歴史の世界

エジプト第2中間期① ヒクソス政権(第15王朝)の誕生

エジプト第2中間期についてはwikipediaのように第13王朝から始まる説もあるのだが、このブログではヒクソス政権が始まる第15王朝から始まる説を採用する。

この時代の中心はヒクソスというシリア・パレスチナ(レヴァント)から来た民族だが、エジプト人政権の第17王朝がヒクソスをエジプトから追い出してエジプトを統一する時にこの時代は終わる。

なお、エジプト第2中間期より前の時代については以下のカテゴリーで書いている。

第15王朝以前の状況

第15王朝が成立する前は、第13王朝(前1782-1650年頃)と第14王朝(前1725-1650年頃)が並立していた。

この時代のことは以前に書いたが *1、 少しおさらいする。

第13王朝は王の短期間の交代が目立つものの、完成された官僚機構によって全エジプトがよく治められていた。ただこの政権の中盤に差し掛かると弱体化し、下エジプトの支配ができなくなり、レヴァント系の第14王朝が成立した。

上の2つの王朝の終焉に関しては確証できる史料は遺っていない。これらの終焉の直前にヒクソスの第15王朝が成立する(前1663-1555年頃)。

ヒクソスは下エジプト(ナイルデルタ)の東部アバリスに首都を置き、勢力を広げていった。

ヴァリス(テル・エル・ダバア遺跡)の発掘

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出典:Avaris-Wikipedia

ヴァリスの遺跡はテル・エル・ダバア遺跡と呼ばれ1970年代にM・ビータック氏率いるオーストリア隊により発掘された。

以下は馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ』 *2 による。

この地は第12王朝の始祖であるアメンヘムハト1世の治世に始まる。建設当時の目的はレヴァント方面の防衛強化と東地中海の交易、シナイ半島の採鉱の拠点だった。

ところが第12王朝末の層からはレヴァント系の建築が多く出土する。研究者の解釈は傭兵となったレヴァント系の人々の住居だということだ。

第13王朝になると、レバントの人々の流入が更に増えて行政や軍の高官が出てくる。まるで西ローマ皇帝の滅亡の直前を見ているようだ。

第13王朝の権力が下エジプトまで届かなくなった後のアヴァリスの詳細は分からないが、最終的にはヒクソスが実権を握ってこの地アヴァリスを首都とした。

ヒクソスの旧来のイメージと現実の違い

上述の通り、ヒクソスはレヴァント系の人々の一部だった。馬場氏よれば、第15王朝の直前にダバア遺跡の一層の広がりが見られる。この解釈はレヴァントからの新しい移住者にあるとのこと(上掲書/p131)。

新しい移住者が入ってくる要因として次のことが挙げられる。

ネヘシの治世と考えられる1705年頃以降、デルタ地域が長期の飢饉と疫病に見舞われた痕跡が発見されている。これらの災厄は第13王朝にも打撃を与えた可能性があり、王権が弱体化し、多数の王が短期間で交代する第2中間期の政治情勢の一因となり、ひいては第15王朝の急激な台頭を招いた可能性がある。

出典:エジプト第14王朝 - Wikipedia

古代エジプト史では環境が政治を動かす強い要因として何度も出てくる。

さて、古代エジプト史における重要史料である『エジプト史』にはヒクソスは以下のように描写されている(以前はこれが史実だと思われていた)。

古代エジプトの伝統的な歴史認識において、ヒクソスは野蛮な侵略者と見なされていた。プトレマイオス朝時代に『アイギュプティカ(エジプト史)』を著したマネトの記録では、ヒクソス(第15王朝)による支配をエジプトを襲った災厄、異民族支配として描いている。

「トゥティマイオスの代に、原因は不明であるが、疾風の神がわれわれを打ちのめした。そして、不意に東方から、正体不明の闖入者が威風堂々とわが国土に進行して来た。彼らは、圧倒的な勢力を以て、それを簒奪し、国土の首長たちを征服し、町々を無残に焼き払い、神々の神殿を大地に倒壊した。また、同胞に対する扱いは、ことごとく残忍をきわめ、殺されたり、妻子を奴隷にされたりした。最後に彼等は、サリティスという名の王を1人、指名した。彼は、メンフィスに拠って上下エジプトに貢納を課し、最重要地点には守備隊を常駐させた。」

マネト『エジプト史(AIGUPTIAKA)』より

出典:ヒクソス - Wikipedia

マネトはプトレマイオス朝時代の人物だが、ヒクソス政権と同時代の第17王朝やヒクソスを追放した第18王朝もヒクソスを異民族として恐怖の対象として敵視し、または蔑視していた。

ヒクソスによる支配からエジプトを「解放」したテーベ(古代エジプト語:ネウト 現在のルクソール)政権(第17、第18王朝)が残した記録にはヒクソス支配をして「アジア人の恐怖」と呼ぶものもある。

「(中略)「人みな、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。」かくて、最高会議に侍る高官たちの応えて曰く、「照覧あれ、アジア人の恐怖はクサエにまで(及ぶ)」と。彼ら、一様に(=異口同音に)応えて、その舌ひきつりぬ。(後略)

カーメス王第3年の日付をもつテキストより

出典:同上

このような歴史観は、考古学における発見によって上述のように変更されてきた。現在では、ヒクソス政権は下エジプトに長く住み着いていたレバント系の君侯が王になったという解釈が支持されているようだ。

ただ、ヒクソス政権の数十年前にレヴァントから大量の移住者が入ってきている点は、個人的に引っかかるところではある。

ヒクソスと馬車の関係

『エジプト史』などによる歴史観によって、ヒクソスはエジプトになかった武器すなわち戦車や複合弓などを使用してエジプトに侵略・征服したという歴史が長く信じられてきた。この歴史観によれば、ヒクソス政権と同時代のエジプト人政権(第17王朝)はヒクソスの「新技術」を習得してそれらを使ってヒクソスを滅ぼした、としている。

しかしこの歴史観は後世の第18王朝が使用した「新技術」を「ヒクソスがエジプトに輸入したに違いない」という推測でしかなく、たとえば上述の『古代エジプトを学ぶ』ではテル・エル・ダバア遺跡でヒクソスの「新技術」の使用の証拠について触れていない。

また、馬車についてはその技術を含めミタンニが開発したというのが一般的だが、ミタンニは前16世紀に成立した国家だ。だから「新技術」がエジプトに輸入されたのはヒクソス政権が成立したずっと後のことになる。

ヒクソスを含むパレスチナ由来の人々(世界史用語でアジア人とされることがある)は「新技術」が無くても元々武力に長けていて、さらに疫病や干ばつで混乱している状況の中で、ヒクソスが実験を握ったというのが妥当な推測になるだろう。