歴史の世界

【書評】内藤陽介『誰もが知りたいQアノンの正体 みんな大好き陰謀論II』

著者について

著者については
【書評】内藤陽介『世界はいつでも不安定 - 国際ニュースの正しい読み方』 - 歴史の世界を綴る
を参照。

目次

序 章 ジャーナリストも嵌ったドミニオン陰謀論
第一章 大統領選挙、負けても勝ったとQアノン
第二章 君にもなれるQアノン
第三章 Qアノン前史---保守系ネットメディアの曙
第四章 ピザゲート事件---子供たちを救出……のはずが
第五章 陰謀論は止まらない
第六章 目覚めよ、さらば救われん---Qアノンのカルト宗教化とその背景 *1

この本は『みんな大好き陰謀論』の続編だが、近著の『世界はいつでも不安定 - 国際ニュースの正しい読み方』とも関連性があり、合わせて読むとこの本の理解が深まる。

『世界はいつでも不安定』の第1章《【アメリカを読む】南北問題で知る、米大統領選と左翼運動》では、左翼運動の紹介と、ポリコレなどの行き過ぎがトランプ大統領を誕生させたことを書いている。本書はトランプ大統領誕生の流れに沿った右翼運動(?)について書かれている(Qアノンを右翼と呼ぶのは間違っているかもしれないが)。

Qアノンの考え自体は大したことはなく支持者たちも烏合の衆なのだが、彼らの支持するトランプ大統領が彼らを擁護したことによって政治的に意味のある集団になってしまった。トランプ大統領はある意味、彼らにお墨付きを与えたと言えるだろう。 *2

そしてこの本の重要な部分は、Qアノンがどういうもので如何に間違えているかではなく、Qアノンやその支持者がどうして生まれ育ち暴発したのかにある。土壌となったアメリカ社会や事情にある。

キーパーソンとしては、スティーブ・バノンが出てくる(第3章)。彼は一言で言えばアンチ・エスタブリッシュメントだ。彼のような反エリート層の人たちが、エスタブリッシュメントに対するルサンチマン(妬み、恨み)を「ディープステート」陰謀論を作り上げていったのだが、バノンは彼らが喜びそうなフェイクニュースを与えることによって有名になった。

キーワードとしては、アンチ・エスタブリッシュメントの他にも幾つかあるが、オルタ・ライト(またはオルタナ・ライト。アメリカ版ネトウヨ)(第3章)や「目覚めよ」(キリスト教関連)(第5章)がある。これらの説明をしだすと長くなるので省略。

アメリカ社会や事情が分かれば、Qアノンの人気が無くなったとしても、同様のものが再び現れることが理解できる。アメリカを熟知している人たちにとってはQアノンを見て「また変なのが現れた」と言ってるかもしれない。

ちなみに日本で大統領選挙後にトランプ勝利を信じて疑わなかった連中(通称Jアノン)はQアノン信者とは別の思考である。この本でのキーパーソンは馬渕睦夫元駐ウクライナモルドバ大使だ。これは日本の事情だ。表面的には同じに見えるが根っこの部分が違うことをこの本は指摘している。



*1: 誰もが知りたいQアノンの正体 - 株式会社ビジネス社

*2:さらにコロナ禍によってQアノン勢力は拡大した

【書評】江崎道朗『日本占領と「敗戦革命」の危機』

以下は出版社のPHPの内容紹介

北朝鮮や中国の悲劇は、日本で起きたかも知れなかった――。

日本の史上最大の危機は、昭和20年(1945)8月15日の敗戦直後に始まった。実は、敗戦で日本に平和が訪れたと考えるのは、大きな誤りなのである。そのとき日本は、周到に仕組まれた「敗戦革命」の危機に直面していたのだ。(以下略)

「敗戦革命」とは、最終的に日本を共産党独裁・全体主義国家(そしてソ連の属国)にしようとする計画(工作)のこと。

「敗戦革命」計画は日本では失敗に終わったが、北朝鮮や東欧で成功している。これらの国々がどのような歴史をたどったかは周知の通りだ。

たとえ「敗戦革命」が成功しても米ソ冷戦勃発によって共産党独裁は解散させられた可能性が高いが、そうなったら「朝鮮戦争」ならぬ「日本戦争」という形で米ソ代理戦争が起こったかもしれない。

