歴史の世界

エジプト第18王朝⑤ ミタンニとの同盟/アメン神官団と王権

エジプト第18王朝④ からの続き。

ミタンニとの同盟

  • トトメス3世(前1504年 - 前1450年)
  • アメンヘテプ2世(前1453年 - 前1419年
  • トトメス4世(前1419年 - 前1386年)
  • アメンヘテプ3世(前1386年 - 前1349年)

出典:エジプト第18王朝 - Wikipedia

トトメス3世以降、王権は平和裏に継承され、対外戦争もほどほどに行われたがトトメス3世以来の勢力は維持された。エジプト王たちは中東の王たちよりもはるかに平和で安全で豊かな治世を維持することができた。

アメンヘテプ2世初期まではミタンニとシリアにおいての勢力圏争いをしていたが、ヒッタイトの軍がミタンニの領内を侵攻したため、両国は和平交渉を行うことになった。

和平交渉は長期に及び、トトメス4世に代替わりしてようやく同盟条約が結ばれた。

両国の同盟は、ミタンニの王女たちがエジプト王家に嫁ぐことで保障された。トトメス4世に娘を嫁がせたのはアルタタマ1世(前14世紀初期)が最初で、この後シュッタルナ2世(前14世紀初期)そしてトゥシュラッタ王(前14世紀後期)も同様の婚姻政策を採用した。

出典:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p153

領土はシリア北部がミタンニ、シリア南部とパレスチナがエジプトの勢力圏ということで合意した。ヒッタイトのターゲットはもっぱらミタンニだったので、この同盟はエジプトが一方的に利益を享受するものだった。

この同盟によってエジプトと中東の外交が始まり、つまりオリエント世界が始まるのだが、エジプトの方は(この時代以降も)中東にあまり関心を示さなかった。

ただし、金を「塵のように」保持していたエジプトはオリエント世界の第一の勢力を誇り、中東諸国にとって非常に魅力的な国だった。

エジプトと中東諸国との外交についてはアメンヘテプ3世の次代アメンヘテプ4世(アクエンアテン 前1350-1334年)の治世に遺されたアマルナ文書に詳しい。これについては別の記事で書く。

アメン神官団と王権

アメン神官団については「エジプト第18王朝②」で触れた。アメン神は第18王朝が創始される前からの王朝の主神であったが、トトメス3世が遠征の戦利品の多くをアメン神殿に寄進することにより、さらにその権力は増大して王権に並ぶほどになった。

そしてアメン神官団と王権との確執がトトメス4世の治世に初めて現れた。

アメン神官団のトップであるアメン大司祭の任命権は名目上は王にあるが、通例は神殿と宮廷の両方に関係する人物をあてる事になっていた。

しかし、アメン神官団はこの通例を破り、もっぱら神殿内で昇進してきた人物アメンエムハトを大司祭に就けた。王側はこれに対抗して、上下エジプト神官長(エジプト全体の神官のトップ)に神殿の部外者をあてる。上下エジプト神官長はアメン大司祭が兼任するのが慣例となっていた。

次代の王アメンヘテプ3世の治世でも確執は続く。

王は宰相プタハメスをアメン大司祭と上下エジプト神官長に就かせた。これに対抗してアメン神官団は次の大司祭を宮廷とは無縁のメリプタハを就ける。そして王は上下エジプト神官長に神殿とは無縁の者を就けた。

長く続いてきた上のような応酬にケリをつけるべく、アメンヘテプ3世は新しい手を打った。これがアテン神の信仰だ。

アテン神はマイナーな太陽神の一つでしかなかったが、王はマルカタ宮殿(アメンヘテプ3世の王宮)や御座船に「アテンの栄光」と名付けたり、各地の土地の地名にアテンの名をつけた。

ただし、アメン神殿の勢力を削ることはできずに、この世を去ることになる。確執は次代に持ち越される。

(世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p528-535(尾形禎亮氏の執筆部分) )



