歴史の世界

先史:農業の誕生(新石器革命)と西アジアの新石器時代初期

寒冷なヤンガードリアス期が終わると温暖期が到来する。この画期は地質年代地質時代)における更新世から完新世への移行期だ(ヤンガードリアス期は更新世の一部。ヤンガードリアス期や地質年代については当ブログ記事「最終氷期/ヤンガードリアス期/完新世」「地質年代(地質時代)」「氷河期/氷期/間氷期/氷河時代」で書いた)。

変わりやすい気候変動を繰り返した更新世に比べると、完新世はかなり安定した温暖期と言える。農業の誕生は安定期ではなく、温度の上昇期に確立されたと言うべきかもしれない(下の方のグラフ参照)。

農業の起源は西アジアだけではないがこの記事では西アジアの農業の誕生について書く(西アジア以外は別の機会にやろうと思っている)。

農業の誕生(新石器革命)の前に新石器時代初期の文化を理解し、その後に誕生について書く。

気候について

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

西アジアではヤンガードリアス終了直後に平均7℃も上昇したそうだ*3。この温度上昇は住人たちの生活を好転させ、農業の誕生の重要な要素となっている。農業と機構の関係は後述する。

西アジアにおける新石器時代の初期

レヴァントにおけるナトゥーフ期後の最初の1000年は、キャサリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)が1950年代に発掘したイェリコの報告書に準じて、先土器時代A期(PPNA期〔Pre Pottery Neolithic A〕紀元前9500-8500年頃)と名づけられた。PPNA期のつぎには、ケニヨンが名づけたPPNB期(紀元前8500-7000年頃)がくる。そしてその後に、中央レヴァントで農業と環境の退行期があり、それを最近ではPPNC期とよんでいるが、この用語は最近の研究報告によるものなのでケニヨン自身は使っていない。例外的な事例であるアブ・フレイラのライムギを別とすると、栽培穀類とマメ類は紀元前9000年より後のPPNA期のおわりからPPNB前期になってはじめたあらわれる。

さまざまな文化的な要素が、先土器新石器文化期にはじめてみられ、あるいはより明確にあらわれはじめた。そして先土器新石器文化の全社会が狩猟採集民から農耕民の様式に変化しつつあった。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p80

上の文章のあとに簡潔な箇条書きで重要な諸文化を提示している。興味があるものだけ掻い摘んでみる。

  • 人口増加。集落規模が拡大する。
  • 円形家屋から間仕切りがある長方形の家屋が現れ、これが「旧世界の基本的な建築様式となった」。
  • モニュメントや共同利用施設の出現。いちばん有名なのが東南アナトリアのギョペクリ・テペ。
  • 女性土偶のひろまり。
  • 他界した人を埋葬した後に、頭蓋骨だけを掘り出して「尊敬の念をもって家屋内に」祀ること。プラスターなどで肉付けしたり目のあったところに貝殻を飾ったりした(「plastered skull」で画像検索するとどんなものかが分かる。趣味の良いものとは思えない。お位牌代わりなのだろうか)。
  • 細石器が衰退し磨製石斧が取って代わった。
  • 熟した穂が収穫されるようになった。それまでは脱粒を避けるために熟す前の穂を刈っていた。
  • 最初の家畜動物のヒツジやヤギが出現。これとあわさって栽培作物にますます依存するようになる。

こうした文化はかなりの共通性をもってナトゥーフ文化の範囲を超えて拡大した。

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ナトゥーフ期・続旧石器時代、PPNA期、PPNB期における遺跡の分布(Hour et al.1994など多数の文献にもとづく)。この地図はヒルマンによる。ヤンガードリアス乾燥寒冷期のはじめ(紀元前11,000年頃)の野生穀類の自生地分布もしめしている。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p71(図3-1)

先土器新石器時代のA期とB期の違いの詳細はここでは割愛するが、A期は「レヴァントにおける農耕に依存した共同体が出現した画期」*4、B期は発展拡大期とみなすことができるだろう。(PPNCについては何も知らない)

農業の誕生~新石器革命

1920年代において第二次世界大戦以前の指導的な考古学者だったゴードン・チャイルドは、生活様式における全面的な著しい変貌を反映していると彼が信じていた定住地の突然の出現に言及するために「新石器時代革命」という造語を作り出した。これは、農耕だけではなく、建築物や土器や、表面を滑らかに磨き上げた石斧を含んでいる概念だった。チャイルドは、これが「新石器時代の一括文化」つまり、綱に単一の、分割できない全体としてもたらされるものを形づくっていると考えていた。

出典:スティーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p120-121

後世の私たちはこれが間違っていることを知っている。普通に考えれば、定住がある程度確立していないとさまざまな農業のしくみを開発できるわけがないと思えるだろう。上の引用でベルウッド氏が書いているように「さまざまな文化的な要素が、先土器新石器文化期にはじめてみられ、あるいはより明確にあらわれはじめた」。これを裏返せば、ある程度の諸文化はこの時代より前に西アジアの何処かで長いあいだ存続してきたものだと言える。

