歴史の世界

秦代⑦:政策(7) 貨幣制度

秦の中華統一後の貨幣事情は基本的には度量衡と同じで戦国秦の制度の全国展開をしようとしていた。

しかし、全国の貨幣を秦の貨幣に変えるためには長い時間を必要とした。

山田勝芳『貨幣の中国古代史』 *1 によれば、本格的に貨幣統一に乗り出したのは二世皇帝が即位した前210年であったが、その年に反乱が起こり、もはやそれが実行不可能になってしまった。

秦が計画していた通貨制度は前漢に踏襲される(前漢の諸制度は武帝より前はほとんど秦代のものを使っている)。

秦が行おうとしていた貨幣制度

戦国時代の秦と他国の貨幣制度については以下の記事で書いた。

戦国秦の制度では、(価値が高い順から)金・布(麻布・あさぬの)・銅銭(半両銭)が国の管理の下で施行されていた。しかし統一後は布の貨幣の流通が無くなって金・銅銭になる。

戦国時代で既に各国は「金・銅銭本位制」とでもいうべき貨幣体系になっていたが、統一秦もこれに倣ったのだろう(他地域で麻布が通貨として受け入れられなかったのかもしれない)。

半両銭について

戦国時代では魏・趙・韓の先進地域では民間が貨幣を鋳造していたが、秦は最初から官製で、統一後も官製を踏襲した。

戦国秦の銅銭・半両銭は、当初は半両=12銖(7.8g)だったが、徐々に重量が減っていった。統一後の重さは4銖(5.2g)、あるいは3銖(2g弱)の半両銭が増加している。山田氏は《これは余剰銅が盗鋳に投入され、それによって半両銭の軽量化が進行したことと関係するであろう》(p75)としている。

ただし、官製の半両銭も軽量化していなければ、軽い盗鋳銭が流通するはずがない。

どうして軽量化したのかといえば、盗鋳以外に以下のような理由が考えられる。

ちなみに前漢代も半両銭が基本貨幣であったが、民間の鋳造が認められ、重さが1銖(0.65g?)まで軽量化してインフレになった(その後改鋳された)。

おまけ:現代日本の通貨発行益

現在、日本で通貨を発行しているのは、紙幣は日銀で硬貨は政府だ。

ここでは硬貨のことは無視して *2 、紙幣(主に万札)の話を念頭に置いて話を進める。

日銀は通貨発行益をどのように説明しているのか?

質問
日本銀行の利益はどのように発生しますか? 通貨発行益とは何ですか?
回答
日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益と呼ばれます。

出典:日本銀行の利益はどのように発生しますか? 通貨発行益とは何ですか? : 日本銀行 Bank of Japan

上の文章はシロウトの私には理解できなかったので、他を調べた。

まず、銀行券が「日本銀行にとっては無利子の負債」とはどういう意味か?

斉藤誠教授によれば「財布に入っている1万円札が日本銀行の借用証書であり、お札の持ち主が日銀に1万円を貸している」ということ。 *3

この日銀券(無利子の負債)で有利子の資産(国債、貸出金等)を交換すると利益が出る。この利益を通貨発行益という。これが日銀の正式の定義だ。

さて、これとは違う定義を主張する人達がいる(そして私はこの人たちを支持する)。その代表として高橋洋一教授の言葉を引用する。

「日銀券を発行すると通貨発行益が発生する。大まかに言えば、1万円の紙幣の発行に15円の製造コストがかかり、その差し引きが通貨発行益になる。だから通貨発行益はほぼ通貨発行額に等しい。」

出典:財政危機 借金1000兆円が消えるって、なぜ? 2016年5月3・10日合併号 - 週刊エコノミスト

この定義(?)は何人かのリフレ派 *4 も同様に使っている。

日銀は借用証書のつもりで日銀券を世に出しているのだが、だいたい、何故、無利子の証書と有利子の証書との交換が成立するのかに疑問を抱かなければならない。

その理由はつまり、日銀券を受け取る側は、日銀券を(借用書ではなく)お金として受け取っているからだ。

だから日銀や法律がどのように定義しても実際は通貨発行益は高橋教授の言ったとおりなのだ。

法律ではなく、経済の話をする時は、

通貨発行益=お札の名目の金額 - お札の製造コスト

と考えるべきなのだ。

この考え方を否定する人が多いが、私は日銀の定義のほうが間違っていると思う。

高橋教授の定義のほうが、歴史的に正しいのであって、日銀は「通貨発行益」の定義は別の言葉を当てるべきなのだ。



*1:朝日選書/2000/p74

*2:紙幣に対して硬貨全体の金額は極小

*3:「紙幣や国債は返済する必要がない」は本当か | 政策 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

*4:国政府の経済政策における積極財政・金融緩和派

秦代⑥:政策(6) 「焚書坑儒」の実像

今回は「焚書坑儒」の実像。

焚書坑儒という言葉を知っている人は多いと思う。学問や思想に対する弾圧の比喩として使われることもある。

この言葉のイメージはだいたい以下のようなものだろう。

中国、秦の始皇帝が行なった思想弾圧。紀元前213年、医薬・卜筮ぼくぜい・農事関係以外の書物を焼きすてさせ、翌年、批判的な言論をなす儒教学者数百人を咸陽で坑あな埋めにして殺したと伝える。

出典:三省堂大辞林/焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)とは - コトバンク

上の記述は『史記』秦始皇本紀を基にして書かれているものだが、誤解がある。まずは、焚書と坑儒に分けて説明する。

焚書

焚書のきっかけを作ったのは淳于越という博士だった。

始皇34年(紀元前213年)、匈奴と南越との戦争の成功を祝う酒宴が開かれた。博士70人が次々と始皇帝の長寿を祝う中で、淳于越は現在の郡県制を批判して封建制の復活するべきだと自論を訴えた。

