呼び名「大王の和約」のほうがふさわしいだろう。

大王の和約
 前386年、アケメネス朝ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世が、ギリシアのスパルタと、アテネ・テーベ・コリントの同盟の間のコリント戦争の仲介して締結した和約。和約と言うが事実上はギリシアの諸ポリスがペルシア帝国と締結した誓約である。小アジアキプロス島はペルシア帝国領と定められ、ペルシア戦争の発端となったイオニア諸市は完全にペルシア領に復した。他のギリシア本土のポリスは独立が認められたが、侵略者に対してはペルシアと共に戦うことが規定され、スパルタがこの条約実効の監視役という立場となった。

出典:コリント戦争/大王の和約/世界史の窓

このやり方は古代ローマや近代のイギリスが行なった手法、すなわち分割統治そのものだ。当時のペルシア帝国には昔のような強力な軍事力はなくギリシアを併呑できなかったが、戦争によって弱体化したギリシア諸都市を影響下に置くことには成功した。

エジプト奪還ならず

エジプトの反乱は先王の最末期に始まり死の直前に王国が宣言された。

上記のキュロスとの後継者戦争を終わらせた後、すぐにエジプト鎮圧に取り掛かったと思ったらどうもそうではないらしい。

記録があまり無いらしいのだが、エジプト遠征は2~3度行われたらしい。このうち遠征の内容が分かるものが一つある。

前373年に遠征が行われるのだが、その司令官はファルナバゾスとイフィクラテスだった。

ファルナバゾスはペルシア帝国の大貴族の家系でヘレスポントス(アナトリアの北西部)のサトラップだが、イフィクラテスはアテナイの将軍だった。アテナイとしてはペルシア帝国の遠征の参加要請(または命令)に逆らうことができなかった。

しかし、メンフィス攻略戦の前に2人が仲違いして作戦が失敗した後、イフィクラテスがアテナイに帰国してしまった。これで遠征そのものが失敗になってしまう。

これ以降も遠征は企画されたが、アルタクセルクセスが高齢で求心力が無くなってしまったため、企画倒れになってしまった。(阿部氏/p211-213)

大王の求心力低下と後継者戦争と総督の反乱

上述の阿部氏によれば、当時のギリシア人は「ペルシアは恐れるに足りない!すでに衰退の一途を辿っている!」と息巻いていたが(p194-)、ペルシア帝国はなかなか倒れなかった。それどころか当のギリシアペルシア人の影響下に置かれていた。

21世紀、日本の言論人が「中国はもうすぐ潰れるだろう」といいつづけてはや数十年が経っている。歴史は繰り返される。

さて、そんなペルシア帝国だが、衰退の影はたしかにちらつかせていた。

〔前361年に〕アジア沿岸部の人々がペルシアから離反し、幾人かの総督や将軍が暴動を起こし、アルタクセルクセスに戦争を仕掛けた。同時にエジプト王タコスもペルシアと戦うことに決め、歩兵を徴募した。(ディオドロス『歴史叢書』150・90・1~2)

出典:安倍氏/p197

これについての解釈は複数あるのだが、安倍氏の見立てによれば、大王の老齢による求心力の低下によるものではないか、という。

大王は在位46年だったが、前361年当時の年齢は不確かではあるが80歳半ば~90歳前後だった。総督の反乱については前366-361。(p198-199)

これにより後継者争いが宮廷で起こり始め、それから各地に広がった。応仁の乱のようなものを想定しているようだ。

ただし、安倍氏はここから右肩下がりに衰退していくとは解釈していない。すなわちこの現象は後継者争いが終わるまでの一時的な動乱で、次期の大王が定まった時に自然消滅したと考えている。(p201)

いっぽう、青木健『ペルシア帝国』 *6 ではダレイオス2世の晩年にエジプトの独立を止められなかったところから既に衰退していた、とする。(p87)



*1:キュロス2世(大王)によって建設された、当時の首都

*2:昔のリュディア王国の一部。サルディアの周辺?

