歴史の世界

秦代⑦:政策(7) 貨幣制度

秦の中華統一後の貨幣事情は基本的には度量衡と同じで戦国秦の制度の全国展開をしようとしていた。

しかし、全国の貨幣を秦の貨幣に変えるためには長い時間を必要とした。

山田勝芳『貨幣の中国古代史』 *1 によれば、本格的に貨幣統一に乗り出したのは二世皇帝が即位した前210年であったが、その年に反乱が起こり、もはやそれが実行不可能になってしまった。

秦が計画していた通貨制度は前漢に踏襲される(前漢の諸制度は武帝より前はほとんど秦代のものを使っている)。

秦が行おうとしていた貨幣制度

戦国時代の秦と他国の貨幣制度については以下の記事で書いた。

戦国秦の制度では、(価値が高い順から)金・布(麻布・あさぬの)・銅銭(半両銭)が国の管理の下で施行されていた。しかし統一後は布の貨幣の流通が無くなって金・銅銭になる。

戦国時代で既に各国は「金・銅銭本位制」とでもいうべき貨幣体系になっていたが、統一秦もこれに倣ったのだろう(他地域で麻布が通貨として受け入れられなかったのかもしれない)。

半両銭について

戦国時代では魏・趙・韓の先進地域では民間が貨幣を鋳造していたが、秦は最初から官製で、統一後も官製を踏襲した。

戦国秦の銅銭・半両銭は、当初は半両=12銖(7.8g)だったが、徐々に重量が減っていった。統一後の重さは4銖(5.2g)、あるいは3銖(2g弱)の半両銭が増加している。山田氏は《これは余剰銅が盗鋳に投入され、それによって半両銭の軽量化が進行したことと関係するであろう》(p75)としている。

ただし、官製の半両銭も軽量化していなければ、軽い盗鋳銭が流通するはずがない。

どうして軽量化したのかといえば、盗鋳以外に以下のような理由が考えられる。

ちなみに前漢代も半両銭が基本貨幣であったが、民間の鋳造が認められ、重さが1銖(0.65g?)まで軽量化してインフレになった(その後改鋳された)。

おまけ:現代日本の通貨発行益

現在、日本で通貨を発行しているのは、紙幣は日銀で硬貨は政府だ。

ここでは硬貨のことは無視して *2 、紙幣(主に万札)の話を念頭に置いて話を進める。

日銀は通貨発行益をどのように説明しているのか?

質問
日本銀行の利益はどのように発生しますか? 通貨発行益とは何ですか?
回答
日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益と呼ばれます。

出典:日本銀行の利益はどのように発生しますか? 通貨発行益とは何ですか? : 日本銀行 Bank of Japan

上の文章はシロウトの私には理解できなかったので、他を調べた。

まず、銀行券が「日本銀行にとっては無利子の負債」とはどういう意味か?

斉藤誠教授によれば「財布に入っている1万円札が日本銀行の借用証書であり、お札の持ち主が日銀に1万円を貸している」ということ。 *3

この日銀券(無利子の負債)で有利子の資産(国債、貸出金等)を交換すると利益が出る。この利益を通貨発行益という。これが日銀の正式の定義だ。

さて、これとは違う定義を主張する人達がいる(そして私はこの人たちを支持する)。その代表として高橋洋一教授の言葉を引用する。

「日銀券を発行すると通貨発行益が発生する。大まかに言えば、1万円の紙幣の発行に15円の製造コストがかかり、その差し引きが通貨発行益になる。だから通貨発行益はほぼ通貨発行額に等しい。」

出典:財政危機 借金1000兆円が消えるって、なぜ? 2016年5月3・10日合併号 - 週刊エコノミスト

この定義(?)は何人かのリフレ派 *4 も同様に使っている。

日銀は借用証書のつもりで日銀券を世に出しているのだが、だいたい、何故、無利子の証書と有利子の証書との交換が成立するのかに疑問を抱かなければならない。

その理由はつまり、日銀券を受け取る側は、日銀券を(借用書ではなく)お金として受け取っているからだ。

だから日銀や法律がどのように定義しても実際は通貨発行益は高橋教授の言ったとおりなのだ。

法律ではなく、経済の話をする時は、

通貨発行益=お札の名目の金額 - お札の製造コスト

と考えるべきなのだ。

この考え方を否定する人が多いが、私は日銀の定義のほうが間違っていると思う。

高橋教授の定義のほうが、歴史的に正しいのであって、日銀は「通貨発行益」の定義は別の言葉を当てるべきなのだ。



*1:朝日選書/2000/p74

*2:紙幣に対して硬貨全体の金額は極小

*3:「紙幣や国債は返済する必要がない」は本当か | 政策 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

*4:国政府の経済政策における積極財政・金融緩和派