第15王朝(ヒクソス政権)の実態はよく分かっていない。その理由はエジプト政権である第17王朝と第18王朝がヒクソス政権の遺物を破壊してしまったからだ。
第15王朝
第15王朝の誕生については前回書いた。
支配について
第15王朝は前1650年頃にナイルデルタの東部アヴァリスを首都として成立した王朝だ。
ピーター・クレイトン氏によれば *1、 ナイルデルタの南方にあるメンフィスを陥落させたのは前1720年ごろだ。
ただし、馬場匡浩氏によれば *2、 メンフィスの一角であるコム・ラビア遺跡の発掘で、第2中間期の層は中王国時代から連続的で、レヴァント系の遺物が皆無に近いということだ。つまり、第15王朝が直接支配した証拠がきわめて乏しいということ。
出典:エジプト第15王朝 - Wikipedia (一部改変)
- 下部の焦げ茶色はクシュ王国(ヌビア)。
第15王朝はエジプト全土を直接支配したわけではなく、同時代に第16王朝、第17王朝などが存在したが、これらの王朝は第15王朝に臣従していた。
交易・外交
第15王朝の主な交易相手はレヴァント(シリア・パレスチナ)とキプロスだった。第17王朝の最後の王カーメス *3 の石碑によれば、ヒクソスは「チャリオット、馬、船、木材、金、ラピスラズリ、銀、トルコ石、青銅、斧、油、香、脂肪、蜂蜜」を輸入していた。輸出品は(アペピ王の治世の話だが)エジプト南部からの略奪品(特に彫刻)だった *4。略奪品の他に朝貢品もあったかもしれない。
パレスチナ(の一部?)は第15王朝の直轄地であったため、交易以外に文化もエジプトに流入した。
またエジプト外に、第15王朝の王の遺物(スカラベ印章など)が多く発掘されている。レヴァント以外ではアナトリアのヒッタイトの首都であるハットゥシャやクシュ王国(ヌビア)のケルマ、クレタ島(ミノア文明、東地中海)など。
エジプトは、ヌビアと交易・外交を古くから行ない、中王国時代からはレヴァントとの交易が盛んになったが、第15王朝になると地域も量も拡大し、文化面でも交流が盛んになった。大城道則氏はこの時代が《国際的エジプト王国の始まり》としている。ナイルデルタが東地中海で最も情報が集まる場所だった *5。
第16王朝について
第16王朝は歴史的な価値が低いらしく、古代エジプトの参考文献にほとんど言及されていない。さらには、第16王朝がどういう性質なのかも研究者によって意見が別れている。
このことは「エジプト第16王朝 - Wikipedia」によって書かれている。
これによると、旧来の定説は《第16王朝は第15王朝に従属する諸侯を纏めたもの》とするもので、ヒクソスの王朝だと考えられていた。
しかし近年に異論が出た。
考古学者のKim Ryholtは近年の研究で、第16王朝がヒクソスによる王朝ではなく、第17王朝以前にテーベを本拠地としたエジプト人による王朝であったという新しい見解を発表している。研究では、第17王朝初期から中期までの王たちと末期の王たちは異なる家系に属しているとして、従来第17王朝と呼ばれてきたテーベ王朝の前半の約70年間を第16王朝、後半の約30年間を第17王朝とする新しい説を唱えている。また、最初の王家が断絶したのは、第15王朝を中心とするヒクソスの勢力によってテーベが一時的に征服されたためであるとしている。しかし、比較的新しいこの説は裏付けとなる証拠に乏しく、反対する研究者も多い。
馬場匡浩氏は第16王朝についてわずかに触れている。
ヒクソスが第15王朝を樹立したことにより、第13王朝のファラオの末裔であるエジプト人の有力者たちはテーベに退くことになった。その支配者たちが第16・17王朝にあたる。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p132
このブログでは、この説を採用する。
アビドス王朝について
上の地図で「Abydos Dynasty?」というエリアがあるが、これは存在の有無自体が議論になっている。歴史的な重要性が低いため、ここでは触れないことにする。