*3:ギリシア傭兵としてキュロス軍にいたクセノポンと、ペルシア宮廷の医師をしていたクテシアス

*4:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p184-185

*5:スパルタは2人の王で統治する体制だった

*6:講談社現代新書/2020

アケメネス朝ペルシア帝国 その8 ダレイオス2世

前回からの続き。

骨肉の動乱とダレイオス2世の即位

前424年、アルタクセルクセス1世が亡くなり、王太子だったクセルクセス(2世)が即位した。

しかし即位してわずか2ヶ月で異母弟ソグディアノスに暗殺される。そしてソグディアノスが王位に就いた。

さらに別の異母弟であるオコスが反旗を翻す。オコスは当時ヒルカニア(カスピ海南東沿岸)の総督だった。軍やエジプト総督がオコス陣営につき、ソグディアノスは敗れて処刑された。彼の治世は半年ばかりだった。

オコスは反旗を翻した時に、オコスという名をダレイオスに改めて大王と名乗った。

バビロニアの繁栄

アルタクセルクセス1世は多くの女性を娶ったが、そのうち少なくとも3人がバビロニア出身だった。

アルタクセルクセス1世の先王クセルクセス1世の治世には、バビロニアの中心都市バビロンが反乱を起こして鎮圧された。一説には王がバビロンを破壊して帝都の役割をはたせなくなったという(前回参照)。

しかしアルタクセルクセス1世の治世ではバビロニアの経済は繁栄していた。これを証明するのが、ニップルで出土した粘土板文書「ムラシュ文書」だ。

新たな支配者たち[アケメネス(ハカーマニシュ)朝王家]は自分の領地を管理する現地人の協力者を必要としていた。この現地の協力者たちの姿をニップルの商人ムラシュ家に見ることができる。少なくとも3世代続いたムラシュ家は、領主たちが保有していた土地を借り受け、これをさらに別の借主(小作農)へ又貸しするという事業を営んでいた。ムラシュ家はさらに国家から得た灌漑用水の利用権、種子、農具、家畜を小作農たちに販売していた。土地の所有者たちは、仲介者としての報酬として小作料と税金の一部をムラシュ家が確保することを認めていた。さらにムラシュ家は土地を担保にして銀を貸し出していた。多くの農民がこの貸付を必要していたと見られ[た]。[中略]

ハカーマニシュ朝時代には灌漑が改良され、移住者が増大し、リュディア人、カリア人、キッシア人、エジプト人ユダヤ人(その多くはバビロニア強制移住させられた人々である)、ペルシア人、メディア人、サカ人などがこの地域に引き寄せられた。

出典:ニップル - Wikipedia

そして前述のバビロニア出身の3人の女性とはソグディアノスの母アロギュネ、ダレイオス(オコス)の母コスマルテュデネ、ダレイオスの異母妹(そして妻)のパリュサティスの母アンディアである(アンディアはバビロン出身)。

ダレイオスは政権獲得時だけではなく、最期のときもバビロンで迎え[た]。

出典:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p176

クセルクセス1世がバビロンを破壊したかどうかは議論があるが、すくなくともアルタクセルクセス1世の治世にはバビロニアは重要な地域であり、ダレイオス2世の治世ではバビロンは王家として重要な都市であった。

サトラップの土着化

ダーラヤワシュ[ダレイオス]2世の頃から、「帝国」の統治体制に構造的な弛緩が見られるようになる。すなわち、各地のクシャサパーヴァン[サトラップ]が次第に世襲化して、中央政府の意向を代表するより、地元の利害を代弁するのである。そして、その両者の間には、この頃から埋め難い亀裂が生じていた。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p85

国内を分裂させた後継者戦争の後遺症だろう。中央政府の権力が弱ければ自分の身を守る力になるためには地元の力を自分の力にするしかない。このことは古今東西おなじだ。日本史の室町末期から戦国時代への変遷を思い浮かべればいい。