敗戦という絶望の上にさらなる絶望は回避された。そして、どのように回避されたのかがこの本で書かれていることだ。

目次

序 章 「敗戦で平和になった」という誤解
第一章 ルーズヴェルト民主党政権下での対日「敗戦革命」計画
第二章 中国共産党による対日心理戦争
第三章 戦時下での米中結託と野坂参三
第四章 近衛上奏文と徹底抗戦の謎
第五章 停戦交渉から逃げ回ったエリートと重光葵の奮戦
第六章 占領政策という名の日本解体工作
第七章 GHQ日本共産党の蜜月
第八章 昭和天皇の反撃
第九章 仕組まれた経済的窮乏
第十章 敗戦革命を阻止した保守自由主義者たち

著者について

著者の江崎道朗氏については 《【書評】江崎道朗『知りたくないではすまされない~ニュースの裏側を見抜くためにこれだけは学んでおきたいこと』 - 歴史の世界を綴る》 で書いたのでそちらを参照。

内容

この本の内容は、日米戦争敗戦直後から二・一ゼネスト中止直後までの歴史を扱っているが、高校教科書に載っているような歴史ではもちろんなく、情報史学(インテリジェンスヒストリー)を使った歴史だ。

まずインテリジェンス・ヒストリーのことから。

インテリジェンスとインテリジェンス・ヒストリー

インテリジェンスは「知性」という意味ではなくCIA(セントラル・インテリジェンス・エージェンシー:中央情報機関)のインテリジェンスだ。すなわち、スパイ工作や情報収集・分析・プロパガンダ・影響力工作を含む仕事の総称で、CIAはそれを行なう機関・組織の代表例となる。

さて、インテリジェンス・ヒストリーとはどういうものかは、この本から引用する。

かつて、「 アメリ共産党」 とか「 コミンテルン」 などと いう と、 頭 の おかしい 謀略 論 として 一笑 に 付さ れ て い た。

大きな 転機 と なっ た のは 一 九九 五 年、 ヴェノナ 文書 が アメリカ 政府 の 手 によって 公開 さ れ た こと だ。 ヴェノナ 文書 とは、 一 九 四 〇 年 から 一 九 四 八 年 までの あいだ に 米 陸軍 情報 部 が 秘密裡 に 傍受 し、 FBI( 連邦 捜査 局) と イギリス 情報 部 が 協力 し て 解読 し た、 アメリカ 国内 の ソ連 工作員 と モスクワ との 暗号 通信 の 解読 記録 で ある。

この ヴェノナ 文書 の 公開 によって、「 コミンテルン」 や「 アメリ共産党」 の 対米 工作 が ルーズヴェルト 民主党 政権 と 第二次世界大戦 に 与え た 影響 を 研究 する こと が「 学問」 として 成り立つ よう に なっ た。

「インテリジェンス・ヒストリー」 と いう。

出典:江崎 道朗. 日本占領と「敗戦革命」の危機 (PHP新書) (Kindle Locations 564-571). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

ヴェノナ文書以外にもソ連のインテリジェンス組織の内部の記録が世に出回り、インテリジェンス・ヒストリーはアメリカだけでなく各国に広がり、先進国の中では日本以外は大学の学部・学科として扱われている。

コミンテルン

コミンテルンレーニンによって設立された世界各国の共産党を指導するための組織だが、実のところは対外工作機関(インテリジェンス・エージェンシー)だ。

ただしこの本では、ソ連の諜報・保安機関である「国家保安委員会」(のちのKGB)、ソ連赤軍諜報機関参謀本部情報総局」(GRU)と上述のコミンテルンを合わせたものを、便宜的に総称して「コミンテルン」としている。*1

コミンテルンアメリカ・中国の中枢、さらにはGHQにまでエージェンシー(工作員)を送り込み、日本の「敗戦革命」計画は実行に移されていた。

「敗戦革命」計画における攻防

さてここからが本題。

冒頭に出版社のPHPの内容紹介を途中まで引用したが、その続きを引用しよう。うまく内容が紹介されている。

ルーズヴェルト政権の占領政策策定にコミンテルンのスパイが多数関与し、恐るべきプランを仕組んでいた。さらに戦時下の中国・延安では、日本共産党野坂参三らが、日本兵捕虜を「革命工作員」にすべく、洗脳工作を行なっていた。アメリカと中国の双方で、日本を「共産化」するための工作が着々と進められていたのである。

そして日本の敗戦と同時に、“彼ら”が日本にやってくる。“彼ら”はかねての計画通り、日本を解体するかのごとき占領政策を矢継ぎ早に実施し、巧みな言論統制プロパガンダを行なっていく。さらに、日本共産党の活動を陰に日向に支援し、加えて、あえて日本を食糧危機・経済的窮乏に叩き込むような手立てを打ち続けた。つくられた窮乏と混乱のなかで、日本国民の不満が高まり、革命気運がどんどん醸成されていく。

これまで占領政策について、アメリカを批判する日本人は多かった。しかし、そのような占領政策に、敗戦革命を狙うソ連および共産主義者たちの思惑と工作が色濃く反映されていたことを、どれほどの日本人が知っているだろうか。

昭和天皇はじめ、当時、この危機に気づいていた保守自由主義者たちは、必死に反撃する。しかし占領下というあまりに制約が多い状況のなか、ついに時局は2・1ゼネストへ動き出す……。

現代日本人が知らない「日本崩壊のギリギリの危機」を描き切る圧倒的力作!

