歴史の世界

エジプト第18王朝①

今回から第18王朝のことを書く。

この記事は以下の記事の続き。

初代、イアフメス1世

第18王朝の初代 イアフメス1世(在位:前1570-1546年)は第17王朝の最後の王(ファラオ)カーメス(カメス)の弟だ。イアフメス1世がエジプト統一を果たしたことで新王朝の創始者とされている。

ちなみに、「イアフメス」は「アアフメス」とか「アハモセ」などとも表記される。wikipediaによれば英語だとAhmoseⅠ/Ahmosisと綴られる。

イアフメス1世はエジプト統一という偉業を24年の治世を持ちながら記録があまり遺っていない。彼の治世の軍事については、当時の水軍士官だった「イバナの息子、イアフメス」という名前の人物の墓の伝記(壁に遺っている)にほとんど頼っている。

この人物はケネブ(現在のエル・カブ、アスワンの少し北)の軍人貴族で、エジプト統一戦争の時は北はパレスチナから南はヌビアへの遠征そして反乱の鎮圧など、あらゆる戦闘に参加した。

[イアフメス1世]は、24年の統治の半ばごろ、ヒクソスの戦いを再開し、メンフィス、アヴァリス、その他のヒクソス拠点に一連の攻撃を行なった。イバナの息子イアフメスは、アヴァリスの攻囲、ついで第2次、第3次のアヴァリスの戦い、その最終的な陥落にいたる戦いに参加しただけでなく、パレスチナまでヒクソスを追撃し、シャルヘンの町を包囲した。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p125

イアフメス1世は幼い頃に即位したため、母のイアフヘテプ1世が摂政を務めていたと考えられている *1。戦争を再開した後、数代前からの悲願だったエジプト統一を達成した。

エジプト外の支配について

遠征によって征服した地域をどうしたか。

パレスチナ

後代にはエジプトはパレスチナを統治するようになるが、イアフメス1世はヒクソスの残党を滅ぼすことを優先した。彼の軍隊は将来のことを考えずにヒクソスがいる地域を破壊してまわった。

発掘により、シリアまで攻め込んだことは確実だが、地域支配にまでは関心が無かったか薄かった。

ヌビア

イアフメス1世にとって、パレスチナより、鉱物や動植物が豊富なヌビアの方がはるかに重要だった。歴代のエジプト王朝はヌビアを常に支配し続けた理由はこの地域がエジプトの強さと繁栄の源泉だったからだ。

しかし、エジプト全体の勢力が分断縮小していた第2中間期に、ヌビアのクシュ王国は勢力を拡大し、上エジプトのネケブまで侵攻し、その略奪品を首都のケルマに持ち帰ったという *2

イアフメス1世はクシュ王国を南へ押し返し、ブヘン(現在はナセル湖の水面下)に行政機関を設置した。

内政

上述の「イバナの息子、イアフメス」の伝記によれば、イアフメス1世の治世を通して少なくとも3回の大きな叛乱が起きた。国内が安定したのは次代になってからのようだ。

ただし、尾形禎亮氏によれば、第2中間期の地方の墳墓は第1中間期のそれと比べて貧弱であることから、自立していた地方貴族らの勢力はそれほど強くはなかった。すなわち中王国時代初期と比べれば中央集権国家への回復は容易であった。 *3

全体として行政機構は、中王国を手本としてはいるが、第17王朝の下で準備された軍事国家体制を踏襲して、簡素化が計られ、チェック・アンド・バランスの原則は大幅に後退している。行政の最終決定権は、再び王に直属する宰相の手に握られた。

出典: 世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p514(尾形禎亮氏の執筆部分)

「チェック・アンド・バランスの原則」とは中王国時代の高度な官僚制度の特徴で、《特定の部局や官僚に権力が集中し、独断専行されるのを防ぐため、ひとつの事項を決定するにも、複数の部局が必ず関与する》というシステムのこと。 *4

内政の整備は次代に継承される。

ピラミッド建設

イアフメス1世はピラミッド建設をした最後の王と考えられている。

このピラミッドには王墓がなく、実際の王墓は別に作られた(ただしイアフメス1世の王墓はまだ判明されていない)。「王家の谷 - Wikipedia」に《新王国時代以前の王の墓の多くが盗掘に遭っていた》とあるので、掘り起こされたらかなわないと思ったのかもしれない。

新王国時代はピラミッドに代わって有名な「王家の谷」が王墓となる(王家の谷に関しては別の記事で書く)。

イアフメス1世のピラミッドに関しては以下のブログで簡潔に書かれている。



*1:イアフメス1世 - Wikipedia

*2:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p134-135

*3:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p514(尾形禎亮氏の執筆部分)

*4:上掲書/p493

【書評】上念司『れいわ民間防衛 見えない侵略から日本を守る』

れいわ民間防衛

れいわ民間防衛

以下は出版社の飛鳥新社の内容紹介

謀略戦、心理戦、SNSを使ったプロパガンダと情報戦――〈進化した戦争〉に備えよ!
「我々は常に知識をアップデートし、見えない領域で迫りくる脅威に対抗していかなければならない。私の耳元では軍靴の音どころか、大砲の爆音が鳴り響いている! 」(上念司)"目に見えぬ侵略"はもう始まっている!

