歴史の世界

四大文明から三大文明圏へ(枢軸時代/遊牧民)

四大文明については以前に《「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった》という記事で書いた。

この記事では三大文明圏について書く。「三大文明圏」というのは、私がこの記事を書くために勝手に作った言葉だ。

またこの記事は私(素人)の独自の主張も入っている。

三大文明圏

4から3に減ったのはメソポタミアとエジプトがくっついてオリエント世界を形成したからだ。3つの文明圏とは

となる。その他の地域については順に書いていこう。

オリエント文明圏(オリエント世界)

メソポタミア文明はシュメール文明から始まるが、文明は四方に広がり、多数の民族を飲み込んで拡大した。

いっぽう、エジプト文明は前二千年紀中期にレバノン杉(木材)を求めてレヴァント(東地中海沿岸)を北上した(砂漠に囲まれたエジプトは常に木材不足)。

二つの文明は物・人・情報の交流を密にするようになり、やがてひとつの文明圏を形成した。これがオリエント世界(文明圏)と呼ばれるものだ。

エーゲ海文明・ギリシア文明もオリエント世界の中で興った。エーゲ海文明・ギリシア文明はオリエント世界の一部だ。ギリシア文明は西洋史の一部だが、古代ローマ帝国以降のことを考慮から除けば、ギリシア文明がオリエント世界の一部であることは疑う余地はないだろう。古代ローマ帝国が文明を形成する前はヨーロッパ大陸に文明化した勢力はほとんど存在していなかった。

インド文明圏(南アジア世界)

南アジア世界(インド圏)の最古の文明はインダス文明だが、この文明は衰亡した。

文明が衰亡する前後に、前二千年紀にアーリア人の一派が北インドに侵入し、旧来のインダスの文化とアーリア人の文化を統合して現在のヒンドゥー教文化に至る文化文明(圏)を形成していく。

中国文明圏(東アジア世界)

中国では黄河流域と長江流域を中心に複数の文化が興った。殷・周王朝の勢力はそれほど広くなかったが春秋戦国時代を経て秦帝国が成立し、中国本土(シナ)を支配する帝国の歴史が始まった。(「中国本土(シナ)」については「中国本土<wikipedia」を参照)

中国本土(シナ)から発せられる文化文明は四方に影響を及ぼした。日本の歴史は長く中国文明圏の中にあった(現代日本は西洋起源の近代文明の内にある)。

枢軸時代

枢軸時代とは、ドイツの哲学者で精神科医でもあったカール・ヤスパース(1883年–1969年)が唱えた紀元前500年頃に(広く年代幅をとれば紀元前800年頃から紀元前200年にかけて)おこった世界史的、文明史的な一大エポックのことである。枢軸時代の他に「軸の時代」という訳語があてられることもある。

この時代、中国では諸子百家が活躍し、インドではウパニシャッド哲学や仏教、ジャイナ教が成立して、イランではザラスシュトラツァラトストラ、ゾロアスター)が独自の世界観を説き、パレスティナではイザヤ、エレミヤなどの預言者があらわれ、ギリシャでは詩聖ホメーロスや三大哲学者(ソクラテスプラトンアリストテレス)らが輩出して、後世の諸哲学、諸宗教の源流となった。

なお、枢軸時代とは「世界史の軸となる時代」という意味であり、ヤスパース自身の唱えた「世界史の図式」の第3段階にあたり、先哲と呼ばれる人びとがあらわれて人類が精神的に覚醒した時代、「精神化」と称するにふさわしい変革の起こった時代ととらえられる。

出典:枢軸時代<wikipedia

イラン・パレスティナギリシャオリエント文明圏だ。枢軸時代は三つの文明圏でそれぞれ独立してあらゆる学問・思想の天才たちが現れた時代だ。文字が出現して数千年経ち、積み重ねられた情報・記録の上に彼らが現れた。

ギリシア思想は理論的、インド思想は形而上学的、中国思想は処世的、ヘブライ思想は宗教的という大まかな性格の相違はあるにしても、それらはいずれもそれ以前の素朴な呪術的・神話的思惟方式を克服して、あれこれの日常的・個別的経験を超えた普遍的なるもの(ギリシアではロゴス、インドではダルマ、中国では道、ヘブライでは律法)を志向し、この世界全体を統一的に思索し、そのなかにおける人間の位置を自覚しようとするものであった。じつにここに人間の精神史が始まったというべきである。ギリシア思想とヘブライ思想はその後――ともに近代西欧文明のなかへと吸収されていったが、インドと中国の精神文明は現在にいたるまで本質的にこの時代に形成されたものをそのまま持続させている点も、ここに注目しておかなければならない。われわれが今日、東洋の思想的遺産として語っているものは、本質的にこの時期につくられたものにほかならない。

出典:伊東俊太郎/新装版 比較文明/UPコレクション/2013(初版は1985年出版)/p68

文明の拡大に伴い、多くの文化に触れた人びとは文化の違いだけでなく共通性に興味を惹かれたのだろう。そしてその行き着くところが普遍性となる。人びとは四方を旅して観察したり記録を読み漁ったりして情報を得て普遍性に対する答えを出し続けた。

