歴史の世界

エジプト第18王朝⑦ アクエンアテン 後編(アマルナ美術/アマルナ文書/アマルナ革命の途絶)

前回からの続き。

アマルナ美術

下記の引用のイクナートンとはアクエンアテンのこと。

古代エジプト宗教改革王イクナートンが,その信奉するアテン信仰の原理に基づいて,自ら指導育成した反伝統的傾向の濃い芸術で,エジプト美術史上特異な地位を占める。伝統的なエジプト美術が,時間を超えた永遠の本質を表現するため,きわめて様式化された表現形式を遵守しているのに対して,瞬間の動きの表現や自由な自然描写など,自然主義風・写実主義風な表現を特色とする。

出典:アマルナ美術とは/株式会社平凡社世界大百科事典 第2版/コトバンク

簡単に言えば、アマルナ美術は従来の表現形式よりも直接的な(見た目の)美的感覚を重視した。これの代表例が↓のアクエンアテンの正妃ネフェルティティの胸像だ。

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出典:ネフェルティティの胸像

アマルナ美術のもう一つの特徴として「ありのままを描く」というものがある。代表的なものは太陽神アテンの図像を日輪にしたことだ(従来、神はヒトの身体か、ヒト+頭部だけ人外の形で表現されていた)。

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出典:アメンホテプ4世 - Wikipedia

またアクエンアテンの王墓の一室の壁面には、早逝した王女(次女)のマケトアテンの死に悲嘆に暮れる王夫妻の姿が描かれている *1 。このような表現は他の王墓には見られない。

アマルナ美術は、従来の美術的表現も少なからず見ることができ否定するものではないが、伝統的表現に束縛されないという点が重要となる。

その意味では、ヨーロッパ美術史の中世から近世に代わるルネサンス美術を比較できるだろう。

アマルナ文書

アマルナ文書は1885年にテル・エル・アマルナの現地女性が偶然発見したものをのちに価値を見いだされて収集・研究されたもの。

アマルナはかつての首都アケトアテンだということは前回書いたが、アクエンアテンの死後、アマルナ革命は継承されず、首都も破棄されることになった(後述)。この時に破棄された文書の一部がアマルナ文書と呼ばれるものだ。

内容は外部からエジプト王宛に送られてきた外交文書がほとんどで、王が出した文書はそのコピーらしきものが少しあるだけだ。その特徴から古代エジプト史よりも当時の中東あるいは古代オリエント全体の状況を知るために重要な文書と言える。

この外交文書は大きく2つに区分される。すなわち大国と小国、あるいは列強国と(エジプトの)従属国である。

アマルナ文書には新王国時代のエジプトと外交関係にあった、バビロニアアッシリアヒッタイト、ミタンニその他の諸国の王からの書簡が含まれている。それらによると、王たちは互いに「兄弟」と呼び合い、オリエント諸国からは戦車や馬、ラピスラズリ、銅などが贈られ、エジプトからは黄金が贈り物とされていた。またエジプトはミタンニやバビロニアの王室間の国際結婚を行っていた。その他に、シリア・パレスチナや地中海東岸の都市国家からの書簡にはエジプト王を「我が王、我が神、我が太陽である王へ・・・」などの文面が見え、エジプトに隷属していたことをうかがわせる。

出典:アマルナ文書/世界史の窓

大国の中にはキプロス島にあったアラシアも含まれる。銅の輸出国として経済大国になっていた。

中東は、覇権国であったミタンニが衰退してヒッタイトアッシリアバビロニアが勃興して、こぞってエジプトとの友好を求めた時代だった。

しかしアクエンアテンは外交には興味がなかった、もしくは消極的であった。彼は他国から救援を求められても遠征軍を派遣することはせずに、黄金か物資と「アテン神の祝福」を送っただけだった。アクエンアテンは従属国のアルム王国がヒッタイトに寝返ってすら軍を送らなかった。

アマルナ革命の挫折/なぜ革命は挫折したのか?

アマルナ革命はアクエンアテンの死とともに終わりを告げた。その理由は?

一つは、アクエンアテンの後継者のツタンカーメンの即位時が9歳だったことだ。アマルナ革命は専制君主的な側面があるのだが、まだ完成されていないアマルナ革命を続行するには強い意志と実行力が必要だった。そして9歳の王にこれらを求めるのは無理があったのではないか?

もう一つ、アテン神信仰について。アテン神信仰については前回書いたが、「この教義を真に理解できるのは王以外にいない」などとアクエンアテンが考えていたが、結局のところ、王以外の真の教徒は家族以外にいなかったようだ。王に引き立てられた閣僚たちも表面上教徒になっていただけだった(庶民は従来の神を信仰していた)。アクエンアテンのみが理解していたアテン神信仰は彼の死とともに終わるのは当然ということだ。

その後の話は次回に書く。



*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p550-551(尾形禎亮氏の執筆部分)、Meketaten - Wikipedia