出典:れいわ民間防衛 | 株式会社 飛鳥新社

カッコ書きが何が言いたいかわからない人もいるかも知れないが、要するに言いたいことは以下のような意味になる。

朝日新聞などは軍事の話になると「軍靴の音がー」うんぬんと騒ぎ出すが
すでに平時(日常)の日本の今現在でも〈進化した戦争〉は行われている!
〈進化した戦争〉とは即ち謀略戦、心理戦、SNSを使ったプロパガンダと情報戦のことだ!
我々日本国民はこれらの戦争に対して防衛体制を整えなければならない!

著者について

著者の肩書は経済評論家(本業はフィットネスクラブ経営)。ラジオやネットで経済以外のニュースのコメントも発信し続けている。

上念氏は評論家であり、専門家・研究者ではないが、その分 関心は多岐にわたり、各分野の専門家の主張を紹介する形で、言論を展開している。

目次

序章 やつらは繋がっていた。そして我々は何も知らない。
・不条理劇が現実になる日
ウイグルチベット南モンゴル、香港のリアル
・オーストラリアで実際に進行していた〝侵略〟

第1章 自由の敵は笑顔でやってくる
・一見正しい平和・人権のイデオロギー。その目的は?
ソ連崩壊後はじめて明かされた工作活動
・左翼少年のあこがれた理想の国
・日本にも訪れていた革命前夜の危機

第2章 戦争でない戦争、戦場でない戦場
・殺戮から戦争へ~戦いのルールを決めたウェストファリア条約
・ホットウォーからコールドウォーへ、代理戦争から下請け戦争へ
・新しい戦争のかたち「超限戦」

第3章 戦争のドメイン(領域)
・新たな領域で繰り広げられる「進化した戦争」の姿
・ロシアによるクリミア併合は超限戦の成功例
・国民が死なない戦争と戦争の外注化
・クリミアの事例に学び台湾を狙う中国

第4章 武力使わない「乗っ取り戦争」の実態
・国家を乗っ取るまでの起承転結プロセス
・意図的に憲法解釈をゆがめる東大憲法
・日本の学術界に浸透している影響力工作
・問題を提起し"解決させないこと"を目指す運動の闇
・日本人の民度が試される超限戦での戦い

終章 見えない侵略に備え、私たちにできること
・敗戦革命から国を救うのは経済成長と伝統の尊重
・知識をアップデートして見えない侵略に備えよ

出典:れいわ民間防衛 | 株式会社 飛鳥新社

項目は多岐にわたるが、全て「進化した戦争」に関わることだ。もっとよく知りたい人のために、参考文献の欄もある。

内容・注目点

基本的に対中国の安全保障についての話。

この本で特に注目すべきは「超限戦」だ。「超限戦」とは簡単に言えば、あらゆる方法を以って戦争を仕掛ける戦い方を指す。そこには非合法な方法も含まれる。

中国は「超限戦」を今現在でも行なっている。日本だけではない。オーストラリアを始め、各国で行なっている。中国以外にはロシアがクリミアに対して行なった。「ハイブリッド・ウォー」と呼ばれるが、これが「超限戦」のことだ。

私たち民間人がこれらに対して備えることは、この事実を理解し、情報をアップデートし、サイバー攻撃や影響力工作に引っかからないように日々注意することだ。選挙も危ない人に投票しないことも重要だろう。

憲法や経済についてはあまり紙幅を割いていないが、重要部分なので注目してもらいたい。

この2つについては以下の本に詳しく書かれているので、興味のある人はどうぞ。

不安を煽りたい人たち (WAC BUNKO 330)

不安を煽りたい人たち (WAC BUNKO 330)

感想

〈進化した戦争〉について全てとは言わないが網羅的に書かれていて、個人的には満足している。この本があれば自分が何を知るべきかをチェックできる。

マスコミが、時代遅れの頭で情報を流しているので、彼らの情報を見ているだけでは身を滅ぼしてしまう。この本のような時代遅れでない情報を個々人が収集して見の施し方なり、投票の決断の根拠にしていく必要がある。

さて話は変わるが、多少、煽りが強い部分、愛国的情緒に走っている部分が目につく。個人的にはあまり好きではないので、2周めからは読み飛ばした。

個人的備忘録(各章)

序章 やつらは繋がっていた。そして我々は何も知らない。

「進化した戦争」を理解しないと、日本もウイグルチベット南モンゴル、香港みたいになっちゃうよという話。オーストラリアに関しては「サイレントインベージョン」によって「征服」されかけた。

第1章 自由の敵は笑顔でやってくる

この章のタイトルの意味は、政府を打倒したい勢力(海外勢力だけでなく、反社・反国家勢力)は、いわゆる弱者の味方の振りをして彼らに浸透し、最終的には彼らを取り込んで君臨し、全体主義的な組織を作り上げる。左翼の典型的手法だ(右翼もそうかもしれない)。

こうした弱者の不満は景気が良い時は影響力は弱いが、不況になれば弱者の数も不満も増大する。そういうわけで「自由の敵」は景気を悪くすることまで考えてくる。私たち有権者はそうさせないために経済の知識武装をしなくてはならない。

第2章 戦争でない戦争、戦場でない戦場

この本の核心の部分の「戦争」の説明。戦前の戦争、戦後の戦争、そして「進化した戦争」=「新しい戦争」=「超限戦」の説明。

「超限戦」はロシアのクリミア侵略の中で応用され、今後もこのやり方は使用されると思ったほうがいい。

それなのに、日本のマスコミが言っている戦争は戦前の戦争で、古すぎてお話にならない。

「新聞・テレビなんて見るな」とは言わないが、この2つだけに情報源を頼ると判断を間違える。

第3章 戦争のドメイン(領域)