これらが、農業を核にして組み合わさって定住・食料生産社会という生活様式を産み出し且つ一般化して、それ以前の狩猟採集社会に取って代わった、これが新石器革命だ。

多くの人にとって新石器革命という概念は、栽培植物をともなった農耕の起源をさしている。それは西南アジアでは紀元前9000~8500年頃のPPNA後期かPPNB前期のこととされている。事実、経済的な革命はその頃には存在しており、その存在なしには後の文明は生まれなかった。しかしこの革命にはまた別の側面がある。それは農耕中心の生活様式を起源地のはるか外まで拡散させたことである。紀元前8000年以降には、一連のできごとがかさなり、PPN(先土器新石器)文化はたいへん勢いよく拡散した。ここできわめて本質的に重要なことが二つある。一つは土地の疲弊による地域的な資源枯渇であり、もう一つはマメを飼料として依存するようになって、動物の家畜化の重要性が高まったことである。どちらの傾向も人間と動物のおしとどめられない増加を反映している。PPNB期はヒツジとヤギに特化した牧畜がはじまった時期にあたり、また目前にせまる一連のメソポタミア文化の土台となる原都市の下地となった時代でもある。後続する文化には、ウバイド、ウルク、スーサや、紀元前三千年紀の輝かしいシュメール、アッカドエラムの諸文明があげられる。これら後の文明が発展したメソポタミア低地は、ウバイド初期の灌漑農民によって紀元前6000年頃に植民された。彼らの経済や文化的伝統の多くはPPNB文化から受け継がれたものである。

出典:ベルウッド氏/p96

ベルウッド氏は以下のような、読者に対する注意喚起を書いている。

西南アジアの環境は壊れやすいものであり、人間集団がひきおこす一つまたは複数の要因(たとえば人口増加、森林伐採、耕地開発、動物の放牧など)が、さまざまな土地荒廃や植生後退、塩害、土壌侵食などの資源劣化をひきおこす。西南アジアの先土器新石器時代の遺跡が歴史時代まで存続した例はまれである。

出典:p90

こうした問題は環境の壊れやすさ云々を除けば歴史時代のどの地域でもあった話で解決策としてさまざまな新しい農業のしくみをつくり土地を捨てることを回避している。当時の西南アジアでもさまざまな回避策が開発されて生活様式に組み込まれていったが、それでも人口増加などの環境悪化を止めることが難しかったのだろう。

農業はどのように誕生したのか?

農業について

農業とは可食植物と畜肉の生産のことだ。農業の誕生とは可食の植物と動物の生産・管理のシステムの確立を意味する。

新石器時代より前にも野生の植物や動物を管理している形跡が見られるが、それを農業というのは一般的ではない。

気候との関係

ヤンガードリアス期につづく紀元前9500年直後に、年間気温が平均7℃も上昇する温暖期にはいった。温暖で湿潤になり冬期の降水量がふえ、前方地域では聞きモンスーン降雨が増加するという完新世前期の気候条件になった。このような条件は野生穀類やマメ類の分布拡大に最適であった。同様に重要なことはこれらの気候条件と高いレベルの気候の安定化がくみあわさったことである。紀元前9000~7300年のあいだに、栽培穀類、マメ類、家畜動物が西南アジア全域において、人びとの生業のなかで急速に重要になった。

出典:ベルウッド氏/p68-69

気候条件は農業誕生を強力に後押しした。

農耕起源

ヒルマンとスチュアート・デイヴィス(Stuart Davies)の実験によって、もし昔の人々が継続的によく熟した穂を鎌で刈ってそれを翌年に播いていたとしたら、非脱粒性のコムギとオオムギのゲノムは非常にはやく選抜されることがしめされた。彼らによると、もし作物がほぼ熟したときに鎌で刈りとるか、ひきぬくかして、そしてもし毎年あたらしい土地にくりかえし種子が播かれたなら、栽培化は20~30年間で達成されうる。しかし、ジョージ・ウィルコックス(George Willcox)によれば、野生穀類と栽培穀類は栽培型が完全に優勢になるまで1000年以上共存期間があった。したがって、実際の栽培化の過程は最終的には栽培型が優先することになるものの、目標にむかって一直線にすすんだとは到底いえない。

出典:ベルウッド氏/p84-85

  • 上の文章についての訳注「栽培型コムギになる過程につては、これまではコンピュータ・シミュレーションの結果などから議論がなされていたがTanno and Willcox 2006, Science 311:1886によって実際に遺跡から出土した植物にもとづいた成果がだされた。それによると栽培型コムギが野生型コムギと入れ替わるには、3000年以上の長い時間がかかったとみられている。p103

上のような話は、日本人がイネのルーツを追い求めるのと同じで興味深い。『氷河期以後』でもこの話は複数の箇所で書かれている。

上でTannoと記されているのは山口大学助教の丹野 研一氏で西アジアにおける植物栽培化の起源についてあるシンポジウムで発表している。

以下は、予稿集から。

おもに考古植物学的な証拠によって、農耕起源の新説が提唱されている。その新説とは、筆者の理解する限りでは、農耕は、西アジア広域の各地において、在地のさまざまな野生植物を利用する栽培活動の試行錯誤の繰り返しによって、数千年間にわたるゆっくりとした速度で多元的に成し遂げられた、というものである。