周知のように、2・1ゼネスト(1947年)はGHQによって中止に追い込まれ、その後 朝鮮戦争(1950年)の特需によって日本は経済的困窮からは脱した(ただし著者によれば朝鮮戦争も別の“危機”だったのだが、その話は続編で書かれている)。

以上に付け加えれば、著者が読者に伝えたいことは、中露の全体主義の恐ろしさと現代日本のインテリジェンスの軽視(関心の薄さ)への警告だ。これらについてはそれぞれ「はじめに」と「おわりに」に書いてある。

私の感想

この歴史のクライマックスは二・一ゼネスト中止だが、私個人のクライマックスは昭和天皇の登場からの逆転劇だった。

社会全体が不安定化して動乱が起こってもおかしくない中で巡幸するだけでも危険なのに、昭和天皇ストライキの中に乗り込み、共産党員と語り合った(共産党員は声をかけられたことに感激してハキハキと答えていた)。

日本 には、 仁徳天皇 の「 民 の 竈」 の 逸話 に 象徴 さ れる よう に、 貧しい 者 や 苦しむ 者 を「天皇のおおみたから」 として 労り 慈しむ という 伝統 が ある。 *2

昭和天皇はこの伝統をこのタイミングで実践した。共産党員も「天皇のおおみたから」として接した。

昭和天皇 は 熱狂的 な 大 歓迎 を 受け、 行く 先々 で、 拍手 と 万歳 の 声 が 鳴り響い た ので ある。 *3

天皇崇拝教育を受けた国民がこのようになることは理解できるかもしれない。しかし、第一次および第二次大戦の直後には各国の王室は多くが廃止されている。

江崎氏の本から逸れるが、昭和天皇のカリスマについて別の本から引用する。

乃木大将が、裕仁親王にお教えした徳目の一つは、質素ということであった。
天皇の生活。まさに、質素そのものである。
教育の成果が、これほど確実に現れるということも珍しい。

明治以後、わが国の皇室は質素である。王政復古以後も、式微(しきび)時代の生活を、そう大きく変えることはなかった。ブルボン王朝やロマノフ王朝とはちがうのだ。

ある日本人が、ヴェルサイユ宮殿を見物した。
案内したフランス人は、誇らしげに言った。ヴェルサイユ宮殿はフランスの誇りである。日本には、こんな立派な宮殿はないだろう。
その日本人は答えて言った。いかにも日本には、こんな立派な宮殿はない。それが何だ。日本の天皇は、人民を搾取してまで宮殿なんかお作りにならないのだ。天皇は質素にお暮らしになり、その思いは常に人民の上にある。だから脈々として一系の天子が継ぎたまう。
これに反し、ヴェルサイユ宮殿を作ったルイ十四世の子孫は、今、どこにいるか。

出典:小室直樹/奇蹟の今上天皇PHP研究所/1985/p181-182

絶望の淵で、行幸によって天皇と国民の絆が確認された。

小室氏の本は以前に読んで半信半疑だったが、いまになって天皇のすごさが腑に落ちることになった。

皇室についてはもっと勉強しようと思う。



*1:第1省の冒頭参照

*2:江崎 道朗. 日本占領と「敗戦革命」の危機 (PHP新書) (Kindle Locations 4571-4573). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

*3:江崎 道朗. 日本占領と「敗戦革命」の危機 (PHP新書) (Kindle Locations 4455-4456). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

エジプト第19王朝① 初代からラメセス2世まで

前回からの続き。

前回も書いたが、第18王朝の最期の王ホルエムヘブは子供がいなかったので腹心であった軍司令官パ・ラメス(のちのラムセス1世)を後継に指名し、スムーズに継承された。

ラムセス1世とその王妃シトレは両方とも平民出身で第18王朝の血統が断絶する。そして彼が第19王朝の初代とみなされている。

第19王朝はホルエムヘブの遺志を継承した。すなわちアマルナ革命を否定し、アマルナ革命の痕跡の削除に努めた。ホルエムヘブはアクエンアテンツタンカーメン、アイの3人の王の歴史も削除したが、第19王朝はこれも継承した。