第2章で見た「新しい戦争」を分野(ドメイン、領域)に分けて説明している章。

陸海空の古い戦争は「新しい戦争」のほんの一部でしかなく、サイバー攻撃や宣伝戦などのあらゆる分野を加味して方針・作戦を立てていかなければならない。陸海空のリアルな戦闘で負けても外交で取り戻すとかは大昔からやられていることだが、サイバー攻撃や宣伝戦などで負けを挽回するというやりかた(クロスドメイン)を考えなければならない。卑怯だなんだなど言っていられない。

第4章 武力使わない「乗っ取り戦争」の実態

《『民間 防衛 ─ あらゆる 危険 から 身 を まもる』( 原 書房) スイス 政府 編》の乗っ取り戦争の説明を元に話を展開している。

「新しい戦争」(の一部)に対して、私たち民間人が何を注意すべきかを洗い出している。最近注目を浴びた「日本学術会議」などは要注意の組織として紹介されている。

自由で開かれた社会はいくらでも敵に付け入る隙があり、彼らが仕掛ける「新しい戦争」に対抗していくのには骨が折れる。それでも自由で開かれた社会を維持していきたいのならば、敵の攻撃を防がなければならない。

終章 見えない侵略に備え、私たちにできること

「私たちにできること」はあまり多く書いていない。

個人的な注目点は、正確な情報を日々アップデートすること、経済を成長させ続けること、敵の嫌がることをやること。

最後の敵の嫌がることをやるとは、具体的に言えば、中国が彼らの都合の良い歴史認識を押し付けようとしてきたら、それに逆の方向の歴史認識を示す、など。

ただし、個人的に付け加えたいのは「敵の 心胆を寒からしめる」だけで満足していただけではダメで、奥山真司氏が主張するように、押し返さなければならない。たとえば、歴史認識で言えば、中国に対して、天安門のことを突っ込んだり、「毛沢東の内政は酷かった」とか、「香港返還の時に行ってることと違うじゃないか」などと言い返して黙らせたり、他国にアピールしたりしなければならない。これが宣伝戦のやり方だ。



ルトワック先生の「パラドキシカル・ロジック」と孫子

エドワード・ルトワック『戦争にチャンスを与えよ』を読んだが、この本で最も重要だと思われる事柄は「パラドキシカル・ロジック(逆説的論理)」だ。

第6章「パラドキシカル・ロジックとはなにか ── 戦略論」を二度三度と読んでみたら「これって《陰陽》だな」と思いついた。そしてそれは正解だったようだ。

以下は訳者の奥山真司氏の書いたもの。

エドワード・ルトワックの戦略論』が、日本語版の「まえがき」の中で書いていたことを引用しておきます。彼によれば、

孫子の兵法』の最大の長所は、 普遍的で変わることのない戦略の逆説的論理 (例:戦わずして勝つなど)を、 古代ギリシアの風刺詩ヘラクレイトスよりもわかりやすく、 カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』よりも 全体的に簡明な形で示している点にある。(p.6)

ということなのです。

で、その肝心の孫子の「逆説的論理」とは何かというと、 それは「敵と味方の相互作用によって発生するダイナミックな関係性」であり、 それを孫子は「道」、つまり陰陽論として表現しているわけです。

出典:現代の大戦略家エドワード・ルトワックが「孫子」から学んだこととは?|THE STANDARD JOURNAL 2:THE STANDARD JOURNAL アメリカ通信:スタンダードジャーナル2 The STANDARD JOURNAL 2(スタンダードジャーナル編集部) - ニコニコチャンネル:社会・言論

奥山氏は、分かりづらい「パラドキシカル・ロジック」を、日本人が理解するには『孫子』が「重要な知的武器」になると書いている。

ちなみに、陰陽論については以前 当ブログで記事にしたことがある。

兵家(9)孫子(戦略書としての『孫子』 中篇/全3篇 --陰陽--) - 歴史の世界を綴る

この記事も奥山氏が訳した本を参考にしている。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

ここでいう陰陽とは陰と陽、すなわち逆の意味を持ちながら対となり、補完し合うもの・ことを指す。「矛と盾」もそうだし「戦争と平和」「勝利と敗北」もそうだ。「パラドキシカル・ロジック」では「アクションとリアクション」「作用と反作用」が重要になってくるのだが、それについて以下に書いていく。

「パラドキシカル・ロジック」とは?