ヒッタイト新王国① シュッピルリウマ1世まで

新王国時代の初期

  1. トゥドハリヤ1世(前1390年頃?)(以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明)
  2. アルヌワンダ1世
  3. トゥドハリヤ2世
  4. ハットゥシリ2世
  5. トゥドハリヤ3世(前1360年 - 前1344年)
  6. シュッピルリウマ1世(紀元前1344年 - 紀元前1322年)[以下略]

出典:ヒッタイト - Wikipedia

新王国時代の初代はトゥドハリヤ1世とされる。この王が戦争を繰り返して勢力を拡大したことは分かっているが、詳しいことは分からない *1

しかし、アルヌワンダ1世(先代の娘婿)の治世には今度は各地から攻撃される側になり、勢力は縮小した。トゥドハリヤ2世の治世に首都ハットゥシャまで破壊された。

王国と首都を再建したのはシュッピルリウマ1世だった。新王国の実質的創始者は彼というべきかもしれない *2

シュッピルリウマ1世

シュッピルリウマ1世は先々代のトゥドハリヤ2世の息子で先代のトゥドハリヤ3世の弟。

シュッピルリウマは父兄の下で東方の防衛を担当しサムハ *3 に拠点を置いて、アナトリア東北部の部族カシュカ族やコーカサスを拠点とする部族連合ハヤサ-アズィの侵略を防いで軍功を挙げた。シュッピルリウマは兄王を策謀によって殺害し王位を奪った。

王位に就いたシュッピルリウマは今度は西方のアルザワに対処しなければならなかった。アルザワはエジプトと同盟関係にある国だったが、彼は戦闘と政略結婚の両方を使ってアルザワを攻略した(ただし、この地域全体を併呑したのは後代)。その後、シュッピルリウマは東方のハヤサ-アズィにも政略結婚によって属国にすることに成功した。これにより領土を拡大しながらも安全保障を安定化させることに成功した。

ミタンニ攻略

ミタンニ攻略については以前に記事に書いたが、ここでも書いておく。

シュッピルリウマが王になる前、トゥドハリヤ2世の治世にミタンニの重要都市ハラブ(アレッポ)を破壊、占領した。この当時のミタンニは中東の覇権国家でエジプトとシリア・パレスチナの勢力を争っていたが、ヒッタイトの侵攻により、両者は同盟を結ぶことになった。

シュッピルリウマは、上述のように安全保障上の安定を達成すると、いよいよミタンニ攻略に着手する。ただし、初戦にシュッタルナ2世に撃退され、「ミタンニ包囲網」に方針を転換する。まず、港湾都市として栄えていた港湾都市を従属化し、バビロン第3王朝(カッシート)とは婚姻外交によって同盟を結んだ。

これとは対象的に、ミタンニの方は慢性的に内紛を起こしていて弱体化していた(慢性的な内紛は他の国でも常時起こっていることだが)。

シュッピルリウマはミタンニ王トゥシュラッタの治世にその首都ワシュカンニを攻め落としたが、アルタタマ2世を次代の王とみなして条約を結んだ。ここでミタンニはヒッタイトの属国になったようだ。

その後のミタンニの経緯は以下の通り。

次のシュッタルナ3世がアッシリアと結ぼうとしたため打ち果し、シャッティワザ(マッティワザとも)を擁立し、自分の娘と結婚させてミタンニに影響力を確保した。更にミタンニ領であったハルパ市やカルケミシュ市を攻略し、息子のテレピヌをハルパ王に、別の息子ピヤシリをカルケミシュ王に封じて国内を固めた。

出典:シュッピルリウマ1世 - Wikipedia

ミタンニのかつての領土は西部(北シリア)をヒッタイトが、東部(アッシリア=北メソポタミア)をアッシリアが領有した。

対エジプト政策

ミタンニの領土の半分を領有すると、シュッピルリウマはエジプトと対峙することになる。

ヒッタイトの支配地と接するアムル王国(現在のレバノンあたり)はエジプトの属国であったが、この当時のエジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)が内政改革でシリア・パレスチナにまで手を出せない状況だったことを好機として王国に圧力をかけて寝返らせた。この後に、シュッピルリウマはアメンホテプ4世にヒッタイト・エジプト間の友好関係維持を希望する文書を送っている *4