第19王朝の王たちはホルエムヘブを創始者とみなしたようであり、彼の意図はこの王朝に受け継がれた。

前1293 - 1291年頃 ラメセス1世
前1291 - 1278年頃 セティ1世
前1279 - 1212年頃 ラメセス2世

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia

セティ1世

初代ラメセス1世は即位後数年で亡くなり、息子のセティ1世が継承した。

セティ1世はシリア・パレスチナとヌビアの他、リビアにも遠征を行なっているが詳細は分かっていない。カルナック(テーベ)のアメン大神殿の外壁の一部にセティ1世がカデシュ(シリアの都市の一つ)を占領した描写があるが、本当に占領したのか、占領の維持に失敗したのかは分かっていない。

セティ1世は他の王と同じく多くの建造物を造っているが、その中でも特に注目されているのが、王家の谷の王墓だ。この王墓は古代エジプトにおいて最大のもので、壁や柱に彩り豊かな浮き彫り(レリーフ)とヒエログリフで埋め尽くされており、その壮麗さと装飾技術は最高級のものとされる。

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セティ1世王墓に描かれていた壁画に残るセティ1世の姿(復元)

出典:エジプト第19王朝 - Wikipedia

1817年にイタリア人考古学者ジョヴァンニ・バティスタ・ベルゾーニが発見したときは保存状態はほぼそのままの状態だったという(その後もろもろの事情で荒らされた。「古代エジプト王セティ1世の墓、原寸大で再現 3Dプリンターで - SWI swissinfo.ch」参照)。

ラメセス2世

ラメセス(ラムセス)2世は、古代エジプトの最高のファラオ、またはトトメス3世と並び賞される王とされる。

彼の治世は67年だが、前の20年が戦争期、残りが建築期と別けることができる *1

ラメセス2世もホルエムヘブからの悲願であるアムル州(南シリア)奪還を目指した。

即位4年から始まるアジア遠征において、最も有名な戦いは即位5年に「カデシュの戦い」と呼ばれるものだ。この戦いは王が建築あるいは増築した神殿に描かせた浮き彫りあるいは銘文にあるので有名だ。これらに書かれている「記録」は、王が「ただひとり」で3500台の敵の戦車を河に追い落としたというものだが、実際はカデシュの占領は果たせなかった。

シリア・パレスチナ方面の戦いはこれ以降も大勢は変わらず、結局のところ治世21年(1269年頃)に南シリアの宗主国ヒッタイトと平和条約を結ぶことによって、この方面の戦いが終了した。(尾形氏/p566-568)

条約を結ぶ提案は両者が「相手から提案された」と記録しているが、アッシリアや「海の民」の動きが活発化してきたので、これに対処するために停戦したと思われる。

ラメセス2世はこの方面以外にヌビア・リビア方面の遠征も行なったが詳細は分からない。国内に影響を及ぼすほどのものではなかった。

最大の敵であるヒッタイトとの平和条約は長期に亘り保たれ、これによりエジプトの平和も長期に亘り保たれた。

首都ペル・ラメセス

ラメセス2世はナイルデルタの東部に新しい首都「ペル・ラメセス」を建設した(ラメセスの家、ラメセスの都市の意)。この場所はヒクソス政権時代の首都アヴァリスの近くにあり、父王セティ1世の頃からアジア遠征の軍事拠点であった。

しかし、ヒッタイトとの平和条約以降、アジアとの交易が盛んになり、この地が首都として選ばれた。

ペル・ラムセス市の人口は30万人を超え、古代エジプトの大都市の一つとなった。その後、ペル・ラムセスはラムセス2世の死後その息子であるメルエンプタハ王が継ぎ、エジプト第19王朝が崩壊したのちもエジプト第20王朝歴代ファラオの都となって1世紀以上にわたり繁栄したが、後にナイル川の流れの変化などによって衰退し、エジプト第3中間期のエジプト第21王朝の時代になると王都としての機能が放棄された。その後、残された建造物の残骸は、同じくナイルデルタ地域の王都であったタニス(Tanis)の建設資材として流用され、現在でもタニスにおいて以前はペル・ラムセスにあったものが残されている。

出典:ペル・ラムセス - Wikipedia

ラメセス2世の建設期

戦争を断念したラメセス2世のありあまる勢力のはけ口は、平和によってもたらされた豊かな経済力を投入しての建築活動にあてられた。現存するエジプトの遺構のほとんどすべてに、ラメセス2世の活動の跡を示す王名が発見されるといってよい。王の彫像、とくに巨像も、あちこちで発見される。王の巨像が発見された場合、ともかくラメセス2世の像と答えておけば、正解の確率はきわめて高いといわれている。ただし、建物にしても彫像にしても、先人のものに自分の名を刻んだだけの例も多い。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p569(尾形禎亮氏の執筆部分)