パラドキシカル・ロジックですが、これは相手との敵対的な関係(紛争や戦争)が発生した時に発生する、戦略のダイナミックな状態やプロセスのことを言っております。

つまりいざ紛争状態に突入すると、自分が相手に対してAというアクションを起こしても、望んだBという結果はあらわれず、そうはさせまいとした相手からCやDという思いがけないリアクションがある、ということです。[中略]

しかもそのリアクションは、完全には想定できない不確実なものです。

出典:パラドキシカル・ロジックのエッセンス : 地政学を英国で学んだ(奥山真司氏のブログ)

戦略を立てる時、当然アクションとリアクションを考えなければならない。しかし、敵はその戦略通りのリアクションを起こすとは限らない。

ルトワック先生曰く、「戦略の世界」は矛盾とパラドクスに満ちているので、「線的なロジック(日常での思考法)」で戦略を立てれば必ず失敗する。だから戦略を立てる時にまずやるべきことは「常識を窓から投げ捨てる」ことだ *1

つまり「パラドキシカル・ロジック」とは「リニア(線的な)・ロジック」ではないロジックのことを指す。

[戦略の]世界では、矛盾するものこそが正しく、線的なものが間違っていることになる。

これこそが、「戦略の世界」の土台を構成する2つの要素だ。

第一に、成果の積み重ねができない、ということであり、第二に、「リニア(線的な)ロジック」が通用しない、ということだ。

出典:戦争にチャンスを与えよ/p129

孫子』とつながる事柄

以下はパラドキシカル・ロジックが『孫子』に関連付けることができる事柄。

「迂直の計」

もしあなたが、東京から横浜まで行こうとすれば、おそらく直線で最短距離を行くだろう。ところが「戦略の世界」では、敵が存在する。この敵が、あなたを待ち構えているのだ。すると「直線で最短距離を行く」のは、最悪の選択となる。迂回路だったり、曲がりくねった道の方が良いのだ。

出典:戦争にチャンスを与えよ/p129

これは『孫子』軍争篇の「迂直の計」そのものだ。

軍争より難(かた)きはなし。(軍争ほど困難な作業はない。)

軍争の難きは、迂(ウ)をもって直(チョク)となし、患(カン)をもって利となす。(軍争の難しさは、迂回路を直進の近道に変え、憂いごとを利益に転ずる点にある。)

出典:No.718 【迂直之計】 うちょくのけい|今日の四字熟語・故事成語|福島みんなのNEWS - 福島ニュース 福島情報 イベント情報 企業・店舗情報 インタビュー記事

迂直すなわち最短路と迂回路は陰陽の関係だ。

風林火山

ルトワック先生がBLOGOSに記事を投稿していたのでここから引用したい。

blogos.com

私は、武田信玄とは完璧な「戦術家」だったと考えている。

風林火山」。言うまでもなく武田信玄の軍事的スローガンとして知られる言葉だ。そのルーツは孫子の兵法にあり、「疾きこと風の如し、徐かなること林の如し、侵掠すること火の如し、動かざること山の如し」を意味しているとされている。

ここで語られているのは、奇襲の原理である。「疾きこと風の如し」とは、つまり素早く動くことで敵にサプライズを与えよ、ということである。奇襲の目的は、一時的に敵の反応を奪うことにある。それが一秒であることもあるし、一年間に及ぶこともあるだろうが、敵にある一定期間、反応させなくすることが狙われている。それがなぜ有効な戦術なのかといえば、敵の反応を奪うことで、パラドキシカル・ロジックの発動を抑えることができるからだ。

出典:戦略家家康が駆使した「同盟の論理」 - エドワード・ルトワック (戦略国際問題研究所上級顧問) (1/2)

  • 「パラドキシカル・ロジックの発動」=リアクション

戦略・戦術を成功させたいのなら敵にリアクションを考える時間を与えないことだ。この時、ただ素早く行動するのではなく「サプライズ」を与えることが肝要だ。サプライズを与えることで敵の頭脳を一時的にでも混乱させ考える時間を遅らせることができる。

「勝利が敗北につながり、敗北が勝利につながる」

上の一節は『戦争に~』のp131の見出しだが、第6章の冒頭に以下の一節がある。

すべての軍事行動には、そこを超えると失敗する「限界点(culminating point)」がある。いかなる勝利も、過剰拡大によって敗北につながるのだ。

出典:戦争にチャンスを与えよ/p125

これはおそらく『孫子』作戦篇の「巧遅拙速」に関係する。

いざ出陣となっても
対陣中の敵に勝つまで長期持久戦をすると ・・・・ 軍を疲労させて鋭気を挫(くじ)く結果になり 
敵の城を囲んで攻めるとなれば ・・・・・・・・・・戦力を消耗し尽くしてしまい
軍を国外に、いつまでも張りつけておけば ・・・・・国家経済は窮乏します。

もし、このような戦い方をして軍が疲労して鋭気が挫かれたり、 戦力が消耗しきったり、 財貨を使い果たしたりすると、それまで中立だった諸侯も、その疲弊につけ込んで兵をあげることになるでしょう。いったんつけ込まれてしまえば、いかに知謀の人でも、善後策を立てることはできません。

だから戦争には、少々まずくとも素早く切り上げるという、拙速はあっても、うまくて長引くという、巧遅はない。そもそも戦争が長期化して国家の利益になったためしはない。

出典:No. 153 【巧遅拙速】 こうちせっそく|今日の四字熟語・故事成語|福島みんなのNEWS - 福島ニュース 福島情報 イベント情報 企業・店舗情報 インタビュー記事

さて、『戦争に~』では、勝利が敗北につながる事例としてナポレオンのロシア侵攻を紹介している。冬将軍に遭遇して逃げ帰った話だ。

敗北が勝利につながる話は奥山氏のブログで紹介されているチャーチルの話がある。これはリンク先参照。

geopoli.exblog.jp

孫子』とつながらない事柄

私が『孫子』とのつながりを見つけられなかっただけかもしれないが、いちおう、つながっていないということで。

同盟

いかに戦術的勝利を重ねようとも、その勝利を完全に相殺してしまう、より高次の階層の論理が存在する。それは「同盟」などを含む大戦略のレベルだ。[中略]