始皇帝はこれについて臣下に議論させたところ、李斯が反論した。ただし反論だけにとどまらなかった。

今、天下は定まり法令は一所より出て民衆はそれに従っている。ところが学者達は自分たちの学説を根拠にお上の法令や教えを避難している、。学者達は朝廷では心の中で謗るだけだが、巷に出ると人々を扇動して今の政治を誹謗している。このような状況を放置したまま禁じなければ、君主の威勢が衰え反政府的な徒党が生まれる。そこで次のように提案する、史官の扱う秦の記録以外はこれを焼き、博士官が職務上所持するものを除き、民間に所蔵されている『詩経』『書経』・諸子百家の書は全て償却する。『詩経』『書経』について2人以上で議論するものは死刑に処し、古(いにしえ)を以て今を謗る者は一族皆殺しとする。医薬・占い・農業の書物は焼却の対象外とし、法令を学びたい者は官吏を師として学ばせる、と。始皇帝はこれを裁可した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p65(鷹取祐司氏の筆)

李斯は郡県制の主唱者であり、これをまとめ上げた中心人物なので、淳于越の批判に激怒したことは想像できる。ただしそれだけで文書を断交したわけではなかった。

上の引用で「匈奴と南越との戦争の成功を祝う酒宴が開かれた」とあるが、実際は対外戦争の最中であった。つまり戦時下であった。

鶴間和幸氏は、李斯が戦時に国を二分するような事態を恐れて焚書令を断行した、と主張する。

取り締まりの対象になった書物の第一は、史官のもとにあった秦以外の諸国の史書である。当時秦に滅ぼされた国々の記録がまだ残っていた。秦が統一戦争を正義の戦争と意義づければ、六国は秦の侵略戦争と記録していたはずだ。第二の対象は、博士が所蔵しているものは認めるが、それ以外の者が詩、書、諸子百家の書物を伝えていれば、所轄の郡に届け出させて償却した。『詩経』『書経諸子百家は、秦を批判した書物ではないが、過去に理想の政治を見いだし、現実を風刺、批判する道具となる。李斯はそれが体制批判に利用されると考えた。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p82

しかし焚書令は断行されたのだが、徹底されたわけではなかった。

禁書令で実用書以外のすべての書物が焚書となって消滅したわけではないことは、それ以前の書物の多くが現在も知られていることからも判る。儒学者論語など孔子の書物を家の壁の中に塗り込めて隠匿した、という話が多数伝えられているが、そこまでしなくとも、焚書が徹底を欠いていたことは、最近盛んに秦漢時代の墳墓から、木簡・竹簡や帛書(絹に書かれた書物)という形で出土していることからも判る。

出典:世界史の窓/焚書・坑儒 (参考文献は、鶴間和幸『秦の始皇帝―伝説と史実のはざま』)

坑儒

もともと坑儒は上の焚書令とは別の話だ。

坑儒のきっかけを作ったのは盧生という方士(方術士)だ。

方士とは
特殊な技術、方法を身につけた人、の意味。具体的には、古代中国で、不老長生の説を唱えたり、そのための魔術的技法や薬方(やくほう)を使った者をさす。いまの山東省やその周辺の地や海辺に多かったと伝えられる。[以下略]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/方士(ほうし)とは - コトバンク

魔術的技法や薬方(やくほう)を使う技術を方術という。

始皇帝は東方へ巡行した時にたびたび方士に会った。始皇帝が方術に興味を持ったのが、東方巡行の前か後かは分からないが、とにかく始皇帝は莫大な資金を投じて不老不死になる薬を方士たちに探させた。しかし命令された方士たちは二度と戻ってこなかった。有名な徐福もその一人だ。

そんな中で、ひとり始皇帝のもとに戻ってきたのが盧生だ。

[始皇]35(前212)年、盧生は始皇帝に言った「仙薬を得られないのは何かが邪魔しているからです。もしも陛下が誰にも居所を知られないようにすればきっと仙薬も手に入るでしょう」と。始皇帝はそこで自分の所在を漏らした者を死刑にすると決めたが、早速、始皇帝の発言を漏らした者がいた。そこで始皇帝が詰問したところ誰も認めなかったので、怒った始皇帝はその時居合わせた者全員を殺した。これを知った盧生は恐ろしくなり始皇帝を中傷する言葉を残して逃亡してしまった。信頼する盧生に裏切られたと知って激怒した始皇帝が、咸陽の諸生[学者]の中に民衆を惑わす者がいるとして諸生を尋問させたところ、他人に罪をなすりつけ自分だけ逃れようとする者ばかりであった。始皇帝はそのような諸生460人余を咸陽に生き埋めにして後世の見せしめにした。

出典:鷹取氏/p66

坑儒の坑は穴に埋める処刑方法のこと、儒は儒者のこと。

しかし始皇帝が生き埋めにした「諸生」は学者の意味であり、儒者の意味ではない。諸生の中に儒者がいたかもしれないが、彼らはとばっちりを受けたに過ぎない。

鶴間氏によれば、生き埋めになった者たちを儒者と解釈しだしたのは後漢になってからということだ*1

さて、落合淳思『古代中国の虚像と実像』*2では、坑儒の話はすべて作り話の可能性が高いと主張する。

さらには、徐福の話も創作の可能性が高い、始皇帝が不老不死を目指していること自体もあやしい、その証拠として将来の自分の墓である皇帝陵を建設しているではないか、と。

たしかに、不老不死の追求と秦始皇帝陵の建設は思想・宗教の面から考えて全く違うものであり、秦始皇帝陵が現実に存在している現在、始皇帝が本当に不老不死を目指していたのか疑って当然だろう。

落合氏以外の研究者がこの相容れない宗教観をどのように説明するのか興味がある。



*1:鶴間氏/p82

*2:講談社現代新書/2009/p147-152

秦代⑤:政策(5) 度量衡・車軌・文字の統一

前回からの続き。

度量衡・軌道・文字の統一の意義

これらの統一は中央集権化の一環である。

戦国時代では各国で国政改革により中央集権化が進められたが、これを中国全土で展開したのが始皇帝だ。

戦国の国政改革の代表は秦の「商鞅の変法」だが、戦国秦はこの変法を継承し続けた。そして始皇帝がやったことは基本的にこれのバージョンアップ版だ。

たとえば、商鞅が作らせた方形の升(マス)(容量 約200mm)が現存しているのだが、始皇帝はこれを標準器としてマスを作らせた(または配布した)。規格通りに作らなかった工人や管理できなかった官吏を罰する規定も設けられている。

規格統一によって役人たちの裁量権を減らすことが出来る。つまり裁量権既得権益)を減らすことは中央集権化には必須のことだ。

度量衡とは?

