歴史の世界

ミタンニ② オリエント世界の外交/滅亡

前回からの続き。

情報のほとんどがエジプト側の史料なので、エジプト中心の記事になってしまった。

エジプトと交戦(オリエント世界の始まり)

エジプトの情勢について

エジプトの歴史の詳細は別の機会に書くとして、ここでは必要最小限のことだけを書く。

少しさかのぼってヒクソスの話から。

ヒクソスはエジプト北部を支配した「アジア系の異民族」のような書き方をされるが、パレスチナ地方から移住した人々で、(ミタンニが開発したと言われる)馬-戦車技術によってエジプト北部を征服・支配した。

エジプト人であるアアフメス1世(前1570-1546年)がヒクソス追放とエジプト統一に成功し、ここからエジプト新王国または第18王朝が始まる。アアフメス1世はパレスチナに逃げたヒクソスの残存勢力を追討して滅ぼす。その後パレスチナを支配したと言われている。

さて、第18王朝の三代目となるトトメス1世(前1504-1492年)はシリアに攻め込んだ。遠征軍は大した反抗を受けること無く進撃した。トトメスはユーフラテス川の現代シリアとトルコの国境沿いにあったカルケミシュに境界碑を建て、シリア全域をエジプトの勢力圏であることを宣言した。ただし、彼らにとってシリア・パレスチナはエジプト本土を守るための緩衝地帯という位置づけであった。

五代目ハトシェプスト(女王)はアジア遠征をしなかったために、ミタンニにシリアの領域を奪われた。ミタンニの初期の王たちがこの一体を制服・支配したのはこの時期のことになる。

6代目トトメス3世はハトシェプストの共治王だったが、ハトシェプストが亡くなって(あるいは失脚して)、名実ともにエジプトの支配者となった。ミタンニとエジプトの本格的な戦いはこのトトメス3世から始まる。

トトメス3世の遠征

トトメス3世は単独王となってから20年の間にシリア・パレスチナへの遠征を17回行なった(戦闘なしのものも含む)。この記録はカルナック神殿の壁に刻されている『トトメス3世年代記』と呼ばれる記録による。このような記録をそのまま史実と鵜呑することはできないが *1 、他に頼れる史料が無いためとりあえずこれに頼るしかない。

『世界の歴史①人類の起原と古代オリエント*2 に詳述してある。

トトメス3世が単独王になった年に第1回遠征が行なわれた。攻撃対象はパレスチナ(現代シリア南部の一部からイスラエルまでの領域)。パレスチナはトトメス1世が征服した地域であったが、カデシュの首長(王または君侯)を盟主とする反エジプト同盟が組まれていた。

メギドの戦い(前1457年)と呼ばれるこの遠征の結果はエジプトの勝利に終わり、南シリアとパレスチナ全域を征服した。トトメス3世はこの地域を幾つかの管区に分け、貢租を徴収するために監督官を設置した。屋形氏はこれを「植民地政策」と書いている。

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出典:Map 2013-07-26 02-51 - File:Map 2013-07-26 02-51.jpg - Wikimedia Commons

これ以降もシリア・パレスチナの君侯は不満をくすぶりつづけていたようで、カデシュは反同盟を画策していた。トトメス3世は第5回遠征でウラッザ(現代シリアの地中海沿岸)に港を確保し、第6回遠征でシミュラから上陸してカデシュを占領し、シリア全域も手中に収めた。これで反エジプト同盟は崩壊した。旧来の「植民地政策」に加え、軍役提供義務化と君侯の長子をエジプトに人質として連れていき、エジプトの教育を受けさせた。

第8回遠征でエジプト軍はミタンニと激突する。ここでようやくミタンニが出てくる。小林登志子氏や屋形禎亮氏は反エジプト同盟の背後にミタンニがいるとしている。しかし、ミタンニ軍はアレッポとカルケミシュで敗北し、その後はユーフラテス河の東に逃げて戦いを避けた。ミタンニの記録はこれだけ。トトメス3世は帰路の際にカデシュを再占領した。

それでもカデシュは反抗を止めず、第9回遠征が行なわれる。シリア・パレスチナの支配が確立されたのは第17回遠征でカデシュを占領して以降のことだという。

その後、総督職が新設され、シリア・パレスチナを3分割して属州とし、州都を設けて直轄領とし、その他の都市は君侯に自治をさせた。

エジプトとの同盟

トトメス3世の次代のアメンヘテプ(アメンホテプ)2世(前1428-1397年)の時代もシリア・パレスチナにおいての遠征があった。またしてもカデシュを盟主とする反乱が起こり、アメンヘテプはこれを破った。