そうして、各地域はある程度の答えを出して、その答えがそれぞれの地域の独自の文化(行動様式、物の考え方)を形成していった。

枢軸時代を、ヤスパースは「人類が精神的に覚醒した時代」、伊東氏は「精神史が始まり」としている。

個人的には、簡単に言えば、「その地域における哲学または思想の探求が始まった時期と解釈している。

少し難しく言えば、以下のようになる。

ヤスパースのいうところの「人類が精神的に覚醒した時代」というのは発達心理学における「青年期」に当たるのかもしれない。つまり、一個の人間が青年期に「自分は何者であるか」を考えてアイデンティティを確立するように、それぞれの地域は枢軸時代に独自のアイデンティティを形成していった。

東西を移動し続ける遊牧民の世界史的役割

上の引用の続き。

ところでこのような大きな変革が、紀元前8世紀から前4世紀にかけて、西はギリシアから、東は中国にかけて、ほぼ時を同じくして起ったのは何故であろうか。当時これらの四つの領域には無数の小国家や都市が分立しており、たがいにそれぞれ知と富と力を争いあったという共通の土着の条件のなかで、さらにこれに加えてアルフレート・ウェーバーが想定し、日本では石田英一郎氏が説かれたような、中央アジア騎馬民族の移動ということが考えられるかもしれない。[中略]

これらは農耕文化圏に遊牧民の文化が侵入して重なりあうという共通のパターンをもっているように思われるが、こうした考え方は、今日まだ一つの仮説にとどまる。しかし前16世紀以降、遊牧民の農耕文化圏への侵入ということはしばしば(大きな波は3回)行われ、その最後のものが前8世紀から前6世紀にかけて、ヨーロッパから北シナにいたるまで、騎馬民族の大移動となって現れていることは歴史的事実であるから、これは注目に値する検証可能な仮説であると考えられるのである。

出典:伊東氏/p68-70

遊牧民(≒騎馬民族)はステップ(steppe)の草原を移動して生活している。

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ユーラシアステップ帯(エメラルドグリーンの部分)

出典:ユーラシア・ステップ<wikipedia

遊牧民の生活する領域は上のように広い。農耕が不可能なステップ地帯ユーラシア大陸の高緯度に広がる。遊牧民は西から東まで横断するわけではないが、彼らの文化は西から東まで共通する部分が少なくないらしい。ヨーロッパ系の人の骨が北東アジアで発見され、その逆もある。フン族匈奴説が根強いのもこれらのことに関連する。

ユーラシア大陸を横断して文化を伝播できる可能性のある人びとは遊牧民に限られる。時代が下るとシルクロードを往来するキャラバンやインド洋を往来する交易船がその役割を果たすが、時代を遡るにしたがってそれらの影響力は絞られてるだろう。

古代における遊牧民の文化伝播・交流の役割は今の私には分からない。分かり次第この記事を更新しよう。



現代日本は西洋起源の近代文明の内にある」と書いたが、近代文明は現代の地球を覆っている。近代文明は欧米の軍事力とカネに支えられている。中国や一部のイスラム圏はこれに抵抗しているようにみえるが、軍事力とカネにおいて欧米に勝てない。中小国は欧米の流儀に従わざるを得ない。

ちなみに日本はカネはあるが あらゆる武力行使に否定的なため、他国への拘束力は弱いと思う。仮にフィリピンやインドネシアシーレーン防衛のために日本の軍事基地を置くことになれば、東南アジアにおける日本の影響力は計り知れないほど大きくなるだろう。

「先史/ホモ・サピエンス 」カテゴリーの主要な参考図書およびウェブサイト

今回は疲れた。

まず複数ある参考図書が言っている年代が違う。主張が違うことも多い。

なんとかつじつまを合わせるなり両論併記なりして切り抜けようとすると、ナショナルジオグラフィックやネイチャーの記事が新しい説を発表しているというような感じだ。

あたらしい説のほうが信頼できるかといえばそうでもない。今現在でも論争中の案件なんてたくさんあるからだ。このブログでは、結局独断と偏見で「説」の選択をしたわけだが、新しめのものを採用したか両論併記したかのどちらかにした。

以下に主要な参考図書を書いていく。

NHKスペシャル取材班/Human~なぜヒトは人間になれたのか~/角川書店/2012

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

テレビのドキュメンタリー番組を書籍化した本なので避けようとしていたのだけれど、読んでみるとかなり惹き込まれた本だった。

有名な学者、その筋の第一人者、発掘現場の代表者などにちゃんと会いに行ってインタビューをしているし、アフリカの狩猟採集民であるサン人を取材するためにカラハリ砂漠に行くなど膨大なコストがかかっている。縮小しているテレビ業界においてもNHKの財力は健在だった。

一章ごとのストーリーをすべて信じることは危険だと思うが、その過程で出てくる多くの学者の主張は知る価値のあるものが多いのではないか。2010年以降に出版された先史関連の本は少ないので、新しい知識を得るためにもこの本を読むことは有益だと思う。

先史というと、石器やら土器やら骨やら墓やら遺跡やらの形がどうのこうのというつまらない話と訳が分からない用語が並べてあるだけの考古学の本を思い浮かべるのだが、この本は元がテレビ番組だけあってそれらのようなものを極力つかわずに構成されていた。先史に関してほとんど全く知識が無い私にとって、これはとても助かった。

ただしある程度の知識を持っている人には「NHK取材班」の見解に違和感または不満を持つだろう。

パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)

ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた

ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた

この本は原著の出版が2015年で、私が読んだ書籍の中で一番新しいものだ。

正直言って「イヌがネアンデルタール人を絶滅させた」ことはどうでもよく(監訳者の河合信和氏ですらこれについて現段階では支持していない)、新しい知識・情報を得るために読んだようなものだ。そしてこの本はその要望に良く応えてくれた。この本を読まなければ、遺物資料の年代測定方法が近年(2014年?)においてより厳密になってこれからの先史の論争に大きく影響を与えそうなことを知らないままだった。