先代までの王はアマルナ革命の関係した王たちの歴史を消すために彼らの名前を削って自らの名前を刻した。しかし、ラメセス2世はそうではなく、見さかい無く他の王の記念碑に自分の名前を刻ませた。*2

ラメセス2世は全土に建築物を建てたが、中でも最も大きく、有名なものはアブ・シンベル神殿だ。

砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿であり、外部は岩山を高さ約20mの椅座像が掘り出されている。

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アブ・シンベル大神殿。青年期から壮年期までの4体のラムセス2世像が置かれている。左から2体目の手前にある岩塊は2体目の頭部の一部

出典:アブ・シンベル神殿 - Wikipedia

内部も精緻に造られている。

この神殿では、10月22日と2月22日の年に2回、太陽の光が神殿内部を通過し、神殿の壁と奥の4体の像のうち、冥界神であるプタハを除いた3体を照らすように設計されたと考えられている。現在はその日付の1日後にこの現象がみられ、観光の目玉となっている。神の化身としての王の力は、太陽光のエネルギーによって活性化し強化され、ラムセス2世はアメン=ラーとラー・ホルアクティに並ぶ力を得たと考えられている。

出典:アブ・シンベル神殿 - Wikipedia




ラメセス2世が古代エジプト最高の英主というのは、おそらく長期に亘る平和をもたらしたファラオということなんだろう。

*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p565(尾形禎亮氏の執筆部分)

*2:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p197

エジプト第18王朝⑨ アイ/ホルエムヘブ

前回からの続き。

前1325 - 1321年頃 アイ(Ay)
前1321 - 1293年頃 ホルエムヘブ(Horemheb)

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia

アイ

ツタンカーメンが若くして死んでしまった(ミイラからの推測で19歳か20歳)。

残された正妃アンケセナーメン(アンケスエンアメン)は、アイと結婚させられることを嫌って、ヒッタイトの王子と結婚する交渉をしたが、王子はエジプトへの旅路でアイかホルエムヘブに謀殺されてしまう。 (このことは「[ヒッタイト新王国① シュッピルリウマ1世まで(https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/2021/05/27/120542)」にも書いた。)

結局アンケセナーメンはアイと結婚することになる。エジプト新王国時代の慣習により、王家の血統を持つ女性と結婚することで王位継承権を得ることができる。アイはこれをもって王になった。

しかし、アイはわずか4年で死んでしまった。

ホルエムヘブ

アイの後を継いだのはホルエムヘブ。彼はムトノメジット(アクエンアテンの正妃ネフェルティティの妹 *1 )と結婚することにより、王位継承権を得る。

彼はアイと同じくツタンカーメン治世の重臣だったが、基本的に、その治世より行なってきた政策を継承した。

ホルエムハブは、「アマルナ革命」のため混乱した国内の行政および経済の再建をもっとも重要な課題とした。ホルエムハブ王の勅令によると、官僚の綱紀は乱れ、租税を着服横領し、不正な請求によって私服を肥やしていた。王は不正行為を厳しく取り締まり、「軍隊のえりぬき」を官僚や神官に登用し、世襲貴族こそ有能な官僚を供給してきたという事実を認めて、官僚の世襲の権利を尊重することとした。こうして官僚組織を整備し、王の無制限な意思を抑えるシステムを再建した。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p559(尾形禎亮氏の執筆部分)

また宗教面ではアメン信仰を復活させるとともにアメン神官団の特権も回復させたが、ラー神などの他の神々と均衡を図ろうとした。その一方でテーベのアテン神殿は解体され、アテン神を他の神々のひとつの地位まで下げた。

以上のように、王みずからの権力を制限するなど国政を調整・整備し、政策は成功したようだ(少なくとも国難と言われるような事件は発生していない)。

政策以外の話として、先代王アイの墓を破壊し *2 、葬祭殿を我がものにし、アイがツタンカーメンから横領した巨像も我がものにした*3

ホルエムヘブはツタンカーメン治世に「王の後継者」という称号を持っていたのだが、後継はアイだったことや *4、アイが後継者に軍司令長官のナクトミンを指名していたことなどを踏まえると(ホルエムヘブはナクトミンを打倒して王になった)*5、ホルエムヘブがアイに対して相当の恨みを持っていたことは想像に難くない。