両国の関係は一時は戦争をしない関係が維持されたが、ある事件をきっかけに事態が一変する(以下の歴史はヒッタイト側の文書。エジプトにはこの歴史は無いことになっている)。

エジプト王ツタンカーメンが早逝すると正妃アンケセナーメンヒッタイトの文書ではダハムンズ)はシュッピルリウマにその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。シュッピルリウマはこれに応じて息子のザンナンザをエジプトに送る。しかし当時のエジプトの政治を支配していたアイとホルエムヘブはこの結婚に反対で、どちらかが旅路の途中でザンナンザを殺害した。

シュッピルリウマはこれに激怒し、王子アルヌワンダ2世に命じてエジプト領アムカやカナンを攻撃させ、これを征服した。

シュッピルリウマの最期

対エジプト戦の最中、おそらくエジプト人捕虜の持ち込んだ病原菌が原因でヒッタイト本国でも疫病が発生した。この疫病は大規模であり当時病気治癒を祈る祈祷書が多数作成されたが、疫病は貴族、王族の間にまで広まり、シュッピルリウマ1世は病に倒れ、間もなく病死した。死後、息子のアルヌワンダ2世が即位したが、彼も間もなく同じ疫病によって病死した。そして別の息子ムルシリ2世が即位した。ムルシリが残したシュッピルリウマの年代記のおかげで、このヒッタイト中興の英主の事績を割合詳しく知ることが出来る。

出典:シュッピルリウマ1世 - Wikipedia



*1:トゥドハリヤ1世についてはWikipediaの複数のページで言及されているが、情報が一致しない

*2:シュッピルリウマ1世を新王国の初代とする研究者もいるらしい

*3:場所は確定されていないが、首都ハットゥシャの東方

*4:シュッピルリウマ1世 - Wikipedia

ヒッタイト中王国

ヒッタイトの歴史は3分割され、それぞれ古王国・中王国・新王国となっている。中王国は混乱期のため、ほとんど言及されないが、Wikipedia(日本語版or英語版)に諸王のページがあるのでこれを使って中王国を書いてみる。

ちなみに、この歴史は中東またはオリエント世界の古代史としては重要度は低い。

中王国時代の前については以前に記事にした。

諸王の系譜

正確な数字ではないが、古王国の最後の王テリピヌの最期が前1500年前後、新王国の初代王トゥドハリヤ1世の最初が前15世紀後半(前1430年頃?)で、中王国時代は約70年となる。

この時代はヒッタイトの混乱期とされる。

  1. タフルワイリ
  2. アルワムナ
  3. ハンティリ2世
  4. ツィダンタ2世
  5. フッツィヤ2世
  6. ムワタリ1世
  7. (新王国)トゥドハリヤ1世

タフルワイリはおそらく大王テリピヌの死後王位に就いた。テリピヌ自身は後継者に義理の息子アルワムナを指名しており、タフルワイリがアルワムナから王位を簒奪したか、王位を奪ったタフルワイリからアルワムナが正当な王位を奪還したかのいずれかであると考えられる。[中略]

タフルワイリの治世を示す資料は、今のところその銘のある印影がある粘土板文書一枚のみであり、のちの王名表にも名前は出ていない。おそらく簒奪者ということで後世の王に存在を抹殺されたのであろう。その治世の唯一の事績として、キズワトナ(英語版)の王エヘヤとの条約が伝わるのみである。

出典:タフルワイリ - Wikipedia

ただし「Tahurwaili - Wikipedia」 によれば、アルワムナは嫁と一緒にテリピヌによって追放されたとあり、タフルワイリがテリピヌに指名された(つまり正当に王位に就いた)可能性もある。