長さ(=度)と容積(=量)と重さ(=衡)。それを測る、ものさし・ます・はかり。

出典:度量衡 - Google 検索

度量衡は、穀物の計量と武器がもっとも厳格であるが、土木工事の測量、身長の測定(6尺という身長で大人と子どもを区別、子どもには法的能力がない)、傷害罪の傷口の測定(人の顔を噛み切った場合、傷の大きさ1寸四方、深さ半寸が基準になる)など、多面にわたる。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p60

車軌

車軌とは両輪の間の幅のことだが、これを統一することは、道路にできる轍(わだち)を同一にするためだ。当時の道路は もちろん舗装されていなかったので、轍が残ることになる。

戦国時代は、他国から侵入してきた戦車その他の行軍を遅らせるために、わざと異なる車軌にしたという。

始皇帝は車軌を統一し、さらに首都咸陽に繋がる交通網を全国に張り巡らせ、整備を各地の役人に管理させた。「すべての道は咸陽に通じる」だ。

文字の統一

中央政府から地方への意思伝達をするために統一された文字が必要だった。

文字の統一であって、言語の統一ではない(現代中国でも国内に幾つもの言語が存在する)。文字は当時の末端の一般庶民にはほとんど縁のないもので、為政者層と役人が理解できればそれで良かった。役人もある程度 定式化された文書を読み書きできさえすればよかった。

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出典:【6月12日配信】皇帝たちの中国 第2回「皇帝は中国最大の資本家」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

統一された書体を「小篆(しょうてん)」といい、西周代に作られた「大篆」を李斯らが簡略化して作った書体と言われている。

ただし、末端の役人が用いた書体は小篆をさらに簡略化した「隷書(れいしょ)」という書体だった。 *1

小篆は皇帝の命によって制定された国家の標準書体だから,皇帝の詔勅のような正式な文書に使われたが,小篆はもともと曲線が多く,書くのに時間がかかり,行政の現場ではかなり,不便な書体であった。そこで,小篆の字形の構造を簡単にし,曲線を直線にあらためて,より早く書けるように工夫した書体が隷書である。始皇帝の時代は,正式な文書には小篆が使われ,行政文書など普通に文字を書く時には隷書が使われるという状況であった。やがて次の漢になると隷書がますます普遍的に使われ,一方,小篆の方はほとんど使われなくなった。

出典:漢字 ― 古文・小篆/世界の文字

実際の業務に携わるのは、地元採用の官吏であり、かれらが秦の出身者であるか否かは採用の条件ではない。できるだけ多くの他国の人々を秦の地方行政の末端に取り込んでいくことが、秦という帝国の存立の基盤となる。劉邦は秦の出身ではないが、秦の亭長(村のち庵をつかさどる長)となっている。当然秦の文字を読み書きできたはずだ。劉邦に従った曹参は獄掾(ごくえん)、任敖(じんごう)は獄史[ともに刑務所の属吏]……であり、当然秦の文字で書かれた法律を理解し、秦の文字で文書を書くことができたはずだ。

出典:鶴間氏/p62




youtube動画《【6月12日配信】皇帝たちの中国 第2回「皇帝は中国最大の資本家」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube》は始皇帝の統一事業について宮脇淳子氏が説明している。とてもわかりやすい。

聞き手の田沼さんが封建制から郡県制への変化を廃藩置県に似ていると表現したのは面白い。


秦代④:政策(4)黔首/安全保障政策/始皇帝陵と兵馬俑坑

また前回の続き。

民(庶人)の呼称を「黔首(けんしゅ)」とする

「黔」は黒、「首」は頭の意。だから「黔首」は黒い頭を意味する。「黒い頭」とは「無冠の人」のことで、つまりは民あるいは庶人の身分を表現している。

官吏は冠か何らかの かぶりものを かぶっている。官吏は貴族しかなれない。

刀狩り

旧六国の兵器を都咸陽に回収し、溶解して編鐘のつり台座とそれを支える金人12体を作り、宮中に置く(刀狩りと金人十二体)。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p248

安全保障政策の一つ。

編鐘とは古代中国の打楽器のこと。複数の異なる音色を出す鐘が吊り下げられている。権力の象徴でもあった。

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中国の古楽器演奏で使われる編鐘。

「編鐘」に関するyoutube動画を幾つか見たら、クリスマスのハンドベル演奏を思い出した。

六国の首都の城郭の破壊

六国の首都の城郭を破壊し、六国の国境にあった長城も取り除かれた。また、六国の宮殿は破壊され、新たに咸陽周辺に再建された。もとの後宮にいた女官や楽器は没収されて秦の宮殿を満たしたという。(人間・始皇帝/p249)

六国の王は捕虜にされた。郡県制を決定する前は、彼らを臣従させて王に復位させることも考えていたようだ。

捕虜になった元・王たちは再建された宮殿に入ったわけではなく、ほうぼうへ遷されて余生を暮らした。(同/p91-92)

富豪の強制移住/上林苑・阿房宮始皇帝陵/咸陽城の拡張

全土から富豪12万戸を咸陽に強制移住した。富の独占という目的の他に、未来の反乱軍の資金源を予め無くすという安全保障上の目的もある。(同/p249)

