前々回からの続き。
ハトシェプスト(女王)
トトメス2世は庶出の子であるトトメス3世を後継者と指名したが、トトメス2世の正妃であるハトシェプストが2世の死後に実権を握り女王となった(前1490年頃-1468年頃)。
前々回やその前に書いたとおり、第18王朝の正妃の権力は王に引け劣らないほどだったが、それでもハトシェプストは王になる決断をした。一方、王は男性の職務であるわけで、彼女は称号や礼装を男王のそれを採用し、歴史の改ざんも行なった。ハトシェプストは2世から共治王として指名されたと主張し、戴冠式を敢行、その後22年間ものあいだ実権を握り続けた。 *1
ハトシェプストは女性であるためか遠征を好まなかった。アジアへの遠征は行わず、南方とクレタ島の貿易を盛んに行なった。
彼女の交易の特徴としてプントとの交易がある。プントの正確な場所は特定されていないが東アフリカの海岸あたりにある地域だという。青銅製品や装身具などをもたせて遠征隊を派遣して、遠征隊は香料や黒檀の他、アフリカ各地から運ばれてきた金、象牙、毛皮などを持ち帰ったという。 *2
ハトシェプストの治世は彼女の即位自体のハプニングを除けば、平和で充実した時代であった。
トトメス3世
ハトシェプストの死去あるいは退位によってトトメス3世(前1490年頃-1436年頃)がようやく実権を握ることができた。
単独王になったトトメス3世は初年にしてアジア(シリア・パレスチナ)遠征を行なった。
エジプト支配下にあったパレスチナ諸国は、ハトシェプストの治世のあいだに その存在感が希薄になったことと、さらにはシリアのミタンニがその影響力をパレスチナに広げてきたため、エジプト側としては対処しなければならない時期を迎えていた。
トトメスのアジア遠征については以下の記事で書いた。
ここでは、上の記事にある「植民地政策」について。
王は、忠誠を誓った都市国家の君侯に対して、監督官と守備隊の駐屯を認め、貢納と軍役提供の義務を果たすのとひきかえに地位をそのまま承認し、大幅な自治を許した。
王は軍を返す際に、こららの君侯の長子を人質としてエジプトに連れて行き、テーベのエジプト式の教育を施すこととした。彼らは父が死亡すると、帰国して次の支配者となった。こうしてエジプト王に忠実な臣侯が確保され供与される体制がつくられた。
出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p523-524(尾形禎亮氏の執筆部分)
近代で欧米が行なったことが既にこの時代に行われていた。