前回からの続き。
アルタクセルクセス1世
アルタクセルクセスは父クセルクセス1世が暗殺されたことにより、前465年、王位に就いた(暗殺の詳細は伝えられていない)。
「アルタクセルクセス」は古代ギリシア語の読みで、古代ペルシア語では「アルタクシャサ」と言う *1。
エジプトの反乱
代替わりの時期に反乱が起きるのは古代オリエント世界の歴史においてよく見られることだ。
前460年、リビア人の首長イナロス2世によって反乱が開始された。サイス朝(エジプト第26王朝)に関係する人物かも知れないが確定はしていない。
当時のエジプト総督(サトラップ)はアケメネス(王家の一員)だったが、反乱開始の時は不在だったらしい。この反乱にアテナイは味方して参戦した。
アケメネスは鎮圧軍を率いてエジプトに戻ったが、イナロス軍に破れて戦死した。
アルタクセルクセスは、次の鎮圧軍を妹の婿であるメガバゾス将軍に任せて派遣した。今度はペルシア軍が勝利し、イナロスは捕縛・処刑された(前454年)。そして反乱全体も鎮圧された。
ギリシア勢力との戦いと「カリアスの和約」
(ギリシア側の詳細は別の機会に書く。)
ギリシアとの戦闘(ペルシア戦争)は、先王クセルクセス1世の治世から断続的に続いていた。
アルタクセルクセス自身にギリシア遠征の意思があったかどうかは分からないが、結果的に生涯遠征はしなかった。
いっぽう、ギリシア側ではアテナイとスパルタのギリシア内での覇権争いがあった。それでもアテナイを中心とするデロス同盟の軍はペルシア帝国の支配下にある地域に断続的に攻勢をかけた。エジプト反乱の時もキプロス島を舞台にデロス同盟とペルシア軍が戦っていた。前450年にも同島で両者の戦闘が行われ、デロス同盟軍の勝利に終わった(当時のキプロス島の史実は断片的にしか語られず、さらに食い違いが有るのでよく分からない)。
前449年、少し唐突に思えるのだが、ギリシア(デロス同盟)側とペルシア側の間に「カリアスの和約」が結ばれる。教科書的には「ペルシア戦争終結を目的として批准された条約」とされるもので、前1世紀の古代ギリシアの歴史家ディオドロスが条約の条文を記しているが、現代の研究者の中にはこの条文を否定する人が少なからずいる。
反論の論拠の一つとして、同時代の史料からはこの条文は言及されていない、というものがある。
ただし、肯定派側の状況証拠として、これ以降、ギリシアとペルシアの直接の武力衝突がなくなっていること、同時代人のヘロドトスは(和約自身については言及していないものの)アテナイの使節カリアス(「カリアスの和約」は彼の名にちなむ)がペルシアの帝都スサに派遣されたことを書いていることが挙げられる。これ以上のことは史料が無いため史実は分からないままだ。(阿部氏/p157)
勝手な想像をすれば、ペルシア王はハナからペルシア戦争を続行する気が無く、ギリシア側はギリシア勢力内での戦い(とその準備)にエネルギーをシフトせざるを得なかった、というところだろうか。
アルタクセルクセス1世の治世の評価
アルタクセルクセスの治世は41年という長いものだった。彼自身はハーレムに引きこもりがちであったが、ダレイオス1世が作り上げた帝国の行政システムが良く機能し、国内は安定していた (現代日本の感覚とは違い、反乱があったとしてもすぐに対応できるシステムが機能すれば、「安定している」といえる、ようだ)。
先代までの王たちのように遠征(侵略)に積極的でないことは「寛容」と言われ、旧約聖書には寛容な王というイメージで描かれているらしい。