イヌの件に関しては、著者も認めているように確信できるような資料は無いので、今後 著者の主張を裏付ける資料が発掘されるかどうか というところだ。逆に主張を否定する資料が発掘されるかもしれないが。

スティーブン・ミズン氏/氷河期以後(上)(下)/青土社/2015(原著は2003年に出版)

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

この本も石器や骨の話の比率が少なくて読みやすい本だった。発掘・研究を元にして古代の情景を描写する手法を採っている。このようなやり方に反対する考古学者もいるようだが、私は素人の理解の助けになると思う。石器や骨角器をどのように使ったのかとか、肉や穀物をどのように調理したのかとか、考古学者はもっと丁寧に説明してほしい。時代による形の違いも大切だとは思うが。

大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

この本は、上で書いたような考古学の本だ。つまり「石器やら土器やら骨やら墓やら遺跡やら」をつらつらと書いていく本だ。『氷河期以後』を読まなかったらこの本を理解できなかっただろう。理解する以前に途中で挫折していた。

とりあえず1997年当時の研究成果(?)が実直に書かれているので、ちゃんと読めば有益な本だ。ただし古い本なのでこの本が今、どこまで通用するのかは分からない。私は年代についてはこの本の示したものを利用するのを避けた。

ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)

題名の通り、気候の面から歴史を読み解いている本だ。ただし考古学者である著者は石器や遺跡のこともしっかりと解説している。

気候変動のメカニズムについて紙数を割いて説明している。丁寧で入門者向けのものだ。これより難しいメカニズムの話を理解するためには何を読めばいいのか分からない。「ハインリッヒ・イベント」とか「ボンド・サイクル」とか。・・・メカニズムの話はもうやめよう。

『氷河期以後』ほどではないが、情景を描写する紙数が多くて読みやすい。歴史時代についても書かれているので、また参考図書として利用すると思う。

古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 (河出文庫)

古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 (河出文庫)


↑これは文庫化したもの。

ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)

気候の文化史―氷期から地球温暖化まで

気候の文化史―氷期から地球温暖化まで

感想は上の『古代文明と気候大変動』とほぼ同じ。

この本は、先史の部分が少ないので先史シリーズではあまり利用できなかったが、歴史時代の部分は大いに利用しようと思う。

参考にしたブログ『雑記帳

雑記ブログだが、先史の最新の論文を紹介してくれる貴重なブログ。私とは違い先史の知識が半端ないので論文の評価も参考にさせてもらった。このブログの「古人類学」カテゴリーを全部読んだら、私は先史のページの大半をリライトしなければならなくなるだろう。

ナショナルジオグラフィック日本版サイト

数年前の記事まで残しておいてくれるありがたいサイト。ネイチャーの論文の解説も載っていることもある。

論文掲載サイト 『Nature』 『Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)』

検索してよく引っかかるので参考にさせてもらった。しかしabstract以外はほとんど読んでいない。読解力・英語力その他知識不足のため。



先史:アフリカ大陸の農業の起源について

農耕の起源について続けて書いてきたが、この記事では農業(農耕と家畜)の起源について書く。もしかしたらアフリカ史的には農耕起源より家畜の起源のほうが重要かもしれない。

他の多くの地域もそうだが、アフリカの農業の起源についてある程度の通説を形成するには まだ蓄積が足りないらしい。

アフリカ大陸の気候について

アフリカ大陸の地図と気候

まずはアフリカ大陸の地図

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植生の季節変動、2月と8月

出典:アフリカの地図<wikipedia*1

緯度と気候の関係

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大気の大循環のモデル
海陸分布や地形の影響を受けるので、実際の風の吹き方はこの図の通りにはならない。地表面を吹く風は、北半球では進行方向右へ、南半球では進行方向左へ曲がる。
(1)熱帯収束帯(赤道低圧帯) 赤道付近ではあたためられた大気が上昇気流を生じ、低圧帯となり降雨がもたらされる。
(2)亜熱帯高圧帯(中緯度高圧帯) 赤道付近で上昇した大気が冷やされ、緯度20~30度付近で下降気流が生じて高圧帯となり、晴天がもたらされる。[以下略]

出典:中村和郎 監修/よくわかる地理/学研教育出版/2013/p49

熱帯収束帯は熱帯で常に低気圧なために常に雨が降り熱帯雨林が、亜熱帯高圧帯は亜熱帯で常に高気圧なため常に晴天で砂漠が、形成される。そしてアフリカ大陸では上の地図のようになる。

熱帯雨林気候と砂漠気候のあいだにはサバナ気候とステップ気候がある。サバナ気候は熱帯に属し、夏季と雨季を持つ。ステップ気候は乾燥帯に属し、夏季と雨季を持つが雨季でも少量の雨しか降らない。サハラ砂漠の南縁のステップ地帯をサヘル(地帯)と呼ぶ。ちなみに、サヘルから大地溝帯以東の東アフリカを除いた中央・西サヘルのことを(歴史的)スーダンと呼ぶ(これは歴史で使われる地域名称であり、現在の国名とは別物だ――スーダン(地理概念)<wikipedia参照)。