ただし、目的は恨みを晴らすだけではなかった。

こうして彼はアクエンアテン王からはじまる4人のアマルナの王に関する記録を完全に消し去ろうとした。自分の統治をアメンヘテプ3世の没後から始まったとし、アマルナの諸王の統治の期間も自分の治世に数え入れたのである。そのため、アマルナ時代の王は、アビドスとカルナクのラメセス時代の王名表には全く登場しない。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p181-182

  • ラメセス時代とは第19王朝と第20王朝の期間のこと。2つの王朝の王の11人がラメセス(ラムセス)という名前だったのでこのように言われる。

ホルエムヘブは子供がいなかったので腹心であった軍司令官パ・ラメス(のちのラムセス1世)を後継に指名し、スムーズに継承された。

第18王朝はホルエムヘブで終わり、ラムセス1世から第19王朝が始まる(ラムセス1世とその王妃シトレは両方とも平民出身で第18王朝の血統が断絶した)。第19王朝の王たちはホルエムヘブを創始者とみなしたようであり、彼の意図はこの王朝に受け継がれた。

第18王朝の次代は「王権vsアメン神官団」という権力争いのなかで大きく揺れ動いたわけだが、その終焉はまったく地味に終わった。



*1:この姉妹の両親が誰かは確定されていない

*2:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p180

*3:同p181

*4:新王国時代 第18王朝 ホルエムヘブ/エジプト神話研究所

*5:ホルエムヘブ - Wikipedia

エジプト第18王朝⑧ ツタンカーメン/アメン神信仰の復活/アジア遠征の復活

前回からの続き。

今回は古代エジプトの中でも非常に有名なツタンカーメン

ツタンカーメンの即位

前1350 - 1334年頃 アメンヘテプ4世(Amenhotep IV)
前1336 - 1334年頃 スメンクカラー(Smenkhkare)
前1334 - 1325年頃 ツタンカーメン(Tutankhamun)

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia

アクエンアテン(アメンヘテプ4世)の下のスメンクカラーはアクエンアテンの晩年に共治王となったが、わずか3年で死んでしまった。アクエンアテンもその死の直前に死ぬ。

後を継いだツタンカーメンは即位時わずか9歳だった *1

幼い王の代わりにエジプトを統治したのが宰相アイと将軍ホルエムヘブだ。

アメン神信仰の復活

即位4年にアマルナ革命をやめることを決定する。これについて最も重要な点は、アテン神信仰をやめてアメン神信仰を復活させることだった。

ツタンカーメンと言う名前はより正確に綴ると「トゥト・アンク・アメン」(「アメン神の生ける似姿」の意)となる。しかし彼の即位時は「トゥト・アンク・アテン」だった。即位の後にアマルナ革命をやめてアメン神信仰を復活させて、その象徴の一つとして名前を変えて「改宗」したということだ。

しかし、アイとホルエムヘブの2人はアメン神官団をアクエンアテンより前の状態に完全に戻すということではなく、自分たちの都合の良いように「復活」させたということに注意しなければならない。

まず、アマルナ革命時代(アマルナ時代)の首都であったアケトアテン(現代名:テル・エル・アマルナ)からメンフィスに遷都する。かつてのテーベではない。次に、アメン神信仰の本拠地であるアメン神殿はテーベに再建され、アメン大司祭はアイが兼任した。これらのことから2人がアメン神官団の絶大な権力の復活を望まなかったことが見て取れる。

彼らのアメン神信仰の復活は、それ自体が目的ではなく、国内の分断を終わらせて、エネルギー(リソース)を外征に向けることだった。

アジア遠征の復活

ホルエムヘブは将軍(軍トップ)だが、宰相アイもまた軍経験者であった。アジア遠征の復活は2人の共通する問題だった。

将軍ホルエムヘブは王即位後すぐにアジア遠征に向かい、ウピ州とカナン州の秩序を回復した *2

ウピ州・カナン州とはトトメス3世の治世で植民地化した地域の3州のうちの2つだが、もう一つのアムル州(アムル王国)はアクエンアテンの治世にヒッタイトに寝返った。このことが彼らの共通した危機感であった。

なぜツタンカーメンは有名なのか

ツタンカーメンは実験を握ることなく若くして死んでしまった。しかし古代エジプトにおいて、最も有名なファラオ(王)である。その理由は王墓にある。

王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月4日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としては極めて珍しいことに、3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。[中略]

ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は、現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。

