前回からの続き。
即位と国内平定
今回の代替わりでも後継者戦争が起こった。後継者争いが毎回のように起こるのは、アケメネス朝に後継者を決める取り決めが無かったからだという。
長命のアルタクセルクセス2世は多くの王子を授かったのはいいが、彼らが後継者争いを始めたら最期、収拾できなくなった。
けっきょく、熾烈な後継者争いを勝ち残ったオコスが即位し、名をアルタクセルクセス(3世)と改めた。
即位後、王位の候補となった兄妹のみならず、継承権のない姉妹までも大量虐殺した。
このような武断的なやり方は、宮廷の外まで続く。
[アルタクセルクセスは]即位すると、西部諸州で独立王朝化しているクシャサパヴァン[=サトラップ]たちを軍事力によって打倒すべく、メディアから小アジアへ遠征を試みている。この作戦はおおむね成功し、西部諸州の独立に一時的に歯止めをかけた。
出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p95-96
反乱が多発する西部を抑えた後、いよいよエジプト遠征に乗り出す。
エジプト遠征
当時のエジプトの王朝は第30王朝。ペルシア帝国から独立した王朝が第28王朝。
さてペルシア帝国のエジプト遠征は2回行われた。
前351年(または前350年)、第1回は大王みずから軍を率いたが失敗した。撃退した主力はギリシア人傭兵部隊だった(青木氏/p96)。その挙げ句にはキプロス、フェニキア(パレスチナ)、キリキア(小アジア南東)で反乱が起こった。
大王は第2回遠征に取り掛かる前に、まず反乱地域を鎮圧しなければならなかった。
フェニキア地方の反乱の首謀者はシドン王テンネスだった。テンネスはエジプトと同盟を組んで支援を要請し、エジプトはギリシア人傭兵部隊を派遣した。
しかしテンネスはペルシア軍が大挙して向かってくる報を聞くとペルシア帝国に寝返った。アルタクルセクセスは彼の寝返りを受け入れてシドンを占拠するとテンネスを殺し、ギリシア人傭兵部隊を自陣に組み込んだ(前347-345 *1 )。
前343年、第2回遠征が行われた。大軍のうち、3つに別れた分隊のひとつが防衛ラインを崩すと、エジプト王ネクタポ2世はナイルデルタからメンフィスへ逃げ、その後防衛ラインが総崩れになるとさらにヌビアまで逃亡してしまった。エジプト王の逃亡で、ペルシア軍はあっけなくエジプトを再占領した。
占領後、アルタクセルクセスが第31王朝の創始のファラオとなった。ただし、ペルシア帝国としてはエジプトは行政区のひとつであり、ペルシア人のサトラップを置いた。
その政治行政は以前のペルシア帝国の寛容さとは違い、神殿から金品を奪い、反乱をさせないように恐怖政治が敷かれた。
死去
この大王の治世の記録はかなり少ないらしく、分かることは少ないらしい。
それでも少ない史料から見ることができる彼の21年の治世は彼の目的が成功裏に適ったものだった。
*1:阿部氏/p216