完新世前期のサハラ砂漠

『農耕起源の人類史』*2によれば、完新世前期のサハラ地域は現在よりも湿潤で、前8000年頃の砂漠は現在の北半分ほどまで縮小していた。年代は学者によってマチマチだが、サハラの中央部にあるタッシリ・ナジェールの先史時代の岩壁画遺跡には8000年以上前の絵画には水牛、象、サイなどの動物が描かれ、前4000年ごろのものも象やキリンが描かれていた。これが前3500ごろの絵画になるとウシの放牧が描かれ、水牛など絶滅した動物は姿を消した*3

乾燥化したサハラは砂漠が南下した。これに伴いサハラの南部で暮らしていた人びとは南下を余儀なくされたが、一部は東のナイル川流域に移住し、エジプト文明の文化形成に寄与した。

エジプトの農業経済の出現

かつては多くの学者はエジプトに農耕起源があると思っていたようだが、そこに祖先野生種が存在せず、西アジアから農耕技術のパッケージが到来するまで農耕の形跡はなかった。農耕技術到来の時期は前5500年だが、この時期はギリシアやイタリアよりも遅かった。その理由はレヴァント(地中海東岸)とナイルデルタのあいだに人を近づけないシナイ砂漠があったからだ。

結局、エジプト文明の農業の由来はほとんどが西アジアで、唯一と言っていい「起源」が家畜化された在来のウシだけだった。*4

ウシの家畜化

多くの考古学者はアフリカでのウシの家畜化は前6000~5000年以降であるとの見解を示している。その他のヒツジやヤギの家畜化は西アジア由来だ。

フィオナ・マーシャル(Fiona Marshall)とエリザベス・ヒルデブランド(Elisabeth Hildebrand)は東アフリカにおける初期のウシ家畜化について、その主な原動力は「予想可能な資源へのアクセス」への願望であったとしている。別の言葉でいえば、ウシを放牧するのには十分な環境ではあるが、つねにウシが生存できるほど湿潤ではない環境下に住むグループは牧畜をし、環境に左右されるたびに資源条件のよい地域に移動するような方式に転換した。このシナリオは西南アジアで起った順序をくつがえすものであり、もっとも興味をそそられるものである。サハラ以南のアフリカでは、放牧と土器制作は植物の栽培化以前におこったと考えられ、家畜化の初期段階は定住性ではなく移動性とともに発展した。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p162-163

西アジアでは「定住化→農耕→家畜」の順で出現したが、アフリカでは移動性狩猟採集民がウシの家畜化をするようになった。エジプト南部にあるナブタ・プラヤ遺跡やビル・キセイバ遺跡は完新世前期の湿潤期においてウシの牧畜をしていた。

ウシの牧畜は完全な定住の条件下で行われたわけではないようだ。上述のナブタ・プラヤやビル・キセイバは夏場の放牧地だったようだ*5*6。また環境の変化で放牧地が利用できなくなった時は、速やかに別の場所を探すしかなかった。このような移動性は広範なネットワークをつくった。ウシの牧畜はサヘルと湿潤化されていたサハラで行われていた。このネットワークの中で文化が伝播していった*7(余談だが、中央ユーラシアの遊牧民も同様なネットワークがあり文化を共有した。東西ユーラシアの伝播の担い手にもなったと思われる)。

農耕の起源について

[アフリカにおける]作物のなかでもっとも重要なものは、穀物のモロコシ、トウジンビエであり、両方とも乾燥したサヘル地帯とサバンナ地帯で栽培化された。アフリカイネとギニアヤムは西アフリカの森林―サバンナ境界の作物となった。さらに西アフリカのアブラヤシ、ササゲ、ピーナッツ、またエチオピアの作物としてシコクビエ、粉にして平たいパンをつくる穀物のテフ(Eragrostis tef)、葉の根本の一部を食用にするバナナの仲間であるエンセーテ(Musa ensete)などがくわわった。

前述したすべての穀物は西南アジアと中国の穀物同様一年生である。しかし、アフリカの穀物は他家受粉の傾向が強く、意識するしないにかかわらず、人間による選別は、野生植物が分布する範囲外に植えられた場合のみ機能したであろう。このことは非常に重要であり、アフリカの穀物は西南アジアのものほど容易には栽培化されなかった可能性がある。高度に合目的になった人間の行為が栽培化の過程を完結させるのに必要だったのかもしれない。

もしそうであるなら、アフリカ在来植物の栽培化が近年になってからおこった証拠が発見されてもそれほどおどろくにはあたらない。トウジンビエは紀元前訳2000~1500年にモーリタニアのダール・ティシット(Dhar Tichitt)と北ガーナのビリミ(Birimi)で栽培化が開始された。モロコシとアフリカイネは紀元前一千年紀にようやく栽培化された。モロコシとアフリカイネがアジア北西部とおそらくアラビア半島に、後期ハラッパー文化(紀元前1900~1400年頃、詳細は第4章参照)にもちこまれたという証拠から支持される。紀元前2000年以前、雑穀は実際に栽培されていたかどうかはともかくとして、野生植物としては採集されていた。

出典:農耕起源の人類史/p161-162

年代についてはまだ論争中で、栽培が前5000年にまで遡るという説もあるようだ。上の著者ベルウッド氏はアフリカ在来の野生の穀物が他家受粉であることを重要視して、年代を遡らせることに慎重だ。書籍には書いていなかったが、西アジアの栽培に関する知識がアフリカ在来穀物の栽培化に寄与したと考えているのだろう。

アフリカ中・南部における農耕の出現

紀元前1500年、熱帯雨林とおそらく赤道以南のすべての地域をふくんだアフリカ大陸の南半分は、狩猟民と採集民の土地としてのこされていた。つまり、有史以前の世界における、もっとも衝撃的で広範囲におこった農耕拡散がはじまるまでは、ここは未開拓のままのこされたのである。