そして反乱が頻発するようになった。青木氏は、反乱が頻発する原因についての仮説を紹介している。要約は以下の通り。

ペルシア帝国の土着化(世襲化、独立王朝化)はもっぱら西部で起こった。西部は金貨・銀貨が古くから流通していたが、中央政府が金納・銀納でこれを吸い上げ、多くは王家の宝物庫に退蔵されてしまった。これにより、経済の循環が阻害され、それに不満を持った地元がサトラップとともに反乱を起こした。(青木氏/p86)

個人的には、有力者が西部のサトラップに集中していただけじゃないのかと思ったりするが、証拠は無い。

この後すぐに帝国が瓦解することはなかったので、とりあえず上述のように「弛緩が見られるようになる」という書き方になる。

ギリシア勢力との関係の変化

古代ギリシア中心の歴史は別の機会に書く。)

ペルシア帝国とギリシア勢力の戦争、つまりペルシア戦争は「カリアスの和約(前449年)」によって終結する(諸説あり、前回参照)。

ギリシア勢力内では、アテナイを盟主としたデロス同盟とスパルタを盟主としたペロポネソス同盟が対立した。

彼らは前431-404年に戦争するのだが(ペロポネソス戦争)、資金面で劣勢であったスパルタは開戦の翌年に、なんとペルシア帝国に資金援助を要請した。この時はまだ先王アルタクセルクセス1世の治世で交渉は不成立に終わった。

しかし前413年に転機が訪れる。

前415-413年のシチリア島遠征においてアテナイ軍は大敗北を喫した。これによりアテナイの軍事力が激しく落ちた。

これを好機としてスパルタは再びペルシアと交渉し、アナトリア西岸のイオニア諸国のペルシア帝国の宗主権を認めることで、資金援助を得ることに成功した。

結局、前404年、スパルタの勝利で戦争は終わり、ペルシア帝国は労せずして勢力を拡大することができた。ただし、ダレイオス2世も前404年に病気で亡くなる。

ダレイオスの死とエジプトの反乱

前411年にエジプトで反乱が起こり、大王が亡くなる前404年に反乱の首謀者アミルタイオスがエジプト王と宣言する。

オリエント世界では、反乱は代替わりの直後に良く発生するものだが、今回はダレイオスの死の直前に起こった。亡くなる前に重篤の情報がエジプトに届いていたのかもしれない。



アケメネス朝ペルシア帝国 その7 アルタクセルクセス1世

前回からの続き。

アルタクセルクセス1世

アルタクセルクセスは父クセルクセス1世が暗殺されたことにより、前465年、王位に就いた(暗殺の詳細は伝えられていない)。

「アルタクセルクセス」は古代ギリシア語の読みで、古代ペルシア語では「アルタクシャサ」と言う *1

エジプトの反乱

代替わりの時期に反乱が起きるのは古代オリエント世界の歴史においてよく見られることだ。

前460年、リビア人の首長イナロス2世によって反乱が開始された。サイス朝(エジプト第26王朝)に関係する人物かも知れないが確定はしていない。

当時のエジプト総督(サトラップ)はアケメネス(王家の一員)だったが、反乱開始の時は不在だったらしい。この反乱にアテナイは味方して参戦した。

アケメネスは鎮圧軍を率いてエジプトに戻ったが、イナロス軍に破れて戦死した。

アルタクセルクセスは、次の鎮圧軍を妹の婿であるメガバゾス将軍に任せて派遣した。今度はペルシア軍が勝利し、イナロスは捕縛・処刑された(前454年)。そして反乱全体も鎮圧された。

ギリシア勢力との戦いと「カリアスの和約」

ギリシア側の詳細は別の機会に書く。)

ギリシアとの戦闘(ペルシア戦争)は、先王クセルクセス1世の治世から断続的に続いていた。

アルタクセルクセス自身にギリシア遠征の意思があったかどうかは分からないが、結果的に生涯遠征はしなかった。

いっぽう、ギリシア側ではアテナイとスパルタのギリシア内での覇権争いがあった。それでもアテナイを中心とするデロス同盟の軍はペルシア帝国の支配下にある地域に断続的に攻勢をかけた。エジプト反乱の時もキプロス島を舞台にデロス同盟とペルシア軍が戦っていた。前450年にも同島で両者の戦闘が行われ、デロス同盟軍の勝利に終わった(当時のキプロス島の史実は断片的にしか語られず、さらに食い違いが有るのでよく分からない)。