上林苑とは馬彪氏によれば *1、 「上」は皇帝を指し、「林苑」は「禁苑」は皇帝の庭を指す。結局、上林苑は皇帝の庭のことだ。

『人間・始皇帝』(p249)には上林苑は《全国の動植物を集めた御苑》と説明されているが、上述の馬彪氏によれば、動植物園はその一部の機能でしかなく、狩猟の場であり、祭祀の場であり、各種政事が行われる場所であった。狩猟は軍事訓練の性格を持つ。宮殿を含む宿泊施設もあった。それだけ広大な場所だ。(地図を見ると幾つかの場所に分かれていた)

多くの物・人が首都咸陽に流入し、手狭になったということで新たな宮殿を作ることにした。これが阿房宮と呼ばれるものだ。これと驪山陵(始皇帝陵)の建造に犯罪受刑者70万人が動員されたという。ただし、秦の滅亡によって未完のままに終わった。 (阿房宮 - Wikipedia )。

始皇帝陵と兵馬俑の話は後述)

こうして急拡大した首都咸陽の人口は推定で60万人(斉の首都臨淄が35万人、秦代全体の人口が1500-2000万人)となった。 *2

始皇帝陵と兵馬俑

まずは誰でも知っている兵馬俑のことから。

兵馬俑とは《古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの》 *3。 「俑」は埋葬する人形・人像のこと。

兵馬俑
中国陜西(せんせい)省西安市郊外にある始皇帝陵の副葬坑。陵の東方1.5キロメートルに位置する。1974年に発見され、三つの坑の総面積は2万平方メートルを超える。表情や衣服などが多様な7000体以上の兵士俑をはじめ、馬俑や馬車、武器などが実戦の軍陣で配置され、その精緻な製法や正確な造型は当時の技術水準の高さを示している。1987年に「秦の始皇陵」の名称で世界遺産文化遺産)に登録された。

出典:小学館デジタル大辞泉/兵馬俑坑(ヘイバヨウコウ)とは - コトバンク

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始皇帝兵馬俑坑1号坑

出典:兵馬俑 - Wikipedia

これはこれで迫力があってすごいことだが、引用文の通り、これらは副葬物であって、本当に重要なのは始皇帝陵だ。

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秦始皇帝陵(緑色)とその周囲の墓域

出典:秦始皇帝陵及び兵馬俑坑 - Wikipedia

右側の「テラコッタ・アーミー」とあるのが、兵馬俑坑。

しかし始皇帝陵の全貌はよく分かっていないようだ。発掘による内部の破損を木にしているようで、発見から数十年経った今でも こじ開けようとはしていない。荒っぽいことができない理由として考えられるのは世界遺産に登録してしまったことだ。

ちなみに、「クフ王のピラミッド」、「始皇帝陵」、「大仙陵古墳仁徳天皇陵)」のことを世界三大陵墓というらしい。

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出典:三次元表示による三大墳墓の比較 堺市

さて、直に発掘できないので科学技術を使って”透視”が試みられている。文献研究や実地調査に加え、衛星データを利用した地球観測技術を使って内部を解明しようとしている。

東海大[の情報技術センターの惠多谷雅弘事務長ら]と学習院大学文学部の鶴間和幸教授らは、衛星画像と地形データを組み合わせた映像解析技術により、陵墓が東西南北の方角にあわせて緻密に作り上げられた建造物である可能性を明らかにした。さらに衛星画像から陵墓が平らな場所ではなく、傾斜が2度もある急な斜面に作られていることも分かった。

また中国の研究者との共同研究により、始皇帝の遺体を安置した墓室は地下30メートルに位置しており、これらはその後の時代の漢の皇帝の遺体の墓室などに比べ深く掘られている。

鶴間教授は、「始皇帝は自分の肉体を永遠に残すことを考えていた。地下30メートルの空間は気温が数度Cと低く、密閉すれば天然の冷蔵庫となる」と遺体の保存に適した環境であったと指摘する。

一方、地下30メートルでは地下水への対策が必須だ。そのため斜面がある場所に陵墓を構築したと考えられる。水はけを良くし、さらに堤防を設けることで、地上の河川と地下水を取り除き、遺体の保存環境をより良く保っていたようだ。

出典:宇宙考古学が拓く歴史発見−衛星でピラミッド・始皇帝陵解析 | 科学技術・大学 ニュース | 日刊工業新聞 電子版

上の記事に書かれていないこととして、水銀の話がある。秦始皇本紀始皇37(前210)年条に始皇帝陵の記述があり、その中で《水銀で天下の河川、江河(長江と黄河)、大海を模し、器械仕掛けで流れるように細工した》とあるのだが *4

始皇帝は、古代エジプト文明のファラオたちと同じように、現実世界での死後も皇帝であろうとしたことがうかがえる。



*1:PDF《馬彪/秦上林苑における構造とその性格についての研究》

*2:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p79

*3:兵馬俑 - Wikipedia

*4:『人間・始皇帝』(p179) 、調査の結果、水銀が検出され、実証されたとしている。(同/p190-191)

また、《墳丘の南から文官俑・百戯俑・石鎧甲坑、陵園の北から楽士俑などが出土し》ている。 ((衛星データを利用した秦始皇帝陵と自然景観の復元 | 過去の一般研究プロジェクト一覧 | 一般研究プロジェクト | 研究プロジェクト | 学習院大学 東洋文化研究所

秦代③:政策(3)郡県制(租税の話も含む)

前回に続いて今回も政策の話。

今回は郡県制について。

以下は郡県制の簡潔な説明。

統一後最初におこなったのは、封建制を廃して全国を郡に分け、直接統治する方法(郡県制)の採用である。始皇帝は王綰(おうわん)の献策をしりぞけ、李斯の説をとって全国を36の郡に分け、太守(守とも略称、長官)、丞(副長官)、尉(軍の指揮官)、監(御史、監察官)を中央から派遣した。郡は戦国時代末期からおもに征服地におかれてきたが、支配地全域にそれを拡大し、征服戦争の功臣にも封邑地を与えなかった。郡の下には、商鞅変法以来の行政単位である県がおかれ、ここにも中央から令、丞が派遣された。