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ツタンカーメンの黄金のマスク

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ツタンカーメンの墓

出典:ツタンカーメン - Wikipedia

今からおよそ100年前に発見されたこの墓は当時より「世紀の大発見」としてもてはやされ、日本でも現在までに何度も「ツタンカーメン展」と呼ばれるようなものが開催されて注目を集めている。だから多くの日本人は、古代エジプトと言えばツタンカーメンの黄金のマスクを思い浮かべるくらいになっている。

ではどうしてツタンカーメンの王墓は盗掘の被害が微少で済んでいたのかというと、それはこの墓が盗賊たちに王墓としてみなされなかったからだということだ。

この墓は王のものとしては余りに小さく、老臣アイの長年のめざましい忠勤にたいし王が恩賞として許していた墓であった公算がつよい。他にも王家の谷に埋葬される同様の特権を得た高官の例がある。王の死が突然であり、またアイの墓は出来上がっていたこともあって、これが転用され、ただちに玄室に装飾を施す作業が始まった。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p174

ツタンカーメンのために用意されていた墓は後の王となったアイの墓となった、と考えられている。





*1:ミイラの死亡推定年齢からの逆算によっての推測。

*2:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p557(尾形禎亮氏の執筆部分)

エジプト第18王朝⑦ アクエンアテン 後編(アマルナ美術/アマルナ文書/アマルナ革命の途絶)

前回からの続き。

アマルナ美術

下記の引用のイクナートンとはアクエンアテンのこと。

古代エジプト宗教改革王イクナートンが,その信奉するアテン信仰の原理に基づいて,自ら指導育成した反伝統的傾向の濃い芸術で,エジプト美術史上特異な地位を占める。伝統的なエジプト美術が,時間を超えた永遠の本質を表現するため,きわめて様式化された表現形式を遵守しているのに対して,瞬間の動きの表現や自由な自然描写など,自然主義風・写実主義風な表現を特色とする。

出典:アマルナ美術とは/株式会社平凡社世界大百科事典 第2版/コトバンク

簡単に言えば、アマルナ美術は従来の表現形式よりも直接的な(見た目の)美的感覚を重視した。これの代表例が↓のアクエンアテンの正妃ネフェルティティの胸像だ。

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出典:ネフェルティティの胸像

アマルナ美術のもう一つの特徴として「ありのままを描く」というものがある。代表的なものは太陽神アテンの図像を日輪にしたことだ(従来、神はヒトの身体か、ヒト+頭部だけ人外の形で表現されていた)。

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出典:アメンホテプ4世 - Wikipedia

またアクエンアテンの王墓の一室の壁面には、早逝した王女(次女)のマケトアテンの死に悲嘆に暮れる王夫妻の姿が描かれている *1 。このような表現は他の王墓には見られない。

アマルナ美術は、従来の美術的表現も少なからず見ることができ否定するものではないが、伝統的表現に束縛されないという点が重要となる。

その意味では、ヨーロッパ美術史の中世から近世に代わるルネサンス美術を比較できるだろう。

アマルナ文書

アマルナ文書は1885年にテル・エル・アマルナの現地女性が偶然発見したものをのちに価値を見いだされて収集・研究されたもの。

アマルナはかつての首都アケトアテンだということは前回書いたが、アクエンアテンの死後、アマルナ革命は継承されず、首都も破棄されることになった(後述)。この時に破棄された文書の一部がアマルナ文書と呼ばれるものだ。

内容は外部からエジプト王宛に送られてきた外交文書がほとんどで、王が出した文書はそのコピーらしきものが少しあるだけだ。その特徴から古代エジプト史よりも当時の中東あるいは古代オリエント全体の状況を知るために重要な文書と言える。

この外交文書は大きく2つに区分される。すなわち大国と小国、あるいは列強国と(エジプトの)従属国である。

アマルナ文書には新王国時代のエジプトと外交関係にあった、バビロニアアッシリアヒッタイト、ミタンニその他の諸国の王からの書簡が含まれている。それらによると、王たちは互いに「兄弟」と呼び合い、オリエント諸国からは戦車や馬、ラピスラズリ、銅などが贈られ、エジプトからは黄金が贈り物とされていた。またエジプトはミタンニやバビロニアの王室間の国際結婚を行っていた。その他に、シリア・パレスチナや地中海東岸の都市国家からの書簡にはエジプト王を「我が王、我が神、我が太陽である王へ・・・」などの文面が見え、エジプトに隷属していたことをうかがわせる。

出典:アマルナ文書/世界史の窓

大国の中にはキプロス島にあったアラシアも含まれる。銅の輸出国として経済大国になっていた。

中東は、覇権国であったミタンニが衰退してヒッタイトアッシリアバビロニアが勃興して、こぞってエジプトとの友好を求めた時代だった。

しかしアクエンアテンは外交には興味がなかった、もしくは消極的であった。彼は他国から救援を求められても遠征軍を派遣することはせずに、黄金か物資と「アテン神の祝福」を送っただけだった。アクエンアテンは従属国のアルム王国がヒッタイトに寝返ってすら軍を送らなかった。

アマルナ革命の挫折/なぜ革命は挫折したのか?

