歴史の世界

エジプト第18王朝③トトメス1世とトトメス2世/王家の谷

今回は三代目トトメス1世とトトメス2世について。

トトメス2世についてはおまけ程度。

トトメス1世とトトメス2世の即位

三代目トトメス1世(前1504-1492年)は、王族かそうでないか結論は出ていないが、王族でないという立場の研究者はアメンホテプ1世の娘(または妹)イアフメスと結婚していることで王位が認められたとしている。

王家の女性の重要性については前回も触れたが、ここでは別の引用をする。

王の姿を借りた国家神アメンが、正妃と交わることによって、アメンの聖なる血を受け継いだ次王が生まれる。このため正妃は「アメンの聖なる妻」ともよばれた。神の血統を純粋に保つためには、正妃には嫡出の王女、すなわち王と同じ正妃から生まれた同腹の姉妹を選ぶのが理想であった。正妃から王子が生まれなかった場合は、庶出の王女と結婚することによって、王位を継承した。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p518-519(尾形禎亮氏の執筆部分)

トトメスが王族かそうでないかは議論が有るが、嫡出の王女イフアメスが王妃になることで、夫のトトメスは王になる権利を得たということになっている。

いずれにせよトトメスは軍人だとされている。

また、四代目トトメス2世(前1493-1479年)は庶出の子で嫡出のハトシェプストと結婚している。

遠征

先代が内政に力を入れたのに対し、トトメスは国外の軍事遠征によってその名を残している。

トトメス1世が即位するとすぐにヌビア(クシュ)はエジプトに対して反乱を起こしたが、彼はヌビアに深く攻め込み、中心地のケルマを制圧した。前回、前々回でも紹介した「イバナの息子、イアフメス」の伝記によれば、クシュの支配者を船首にくくりつけてエジプトに凱旋したという。(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p139)

ヌビアはトトメス2世の即位直後にも反乱を起こしたが、彼もまた鎮圧に成功し、トンボス(現スーダン共和国の中央)までを植民地(エジプト領ヌビア)とし、その後新王国時代末まで大規模な反乱は起こらなかった。 *1

北方にも遠征し、シリアにまで攻め込んだ。この時期はシリアにはミタンニが勢力を拡大していたが、トトメスの遠征軍は大した反抗を受けること無く進撃した。トトメスはユーフラテス川の現代シリアとトルコの国境沿いにあったカルケミシュに境界碑を建て、シリア全域をエジプトの勢力圏であることを宣言した。ただし、彼らにとってシリア・パレスチナはエジプト本土を守るための緩衝地帯という位置づけであった。

ヌビアを植民地化

少し話を戻してヌビアの話。

上のようにヌビアはエジプトの植民地となった。エジプト中王国時代からエジプトに怖れられる程の勢力を誇っていたヌビアは一旦エジプトの支配下に入る(後代にまた栄える時期が来る)。

西アジアに覇権を広げるための軍資金をヌビアの金鉱に頼っていたエジプトは、南のヌビアが強大な力をもつのを嫌った。そのためエジプト第18王朝(前1539~前1292年)の王たちは、軍隊を派遣してヌビアを征服し、ナイル川に沿って要塞を建設した。ヌビア人の首長を行政官に据え、従順なヌビア人の家の子どもをテーベの学校に送り込んだ。

エジプトに支配されていたこの時期、ヌビア人の特権階級は、エジプトの文化的・宗教的な慣行を採り入れ、エジプトの神々、とりわけアメン神を崇め、エジプトの言葉を話し、エジプトの埋葬方式を採用して、後にはピラミッドを建設するようになった。まるで、19世紀に欧州で巻き起こったエジプト文明礼賛ブームを、数千年前に先取りしていたかのようだ。

出典:特集:古代エジプトを支配した ヌビア人の王たち 2008年2月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

上のやり方は後代にパレスチナ地域の植民地政策にも用いられる。

王家の谷

新王国時代の象徴の一つである王家の谷はトトメス1世の時代から始まる(諸説あり)。

古代エジプトと言えばピラミッドだ。エジプトのピラミッドは王墓と葬祭殿 *2 を中核とする複合体だが、トトメス以降の歴代の王たちはその遺体を後に王家の谷と呼ばれる首都テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸にある岩山の谷に埋葬することにした。そして葬祭殿は別に造られた。

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出典:王家の谷-wikipedia

その理由として「王家の谷-wikipedia」は《新王国時代以前の王の墓の多くが盗掘に遭っていた》ことを挙げている。

王墓の位置の秘密をできるだけ保つため、造営に関係した職人や初期などとその家族は、一般住民の集落とは離れた場所に集められ、監視のなかで集団生活を送ることとなった。デル・エル・マディーナの集落はこうしてはじまり、一時アマルナに移転したほかは、新王国時代の終わるまで存続しつづけることとなる。

出典:世界の歴史①/p517

ただし、現在までの長い時間の中でその多くの墓が盗掘に遭っている。 王家の谷-世界史の窓 によれば、王家の谷の近くに「墓泥棒村」とも呼ばれる村があり、2006年に当局から強制移転命令が出たという話が紹介されている(別のサイトによれば、現在は公園になっている模様)。



*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p518(尾形禎亮氏の執筆部分)

*2:王が死後、アメン・ラー神またはオシリス神と化して来世で永遠に生きるための祭祀が行われる場所。馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p138