前449年、少し唐突に思えるのだが、ギリシアデロス同盟)側とペルシア側の間に「カリアスの和約」が結ばれる。教科書的には「ペルシア戦争終結を目的として批准された条約」とされるもので、前1世紀の古代ギリシアの歴史家ディオドロスが条約の条文を記しているが、現代の研究者の中にはこの条文を否定する人が少なからずいる。

反論の論拠の一つとして、同時代の史料からはこの条文は言及されていない、というものがある。

ただし、肯定派側の状況証拠として、これ以降、ギリシアとペルシアの直接の武力衝突がなくなっていること、同時代人のヘロドトスは(和約自身については言及していないものの)アテナイ使節カリアス(「カリアスの和約」は彼の名にちなむ)がペルシアの帝都スサに派遣されたことを書いていることが挙げられる。これ以上のことは史料が無いため史実は分からないままだ。(阿部氏/p157)

勝手な想像をすれば、ペルシア王はハナからペルシア戦争を続行する気が無く、ギリシア側はギリシア勢力内での戦い(とその準備)にエネルギーをシフトせざるを得なかった、というところだろうか。

アルタクセルクセス1世の治世の評価

アルタクセルクセスの治世は41年という長いものだった。彼自身はハーレムに引きこもりがちであったが、ダレイオス1世が作り上げた帝国の行政システムが良く機能し、国内は安定していた (現代日本の感覚とは違い、反乱があったとしてもすぐに対応できるシステムが機能すれば、「安定している」といえる、ようだ)。

先代までの王たちのように遠征(侵略)に積極的でないことは「寛容」と言われ、旧約聖書には寛容な王というイメージで描かれているらしい。



アケメネス朝ペルシア帝国 その6 クセルクセス1世

前回からの続き。

クセルクセス1世

ダレイオス1世の後を継ぐのはクセルクセス1世。ダレイオスと正妃アトッサの息子。

アトッサはキュロス2世の娘。ダレイオスは簒奪者だが、先王朝は女系で継続したことになる。

「クセルクセス」は古代ギリシア語の読みで、古代ペルシア語では「クシャヤールシャン」となる *1

バビロンの反乱と破壊

バビロンはペルシア帝国が支配するようになっても経済の中枢の年だった。ダレイオス1世はバビロンに1年のうち7ヶ月滞在し、かつての新バビロニアの王ネブカドネザル2世の宮殿を使っていた(首都および主要都市については前回の記事参照)。

しかしバビロンが前484-476年の間に3度の反乱を起こすとクセルクセスは大都市の破壊を決意した。都市神であるマルドゥクを祀るエサギル神殿を破壊し、住民は強制移住に処した。青木健氏によれば、《バビロンの地位は、メソポタミア文明の中心都市から「帝国」の5つの主都の一つへと、確実に下落した》と書いている。 *2

メソポタミア文明の終焉の時期は諸説あるのだが(新バビロニアの滅亡やアケメネス朝の滅亡など)、このクセルクセスの都市破壊も候補の一つになるかもしれない。

ただし、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』では、以上のようなバビロンの徹底的な破壊についての歴史は「拡大解釈」とし、《ギリシアに攻め入ったクセルクセスを悪く見せる目的、あるいはアレクサンドロスの寛大な姿勢を際立たせるためのプロパガンダだった》という説と、北バビロニアの文献から鎮圧に伴った何らかの断絶・変化があったことを紹介している。*3

ギリシア遠征

クセルクセスが世界史で語られる事項はほとんどペルシア戦争に限られる。

当時の古代ギリシア人にとっては生存を賭けた戦いであり、ヘロドトス『歴史』の主題であり、詳細に語られる歴史だった。一方、ペルシア由来の史料では語られていない(阿部氏/p132)。

クセルクセスにしてみれば、ペルシア戦争(とギリシア側が言っている戦争)は領土拡大戦争の一つで、さらに失敗してしまったのだから書き遺す案件ではなかったかもしれない。