アマルナ革命はアクエンアテンの死とともに終わりを告げた。その理由は?

一つは、アクエンアテンの後継者のツタンカーメンの即位時が9歳だったことだ。アマルナ革命は専制君主的な側面があるのだが、まだ完成されていないアマルナ革命を続行するには強い意志と実行力が必要だった。そして9歳の王にこれらを求めるのは無理があったのではないか?

もう一つ、アテン神信仰について。アテン神信仰については前回書いたが、「この教義を真に理解できるのは王以外にいない」などとアクエンアテンが考えていたが、結局のところ、王以外の真の教徒は家族以外にいなかったようだ。王に引き立てられた閣僚たちも表面上教徒になっていただけだった(庶民は従来の神を信仰していた)。アクエンアテンのみが理解していたアテン神信仰は彼の死とともに終わるのは当然ということだ。

その後の話は次回に書く。



*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p550-551(尾形禎亮氏の執筆部分)、Meketaten - Wikipedia

エジプト第18王朝⑥ アクエンアテン 前編(アマルナ革命)

前回からの続き。

アメンホテプ4世(=アクエンアテン)はアメン神官団と決別した、古代エジプトでも特に有名な王の一人だ。

アメンホテプ4世(=アクエンアテン)前1362年頃-1333年頃)

アメンホテプ4世の即位

アメンホテプ4世は先代で父のアメンホテプ3世が行なっていたアメン神官団との権力闘争を継承した。

アメンホテプ4世は即位すると間を置かずに、アメン神信仰の総本山のアメン神殿(首都・テーベ)の東側にアテン神殿を築いた。

しかし彼はこれに満足せずに、テーベとメンフィスの中間の地に新しい首都を建設し、この地をアケトアテン(「アテンの地平線」の意)と命名した(現在名はアマルナまたはテル・エル・アマルナ)。さらに自身の名をアクエンアテン(アケナテン。「アメン神にとって有益な者」の意)に変更した。アマルナ革命の始まりだ。

アマルナ革命

目的:専制君主

アマルナ革命の真の目的はアメン神官団の権力の排除だった。アメン神官団が王権を脅かすほどの大権力を保持していたことは前回に説明したが、これを一気に排除して唯一の権力・権威を保持する専制君主になることを目指した。アメンホテプ4世改めアクエンアテンはこれを成功させた。

宗教改革

アテン神信仰の特徴

アテンは太陽神であり、古代エジプト史を通じて重要な太陽神ラーと同一視された。

時の潮流を支配したのは、ヘリオポリスの太陽神信仰であった。その教義によれば、ラー神こそが唯一の神であり、他の神々はラーから生まれ、ラーの身体のひとつが変化したものであり、すべての神々に内在する力こそがラーなのである。アテンもラー神が眼に見える日輪の姿として現れたものである。アテン信仰は、隠れた力の源であるラーよりも、眼に見える日輪アテンに力点を移したものであるということができる。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p547(尾形禎亮氏の執筆部分)

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出典:アメンホテプ4世 - Wikipedia

中央の人物がアクエンアテンで右上がアテン神。

上述の尾形氏はアテン神信仰の特徴として3つ挙げている(p548-549)。

  1. アテン神はエジプト人だけでなく、異国の人々にも恵みを捧げる。
  2. アテン神の教義の真の理解者は王だけであり、それゆえ祭祀は王だけができる *1
  3. アテン神は死後の世界も司る(伝統的な古代エジプトの死後を司る神はオシリス)。

唯一神のような様相を見せる特徴だが、唯一神信仰かどうかは議論のあるところだ。ただし、アクエンアテンが王権だけでなく、宗教上の権威も王が独占しようとしている意図が伺える。

他の信仰の「迫害」

さて、かつての首都テーベに残されたアメン神官団はどうなったのか?

尾形氏は、アメン神の名前と図像が削除(彫像は破壊され、壁面からは削り取られた)されたことを挙げて以下のように書いている。

エジプトにあたっては、名前の抹殺はその存在自体の抹殺を意味したから、このことはアメン信仰の禁止およびアメン神官団の閉鎖がなされたことを物語っている。(p546)

他の神の信仰は名前を削除されることは少なかったが、公式の祭祀は停止された。



*1:他の王たちは神官に代行させていた