そもそも国の運命を左右するような大戦略レベルにおいて重要なのは、まず人口と経済力、そして国民の団結力である。いくら人口や経済力など国家の規模が大きくても、それを力につなげる団結力、言い換えれば「士気」が伴わなければ、何の意味もなさない。

その次に重要なのが外交である。その国が他の国々とどういう関係を持っているか。これは実は、大戦略レベルでは、軍事面での活動以上に決定的な要因となる。この「同盟」こそ、戦略のパラドックスを克服する、より高度なやり方なのだ。同盟によって、敵対的な他者を減らし、消滅させるのだ。つまり、適切な同盟相手を選び、戦術レベルでの敗北に耐え続ければ、百回戦闘に敗れても、戦争に勝つことが出来るのである。

出典:戦略家家康が駆使した「同盟の論理」 - エドワード・ルトワック (戦略国際問題研究所上級顧問) (1/2)

戦略といえば軍人の担当範囲と思う人もいるかも知れないが、国家間の戦争になると最終的な決定権は(軍人ではなく)政治が持っていなければならない。ルトワック先生は以下のように言っている。

「戦略」の観点で言えば、外務省が権力を保持していることは、極めて重要だ。そうでないと、「戦略」のレベルで、すべてが覆ってしまうからである。

出典:戦争にチャンスを与えよ/p143

  • 大戦略や戦術については以前 *2 に書いた。

ただし、ルトワック先生は「同盟という大戦略は、しばしば不快で、残酷でもあり、疲労を強いられるものだ」 *3 と言っている。

ここで重要になってくるのがディシプリンだ。

ディシプリン」(Discipline)

『戦争にチャンスを与えよ』では、「ディシプリン」は「規律」とか「忍耐力」と訳されている。

ルトワック先生は作戦レベルと戦略レベルの2つのディシプリンを言っている。

まずは作戦レベルから。

信長は高価な武器である火縄銃を、農民に持たせた。ここで必要なのは強い「規律」である。そもそも足軽たちに火縄銃の操作法を教え、一斉に攻撃が行えるように訓練しなければならない。しかも襲い来る騎馬軍団の恐怖に耐え、脱走しないようにしっかりと隊列を組ませるのである。そこには忍耐力と不屈の精神が必要となる。信長の真の卓越性は、このハイレベルの「規律」を必要とする作戦を計画し、実行したことなのだ。

出典:戦略家家康が駆使した「同盟の論理」

この「規律」は容易に理解できる。

次に戦略レベルの話。

しかし、繰り返しになるが、「作戦」よりも「同盟」の方が、戦略としては上位に位置する。

ここでも参考となるのは、徳川家康のケースだ。彼のような人物でさえ、城を明け渡したり、戦闘で負けたり、裏切者が出たり、と非英雄的なことをも堪え忍ぶ必要があった。ところが、その「規律(ディシプリン)」こそ、戦略に必要なのだ。

彼は、自らの領地を守り抜くために、織田信長との「同盟」を選んだ。1562年の清洲同盟である。しかし、これは苦難に満ちた選択でもあった。強大な武田軍に対して、常に最前線で戦わされ、三方ヶ原の戦いでは、壊滅的な敗北も経験している。信長の命令で、自分の妻や長男をも殺害せざるを得なかった。しかし、この「規律」が、「同盟」という戦略を実行する上では必要なことだったのだ。

出典:戦争にチャンスを与えよ/p160-161

こうなると「規律」というより「忍耐力」のほうが訳として合ってくる。

戦略レベルの「ディシプリン」は戦略上の最終目的達成のために、あらゆる苦難を絶えきる「忍耐力」のことを言う。

実は、ルトワック先生は、戦略レベルの「ディシプリン」の最初に話す例はイギリス(19世紀のナポレオン戦争、20世紀の対ドイツ戦争)なのだが、これらについてはここでは書かない(『戦争にチャンスを与えよ』参照)。



*1:『戦争にチャンスを与えよ』/p128

*2:【戦略学】戦略と戦術/戦略の階層 - 歴史の世界を綴る

*3:前掲・戦略家家康が駆使した「同盟の論理」

エジプト第2中間期③ 第17王朝/エジプト統一戦争

今回は第17王朝について。

この王朝がヒクソスを滅ぼし、エジプトを統一する。統一したイアフメス1世は第17王朝の王であったが、エジプトを統一したということで新しい王朝、第18王朝の初代に分類されている(イアフメスの先代王カーメスが第17王朝の最後の王とされる)。

第17王朝

前回に引用したものを再び引用する。

ヒクソスが第15王朝を樹立したことにより、第13王朝のファラオの末裔であるエジプト人の有力者たちはテーベに退くことになった。その支配者たちが第16・17王朝にあたる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p132

当時の記録が断片的なものしか無いため第13王朝と第16・17王朝が具体的にどのように繋がっているのかは分からないが、とにかく16・17王朝は中王朝時代(第13王朝)のエジプトの伝統を継承したエジプト人による王朝ということだ(第16王朝については前回の記事参照)。

第17王朝の全体的な事柄についても、第2中間期の他の王朝と同じく、史料が少なく詳細なことは分かっていない。

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出典:エジプト第15王朝 - Wikipedia (一部改変)