出典:農耕起源の人類史/p166

アフリカ大陸の赤道付近の熱帯雨林地帯には「ツェツェバエ地帯」である。ツェツェバエはヒトや家畜を重病または死に追いやる感染症を引き起こすので人びとの移動を制限した。



*1:パブリック・ドメイン/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%90%86#/media/File:Africa_FebAug.gif

*2:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p154-155

*3:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p211-212

*4:農耕起源の人類史/p158

*5:Nabta Playa<wikipedia英語版

*6:Bir Kiseiba<wikipedia英語版

*7:農耕起源の人類史/p164

先史:南北アメリカ大陸の農耕の起源について

紀元前3000年頃までは、アメリカ先住民すべてが基本的には狩猟採集民であり、異論もあるがおそらくはいくつかの熱帯地域では初期段階から園芸をおこなっていた。[中略] エクアドル南部やペルー北部のいくつかの地域では例外的にきわめて早期にみつかっているが、アメリカ大陸熱帯地域全体でもっとも古い農耕定住から先古典期をへて後期都市期への発展は、紀元前2000年~300年のあいだにおこった。西南アジアにおける先土器新石器時代のイェリコ期から原文字ウルク期まで、あるいは中国における裴李崗(はいりこう)期から商王朝までの約5000年以上の期間におこったことが、この短期間におこっているのである。人口密度の高い熱帯アメリカ地域の文化連続は、劇的な様相がある。この発展はほかの地域より少し遅れてはじまり、急激でひどく競争的でとても創造的である。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p230-231

西アジアと中国は必要に迫られて栽培化を発明したが、アメリカ大陸の栽培化は園芸の範囲内ということらしい。初期の栽培化も主食となりうるようなもの(例えばトウモロコシ)ではなく、香辛料や工芸植物(例えばトウガラシやヒョウタン)だった。前2000年より前に栽培化された作物はいくつもあるが、これらは園芸または小規模な農耕の範囲内だった。

前2000年以降に本格的に農業が開始され、家畜や役畜も利用されるようになる。また文化間の交流も盛んになったようで、文化の共通性が高くなっていった。

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出典:ベルウッド氏/p229

上の地図が示すように、幾つかの地域で独自に農耕が起こった。同じ作物でも別々に栽培化されたものがいくつかあるようだ。

栽培作物

以下に幾つかの作物の栽培化の起源を書いていくが、上記の通り、本格的な(集約化した?)農業が始まるのは前2000年頃と考えたほうがいい。

トウモロコシ

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Photo by Nicolle Rager Fuller, National Science Foundation

出典:Corn Domesticated From Mexican Wild Grass 8,700 Years Ago/National Geographic/March 23, 2009

上の記事によれば、トウモロコシは8700年前よりも前にテオシントという植物から栽培化された。写真の通りテオシントとトウモロコシは似ても似つかないが、人が数千年かけて選別して大きな実をつけるものに変えていった。

ジャガイモ

「Late Archaic–Early Formative period microbotanical evidence for potato at Jiskairumoko in the Titicaca Basin of southern Peru」*1という論文によれば、ジャガイモの栽培化はティティカカ湖畔のJiskairumoko(遺跡名)で前3400年に始められた。この論文のAbstractしか読んでいないが、Abstractでは栽培化と農耕を分けて書いていなかった。さらに同時期に定住化が始まったとしている。ここらへんは論文発表の段階では差別化はまだできていなかったのかもしれない。

この論文を取り上げたニューヨーク・タイムズの記事によれば*2、同じ場所で前2000年に作られた金のネックレスが発見された。これは社会の階層化を示すものとされる。

現在普及されているジャガイモとティティカカ湖畔で栽培化されたジャガイモの関係について。↓

ジャガイモは南米アンデス中南部のペルー南部に位置するチチカカ湖畔が発祥とされる[15][16]。もっとも初期に栽培化されたジャガイモはSolanum stenotomumと呼ばれる染色体数24本の二倍体のもので、その後四倍体のSolanum tuberosumが栽培化され、現在世界中で広く普及するに至ったとされている[17]。

出典:ジャガイモ<wikipedia(参考文献は山本紀夫 『ジャガイモとインカ帝国 : 文明を生んだ植物』 東京大学出版会、2004年。ISBN 4130633201。)

カボチャ

セイヨウカボチャ:Cucurbita maxima

現在「かぼちゃ」として市販されているもののほとんどが「栗かぼちゃ」なのだそうだ*3。栗かぼちゃというのは「セイヨウカボチャ(西洋かぼちゃ、学名: Cucurbita maxima)の日本の品種群」だそうで、「Cucurbita maximawikipedia英語版」によれば、4000年以上前に南米で栽培化されたものだ。

ニホンカボチャ:Cucurbita moschata

栗かぼちゃとは別に日本で市販されている種。「ニホンカボチャ」とは言っても原産地は南米らしい。いつ頃栽培化されたのかは分からない。*4

ペポカボチャ:Cucurbita pepo

「カボチャの農耕起源は8000年以上も前」と言われるが、そのカボチャは「ペポカボチャ」という種で、メキシコで栽培化された(Guilá Naquitz Cave<wikipedia英語版参照)。ペポカボチャの品種で有名なのはズッキーニだが、食用以外の用途もあるらしい。