出典:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/2003/p340(太田幸男氏の筆)

ポイントをいくつか説明する。

封建制と郡県制

西周代は封建制を採用していた。封建制とは基本的には王族に領地を与えて統治させる制度。江戸時代の幕藩体制に近い(同じではないが)。 周王室の本拠地(畿内)以外の直接統治は能力的に無理だったので封建制にせざるを得なかった。秦では直轄統治の郡県制を採った。

「征服戦争の功臣にも封邑地を与えなかった」

「征服戦争の功臣にも封邑地を与えなかった」理由について。封邑地を与えられた功臣は諸侯となる。諸侯になるとその地を地盤として中央政府に反抗する可能性がある。これは世襲の代が下るにつれて可能性は高まる。郡県制はこの可能性を最初から排除できる。

秦代になると、西周代に比べてあらゆる技術が発達していたことも郡県制を可能にした要因となる。例えば強大な軍や整備された道路網、攻城戦の戦術などは西周代には無かった。

秦帝国の寿命は短かったわけだが、秦代で作り上げられた郡県制は前漢武帝の代になってよみがえことになる。

郡や県には中央から官僚が派遣される

郡や県には中央から官僚が派遣される。江戸時代の「お代官様」と同じ。世襲制ではない。彼らの下で働くのは現地人。

県の下部単位の郷には父老、里には里典、伍には伍老などの宗族の代表者があって、官吏と共同して統治しているという実状にあった。秦朝の中央集権体制もこのような意味では小宗族の群に支えられている[以下略][好並隆司]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/郡県制(ぐんけんせい)とは - コトバンク

「県」の中身(租税の話)

「県」は本来は軍事拠点としての機能を持っていたが(後述)、郡県制の下での県は商業都市であった。軍事拠点は交通の要衝なのだから平時は商業都市になってもおかしくないだろう。

以下は岡田英弘『この厄介な国、中国』 *1 の説明による。

県の中では定期市が開かれるわけだが、この定期市に参加して商売したい人間は、まず市場の組合員になる必要がある。城壁都市の四つの壁面にはそれぞれ頑丈な扉がついた門があり、その内部全体が市場になっているのだが、そこには管理事務所とでも言うべき県庁がある。この県庁をまず訪れて、この城壁の中で商売をするための登録をする。

もちろん、組合員であるためには一定の義務を果たさなければならない。まず第一には、組合費としての税金を納めなければならない。これを「租」という。租は原則として現物納付である。つまり、農産物を売るのであれば、その農産物の一部を管理費として納める。そして市場の設備維持や修理のために労働力を提供すること。また、非組合員であるその土地の原住民に対して組合員の特権を守るため、自警団に出る、つまり兵役に服することなどである。

ところで、この組合員の支払う「租」は実は皇帝の収入にはならない。マーケットの管理をする役人や、都市を防護するための軍隊の維持に充てられ、皇帝の私的な収入とは別払になる。皇帝の個人的な収入になるのは、都市の城門、あるいは交通の要衝を商人が通過する際に納める「税」によって賄われていた。(p53-54)

都市に食料を供給するために、そのまわりに農地が広がっていく。そうした農地からも年貢を徴収するのであるが、この年貢も皇帝や王にとっては、それほど重要なものではなかった。

日本の封建時代の場合、農地からの年貢は武士にとって、唯一の収入源と言ってもよかったわけだが、中国の場合、もっと大きな収入が都市から上がってくるのだから、重要度は低くなって当然である。現に中国の場合、年貢の徴収額は一定で、どんなに豊作になろうとも年貢を上げたりしなかった。

といっても、農民の生活は楽ではなかった。というのも、各都市に派遣された管理者(知事[=(県)令--引用者])が自分の俸給として、年貢の他にも農民から巻き上げるからである。知事は基本的に無給であって、その報酬は自分の力で農民から取るということになっていた。そこで、都市に派遣された知事はとにかく農民から絞り上げたわけだが、これは知事の私的な税金のようなもので、商売の利潤で食っている皇帝には関係のない話である。(p55-56)

「郡」は「軍」なり

郡県制の「郡」は何か。日本では「県」の下に「郡」がありますが、秦では「郡」の下に「県」があります。そして、「郡」には中央が軍隊を送ります。つまり「郡」と「軍」は同じ意味で、軍隊が入ったところが「郡」なのです。その郡が県を監督し、治安の維持にあたります。

出典:【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝|歴史チャンネル

郡県制を説明する時、「郡の下に県がある」というわけだが、実は郡と県は別系統で、郡が軍事、県が政事を行ってる。郡の経費は管轄下の県から上がった租の一部で賄われているようだ。兵隊も同様に管轄内から徴兵されたのだろう。

統帥権は中央にあるのだから、郡の太守の権限は限られていたと思われる。さらには県令のように甘い汁を吸う場面も無かったか ごく限られていたのではないか。

全土を36郡に分割する

36というのは水徳の6の自乗数。つまり地域の事情で分割したのではなく、数字の事情で分割したということだ。

この後、秦は外征によって新しい領土を獲得したため48郡まで増えた。まあ48も6の倍数なのだが。

  *   *   *

さて、ここからは郡県制に関連する話をしていく。

郡県制の採用への流れ

史記』始皇本紀 *2 によれば、郡県制の採用の決定は、「皇帝」の称号の採用を決定した御前会議と同じの場で為された。

会議の冒頭で始皇帝は臣下に向かって以下のように発言した。

六国の王を捕虜にしたのは、それぞれの正当な理由があった。韓王、趙王、魏王、楚王は盟約にそむき、燕王は暗殺を謀り、斉王は外国と断交した。だから罪ある六王にたいして兵を興したのだ[以下略]

