歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その8 ダレイオス2世

前回からの続き。

骨肉の動乱とダレイオス2世の即位

前424年、アルタクセルクセス1世が亡くなり、王太子だったクセルクセス(2世)が即位した。

しかし即位してわずか2ヶ月で異母弟ソグディアノスに暗殺される。そしてソグディアノスが王位に就いた。

さらに別の異母弟であるオコスが反旗を翻す。オコスは当時ヒルカニア(カスピ海南東沿岸)の総督だった。軍やエジプト総督がオコス陣営につき、ソグディアノスは敗れて処刑された。彼の治世は半年ばかりだった。

オコスは反旗を翻した時に、オコスという名をダレイオスに改めて大王と名乗った。

バビロニアの繁栄

アルタクセルクセス1世は多くの女性を娶ったが、そのうち少なくとも3人がバビロニア出身だった。

アルタクセルクセス1世の先王クセルクセス1世の治世には、バビロニアの中心都市バビロンが反乱を起こして鎮圧された。一説には王がバビロンを破壊して帝都の役割をはたせなくなったという(前回参照)。

しかしアルタクセルクセス1世の治世ではバビロニアの経済は繁栄していた。これを証明するのが、ニップルで出土した粘土板文書「ムラシュ文書」だ。

新たな支配者たち[アケメネス(ハカーマニシュ)朝王家]は自分の領地を管理する現地人の協力者を必要としていた。この現地の協力者たちの姿をニップルの商人ムラシュ家に見ることができる。少なくとも3世代続いたムラシュ家は、領主たちが保有していた土地を借り受け、これをさらに別の借主(小作農)へ又貸しするという事業を営んでいた。ムラシュ家はさらに国家から得た灌漑用水の利用権、種子、農具、家畜を小作農たちに販売していた。土地の所有者たちは、仲介者としての報酬として小作料と税金の一部をムラシュ家が確保することを認めていた。さらにムラシュ家は土地を担保にして銀を貸し出していた。多くの農民がこの貸付を必要していたと見られ[た]。[中略]

ハカーマニシュ朝時代には灌漑が改良され、移住者が増大し、リュディア人、カリア人、キッシア人、エジプト人ユダヤ人(その多くはバビロニア強制移住させられた人々である)、ペルシア人、メディア人、サカ人などがこの地域に引き寄せられた。

出典:ニップル - Wikipedia

そして前述のバビロニア出身の3人の女性とはソグディアノスの母アロギュネ、ダレイオス(オコス)の母コスマルテュデネ、ダレイオスの異母妹(そして妻)のパリュサティスの母アンディアである(アンディアはバビロン出身)。

ダレイオスは政権獲得時だけではなく、最期のときもバビロンで迎え[た]。

出典:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p176

クセルクセス1世がバビロンを破壊したかどうかは議論があるが、すくなくともアルタクセルクセス1世の治世にはバビロニアは重要な地域であり、ダレイオス2世の治世ではバビロンは王家として重要な都市であった。

サトラップの土着化

ダーラヤワシュ[ダレイオス]2世の頃から、「帝国」の統治体制に構造的な弛緩が見られるようになる。すなわち、各地のクシャサパーヴァン[サトラップ]が次第に世襲化して、中央政府の意向を代表するより、地元の利害を代弁するのである。そして、その両者の間には、この頃から埋め難い亀裂が生じていた。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p85

国内を分裂させた後継者戦争の後遺症だろう。中央政府の権力が弱ければ自分の身を守る力になるためには地元の力を自分の力にするしかない。このことは古今東西おなじだ。日本史の室町末期から戦国時代への変遷を思い浮かべればいい。

そして反乱が頻発するようになった。青木氏は、反乱が頻発する原因についての仮説を紹介している。要約は以下の通り。

ペルシア帝国の土着化(世襲化、独立王朝化)はもっぱら西部で起こった。西部は金貨・銀貨が古くから流通していたが、中央政府が金納・銀納でこれを吸い上げ、多くは王家の宝物庫に退蔵されてしまった。これにより、経済の循環が阻害され、それに不満を持った地元がサトラップとともに反乱を起こした。(青木氏/p86)

個人的には、有力者が西部のサトラップに集中していただけじゃないのかと思ったりするが、証拠は無い。

この後すぐに帝国が瓦解することはなかったので、とりあえず上述のように「弛緩が見られるようになる」という書き方になる。

ギリシア勢力との関係の変化

古代ギリシア中心の歴史は別の機会に書く。)

ペルシア帝国とギリシア勢力の戦争、つまりペルシア戦争は「カリアスの和約(前449年)」によって終結する(諸説あり、前回参照)。

ギリシア勢力内では、アテナイを盟主としたデロス同盟とスパルタを盟主としたペロポネソス同盟が対立した。

彼らは前431-404年に戦争するのだが(ペロポネソス戦争)、資金面で劣勢であったスパルタは開戦の翌年に、なんとペルシア帝国に資金援助を要請した。この時はまだ先王アルタクセルクセス1世の治世で交渉は不成立に終わった。

しかし前413年に転機が訪れる。

前415-413年のシチリア島遠征においてアテナイ軍は大敗北を喫した。これによりアテナイの軍事力が激しく落ちた。

これを好機としてスパルタは再びペルシアと交渉し、アナトリア西岸のイオニア諸国のペルシア帝国の宗主権を認めることで、資金援助を得ることに成功した。

結局、前404年、スパルタの勝利で戦争は終わり、ペルシア帝国は労せずして勢力を拡大することができた。ただし、ダレイオス2世も前404年に病気で亡くなる。

ダレイオスの死とエジプトの反乱

前411年にエジプトで反乱が起こり、大王が亡くなる前404年に反乱の首謀者アミルタイオスがエジプト王と宣言する。

オリエント世界では、反乱は代替わりの直後に良く発生するものだが、今回はダレイオスの死の直前に起こった。亡くなる前に重篤の情報がエジプトに届いていたのかもしれない。