歴史の世界

秦代⑥:政策(6) 「焚書坑儒」の実像

今回は「焚書坑儒」の実像。

焚書坑儒という言葉を知っている人は多いと思う。学問や思想に対する弾圧の比喩として使われることもある。

この言葉のイメージはだいたい以下のようなものだろう。

中国、秦の始皇帝が行なった思想弾圧。紀元前213年、医薬・卜筮ぼくぜい・農事関係以外の書物を焼きすてさせ、翌年、批判的な言論をなす儒教学者数百人を咸陽で坑あな埋めにして殺したと伝える。

出典:三省堂大辞林/焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)とは - コトバンク

上の記述は『史記』秦始皇本紀を基にして書かれているものだが、誤解がある。まずは、焚書と坑儒に分けて説明する。

焚書

焚書のきっかけを作ったのは淳于越という博士だった。

始皇34年(紀元前213年)、匈奴と南越との戦争の成功を祝う酒宴が開かれた。博士70人が次々と始皇帝の長寿を祝う中で、淳于越は現在の郡県制を批判して封建制の復活するべきだと自論を訴えた。

始皇帝はこれについて臣下に議論させたところ、李斯が反論した。ただし反論だけにとどまらなかった。

今、天下は定まり法令は一所より出て民衆はそれに従っている。ところが学者達は自分たちの学説を根拠にお上の法令や教えを避難している、。学者達は朝廷では心の中で謗るだけだが、巷に出ると人々を扇動して今の政治を誹謗している。このような状況を放置したまま禁じなければ、君主の威勢が衰え反政府的な徒党が生まれる。そこで次のように提案する、史官の扱う秦の記録以外はこれを焼き、博士官が職務上所持するものを除き、民間に所蔵されている『詩経』『書経』・諸子百家の書は全て償却する。『詩経』『書経』について2人以上で議論するものは死刑に処し、古(いにしえ)を以て今を謗る者は一族皆殺しとする。医薬・占い・農業の書物は焼却の対象外とし、法令を学びたい者は官吏を師として学ばせる、と。始皇帝はこれを裁可した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p65(鷹取祐司氏の筆)

李斯は郡県制の主唱者であり、これをまとめ上げた中心人物なので、淳于越の批判に激怒したことは想像できる。ただしそれだけで文書を断交したわけではなかった。

上の引用で「匈奴と南越との戦争の成功を祝う酒宴が開かれた」とあるが、実際は対外戦争の最中であった。つまり戦時下であった。

鶴間和幸氏は、李斯が戦時に国を二分するような事態を恐れて焚書令を断行した、と主張する。

取り締まりの対象になった書物の第一は、史官のもとにあった秦以外の諸国の史書である。当時秦に滅ぼされた国々の記録がまだ残っていた。秦が統一戦争を正義の戦争と意義づければ、六国は秦の侵略戦争と記録していたはずだ。第二の対象は、博士が所蔵しているものは認めるが、それ以外の者が詩、書、諸子百家の書物を伝えていれば、所轄の郡に届け出させて償却した。『詩経』『書経諸子百家は、秦を批判した書物ではないが、過去に理想の政治を見いだし、現実を風刺、批判する道具となる。李斯はそれが体制批判に利用されると考えた。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p82

しかし焚書令は断行されたのだが、徹底されたわけではなかった。

禁書令で実用書以外のすべての書物が焚書となって消滅したわけではないことは、それ以前の書物の多くが現在も知られていることからも判る。儒学者論語など孔子の書物を家の壁の中に塗り込めて隠匿した、という話が多数伝えられているが、そこまでしなくとも、焚書が徹底を欠いていたことは、最近盛んに秦漢時代の墳墓から、木簡・竹簡や帛書(絹に書かれた書物)という形で出土していることからも判る。

出典:世界史の窓/焚書・坑儒 (参考文献は、鶴間和幸『秦の始皇帝―伝説と史実のはざま』)

坑儒

もともと坑儒は上の焚書令とは別の話だ。

坑儒のきっかけを作ったのは盧生という方士(方術士)だ。

方士とは
特殊な技術、方法を身につけた人、の意味。具体的には、古代中国で、不老長生の説を唱えたり、そのための魔術的技法や薬方(やくほう)を使った者をさす。いまの山東省やその周辺の地や海辺に多かったと伝えられる。[以下略]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/方士(ほうし)とは - コトバンク

魔術的技法や薬方(やくほう)を使う技術を方術という。

始皇帝は東方へ巡行した時にたびたび方士に会った。始皇帝が方術に興味を持ったのが、東方巡行の前か後かは分からないが、とにかく始皇帝は莫大な資金を投じて不老不死になる薬を方士たちに探させた。しかし命令された方士たちは二度と戻ってこなかった。有名な徐福もその一人だ。

そんな中で、ひとり始皇帝のもとに戻ってきたのが盧生だ。

[始皇]35(前212)年、盧生は始皇帝に言った「仙薬を得られないのは何かが邪魔しているからです。もしも陛下が誰にも居所を知られないようにすればきっと仙薬も手に入るでしょう」と。始皇帝はそこで自分の所在を漏らした者を死刑にすると決めたが、早速、始皇帝の発言を漏らした者がいた。そこで始皇帝が詰問したところ誰も認めなかったので、怒った始皇帝はその時居合わせた者全員を殺した。これを知った盧生は恐ろしくなり始皇帝を中傷する言葉を残して逃亡してしまった。信頼する盧生に裏切られたと知って激怒した始皇帝が、咸陽の諸生[学者]の中に民衆を惑わす者がいるとして諸生を尋問させたところ、他人に罪をなすりつけ自分だけ逃れようとする者ばかりであった。始皇帝はそのような諸生460人余を咸陽に生き埋めにして後世の見せしめにした。

出典:鷹取氏/p66

坑儒の坑は穴に埋める処刑方法のこと、儒は儒者のこと。

しかし始皇帝が生き埋めにした「諸生」は学者の意味であり、儒者の意味ではない。諸生の中に儒者がいたかもしれないが、彼らはとばっちりを受けたに過ぎない。

鶴間氏によれば、生き埋めになった者たちを儒者と解釈しだしたのは後漢になってからということだ*1

さて、落合淳思『古代中国の虚像と実像』*2では、坑儒の話はすべて作り話の可能性が高いと主張する。

さらには、徐福の話も創作の可能性が高い、始皇帝が不老不死を目指していること自体もあやしい、その証拠として将来の自分の墓である皇帝陵を建設しているではないか、と。

たしかに、不老不死の追求と秦始皇帝陵の建設は思想・宗教の面から考えて全く違うものであり、秦始皇帝陵が現実に存在している現在、始皇帝が本当に不老不死を目指していたのか疑って当然だろう。

落合氏以外の研究者がこの相容れない宗教観をどのように説明するのか興味がある。



*1:鶴間氏/p82

*2:講談社現代新書/2009/p147-152