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p45-46

以上は『史記』始皇本紀の始皇26年の《秦王初并天下,令丞相、御史曰》以下の意訳。

臣下はこれに同意し、「皇帝」の称号の採用など幾つかの事項を決めた後に地方の統治制度の話に移る。

丞相王綰が発言するには「燕、斉、荊(楚)は遠方であるため王を置かずに統治するのは無理です。皇子を封建することを提案します *3」。

始皇帝が臣下にこの提案に対して意見を問うたところ、皆が賛同した。しかし、ひとり廷尉(司法長官)李斯が反論する。

周の武王が子供兄弟同姓を地方に封建しましたが、時代が下るに従い疎遠となり、諸侯は相争うようになり、周王室はこれを止めることができませんでした。
現在、陛下の神霊の力によって海内(中華)は統一され郡県の地となりました。あえて諸侯を置いて逆賊の種を育てる必要などありましょうか。 *4

始皇帝は李斯の意見を採用、すなわち郡県制を採用した。

李斯は元々呂不韋の家来だったが、のちに始皇帝のブレーン(懐刀)になった人物。この御前会議の前に始皇帝と李斯が申し合わせていた、なんて想像すると歴史が楽しくなる。もちろん本当のところは私には分からない。

「郡」「県」の変遷

秦はすでに戦国時代から占領地に郡を置き、その下に県を置いて支配していた。[郡県制は]それを全国化したものといえる。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p248

つまり、始皇帝たちは、戦国秦の従来の制度をそのまま使用した、ということ。

吉本道雅氏によれば *5 秦漢的郡県制の形成が見られるのは早くても戦国後期ということだ。

「県」の上限は、前350年に《多様な名称をもち、国家との関係も様々であった邑を統合して[県」》としたこと、「郡」の上限は上郡(魏の旧領?)の太守が恵文王五年(前320年)に製造した戈が知られている、とのこと。

さて、それでは秦漢的郡県制より前の「県」と「郡」はどういうものだったのか。以下はひらせたかお氏の説明に依る。 *6

「県」について

「県」は春秋時代にまで遡る。大国が小国を滅ぼす過程で軍事拠点として県が設置され、中央から長官を派遣した。このような事情から県は辺境(国境沿い)に見られる。

この長官の一般的な役職名は「令」または県令。当初 県令は世襲性が強かった。ひらせ氏は「国内諸侯」という言葉で表現している。ただし春秋時代のうちに次第に世襲の権利が脆弱になっていった。つまり王の都合で交代させられる例が増加していった。戦国時代では代々の王の近親者が県令になる例が多かった。

戦国時代の県令は「君」と称された。一般的に「封君(ほうくん)」と呼ばれた。趙の平原君、魏の信陵君が有名。

戦国時代の県令(封君)は軍権は無く、軍権は中央の将軍に統帥できるものとした(ひらせ氏は「建前上」と書いているので実際は軍権を持っている例があったのかもしれない)。

「郡」について

「郡」という語は春秋時代にあったが、秦代の「郡」と同じではない。それは晋国において国境沿いに設置された軍区を指した。

県を統括する意味での「郡」が登場するのは戦国時代に入ってかららしい。上述の吉本氏の「秦漢的郡県制の形成が見られるのは早くても戦国後期」ということを考えれば、県を統括する意味での「郡」の登場は、すなわち郡県制の登場を意味するのかもしれない。

上述のひらせ氏の本には郡の長官「守」の権限については言及されていない。

(秦代の「郡」については上で書いた。)



*1:WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(1997/クレスト社)を改訂したもの)/p52-56

*2:史記/卷006 - Wikisource 参照

*3:《燕、齊、荊地遠,不為置王,毋以填之。請立諸子,唯上幸許。》私の意訳

*4:「周文武所封子弟同姓甚眾,然後屬疏遠,相攻擊如仇讎,諸侯更相誅伐,周天子弗能禁止。今海內賴陛下神靈一統,皆為郡縣,諸子功臣以公賦稅重賞賜之,甚足易制。天下無異意,則安寧之術也。置諸侯不便。」私の意訳。 《[十八史略 天下を分って三十六郡と為す - 寡黙堂ひとりごと](https://blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/e/5b83e521da9bfcec9a7273871383bbce)》参照。 ただし、このブログ記事は『十八史略』の現代語訳。

*5:国史 上/昭和堂/2016/p57(吉本道雅氏の筆)

*6:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p293-295

秦代②:政策(2) 諡(おくりな)の廃止/「水徳」の採用:五行説について

前回に引き続いて秦代の政策について書く。「こんなものは政策ではない」とは思うが他に適当な言葉が思い浮かばないのでとりあえず「政策」としてみた。国家の根幹となる大事なことだ。

諡(おくりな・シ)の廃止

まずは諡の説明。

王公貴族の家では、子孫が祖先のために宗廟(そうびょう)を設け、その中に木主(ぼくしゅ)を立て諡を書いて祀(まつ)ることは、仏教において法号を書いた位牌(いはい)を祀るごときものであった。諡にはその人の生前の行為により適当な文字を選ぶ。『史記正義』の首に唐の張守節の諡法解(しほうかい)を載せているが、それによると、文王、武王、成王などは徳の高い王者に贈られる美名であり、幽王、霊王などは徳の劣った王に対する醜名であって、平王、荘王などはその中間に位する。諸侯の場合は桓公(かんこう)、武侯のようにそれぞれの爵に従う。[以下略] [宮崎市定

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/諡(シ)とは - コトバンク

「木主(ぼくしゅ・もくしゅ)」とは《神や人の霊魂にかえてまつる木製のもの》 *1。 簡単に言うと位牌。 *2

諡 - Wikipedia」によれば、「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味し、「文王」の「文」を諡、「文王」を諡号(シゴウ)と呼ぶ。《中国の戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。 》

以上が諡の説明。

これに対して、始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価すべきではない。始皇帝、二世皇帝、三世皇帝……万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」(諡 - Wikipedia )と命じた。

