歴史の世界

エジプト第18王朝①

今回から第18王朝のことを書く。

この記事は以下の記事の続き。

初代、イアフメス1世

第18王朝の初代 イアフメス1世(在位:前1570-1546年)は第17王朝の最後の王(ファラオ)カーメス(カメス)の弟だ。イアフメス1世がエジプト統一を果たしたことで新王朝の創始者とされている。

ちなみに、「イアフメス」は「アアフメス」とか「アハモセ」などとも表記される。wikipediaによれば英語だとAhmoseⅠ/Ahmosisと綴られる。

イアフメス1世はエジプト統一という偉業を24年の治世を持ちながら記録があまり遺っていない。彼の治世の軍事については、当時の水軍士官だった「イバナの息子、イアフメス」という名前の人物の墓の伝記(壁に遺っている)にほとんど頼っている。

この人物はケネブ(現在のエル・カブ、アスワンの少し北)の軍人貴族で、エジプト統一戦争の時は北はパレスチナから南はヌビアへの遠征そして反乱の鎮圧など、あらゆる戦闘に参加した。

[イアフメス1世]は、24年の統治の半ばごろ、ヒクソスの戦いを再開し、メンフィス、アヴァリス、その他のヒクソス拠点に一連の攻撃を行なった。イバナの息子イアフメスは、アヴァリスの攻囲、ついで第2次、第3次のアヴァリスの戦い、その最終的な陥落にいたる戦いに参加しただけでなく、パレスチナまでヒクソスを追撃し、シャルヘンの町を包囲した。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p125

イアフメス1世は幼い頃に即位したため、母のイアフヘテプ1世が摂政を務めていたと考えられている *1。戦争を再開した後、数代前からの悲願だったエジプト統一を達成した。

エジプト外の支配について

遠征によって征服した地域をどうしたか。

パレスチナ

後代にはエジプトはパレスチナを統治するようになるが、イアフメス1世はヒクソスの残党を滅ぼすことを優先した。彼の軍隊は将来のことを考えずにヒクソスがいる地域を破壊してまわった。

発掘により、シリアまで攻め込んだことは確実だが、地域支配にまでは関心が無かったか薄かった。

ヌビア

イアフメス1世にとって、パレスチナより、鉱物や動植物が豊富なヌビアの方がはるかに重要だった。歴代のエジプト王朝はヌビアを常に支配し続けた理由はこの地域がエジプトの強さと繁栄の源泉だったからだ。

しかし、エジプト全体の勢力が分断縮小していた第2中間期に、ヌビアのクシュ王国は勢力を拡大し、上エジプトのネケブまで侵攻し、その略奪品を首都のケルマに持ち帰ったという *2

イアフメス1世はクシュ王国を南へ押し返し、ブヘン(現在はナセル湖の水面下)に行政機関を設置した。

内政

上述の「イバナの息子、イアフメス」の伝記によれば、イアフメス1世の治世を通して少なくとも3回の大きな叛乱が起きた。国内が安定したのは次代になってからのようだ。

ただし、尾形禎亮氏によれば、第2中間期の地方の墳墓は第1中間期のそれと比べて貧弱であることから、自立していた地方貴族らの勢力はそれほど強くはなかった。すなわち中王国時代初期と比べれば中央集権国家への回復は容易であった。 *3

全体として行政機構は、中王国を手本としてはいるが、第17王朝の下で準備された軍事国家体制を踏襲して、簡素化が計られ、チェック・アンド・バランスの原則は大幅に後退している。行政の最終決定権は、再び王に直属する宰相の手に握られた。

出典: 世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p514(尾形禎亮氏の執筆部分)

「チェック・アンド・バランスの原則」とは中王国時代の高度な官僚制度の特徴で、《特定の部局や官僚に権力が集中し、独断専行されるのを防ぐため、ひとつの事項を決定するにも、複数の部局が必ず関与する》というシステムのこと。 *4

内政の整備は次代に継承される。

ピラミッド建設

イアフメス1世はピラミッド建設をした最後の王と考えられている。

このピラミッドには王墓がなく、実際の王墓は別に作られた(ただしイアフメス1世の王墓はまだ判明されていない)。「王家の谷 - Wikipedia」に《新王国時代以前の王の墓の多くが盗掘に遭っていた》とあるので、掘り起こされたらかなわないと思ったのかもしれない。

新王国時代はピラミッドに代わって有名な「王家の谷」が王墓となる(王家の谷に関しては別の記事で書く)。

イアフメス1世のピラミッドに関しては以下のブログで簡潔に書かれている。



*1:イアフメス1世 - Wikipedia

*2:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p134-135

*3:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p514(尾形禎亮氏の執筆部分)

*4:上掲書/p493