タフルワイリの後はアルワムナが王になりその次が彼の息子ハンティリ(2世)が継ぐことを考えれば、アルワムナがタフルワイリから王位を奪った後、王名表に名を遺さなかったと考えるのが自然だろう。ちなみにアルワムナ自身の出自が王族かどうかは分からない。

4代目となるツィダンタ2世は 「ツィダンタ2世 - Wikipedia」 では先代の息子とあるが、確実ではないらしい。

5代目フッツィヤ2世の出自は不明。この王は護衛隊長により殺害された (フッツィヤ2世 - Wikipedia )。

この護衛隊長がムワタリ1世として王になる(出自不明)。この王はフッツィヤの二人の息子に殺害される。

トゥドハリヤ1世(前1430年頃~。出自不明)はムワタリ1世の後を継ぐが、新王国の初代王とされる。

東南の隣国キズワトナとの同盟

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出典:Kizzuwatna – Wikipedia(ドイツ語版)

キズワトナはアナトリアの東南の地中海に近い高地に位置する(領域国家)。古王国時代の末期(後期?)より、ヒッタイトとキズワトナは「parity treaty(平等な条約)」を結んだ。

前15世紀の中東の覇権はシリアのミタンニが握っていて、ヒッタイトはミタンニの侵攻を防ぐためにキズワトナを緩衝地帯と考えていた。

ヒッタイトの歴代の王がこの条約の更新の文書を遺している。

ツィダンタ2世もキズワトナ王ピリヤ(Pilliya)と条約を交わしたが、ピリヤはその後にアララク王イドリミと条約を交わす(上図のAlalha)。アララクはミタンニの属国なのでキズワトナはミタンニの勢力圏に入ったことになる。

東北の「蛮族」カシュカ族

カシュカ族(Kaska)はアナトリア東北部にいた結束の緩い部族だ。

史料として出てきた最初はヒッタイト古王国のハンティリ1世(前1590-1560年)の治世で、聖なる都市ネリク(Nerikka)を襲われて奪われた。

中王国時代のヒッタイトの歴代王はカシュカ族と攻防を繰り広げたが、ネリクを奪還することはできなかった(奪還したのは新王国時代のムワタリ2世(前1315-1282年頃)の治世)。

西方について

中王国時代の西方についてはよく分からない。

末期(前15世紀後期)にアルザワ(Arzawa)という国が出来たらしく、新王国初代トゥドハリヤ1世と戦ったという記録があるくらいしか見当たらなかった。



エジプト第18王朝④ ハトシェプスト(女王)とトトメス3世

前々回からの続き。

ハトシェプスト(女王)

トトメス2世は庶出の子であるトトメス3世を後継者と指名したが、トトメス2世の正妃であるハトシェプストが2世の死後に実権を握り女王となった(前1490年頃-1468年頃)。

前々回やその前に書いたとおり、第18王朝の正妃の権力は王に引け劣らないほどだったが、それでもハトシェプストは王になる決断をした。一方、王は男性の職務であるわけで、彼女は称号や礼装を男王のそれを採用し、歴史の改ざんも行なった。ハトシェプストは2世から共治王として指名されたと主張し、戴冠式を敢行、その後22年間ものあいだ実権を握り続けた。 *1

ハトシェプストは女性であるためか遠征を好まなかった。アジアへの遠征は行わず、南方とクレタ島の貿易を盛んに行なった。

彼女の交易の特徴としてプントとの交易がある。プントの正確な場所は特定されていないが東アフリカの海岸あたりにある地域だという。青銅製品や装身具などをもたせて遠征隊を派遣して、遠征隊は香料や黒檀の他、アフリカ各地から運ばれてきた金、象牙、毛皮などを持ち帰ったという。 *2