*1:Claudia Ursula Rumolda and Mark S. Aldenderfer/PNAS/2016

*2:Who First Farmed Potatoes? Archaeologists in Andes Find Evidence/New york times/ 2016/11/18

*3:栗かぼちゃ<wikipedia

*4:Phylogenetic relationships among domesticated and wild species of Cucurbita (Cucurbitaceae) inferred from a mitochondrial gene: Implications for crop plant evolution and areas of origin/PNAS/2002/authorsはリンク先参照

先史:ニューギニア高地における農耕の起源について

『農耕起源の人類史』*1には農耕の起源地として西アジア、中国のほかにアフリカと南北アメリカ大陸とニューギニア高地を挙げている。

この記事ではニューギニア高地について書く。ニューギニア高地という言葉自体聞きなれていないので、まず場所の説明から入ろう。

ニューギニア高地の場所の確認

ニューギニア島オーストラリア大陸の北、赤道の南(南緯5度付近)に位置する。西半分がインドネシア、東半分がパプアニューギニアの領土。パプアニューギニアが国名であることすら知らなかった。

まず、主に『農耕起源の人類史』*2を参考にしてニューギニア高地について書く。

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ニューギニア島の地形図

出典:ニューギニア島wikipedia:ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B3%B6#/media/File:New_Guinea_Topography.png

ニューギニア島にはいくつかの山脈が連なり脊梁山脈を形成している。その長さは2000kmで(奥羽山脈は500km)、その山々の間に幾つかの峡谷がありそこに人口が密集している。峡谷と言っても海抜1000mを超える高地だ。ニューギニア高地とはこのような高地(峡谷)のことを指す。

気候

ニューギニア島は前述の通り赤道付近の島だが、ニューギニア高地は高地だけに低地の熱帯気候とは異なり、温暖な気候になっている。(ただし赤道に近いため季節性は無い)。そのため根菜類や樹木作物などの農業に適している。

遺跡

独自で開発された農耕の遺跡はパプアニューギニアの領域にある谷間(Wahgi Valley)で発見された。

クックの初期農耕遺跡
パプアニューギニア南部の海抜1500m地点の湿地帯にある、ニューギニア島最古の農耕地。発掘調査で、少なくとも7000年前から耕作が行われてきたことが判明したが、1万年前までさかのぼる可能性もある。タロイモやヤムイモなどの生産活動が、開始以来一度も途絶えていない場所でもある。約6500年前に植物採集が農業へと変わったこの場所では、初めは単なる盛り土をして耕作していた。しかし、やがて木製の道具で溝を掘って湿地を干拓し、4000年前にはバナナの栽培も始まったことが考古学的に証明されている。これほどの長期にわたり、独自の農業の発展や農法の変化について考古学的な裏付けのある場所は、世界にも類がない。

出典:ユネスコのworld heritage list(ソースはNFUAJ=日本ユネスコ協会連盟となっている)

農耕が起こった原因はヤンガードリアス期における気候変動や長期にわたる旱魃が挙げられているが確定されていない。なお、家畜化は為されていなかった。

これらの農耕技術は高地には拡散したが低地には限定的だった。その理由は高地(峡谷)により孤立していることと、低地にはマラリアが蔓延していることが挙げられる。

農耕の出現の前後では文化は連続しており急激な変化は見られず、農耕技術の進歩にも長い年月を要している。農耕起源となり文化文明の中心となった西アジアや中国とは対極的だ。

*1:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版) 

*2:p218-223

先史:中国における農耕の起源について

中国の初期農耕は黄河流域(華北)がアワ・キビ、長江流域(華中)はイネ(コメ)とされる。

中国本土(シナ)における農耕の起源または初期農耕の証拠はきわめて少なく、複数の仮説が並んでいる。

イネの栽培の起源について

栽培家の候補地として幾つかの説を書いてみる。

珠江流域起源説

イネの栽培種(Oryza sativa)の祖先である野生種=ルフィポゴン(oryza rufipogon)の生息地と栽培化の起源が判明したという研究結果がネイチャーに2013年10月に発表された(遺伝:イネゲノムの変異マップから栽培イネの起源が判明)。研究者の一人である倉田のり教授(国立遺伝学研究所)がインタビューに答えている。

――具体的に、どのようなことがわかったのでしょう?

ジャポニカの最も古い系統をたどっていったところ、中国、珠江の中流域に行き着き ました。そのジャポニカ系統につながった野生イネの生息地もまた、珠江の中流域であることがわかりました。また、インディカ系統についても調べたところ、 やはり珠江中流が起源で、インディカ系統につながった野生イネの生息地も、同じ珠江の中流域でした。これらのことは、珠江の中流域において「倒れにく い」、「実が落ちにくい」といった栽培に適した野生系統のあるイネが選び出されて稲作がはじまり、やがてジャポニカ系統は単一系統由来のものとして、また インディカ系統は各地の野生イネ系統と交配しながら、アジア各地に広がっていったことを端的に示しています。

また、中国大陸から日本に伝わっ たジャポニカ系統と、タイ、ベトナム、インドなどに広がったインディカ系統とでは、遺伝的な距離がかなり大きいことも明らかになりました。ほぼ同一の祖先 をもちながらも、栽培化のための選択圧が約1万年も加わった結果、遺伝的にかなり異なる2つの系統に進化したことが伺えます。

出典:インタビュー 第15回 イネの栽培化は、中国の珠江流域で始まった! <国立遺伝学研究所

  • 野生種ルフィポゴンの生息地は珠江の中流域(原産と思ってよいのか?)。
  • 栽培化の起源も珠江の中流域。
  • 野生種ルフィポゴンは「倒れにく い」、「実が落ちにくい」といった特徴があったため選び出されて栽培化された。
  • 初めの栽培化で出来たのがジャポニカ種
  • インディカ種はジャポニカ種が野生イネ系統と交配した結果 出来た。
  • 栽培化の起源は1万年前。

2012/10/26付のマイナビニュース *1では《研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている》とまで語っている。

これを証明する「現物」は発見されたのだろうか?今のところネット検索では探せていない。この論文の言うところの珠江の中流Figure 4b)は南シナ海に近い高温多湿の気候だから遺物が残っていないのか?