ともかく、詳細に描かれるペルシア戦争の歴史はギリシア文献だけで構成されていることをいちおう留意しておくべきだろう。

ペルシア戦争における古代ギリシア側の変化については、古代ギリシアの歴史を書く時に書く。

出典:ペルシア戦争 - Wikipedia

テルモピュライの戦いサラミスの海戦

前480年、クセルクセスはギリシア遠征を行なう。先王ダレイオス1世と違い、クセルクセスは自らも遠征に参加した。

エーゲ海の北岸であるトラキアマケドニアは、ダレイオスの治世のあいだにペルシア帝国の影響下に入っていた(トラキアは支配、マケドニアは臣従)。ペルシアの陸軍は2つの地域を通ってギリシア本土に向かった。

スパルタ軍はテルモピュライの地峡に陣取ってペルシアの大軍を迎え撃ったが、結局全滅させられる。(テルモピュライの戦い

余談になるが、この戦いは『300(スリーハンドレッド)』という映画になっている。スパルタ軍正規兵300人が100万のペルシア軍を迎え撃ったというシナリオらしい(未視聴だが、史実とはかけはなれているらしい)。実際はギリシア軍は数千人の兵で戦ったがそれでも圧倒的劣勢のなかで全滅した。

敗れたギリシア軍は今度は海上での決戦に持ち込んだ。サラミス島(アテナイの西方)と半島に挟まれた狭い海域にペルシア海軍を誘い込むなどして、ギリシア軍が作戦勝ちをした。(サラミスの海戦

海戦で敗れたクセルクセスは軍を残して帰国した。

また、これと同じ時期にカルタゴはペルシア軍側としてシラクサシチリア島の植民市)に攻め込んだが、失敗に終わった。

プラタイアの戦い/ミュカレの戦い

残されたペルシア軍はマルドニオス(大貴族の一人)に任された。

前479年、ギリシアで冬を越した大軍はギリシアへ攻め込む。ギリシア本土中部のプラタイアで待ち構えていたアテナイ・スパルタ連合軍はこれを撃破、総大将のマルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。

いっぽう同じ頃、エーゲ海ではギリシア海軍がペルシア帝国の支配領域に攻め込む。ギリシア軍はアナトリアの西南に位置するサモス島に船を進めたが、これが到着する前にペルシア軍はアナトリアに兵を引いた。ギリシア軍はこれを追いかけてアナトリアに上陸して完勝。イオニア地方はペルシア帝国支配から独立した(ミュカレの戦い)。

ギリシアの反転攻勢

ペルシア側の大軍勢は撤退を余儀なくされた一方、ギリシア軍は反転攻勢をやめなかった。

前478年、ギリシア軍はビュザンティオン(現在のイスタンブル)を攻めて戦勝し、ペルシア帝国はマケドニアトラキアの支配権を失った。(ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年) - Wikipedia

前466年には、ギリシア海軍がアナトリア西南のエウリュメドン川河口を攻めて一日にして大勝した。ただしこの戦いの目的はアテナイの将軍キモンの功名心を満たすというものだった(結果的には、エーゲ海ギリシア側の覇権を確固たるものにしたとは思う)。 (エウリュメドン川の戦い (紀元前466年) - Wikipedia

ギリシア軍の断続的な攻勢はクセルクセスの死後も続く。

暗殺

バビロニア出土の文献によれば、クセルクセスは息子で王太子だったダレイオスに暗殺されたが、別の息子のアルタクセルクセスがダレイオスを捕らえて処刑した。

いっぽう、ギリシア語文献によれば、クセルクセスと王太子の両者が近衛隊長アルタパノスに暗殺されて、大貴族の一人が近衛隊長を捕らえて処刑した。

どちらの伝承が正しいのかは不明。動機その他も分からない。いずれにしろ、あとを継ぐことになったのは上述のアルタクセルクセス(1世)だ。(以上、青木氏/p77)



*1:青木氏/p70

*2:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p74-75

*3:p119-120