ハトシェプストの治世は彼女の即位自体のハプニングを除けば、平和で充実した時代であった。

トトメス3世

ハトシェプストの死去あるいは退位によってトトメス3世(前1490年頃-1436年頃)がようやく実権を握ることができた。

単独王になったトトメス3世は初年にしてアジア(シリア・パレスチナ)遠征を行なった。

エジプト支配下にあったパレスチナ諸国は、ハトシェプストの治世のあいだに その存在感が希薄になったことと、さらにはシリアのミタンニがその影響力をパレスチナに広げてきたため、エジプト側としては対処しなければならない時期を迎えていた。

トトメスのアジア遠征については以下の記事で書いた。

[ミタンニ② オリエント世界の外交/滅亡 - 歴史の世界を綴る](https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/2021/04/08/090645)

ここでは、上の記事にある「植民地政策」について。

王は、忠誠を誓った都市国家の君侯に対して、監督官と守備隊の駐屯を認め、貢納と軍役提供の義務を果たすのとひきかえに地位をそのまま承認し、大幅な自治を許した。

王は軍を返す際に、こららの君侯の長子を人質としてエジプトに連れて行き、テーベのエジプト式の教育を施すこととした。彼らは父が死亡すると、帰国して次の支配者となった。こうしてエジプト王に忠実な臣侯が確保され供与される体制がつくられた。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p523-524(尾形禎亮氏の執筆部分)

近代で欧米が行なったことが既にこの時代に行われていた。

*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p520(尾形禎亮氏の執筆部分)

*2:プント国 - Wikipedia

【書評】田中 秀臣『脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている』

GHQ連合国軍最高司令官総司令部)による日本の「経済民主化」は、増税をはじめ今日まで続く緊縮財政策の起源の一つ、すなわち「経済弱体化」政策だった。GHQが掲げる緊縮主義に日本の緊縮主義者が相乗りし、経済や社会、文化をめぐる考え方にマイナスの影響を与えてきたのだ。「財閥解体独占禁止法過度経済力集中排除法の成立、さらには有力な経営者の追放が行われた。これらの政策は、競争メカニズムを形成するというよりも、戦争の原因になった大資本の解体による日本の経済力の弱体化が目的であった」(「第1章」より)。本書は国家を脆弱化、衰退化させる経済思想を、占領期のGHQと日本の経済学者の関係から再考察するもの。さらにアフター・コロナの「戦後」において、日米欧は中国共産党の独裁・統制主義の経済に対峙すべく、自由主義による経済再生に全力を尽くさなければならない。われわれが「100年に1度」の危機を乗り越えるための方向性を示す。

出典:脱GHQ史観の経済学 | 田中秀臣著 | 書籍 | PHP研究所

上にあるようにこの本の中心は敗戦直後のGHQ占領下と現代の日本の経済を論じることが中心となっている。

著者について

上武大学ビジネス情報学部教授、経済学者。1961年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は日本経済思想史、日本経済論。(アマゾンより

リフレ派(積極財政派)の論客で、文化放送「おはよう寺ちゃん」の火曜日のコメンテーターをやっている。

いつもは緊縮財政派のラスボスである財務省をボロクソに批判しているが(解体しろと言っている)、本書では日銀の緊縮主義を批判している。

目次

第1章 経済学はいまでもGHQが占領中
第2章 緊縮財政の呪縛
第3章 集団安全保障と憲法改正の経済学
第4章 占領史観にただ乗りする中国と韓国
第5章 学術会議、あいちトリエンナーレに映るGHQの影
(アマゾンより)

「はじめに」に以下のように書いてある。

本書 では、 占領 期 の 経済政策 の 思想、 特に 緊縮 政策 = 日本 弱体化 に 関連 する ところ を 大胆 に 切り取る こと に し た。 そして 単に「 歴史」 を 語る のでは なく、 その「 歴史」 が 今日 の 経済・安全保障・国際 関係・言論 の 世界 などに どの よう に 深刻 な 影響 を 与え て いる かに 重点 を 置い て いる。

出典:田中 秀臣. 脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている (PHP新書) (Kindle Locations 65-67). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