  • 下部の焦げ茶色はクシュ王国(ヌビア)。

上は第15王朝と第16王朝とアドビス王朝の地図だが、第17王朝は第16王朝の後継王朝で、両者は第15王朝に臣従していたとされる。領域の変化については分からないが、それほど変わる余地は無い。

エジプト統一戦争

臣従から戦争へ

第17王朝は、おそらくは第15王朝に臣従していたというのが大方の見方だ。このことについては以下の物語から推測されている。

第19王朝時代に成立した『アポフィスとセケンエンラーの争い』という説話によれば、第15王朝のアペピ(アポフィス)王は「テーベの神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すように」という殆ど言いがかりのような要請を送っている。対してセケンエンラー(タア)は使者を親しく迎え入れ、アペピへの二心無きことを誓ったという。これが完全な史実とは考え難いが、タアもまた即位した当初は先代の王たちの方針を受け継いで、親ヒクソスの姿勢を維持していたと考えられる。

出典:セケンエンラー - Wikipedia

これがセケンエンラーの時代に戦争へと変わった転機については"あるミイラ"から推測されている。

上のリンク先でかなり詳しく書いてあるが、2021年にある発表があった。

考古学者のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)元考古相とカイロ大学(Cairo University)のサハル・サリム(Sahar Salim)教授(放射線学)は、セケンエンラー2世は戦場で捕虜となり、その後「処刑式」で殺害されたと結論づけた。

出典:3600年前のファラオの死因、先端技術でついに解明 エジプト:AFPBB News

彼のミイラの頭部にはヒクソスの武器(斧や槍)の傷跡があり、手元は変形されているが、その他の身体はほとんど目立った外傷はなかった。このことから上のような結論がなされた。

ミイラの写真はAFPBB Newswikipediaのリンク先にある。

敗北から勝利へ

捕らえられた父王に代わってカーメスが王になり、戦争を継続させた。

カーメスについては彼自身が首都テーベのカルナック神殿に奉納した石碑が遺されている。これによると、現状維持を望んでいたの当時の大臣たちの前でカーメス王は以下のように説いた。

ヴァリスに1首長あり、クシュに他の首長あり。而して余はアジア人・ヌビア人の同盟とこのエジプトに割拠せるすべての輩の渦中に座す。…人皆、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。

出典:エジプト第17王朝 - Wikipedia

カーメスは国をまとめてヒクソスに戦争を仕掛け、快進撃でヒクソスの首都アヴァリスの近郊まで兵を進め、そこで略奪をしたあと退却した。

古代エジプトの石碑は誇張が多いため、そのまま史実であると考えるべきではないとされるが、ともかく、カーメスはヒクソスと戦争を続け、次代のイアフメス1世に繋いだ。

エジプト統一

カーメスの弟、イアフメス1世(アアフメス1世、前1570-1546年)が悲願のエジプト統一を実現するイアフメスはヒクソスをパレスチナまで追いかけて滅ぼす。

彼の時代から新王国時代と第18王朝が始まるのだが、その後の話は別の記事で書く。



エジプト第2中間期② 第15王朝(ヒクソス政権)と第16王朝ほか

第15王朝(ヒクソス政権)の実態はよく分かっていない。その理由はエジプト政権である第17王朝と第18王朝がヒクソス政権の遺物を破壊してしまったからだ。

第15王朝

第15王朝の誕生については前回書いた。

支配について

第15王朝は前1650年頃にナイルデルタの東部アヴァリスを首都として成立した王朝だ。

ピーター・クレイトン氏によれば *1、 ナイルデルタの南方にあるメンフィスを陥落させたのは前1720年ごろだ。

ただし、馬場匡浩氏によれば *2、 メンフィスの一角であるコム・ラビア遺跡の発掘で、第2中間期の層は中王国時代から連続的で、レヴァント系の遺物が皆無に近いということだ。つまり、第15王朝が直接支配した証拠がきわめて乏しいということ。

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出典:エジプト第15王朝 - Wikipedia (一部改変)

  • 下部の焦げ茶色はクシュ王国(ヌビア)。

第15王朝はエジプト全土を直接支配したわけではなく、同時代に第16王朝、第17王朝などが存在したが、これらの王朝は第15王朝に臣従していた。

交易・外交

第15王朝の主な交易相手はレヴァント(シリア・パレスチナ)とキプロスだった。第17王朝の最後の王カーメス *3 の石碑によれば、ヒクソスは「チャリオット、馬、船、木材、金、ラピスラズリ、銀、トルコ石、青銅、斧、油、香、脂肪、蜂蜜」を輸入していた。輸出品は(アペピ王の治世の話だが)エジプト南部からの略奪品(特に彫刻)だった *4。略奪品の他に朝貢品もあったかもしれない。

パレスチナ(の一部?)は第15王朝の直轄地であったため、交易以外に文化もエジプトに流入した。

またエジプト外に、第15王朝の王の遺物(スカラベ印章など)が多く発掘されている。レヴァント以外ではアナトリアヒッタイトの首都であるハットゥシャやクシュ王国(ヌビア)のケルマ、クレタ島(ミノア文明、東地中海)など。