ただし、 前漢代以降、諡をつける慣例は復活した。

「水徳」の採用:五行説について

「水徳」というのは五行説五行思想)に根拠を置く。

五行思想 - Wikipedia によれば、五行説は戦国時代の斉の鄒衍が創始した。

↓は大辞林の説明。

中国古来の世界観。木・火・土・金・水の五つの要素によって自然現象・社会現象を解釈する説。五行相勝(相剋)は火・水・土・木・金の順に、後者が前者に打ち勝つことで循環するとし、戦国時代の鄒衍すうえんなどが説いた。五行相生は木・火・土・金・水の順に、前者が後者を生み出すことで循環するとし、前漢の劉向などが説いた。

出典:三省堂大辞林 第三版/五行説(ゴギョウセツ)とは - コトバンク

自然現象は5つの要素(または元素)から作られるという発想はギリシア哲学の「四元素」とよく比較される。こういったものは現代でいうところの「科学」と認識されていたようだ。近現代の科学は実験による証明を重んじるが、古代では実験という概念が確立されていないため、経験と観察に基づく説得力のある説が「科学的な事実」として受け入れられた。現在、五行説と四元素は占い・オカルト・サブカルチャーでよく見られる。

さて、次に五行相勝(相剋)の思想から↓の説が生み出された。

五徳終始説
中国、戦国時代の斉(せい)の陰陽家(いんようか)、鄒衍(すうえん)が唱えた説。この説については『史記』の「始皇本紀(しこうほんぎ)」や「孟子荀卿(もうしじゅんけい)列伝」の鄒衍の条および『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』の「有始覧」「応同編」などに述べられている。それによると、天地開闢(かいびゃく)以来、王朝はかならずその有するところの五行(ごぎょう)の徳によって興廃または更迭(こうてつ)するが、その更迭には一定の順序があり、王朝がまさに興ろうとするときは、その徳に応じて瑞祥(ずいしょう)が現れるというのである。その五徳の推移は、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つという五行相勝(そうしょう)(相剋(そうこく))の順序である。そして、秦(しん)以前の4王朝を、黄帝(こうてい)を土徳、夏(か)の禹(う)を木徳、殷(いん)の湯王(とうおう)を金徳、周の文王(ぶんおう)を火徳にそれぞれ配当し、五行相勝説によって前王朝から次の王朝に移るとし、最後は水徳である秦(しん)王朝が政権をとり、これこそが永久性と絶対性とをもつ真の王朝であると説くのが、本来の五徳終始説である。[以下略] [中村璋八]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/五徳終始説(ごとくしゅうしせつ)とは - コトバンク

秦はこの説を採用して水徳自らを「水徳」とした。秦ではこの五行の「水」に基づき「冬」「黒」「六」を制度改革のキーワードとした *3五行説では、季節・色・数字など あらゆるものが5つに まとめられて割り当てられた。詳細は「五行思想 - Wikipedia」を見ればおおまかのことは分かると思う。ちなみに「三皇五帝」の五帝もこれに影響されてできた用語のようだ *4

季節は4つしかないが、五行説では四季に「土用」を加える。土用とは《四立(立夏立秋立冬立春)の直前約18日間》(土用 - Wikipedia )のこと。

秦では「冬」を年の始めとした。10月が年初。衣服や旗は「黒」、数字は「六」を基数とした。度量衡の「一歩」は6尺とした。

おまけ:五行説のその後

前漢

秦代の歴史ではないが、五行のその後の話を書きとどめておく。

まずは前漢前漢は3つの色を持つ。黒(水徳)、黃(土徳)、赤(火徳)。

「漢は赤」と思う人は多いだろう。『史記』高祖本紀に赤帝の子(劉邦)が大蛇を切った話が赤のイメージを抱かせるかもしれない。また人によってはマンガの本宮ひろ志『赤龍王』を思い出すかもしれない。

しかし前漢初は水徳を選ぶ。岡田英弘氏によれば *5、 秦代のシステムをそのまま受け継いだということで水徳のままだった、という。別の解釈だと、前漢初の為政者は五徳終始説は受け入れたが、秦が天下を継承したことを認めずに漢が五徳終始説における最後の(永遠に続く)王朝であるとした。どちらかは分からない。

武帝

しかし武帝代になると、五徳終始説を振出しに戻し、武帝みずからを黃帝になぞらえて、土徳とした。

土徳の季節は「土用」(上述)であるが、暦は1月を年初とした。↓は以前引用したもの。

太初元年(前104)、武帝は秦代以来の顓頊暦に替え太初暦を施行した。暦が日食などの天文現象とズレてきたためであるが、この改暦には重大な思想的意義があった。古来中国では、新たに天命を受けた王朝を開いた者は正朔(暦)を改め服色(衣服車馬などの色)を変えるという受命改制の思想があった。武帝は太初暦の施行に伴い歳首〔年の始め〕を正月とし、漢を土徳として色は黄、数は五を尊ぶとともに、多くの官名を一新した。多くの周辺諸国を影響下に置いて中国中心の東アジア世界を現出し、帝業を完成した者だけが行える封禅を既に挙行した武帝にとって残るは改制だけであり、それがこの太初暦施行であった。これによって漢王朝は秦制から完全に脱却したのである。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p92/上記は鷹取祐司の筆

前漢末/新代/後漢

さらに火徳にかわるのは前漢末のこと。前述の劉向の五行相生説だ。

五徳終始説とは、王朝の交替・変遷を五行の循環で説明するものであり、前漢では五行相克説に基づき、王朝の徳は土→木→金→火→水の順序で循環し、漢朝は土徳であるとしていた。劉歆はこれに対して、五行相生説に基づく新しい五徳終始説を唱え、五徳は木→火→土→金→水の順序で循環し、漢王朝は火徳であるとした。この理論が新朝から宋までの1000年間、継続して用いられた。 出典:劉キン (学者) - Wikipedia

劉歆(劉キン)は劉向の息子。この父子は「劉邦=赤帝」にちなんで漢王朝は赤(火徳)だとした。難しいことは割愛するが、新しい五徳終始説をつくったのは漢王朝を火徳にするためのこじつけだった。