『神話から歴史へ』*2によれば、中国の新石器時代前期にあたる農耕文化が栄えた時期になっても珠江流域は狩猟採集文化のままだった。珠江流域に農耕文化(稲作文化)が興るのは紀元前3000年以降ということだ。

長江中流域起源説

西江清高氏(中国史1/2003*3 )によれば、より確かな稲作農耕の最初期の遺跡は、長江中流域の彭頭山文化とのこと。この文化はwikipediaによれば紀元前7500年頃 - 紀元前6100年頃(彭頭山文化 - Wikipedia )。この期間のどの時点で稲作農耕が出現したのかは私には分からない。

長江下流域起源説

本田進一郎のブログ記事によれば*4、長江下流域の浙江省上山遺跡(Shangshan)で発見された陶器の破片についていたイネのプラントオパールを放射性炭素年代測定で調べた結果、9400年前という数字が出たそうだ。

9400年前は紀元前7400年頃ということだから、長江中流域起源説と年代は大して変わらない。

上述の本田進一郎のブログ記事と関連するもう一つ記事*5は、倉田のり氏の珠江流域起源説についても言及されていて興味深い。

アワ・キビの栽培化の起源について

アワ・キビの栽培化および農耕の起源については確かなことは分かっていない。

『農耕起源の人類史』*6では、その候補地を賈湖遺跡(前7000年~)があるイネとアワ・キビの農耕文化が重なる地域と想定している。前述の『神話から歴史へ』(p197)もこの地域に注目している。ただし 二つの書籍とも「イネの栽培化の起源は長江中流」を前提にしている。

賈湖遺跡は黄河中流南部の裴李崗文化(はいりこうぶんか 前7000年~)に属するが、淮河中流の遺跡と言ったほうがいいかもしれない。

ネット検索によると、アワ・キビの栽培化の起源はだいたい1万年前あたりということらしい。*7 *8



中国の先史は「中国文明」のカテゴリーでやろう。

*1:ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域」

*2:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p205

*3:世界歴史大系 中国史1 先史-後漢山川出版社

*4:イネの起源1:Origin of Oryza sativa – 農業と本のブログ 2018年4月6日

*5:イネの起源2:Origin of Oryza sativa – 農業と本のブログ 2018年4月11日

*6:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p184

*7:キビの参考元:The History of Domestication for Broomcorn Millet - ThoughtCo. March 08, 2017

*8:アワの参考元:Origin and Domestication of Foxtail Millet - ResearchGate December 2017| Request PDF

先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代

PPNB期に「新石器革命」、すなわち農業を基本とする生活様式が確立した。この人類の(狩猟採集から食料生産への)生活様式の転換は生活の安定をもたらし、人口は急激に増え、文化も育った。

しかし数百年に及ぶ繁栄した文化を支え続けてきた森林がついに枯渇し始め、さらに気候変動による乾燥化が進み、西アジアの文化は衰退の局面に入った。

PPNB後期からの衰退

PPNB期の人口増加とその人口を支えうるほどの経済の複雑化は、もっともなことであるが下降期をむかえた。レヴァントの紀元前7000~6000年頃の様子にはこのことがはっきりとみてとれる。レヴァントの大型遺跡のうち、つづく土器新石器時代まで継続的に居住されたものはほとんどない。土器がひろく普及した紀元前7000年期頃には、遺跡の多くは放棄されるか縮小した(ボクラス、イェリコ、ベイダ、アブ・フレイラではこの傾向はとくに著しい)。この状況の背景についてはヨルダン渓谷のアイン・ガザル遺跡で詳細な研究がおこなわれた。紀元前6500年頃には、脆弱な生態系にひきずられた文化退行の証拠がみられるが、これはおそらく乾燥化によるものと思われる。アイン・ガザル遺跡は、PPNB期のあいだに5ヘクタールから10ヘクタールへと成長し、紀元前6750年頃のPPNC期(先土器新石器時代C期)には13ヘクタールの大きさに達した。しかし巨大化のピークは、この地域のほかの遺跡の放棄に同調しておきていた(アイン・ガザル自体は土器新石器時代のヤルムーク期においてもきょじゅうされている)。それは今日の多くの都市にみられるような、周辺地域で巨大な人口を養えなくなったことによる都市への急激な人口流入だったようである。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p96

・上の「紀元前7000年頃」は「紀元前7000年頃」の誤りだろう。

簡単に要約すると前7000年紀に人間活動による生態系の消耗と気候変動による乾燥化によって多くの集落で維持が不可能になり、集落廃棄を余儀なくされた。この後、アイン・ガザルでも衰退期が訪れた。

西アジアでは全体的に同じような減少が起こった。まず農耕経済が破綻した。長年の農耕地利用で生産力が無くなったようだ。人びとは牧畜経済へ移行したがこれに伴い人口は減少した。そして文化退行となる(PPNB期後期に家畜が一般化するが、これは農耕地の消耗と関係があるのかもしれない)。