内容・感想

上述のように本書の中心は日本経済だ。

マッカーサーが日本を二度と戦争ができない国にしようとしていたことは多くの人が知っていることだが、その一つが「経済民主化」=緊縮 政策 = 日本弱体化だ。

この政策は朝鮮戦争により一旦は消えるのだが、日銀内部で今日にまで経済思想として残っていた、そのことは日銀の正史である『日本銀行百年史』を読めば分かるという。現在、黒田日銀総裁のもとでリフレ政策を採用しているが、日銀内部ではデフレ政策をした白川前総裁の人気が高いというのは背筋が寒くなるほど恐ろしい話だ。

副題に「エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている」とあるが、GHQが残した緊縮主義は日銀を中心に残っているということになる(財務省の緊縮主義との関係は書いていなかったと思う)。

本書では「GHQ」というキーワードが頻繁に出てくるが、この本を読んで強く思うことは、読者が読後に「GHQ憎し」「アメリカ憎し」で終わるのではなく、占領下で敗戦利権を手にした後継者たちが現在でも日本の政治に深く関わり、日本を弱体化を推し進めているということだ。

そしてこのことは日本経済だけに限らない。

第3章以降に書いてあるが、複数の分野に敗戦利得者の後継者たちがいて、日本弱体化を推し進めている(本人たちは自分の利権を守ろうとしているだけかもしれないが)。日本学術会議などは典型的な例と言える。

日本経済の話に戻るが、日本の国益を守るためには、まず負の伝統である緊縮主義を退けて高橋是清-石橋湛山-下村治から継承されるリフレ政策を日本の経済政策の中心に置くことだ *1

これと軌を一にして悪しき利得権益者を少しでも削っていくことができれば、日本は明るくなっていくだろう。



*1:リフレ政策は他国では標準的な経済政策だ。日本が異常なのだが、財務省とそれに媚を売るマスコミたちがこのことを隠蔽している

エジプト第18王朝③トトメス1世とトトメス2世/王家の谷

今回は三代目トトメス1世とトトメス2世について。

トトメス2世についてはおまけ程度。

トトメス1世とトトメス2世の即位

三代目トトメス1世(前1504-1492年)は、王族かそうでないか結論は出ていないが、王族でないという立場の研究者はアメンホテプ1世の娘(または妹)イアフメスと結婚していることで王位が認められたとしている。

王家の女性の重要性については前回も触れたが、ここでは別の引用をする。

王の姿を借りた国家神アメンが、正妃と交わることによって、アメンの聖なる血を受け継いだ次王が生まれる。このため正妃は「アメンの聖なる妻」ともよばれた。神の血統を純粋に保つためには、正妃には嫡出の王女、すなわち王と同じ正妃から生まれた同腹の姉妹を選ぶのが理想であった。正妃から王子が生まれなかった場合は、庶出の王女と結婚することによって、王位を継承した。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p518-519(尾形禎亮氏の執筆部分)

トトメスが王族かそうでないかは議論が有るが、嫡出の王女イフアメスが王妃になることで、夫のトトメスは王になる権利を得たということになっている。

いずれにせよトトメスは軍人だとされている。

また、四代目トトメス2世(前1493-1479年)は庶出の子で嫡出のハトシェプストと結婚している。

遠征

先代が内政に力を入れたのに対し、トトメスは国外の軍事遠征によってその名を残している。

トトメス1世が即位するとすぐにヌビア(クシュ)はエジプトに対して反乱を起こしたが、彼はヌビアに深く攻め込み、中心地のケルマを制圧した。前回、前々回でも紹介した「イバナの息子、イアフメス」の伝記によれば、クシュの支配者を船首にくくりつけてエジプトに凱旋したという。(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p139)

ヌビアはトトメス2世の即位直後にも反乱を起こしたが、彼もまた鎮圧に成功し、トンボス(現スーダン共和国の中央)までを植民地(エジプト領ヌビア)とし、その後新王国時代末まで大規模な反乱は起こらなかった。 *1