この説を前漢末に王莽が採用して彼が建国した「新」王朝は土徳となった。しかしこの王朝はすぐに後漢・劉秀に倒された。この劉秀も劉歆の説を採用し「漢王朝=火徳」とした。

黄巾の乱

後漢末に黄巾の乱が起こる。黄巾賊の黃は土徳の黄色だ。しかしここで一つ問題が起こる。「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。」という言葉だ。

蒼天は後漢王朝を指すとされ、なぜ「蒼(青)」なのか?という問題。

この問題の回答は諸説あるようだが、私は蒼天は青い空ではなく、「蒼天=(後漢王室の)天命」という説を支持したい。 詳しくは 《黄巾賊が掲げたスローガンと五行思想(五行説)の謎 | もっと知りたい!三国志 》などを参照。



*1:木主(もくしゅ)とは - コトバンク

*2:周の武王が殷の紂王に対して兵を挙げた時、文王(西伯)の位牌を戦車に乗せたというエピソードがあるが、『史記』周本紀の原文には《載西伯木主以行》とあって「木主=位牌」と訳すのが普通のようだ。ネタ元は《儒教の葬儀と位牌。 | 人生朝露 - 楽天ブログ》。

*3:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p54

*4:五帝の五という数字が先で、中身の5人の人物が後。三皇五帝 - Wikipediaなどを参照。

*5:だれが中国をつくったか: 負け惜しみの歴史観 - 岡田英弘 - Google ブックス

秦代①:政策(1) 前置き/皇帝号の採用/他の用語変更

秦帝国が整備した統治体制は、後の中国の歴代王朝が継承した。ということは、始皇帝(を含めた秦帝国の為政者たち)が中国帝国史の基本を作ったということも出来る。

現在の中華人民共和国国家主席世襲ではないが、帝国の体制は継承しているようだ。現代の中国を知るためにも秦帝国を知ることは有益になるだろう。

前置き

秦が中華統一を果たしたのが前221年、秦王政(始皇帝)の即位26年、39歳。

始皇26(前221)年から37(前210)年[始皇帝死去の年]までの12年間は、始皇帝にとって1年1年が濃密な時間であった。『史記』秦始皇本紀の記事もこれまでと異なって一気に文字数が増加し、始皇25(前222)年がわずか43字であったものが、翌26年は930字にまで跳ね上がる。司馬遷はこの12年のうち前半6年を統一事業の時代、後半6年を匈奴と百越との対外戦争の時代として描いている。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p95, 97

統一した同年に多くのことが決められた(すべて同年できめられたわけではないが)。戦国時代の秦国の政治体制をベースに、新しいものを加えていった。

↓は始皇帝の主要な政策。後世にどのような影響を及ぼしたのかまで分かる。

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出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

皇帝号の採用

中華統一を果たした同年、まず最初に決められたのが皇帝という称号の採用だった。

史記』秦始皇本紀によれば、御前会議が開かれ、秦王政の他の発言者として丞相(総理大臣)の王綰(おうわん)、御史大夫(副総理)の馮劫(ふうきょう)、廷尉(最高司法長官)の李斯が登場する。

すでに昭王[昭襄王のこと -- 引用者]の時代に斉王が東帝と称したことに対抗して西帝と称したことがあるので、秦王は東帝に代わる帝号で五帝を超える称号を求めていた。天下という広大無辺の地を治めるのに王ではものたりず、帝でなければならなかった。さらに説明を加えるならば、中国古代では王国(国に王たり)と帝天下(天下に帝たり)とは別概念であり、帝国(国に帝たり)とか王天下(天下に王たり)という考え方は成り立たなかった。私たちが歴史概念として頻繁に使用する「帝国」は、中国ではまれにしか用いなかったこのことばを翻訳語に当てたために広がったものである。6王を捕虜としたことで、天下を治める帝になろうとしたのである。

出典:鶴間氏/p106

秦王政は「帝」の字にこだわった。秦王は、上に書いてあるように国家の支配者ではなく、天下の支配者たらんとした。

さらに、鶴間氏によれば、「帝」は地上世界の支配者という意味とは別に、天上世界の支配者という意味もあった。「帝星」といえば天界の中心である北極星を表す(p107)。政は自身を自らを神格化しようとしたようだ。いや、秦王は不老不死になろうとしていたから本気で天上世界と人間世界の両方の支配者である「帝」になろうと考えていたかもしれない。

いずれにしても、国家ではなく天下の支配者たらんとする発想は中華思想である。この考え方も後世の支配者は継承した。

さて、御前会議の話に戻る。大臣たちは秦王とは異なるものを提案した。

大臣たちは博士たちの知恵を借りて、五帝よりも古い天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)に権威を求め、そのなかから泰皇を選択した。秦王の帝号の要求と大臣の泰皇の提案にはずれが感じられる。「皇」も「帝」と同様に天を意味しており、大臣たちは「帝」よりも「皇」を選んだのである。

出典:鶴間氏/p106-107

「泰」は「泰一(太一)」に通じる。これは天帝を指す言葉だ *1。 さらに言えば「太一」は北極星の神名である。秦王と方向性は全く同じだ。

だが、秦王は「帝」にこだわった結果、「泰」を採用せず、代わりに「皇」と「帝」をくっつけて「皇帝」という新たな称号を造語した。

こうして、中華思想を前提とした発想の中から「皇帝」という称号が誕生した。

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

用語変更

御前会議では、称号の他の用語の変更も提案された。『史記』によれば、大臣たちは命を「制」、令を「詔」、皇帝の自称を「朕」とするように提案した。これについては秦王は了承した。

この場合の「制」は皇帝が行う一般的な命令、「詔」は臣下の審議に始まり上奏と皇帝の裁可をへてくだされる文書のこと *2




北極星すなわち天の北極にある星は、時代によって違うらしい。天文学についてはあまり興味が持てないので、詳しくは北極星 - Wikipedia等を参照。


*1:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p53

*2:鶴間氏/人間・始皇帝/p104