エジプトは、ヌビアと交易・外交を古くから行ない、中王国時代からはレヴァントとの交易が盛んになったが、第15王朝になると地域も量も拡大し、文化面でも交流が盛んになった。大城道則氏はこの時代が《国際的エジプト王国の始まり》としている。ナイルデルタが東地中海で最も情報が集まる場所だった *5

第16王朝について

第16王朝は歴史的な価値が低いらしく、古代エジプトの参考文献にほとんど言及されていない。さらには、第16王朝がどういう性質なのかも研究者によって意見が別れている。

このことは「エジプト第16王朝 - Wikipedia」によって書かれている。

これによると、旧来の定説は《第16王朝は第15王朝に従属する諸侯を纏めたもの》とするもので、ヒクソスの王朝だと考えられていた。

しかし近年に異論が出た。

考古学者のKim Ryholtは近年の研究で、第16王朝がヒクソスによる王朝ではなく、第17王朝以前にテーベを本拠地としたエジプト人による王朝であったという新しい見解を発表している。研究では、第17王朝初期から中期までの王たちと末期の王たちは異なる家系に属しているとして、従来第17王朝と呼ばれてきたテーベ王朝の前半の約70年間を第16王朝、後半の約30年間を第17王朝とする新しい説を唱えている。また、最初の王家が断絶したのは、第15王朝を中心とするヒクソスの勢力によってテーベが一時的に征服されたためであるとしている。しかし、比較的新しいこの説は裏付けとなる証拠に乏しく、反対する研究者も多い。

出典:エジプト第16王朝 - Wikipedia

馬場匡浩氏は第16王朝についてわずかに触れている。

ヒクソスが第15王朝を樹立したことにより、第13王朝のファラオの末裔であるエジプト人の有力者たちはテーベに退くことになった。その支配者たちが第16・17王朝にあたる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p132

このブログでは、この説を採用する。

アビドス王朝について

上の地図で「Abydos Dynasty?」というエリアがあるが、これは存在の有無自体が議論になっている。歴史的な重要性が低いため、ここでは触れないことにする。



*1:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p121

*2:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/p132

*3:在位:前1573-1570年

*4:Fifteenth Dynasty of Egypt - Wikipedia

*5:大城道則/古代エジプト文明/選書メチエ/2012/p76

エジプト第2中間期① ヒクソス政権(第15王朝)の誕生

エジプト第2中間期についてはwikipediaのように第13王朝から始まる説もあるのだが、このブログではヒクソス政権が始まる第15王朝から始まる説を採用する。

この時代の中心はヒクソスというシリア・パレスチナ(レヴァント)から来た民族だが、エジプト人政権の第17王朝がヒクソスをエジプトから追い出してエジプトを統一する時にこの時代は終わる。

なお、エジプト第2中間期より前の時代については以下のカテゴリーで書いている。

第15王朝以前の状況

第15王朝が成立する前は、第13王朝(前1782-1650年頃)と第14王朝(前1725-1650年頃)が並立していた。

この時代のことは以前に書いたが *1、 少しおさらいする。

第13王朝は王の短期間の交代が目立つものの、完成された官僚機構によって全エジプトがよく治められていた。ただこの政権の中盤に差し掛かると弱体化し、下エジプトの支配ができなくなり、レヴァント系の第14王朝が成立した。

上の2つの王朝の終焉に関しては確証できる史料は遺っていない。これらの終焉の直前にヒクソスの第15王朝が成立する(前1663-1555年頃)。

ヒクソスは下エジプト(ナイルデルタ)の東部アバリスに首都を置き、勢力を広げていった。

ヴァリス(テル・エル・ダバア遺跡)の発掘

出典:Avaris-Wikipedia

ヴァリスの遺跡はテル・エル・ダバア遺跡と呼ばれ1970年代にM・ビータック氏率いるオーストリア隊により発掘された。

以下は馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ』 *2 による。

この地は第12王朝の始祖であるアメンヘムハト1世の治世に始まる。建設当時の目的はレヴァント方面の防衛強化と東地中海の交易、シナイ半島の採鉱の拠点だった。

ところが第12王朝末の層からはレヴァント系の建築が多く出土する。研究者の解釈は傭兵となったレヴァント系の人々の住居だということだ。

第13王朝になると、レバントの人々の流入が更に増えて行政や軍の高官が出てくる。まるで西ローマ皇帝の滅亡の直前を見ているようだ。

第13王朝の権力が下エジプトまで届かなくなった後のアヴァリスの詳細は分からないが、最終的にはヒクソスが実権を握ってこの地アヴァリスを首都とした。

ヒクソスの旧来のイメージと現実の違い

上述の通り、ヒクソスはレヴァント系の人々の一部だった。馬場氏よれば、第15王朝の直前にダバア遺跡の一層の広がりが見られる。この解釈はレヴァントからの新しい移住者にあるとのこと(上掲書/p131)。

新しい移住者が入ってくる要因として次のことが挙げられる。

ネヘシの治世と考えられる1705年頃以降、デルタ地域が長期の飢饉と疫病に見舞われた痕跡が発見されている。これらの災厄は第13王朝にも打撃を与えた可能性があり、王権が弱体化し、多数の王が短期間で交代する第2中間期の政治情勢の一因となり、ひいては第15王朝の急激な台頭を招いた可能性がある。