北方にも遠征し、シリアにまで攻め込んだ。この時期はシリアにはミタンニが勢力を拡大していたが、トトメスの遠征軍は大した反抗を受けること無く進撃した。トトメスはユーフラテス川の現代シリアとトルコの国境沿いにあったカルケミシュに境界碑を建て、シリア全域をエジプトの勢力圏であることを宣言した。ただし、彼らにとってシリア・パレスチナはエジプト本土を守るための緩衝地帯という位置づけであった。

ヌビアを植民地化

少し話を戻してヌビアの話。

上のようにヌビアはエジプトの植民地となった。エジプト中王国時代からエジプトに怖れられる程の勢力を誇っていたヌビアは一旦エジプトの支配下に入る(後代にまた栄える時期が来る)。

西アジアに覇権を広げるための軍資金をヌビアの金鉱に頼っていたエジプトは、南のヌビアが強大な力をもつのを嫌った。そのためエジプト第18王朝(前1539~前1292年)の王たちは、軍隊を派遣してヌビアを征服し、ナイル川に沿って要塞を建設した。ヌビア人の首長を行政官に据え、従順なヌビア人の家の子どもをテーベの学校に送り込んだ。

エジプトに支配されていたこの時期、ヌビア人の特権階級は、エジプトの文化的・宗教的な慣行を採り入れ、エジプトの神々、とりわけアメン神を崇め、エジプトの言葉を話し、エジプトの埋葬方式を採用して、後にはピラミッドを建設するようになった。まるで、19世紀に欧州で巻き起こったエジプト文明礼賛ブームを、数千年前に先取りしていたかのようだ。

出典:特集:古代エジプトを支配した ヌビア人の王たち 2008年2月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

上のやり方は後代にパレスチナ地域の植民地政策にも用いられる。

王家の谷

新王国時代の象徴の一つである王家の谷はトトメス1世の時代から始まる(諸説あり)。

古代エジプトと言えばピラミッドだ。エジプトのピラミッドは王墓と葬祭殿 *2 を中核とする複合体だが、トトメス以降の歴代の王たちはその遺体を後に王家の谷と呼ばれる首都テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸にある岩山の谷に埋葬することにした。そして葬祭殿は別に造られた。

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出典:王家の谷-wikipedia

その理由として「王家の谷-wikipedia」は《新王国時代以前の王の墓の多くが盗掘に遭っていた》ことを挙げている。

王墓の位置の秘密をできるだけ保つため、造営に関係した職人や初期などとその家族は、一般住民の集落とは離れた場所に集められ、監視のなかで集団生活を送ることとなった。デル・エル・マディーナの集落はこうしてはじまり、一時アマルナに移転したほかは、新王国時代の終わるまで存続しつづけることとなる。

出典:世界の歴史①/p517

ただし、現在までの長い時間の中でその多くの墓が盗掘に遭っている。 王家の谷-世界史の窓 によれば、王家の谷の近くに「墓泥棒村」とも呼ばれる村があり、2006年に当局から強制移転命令が出たという話が紹介されている(別のサイトによれば、現在は公園になっている模様)。



*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p518(尾形禎亮氏の執筆部分)

*2:王が死後、アメン・ラー神またはオシリス神と化して来世で永遠に生きるための祭祀が行われる場所。馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p138

エジプト第18王朝② 2代目アメンホテプ1世/カルナック神殿/アメン神

2代目アメンホテプ1世の治世でエジプト統一事業は大方かたづいたようだ。

アメンホテプ1世は外征もしたが、彼の大部分のエネルギーは内政に注がれた。

外征

アメンホテプ1世自身が遺した記録はほとんど無い(または発見されてない)。彼の外征の記録は、前回紹介した「イバナの息子、イアフメス」の自伝や、もう一人の同時代人であるイアフメス・ペン・ネクベド(歩兵として参軍)の自伝に頼っている。