こうした交戦の日々から一転して停戦の機会が訪れる。その原因はミタンニがヒッタイトに要衝アレッポ(ハラブ)を占領破壊されたことだという(この時点でアレッポはミタンニ側の勢力圏にあったことになる)。

アメンホテプ2世とミタンニ王アルタタマ1世(前14世紀初期)は平和交渉に入った。この間に、アルタタマはヒッタイトを追い返すことに成功した。

同盟が結ばれたのは、アメンホテプ2世の次代の王トトメス4世(前1397-1388年)になってからだ。アルタタマ1世との同盟は、シリア北部はミタンニの、シリア南部とパレスチナはエジプトの支配領域とし、アルタタマ1世の娘をエジプト王に嫁がせることで決着した。

オリエント世界初期の外交

エジプトとミタンニの間で交わされた同盟はオリエント世界の外交関係の始まりとなった(前14世紀中期)。

この時期のオリエント世界で最も重要な国はエジプトとなり、エジプトと同格の同盟国はミタンニ、ヒッタイトバビロニア、アラシヤ(キプロス島*3 だった。有名なエジプト側の記録アマルナ文書によると、これらの国はエジプトを「わが兄弟」と呼び、自らを「大王」と称した。一方、シリア・パレスチナの属国はエジプトっを「わが主人」と呼び、自らを「僕(しもべ)」と称した(『古代メソポタミア全史』/p156)。

ミタンニの滅亡

ミタンニ自身の文献がほとんど無いため、以上のようにほとんどエジプトの話になってしまった。

エジプトはミタンニとの同盟のために比較的長い平和を享受できたが、ミタンニはヒッタイトアッシリアに傑物が現れたために、短期間で滅亡してしまうことになる。

前14世紀後期のミタンニの内部事情は、当時のミタンニ王トゥシュラッタがエジプト王に書き送った十数通の書簡によって知ることができる *4

上述のアルタタマ1世の後、シュッタルナ2世、アルタシュマラと継承されるのだがアルタシュマラは王宮内の反逆分子によって殺され、弟のトゥシュラッタが即位することになった。幼少期に即位したトゥシュラッタは成長して権力を握って王宮内から反逆分子を一掃したが、これらの勢力はミタンニの東部を根拠地としてアルタタマ2世を擁立し、ヒッタイト王シュッピルリウマ1世(前14世紀後半)の庇護を得る。

ヒッタイトは国内で長く内紛が絶えなかったが、シュッピルリウマ1世がこれを統一して強国にした。

シュッピルリウマは即位したばかりの頃のトゥシュラッタを攻撃するも初戦は敗北する。

ここでシュッピルリウマは方針を変えて、直接対決を避けて外交で包囲する戦略を採る。上述のようにアルタタマ2世を庇護下に置くこともそのうちの一つだ。

[シュッピルリウマは]ミタンニ東部の国々と外交交渉で条約を結ぶなどの策を弄し、さらにミタンニを挟み撃ちするような形になるバビロニアから、王女を娶っている。

出典:『古代メソポタミア全史』/p161

改めて首都ワシュカンニを攻め込むと、ミタンニ王トゥシュラッタは戦わずに逃げたが、息子の一人に殺害されてしまう。この後、アルタタマ2世がミタンニ王に就いたが、この時点でミタンニはヒッタイトの属領となってしまったようだ。さらに、かつてのミタンニの属領であったアッシリアが独立し、勢力は細るばかりだった。

アルタタマ2世の息子シュッタルナ3世はアッシリアを頼ってヒッタイトから独立しようとした(アッシリアはミタンニの属国だったが、この当時は既にアッシリアは独立して勢力も逆転していた)。しかしアッシリアからの援軍はなかった。シュッピルリウマはトゥシュラッタの息子の一人シャッティワザにワシュカンニを攻めさせて占領後王位に就かせた。

しかしシュッピルリウマはミタンニの要衝地のカルケミシュとアレッポ(ハラブ)を2人の息子に治めさせたため。ミタンニの領地はさらに小さくなった。

シャットゥアラ2世がミタンニ王として知られる最後の王だが、この後は歴史からミタンニの名は消えてしまった。



*1:小林登志子『古代メソポタミア全史』(中公新書/2020/p149, 152)によれば、《エジプトだけでなく、古代の王たちは勝利をより大きく記すが、敗北は敗北と書かないことが普通である。現時点では、ミタンニとエジプトとの戦いについては、もっぱらエジプト側の史料によって語られているので、注意を要する。》と書いている。

*2:中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p523-525(屋形禎亮氏の執筆部分)

*3:アラシヤは銅の産地として経済力を誇っていた

*4:『世界の歴史①人類の起原と古代オリエント』p339