歴史の世界

前漢・武帝⑭:諸制度の始まり 正史/元号/太初暦

塩鉄専売など武帝の治世より始まったものはたくさんある。この記事では以前に書いたもの以外の重要な「始まり」を3つ挙げる。多数の制度の改変によって武帝代以前の帝国とは別物になった。これは秦制からの脱却とも言える。約3400字。

正史の始まり、『史記

史記』(しき)は、中国前漢武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。

二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。

出典:史記wikipedia

中国の正史は皇帝の勅命を受けた史官によって紀伝体で書かれたものだが、『史記』についてはそうではなかった。

史記』の著者は司馬遷だが、この歴史書を書くための構想は父の司馬談が考えついたものだった。司馬氏は戦国時代に秦の将軍 司馬錯(さく)など武人を輩出したが、司馬談自身は祖先が代々周の史官であったことを誇りに思っていた*1

司馬談武帝の治世で太史令を努めていた。太史令は天文・暦法や祭祀と国家の文書の起草や典籍・歴史を司る職の長官*2。前110年、武帝始皇帝以来の泰山での封禅の祭祀を行おうとした時、司馬談は泰山に赴くことができずに悔しんだ。太史公自序には「司馬談は発憤して亡くなった」と記されてある*3

司馬談は子・司馬遷に祭祀官である太史を継いでほしいと願った。「史官」ではなくて「祭祀官」である。

行政官の職務は一年のサイクルで終わる。しかし祭祀はそうはいかない。漢の歴代皇帝を宗廟で守るだけでは足りない。五帝に始まり夏、殷、周、秦と歴代の王朝の祭祀を守っていくことが、現漢王朝の正当性を主張するためには必要だ。武帝の泰山封禅は、1000年の皇統を受け継ぐものであった。太史には1000年、100年という時間の感覚があった。

司馬談は周の王道と礼楽が廃れ、孔子が『春秋』の最後、魯の哀公14年(前481)に「麟(りん)を獲えた」と記録したから400年(実際は371年)、諸侯同志が争い、史官の記録は整理されないできたことを嘆いた。麒麟が捕獲されたのは不祥を意味した。いまは海内(天下)が一統された時代、記録が失われないうちに、お前も太史となって自分の願いをかなえてくれと伝えた。司馬遷は首をたれ、涙を流して父業を受け継ぐことを誓った。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p199

このような事情からできた『史記』は以降の正史とは実は趣旨が違う史書であることは留意すべきことだろう。

元号の始まり

武帝より以前は、文帝などの例外を除けば、年の数え方は「武帝の◯◯年」のように王、皇帝の即位より経った年で表したが、武帝の治世でそれを改めた。

前113年に汾陰(ふんいん、山西省栄県の西南)から美しい銅鼎が出土したことが報告されると、武帝はこのことは点が瑞祥をくだしたことの表れであるとし、この年を元鼎四年とした。元号制の開始であるが、武帝は自らの即位年にまでさかのぼり、一元号を六年として建元、元光、元朔、元狩の年号を制定した。以後、漢代やそれ以後の各王朝でも元号制が採用され、元号によって年代が表現されるようになった。

この元号制は儒家思想の符瑞(ふずい)説によるものであり、年代表示法に儒家思想を用いたものといえる。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p405-406/引用部分は太田幸男氏の筆

ただし、上の書籍によれば*4、近年に建元という製作年号が銘文されている武器や陶器が出土されていることを挙げて上記の元号の起源の年に疑問を投げかけている。渡辺敏夫氏によれば*5、「武帝の建元の制定についてはその年時を含めて諸説があり、問題が残っている」としている。

「符瑞」とは「天の神がだれかを天子にしようとするときに現すめでたいしるし」*6武帝代以降、儒教は朝廷で重要視されたが、儒教は「符瑞」のようなオカルト的なものを全面に出していった。素人の儒教のイメージ(『論語』のイメージ)とはかなり違う。

元号の重要性について

東洋における紀年法の一種で、統治者の即位、祥瑞(しょうずい)、災異などのあった年を起算年として、嘉号(かごう)を冠して用いられる。年号の起源は中国にあり、中国では統治者は土地人民のみならず時間をも支配するという思想に基づき、年号の制定は統治者の特権とされ、またその年号を使用することはその支配に従うことを意味した。この制は、中国文化の影響を受けた朝鮮や日本などの周辺の諸国に広まった。

出典:年号<日本大百科全書(ニッポニカ) <小学館<コトバンク /引用部分は渡辺敏夫氏の筆

日本の元号使用の始まりは諸説あるらしいが*7、日本独自の元号を使用したということは中国支配の拒否したことを意味する。

改暦

太初暦
太初暦(たいしょれき)は中国暦の一つで、漢の武帝、太初元年(紀元前104年)の改暦によって採用された太陰太陽暦暦法。治暦者の鄧平や方士の落下閎らによって編暦され、秦代から使われていた顓頊(せんぎょく)暦を改めた。太初暦は三統暦の補修を経ながら、後漢の章帝元和二年(85年)の改暦に至るまで190年間、施行された。

出典:太初暦<wikipedia

もう一つ引用。

太初元年(前104)、武帝は秦代以来の顓頊暦に替え太初暦を施行した。暦が日食などの天文現象とズレてきたためであるが、この改暦には重大な思想的意義があった。古来中国では、新たに天命を受けた王朝を開いた者は正朔(暦)を改め服色(衣服車馬などの色)を変えるという受命改制の思想があった。武帝は太初暦の施行に伴い歳首〔年の始め〕を正月とし、漢を土徳として色は黄、数は五を尊ぶとともに、多くの官名を一新した。多くの周辺諸国を影響下に置いて中国中心の東アジア世界を現出し、帝業を完成した者だけが行える封禅を既に挙行した武帝にとって残るは改制だけであり、それがこの太初暦施行であった。これによって漢王朝は秦制から完全に脱却したのである。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p92/上記は鷹取祐司の筆

前漢初の宰相蕭何は秦制を基にして帝国を築いたが蕭何以降の政府は現実に沿うように秦制を改変・削除しながら運営した(蕭何の九章律と秦律の記事参照)。武帝はこの改変・削除に加え、以上のような新しい制度を多く施行することによって秦制を脱却していった。

いままで挙げてきた参考書籍は武帝始皇帝を意識していたと主張している。武帝は秦制を脱却することによって始皇帝に並ぶ(またはその上をいく)偉大な皇帝になろうとしていたのかもしれない。