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中東地域における考古年表。紀元前15,000~5000年の遺跡と文化、おおきな気候変化をしめす(cauvin 2000を中心に修正をくわえた)。実線はPPNB文化の範囲である。コヴァンによると、PPNB文化は中部レヴァントあるいはユーフラテス川中流域を起源として、この範囲に拡散したという。太字は時期あるいは文化名を示す。

出典:ベルウッド氏/p75

上の年表で、数千年のあいだ西アジアの文化を支え続けたヨルダン渓谷が「(牧畜民)」とだけ書かれているところは注目点の一つだろう。単なる憶測だが、気候変動による乾燥化のみの影響だけならヨルダン渓谷は文化の継続を維持したかもしれない。

西アジアにおける土器の出現

西アジアの土器の出現の時期についてはよく分からない。上の年表によれば前6000年頃と言えるが、ネット検索によると前7000年頃とするページもある。とりあえず前7000~6000年頃として先に進もう。

上で示した年代と比べると東アジアの時の出現は一万数千年前とかなり早い。この年数の開きの原因の一つに調理の違いがあった。東アジアの土器の代表的な利用法はドングリ類のアク抜きだ。土器の出現によってドングリやトチノミは基幹的食料となって革新的な影響を与えた。土器は煮炊きの調理に活躍した。

これに対し、西アジアではドングリ類はまず粉に挽き割ってこれを水にさらして食用にした。煮炊きは石器を使ったようだ。時代が下り、コムギ・オオムギを生産するようになっても状況は変わらなかった。

西アジアで土器が出現した当時、つまり土器新石器時代の初期の利用法は貯蔵のためだった。そして土器の出現によって西アジアの情勢はほとんど変わらなかったという*1

実は、時の観察以外にもこのように推察される根拠がある。というのも、西アジアでは時の発明以前から他の素材による容器が盛んに作られ、それらは明らかに煮炊き用ではなく貯蔵や運搬を目的としてものであった。そして時の発明にはそれらの容器が大きな影響を与えたと思われるのである。土器以前の容器には石製容器や木製容器、またバスケットや皮袋といったものがあるが、土器との関連で何といっても興味深いのはプラスター容器であろう。

プラスター容器とは、石灰岩や石膏を焼いて粉にし、それを水でこねてさまざまな容器に形づくったもので、白色容器と呼ばれることもある。この容器は本格的な土器が登場する以前のPPNB中期に出現し、同後期に盛期を迎え、土器新石器時代に入って時が一般的になってしばらくたつと姿を消してしまう。その制作に焼成の工程を経ることや混和剤を混ぜたり、器面を調整したり、可塑性のある素材を利用することなど、土器との共通点が非常に多い。いわば土器作りへのノウハウを、プラスター容器作りで人々が学んでいたということができよう。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p75-76

プラスター容器と土器の作成燃料(つまり木材)の消費の違いが気になるところだが、分からない。

文化の低迷が続く土器新石器時代が示すもの

土器新石器時代の期間も上に書いた土器の出現と同様によく分からない。輝かしい先土器新石器時代とは対象的に文化退行期の土器新石器時代は魅力的ではないのだろう。

ここではネット検索の結果、やっとひとつ見つかった文章を貼り付けておく。結論だけ貼り付ける。

・・・以上のことから、土器新石器時代における集落規模の縮小、公共的建築物の消失、威信財の減少という姿が明確となった。高度に複雑化した先土器新石器時代の社会システムが、その後期あるいは末期に崩壊してしまったと考えることができ、これまでも「新石器時代の崩壊」と呼ばれていた現象が確かにこの時期に認められることを具体的な資料に基づいて明らかにすることができたと言える。

しかし、土器新石器時代を単に社会システム崩壊後の混乱期あるいは停滞期と捉えるだけでは十分ではないと思われる。これまで西アジア新石器時代は、チャイルド(G.Childe)の主張に従って、農耕牧畜という食糧生産の開始によって定義されてきた。しかし、動植物資料の実証的研究が進んだことにより、今では農耕牧畜が確立されたのは先土器新石器時代の後半(PPNB 中期から後期)であったと考えられるようになっている。先土器新石器時代の複雑な社会を生み出し、それを支えたものが必ずしも農耕牧畜という生業ではなかったことになり、むしろ農耕牧畜が確立された段階で「新石器時代の崩壊」が起こっているようにさえみえる。実際、サラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡における調査おいても、出土した動物骨の分析からヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタがすでに飼育されていた ことが確認されており、その割合は出土した動物骨の95%近くにもなる。また、植物遺存体の分析からは、コムギ、オオムギやマメ類なども栽培されていたことが明らかになっている。土器新石器時代は、農耕と牧畜に基盤を置いた社会であったことは間違いない。農耕牧畜という新しい生業の確立が、社会システムの面ではむしろマイナスに働いたようにみえるこうした現象は、農耕・牧畜が果たした役割を過度に強調する傾向にあったこれまでの考え方に、厳しく見直しを迫っていると言えるだろう。

出典:三宅 裕(研究代表者:筑波大学・大学院人文社会科学研究科・准教授)/西アジア新石器時代における社会システムの崩壊と その再編/2011/リンク先:(PDF



「先史」のカテゴリーでは長々と西アジアの先史を扱ってきたが、土器新石器時代の後の歴史については、新しく「メソポタミア文明」というカテゴリーを作って書いていこうと思う。

*1:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p74