出典:エジプト第14王朝 - Wikipedia

古代エジプト史では環境が政治を動かす強い要因として何度も出てくる。

さて、古代エジプト史における重要史料である『エジプト史』にはヒクソスは以下のように描写されている(以前はこれが史実だと思われていた)。

古代エジプトの伝統的な歴史認識において、ヒクソスは野蛮な侵略者と見なされていた。プトレマイオス朝時代に『アイギュプティカ(エジプト史)』を著したマネトの記録では、ヒクソス(第15王朝)による支配をエジプトを襲った災厄、異民族支配として描いている。

「トゥティマイオスの代に、原因は不明であるが、疾風の神がわれわれを打ちのめした。そして、不意に東方から、正体不明の闖入者が威風堂々とわが国土に進行して来た。彼らは、圧倒的な勢力を以て、それを簒奪し、国土の首長たちを征服し、町々を無残に焼き払い、神々の神殿を大地に倒壊した。また、同胞に対する扱いは、ことごとく残忍をきわめ、殺されたり、妻子を奴隷にされたりした。最後に彼等は、サリティスという名の王を1人、指名した。彼は、メンフィスに拠って上下エジプトに貢納を課し、最重要地点には守備隊を常駐させた。」

マネト『エジプト史(AIGUPTIAKA)』より

出典:ヒクソス - Wikipedia

マネトはプトレマイオス朝時代の人物だが、ヒクソス政権と同時代の第17王朝やヒクソスを追放した第18王朝もヒクソスを異民族として恐怖の対象として敵視し、または蔑視していた。

ヒクソスによる支配からエジプトを「解放」したテーベ(古代エジプト語:ネウト 現在のルクソール)政権(第17、第18王朝)が残した記録にはヒクソス支配をして「アジア人の恐怖」と呼ぶものもある。

「(中略)「人みな、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。」かくて、最高会議に侍る高官たちの応えて曰く、「照覧あれ、アジア人の恐怖はクサエにまで(及ぶ)」と。彼ら、一様に(=異口同音に)応えて、その舌ひきつりぬ。(後略)

カーメス王第3年の日付をもつテキストより

出典:同上

このような歴史観は、考古学における発見によって上述のように変更されてきた。現在では、ヒクソス政権は下エジプトに長く住み着いていたレバント系の君侯が王になったという解釈が支持されているようだ。

ただ、ヒクソス政権の数十年前にレヴァントから大量の移住者が入ってきている点は、個人的に引っかかるところではある。

ヒクソスと馬車の関係

『エジプト史』などによる歴史観によって、ヒクソスはエジプトになかった武器すなわち戦車や複合弓などを使用してエジプトに侵略・征服したという歴史が長く信じられてきた。この歴史観によれば、ヒクソス政権と同時代のエジプト人政権(第17王朝)はヒクソスの「新技術」を習得してそれらを使ってヒクソスを滅ぼした、としている。

しかしこの歴史観は後世の第18王朝が使用した「新技術」を「ヒクソスがエジプトに輸入したに違いない」という推測でしかなく、たとえば上述の『古代エジプトを学ぶ』ではテル・エル・ダバア遺跡でヒクソスの「新技術」の使用の証拠について触れていない。

また、馬車についてはその技術を含めミタンニが開発したというのが一般的だが、ミタンニは前16世紀に成立した国家だ。だから「新技術」がエジプトに輸入されたのはヒクソス政権が成立したずっと後のことになる。

ヒクソスを含むパレスチナ由来の人々(世界史用語でアジア人とされることがある)は「新技術」が無くても元々武力に長けていて、さらに疫病や干ばつで混乱している状況の中で、ヒクソスが実権を握ったというのが妥当な推測になるだろう。



「アフリカ_エジプト文明②」シリーズを書く

エジプト文明については以前にも書いている。

rekishinosekai.hatenablog.com

↑のカテゴリーでは、エジプトの先史からエジプト中王国時代まで書いた。

今回から新しいカテゴリー「アフリカ_エジプト文明②」を設けて、エジプト中王国時代の後のエジプト第2中間期(ヒクソス政権など)から書いていく。

古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ)

古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ)

  • 作者:大城 道則
  • 発売日: 2012/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「中東_メソポタミア文明②」と並行して書く。

「中東_メソポタミア文明②」と並行して書こうと思っている。この2つのカテゴリーは古代エジプトメソポタミアの文明圏がシリア・パレスチナを覆うように重なってオリエント世界を形成するので、両者を同時に見ていかなくてはならないからだ。

さらには、エジプトはこの頃は、オリエント世界で最も重要な国、いわゆる覇権国なので、エジプトの事情を知らないとオリエント世界を語れないという事情もある。

「オリエント世界」というカテゴリーを作ろうとも思ったが、今のところ別個に書いていこうと思っている(今後変更するかもしれない)。

このカテゴリーで書くこと

ここで書くことは、エジプト第2中間期から(ヒクソス政権の第15王朝から)。第18王朝から始まるエジプト新王国時代も書くが、その後を書くかどうかは決めていない。

ヒクソスとはシリア・パレスチナから南下した人々の一部で、セム系と言われている。

第18王朝を築いたエジプト人で、ヒクソスをエジプトから追い出して、さらにパレスチナまで追いかけて滅ぼした。彼らはヒクソスに統治されたことを屈辱だと思っていたらしく(ナイル川下流だけだが)、ヒクソスの建造物その他をことごとく破壊して回った。そのため、ヒクソス政権の詳しい事情は他の王朝に比べるとかなり少ないらしい。