前者はヌビアの記録を書き遺し、後者はヌビアとシリアとおぼしき遠征について言及している *1 (シリア遠征については確定的ではない)。

ただし、冒頭で書いたように彼は無いせいに力を注ぎ、積極的な遠征ではなかった。シリアの属国化は後代の話だ。

内政

アメンホテプ1世は先代のイアフメス1世(アアフメス1世)がやり遺した事項を引き継ぎ、目的は達成された。

第2代アメンヘテプ1世の(在位 前1527-06年ころ)もまた、もっぱら内政整備に力を注いだ。アアフメス1世にはまだ残っていた高官、高級神官職の売買文書は姿を消し、王の任命権は貫徹され、王権は完全に地方行政機構まで掌握することができた。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p514(尾形禎亮氏の執筆部分)

宗教・葬祭関連

ピラミッド造営の断念

先代まで続いた古代エジプトの伝統であったピラミッド造営が断念され、新しい方式が考案された。

第2中間期のころまでには盛んにピラミッドの盗掘が行われていたので、まずは王墓と葬祭殿 *2 を別ける方針を採った。新王国時代の王の埋葬の場所が有名な「王家の谷」なのだが、これは次代のトトメス1世の治世から始められたので別の記事で書く(アメンホテプ1世の治世から始められたという説もある)。

アメン神

アメン神は元々はマイナーな神であったが、第11王朝(中王国時代の最初)に首都テーベの守護神となった。そしてテーベ由来の第18王朝初代のイアフメス1世は太陽神ラーと習合させてアメン・ラーとして国家神にした。

カルナック神殿/アメン神殿

カルナック神殿は首都テーベ近郊にある新王国時代を象徴する建築群で、数多くの集合体を指す。その中心の神殿はもちろんアメン・ラーに捧げるアメン神殿だ。その他に、主要な神の神殿があり、周りには各王の葬祭殿がある。

これらに着手したのはアメンホテプ1世だ(その前から神殿はあったので、正確には「拡張した」)。

アメン神官団

新王国時代の歴代の王たちは遠征から帰ってくる度にアメン神殿に莫大な寄進をした。これにより、アメン神官たちは王権をも脅かすほどの絶大な権力を持つことになり、王たちの悩みのタネになる。しかし、これはのちのちの話。

王家の女性の重要性

第18王朝の特徴の一つは、王家の女性が重要視されるようになったことだ。この頃から、王家に生まれた娘は王以外と婚姻してはいけないという原則が明確化し、ファラオの継承に王女の存在がより重要となった。また、アハメス王の妃アハメス・ネフェルタリは「アメンの神の妻」という称号をもつが、これは国家神を祀るカルナク神殿の神官職に従事し、王妃が強力な権限を有していたことを示す。この称号は代々王妃に受け継がれていくが、そうした王妃の地位の変化のなかで、女王ハトシェプストが登場する。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p140

五代目王ハトシェプストについては別の記事で書くとして、ここではアハメス・ネフェルタリ(イアフメス・ネフェルタリ)について。

アハメス王はイアフメス1世のこと。イアフメス・ネフェルタリはアメンホテプ1世の母親であり、彼が幼少の王だった頃は摂政を勤めていた。

イアフメス1世はネフェルタリとその後継者たち(歴代の王妃)に永続的な領地と財産を与え、「アメンの神の妻」という役職は絶大な政治的・宗教的権力を持つことになった。ネフェルタリはアメン神官団の業務の中心的役割を担い、「大王妃」(正妃の称号)よりも単独で「神妻」という称号をしばしば使った。(トビー・ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p172-173)

ちなみに、ウィルキンソン氏はネフェルタリが「王家の谷」の王墓建設に従事し、彼女と息子アメンホテプ1世は神格化されたとしている(p173)。



*1:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p129

*2:王が死後、アメン・ラー神またはオシリス神と化して来世で永遠に生きるための祭祀が行われる場所。馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p138