丹野 研一/世界ではじめての農耕はどのように始まった?/シンポジウム「西アジア文明学の創出1: 今なぜ古代西アジア文明なのか?」/西アジア文明研究センター/2014(リンク:()HTMLPDF) )

家畜の起源

このことについてはベルウッド氏も簡単に触れている(p74)。

いっぽう、家畜化については農耕起源に比べて詳しい説明が見当たらなかった。

ヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタの野生種は狩猟の激化によって数を減じ、PPNB期のおわりまでに、あるいはそれ以前までに、主要な家畜のレパートリーとしてつけくわえらえていた。

ベルウッド氏/p91

上のベルウッド氏の引用でもヒツジとヤギの家畜化について言及している。

こちらもさまざまな地域でさまざまな動物が家畜化された。

初期の農耕について

初期の農耕の形態

初期の農耕の形態は、「乾地農法(主として雨水にたよる農法)であり、略奪農法(肥料を施さない農法)であった」と高校の世界史では教えるらしい(序章 先史の世界 - 世界史の窓

乾地農法とは天水農法のことだ。略奪農法の代表が焼畑農法なのだが、焼畑農法意外の略奪農法が分からない。

初期の農耕は山林を伐採した後、火をつけて焼き、その灰を肥料として作物を栽培する。「数年で地力が消耗すると放置し、10年程で自然が回復すると再び利用する。」(焼(き)畑(ヤキハタ)とは デジタル大辞泉/小学館 - コトバンク

ただし、この農法だと、「耕地を頻繁に変えるため、大集落が形成されなかった。」(序章 先史の世界 - 世界史の窓 )。

西アジアでは、農業誕生から続いていた農業文化の発展は前7000年紀に下降して衰退するのだが、この原因は人口過剰と気候変動(乾燥化)と天水・焼畑農法の限界であったと思われる。(記事「先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代 」)

メソポタミア文明が誕生するには灌漑農業(用水路やため池などの人工的な水利技術によって生産を高める農業*5 )が必要だった。

初期の農耕の重要性

農耕出現の初期においては、農耕を持つ地域と狩猟採集社会とでは決して食料獲得量において大差はない、あるいはむしろ農耕出現地の方が、食料の限界がある[中略] 。

しかし、その後の社会進化は農耕出現地においてめざましいものがあるのである。これは、社会の組織化と農耕がともに牽引しあうことにより、社会進化が進展していくからである。新石器社会を農耕と関係させながら歴史的に評価しようとする姿勢がここにあるといえよう。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p107

西アジアと中国の農耕出現はヤンガードリアス期以降と一致している。*6

両地域の農耕は農作物は狩猟採集の補完として始められた。現代に置き換えれば本業でまかないきれなかった分を内職または家庭菜園で補完するようなものだった。

しかし時代が下るにつれ農産物の重要度が増していく。灌漑農業の発達により、インフラを監督する人(人々)が必要になり、農村社会を結束するための宗教(祖先崇拝を含む)が必要となる。

こうした社会の複雑化の中で社会階層・エリート層(支配層)が出現する。文明の誕生するためには別の要素が必要になるのだが、農業の発展は最重要な要素の一つである。



  • 「乾地農法」、「略奪農法」という言葉を知らなかった。

*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p68

*4:農耕起源の人類史/p89

*5:序章 先史の世界 - 世界史の窓

*6:先史:中国における農耕の起源について中国文明:先史③ 新石器時代 その2 時代区分 - 歴史の世界

先史:ナトゥーフ文化後期(ヤンガードリアス期)

ヤンガードリアス期とナトゥーフ文化後期

ヤンガードリアス期とは亜氷期(亜氷期については「氷河期/氷期/間氷期/氷河時代」参照)のこと。寒冷な時代。地球規模の現象だが主に北半球に大きな影響を与えた。

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

上の図のように温暖な時代から急激に寒冷な時代に移行した。西アジアではこの時期はナトゥーフ文化後期と言われているが、この文化もこれに影響を受けた。というか寒冷なヤンガードリアス期に突入したから「後期」に突入したといえるかもしれない。

ナトゥーフ文化の前期は「先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化」で書いた。それまで定住をしたことがなかった人びとが、有り余るほどの食料資源に囲まれて定住生活と文化を築きあげた。

それが突然の寒冷時代の到来で壊滅状態になるのがナトゥーフ後期である。

長期に渡って詳細な記録が得られるアブ・フレイラ遺跡(Tell Abu Hureyra)ではこの時期には寒冷または変わりやすい気候の影響で、毎年現れたガゼルの群れが来なくなり、森林から採集できる食料資源も少なくなる一方だった*3ナトゥーフ文化前期の代表格であるアイン・マラッハも同様に食料資源に囲まれた環境は跡形もなく、住居の中は壁すら崩れ落ち、生活廃棄物が積み上がっていた*4

環境の変化は人間の身体にも及んだ。

ナトゥフ文化期の人々の健康状態、とりわけ、子どもたちのそれは悪化していった。これは彼らの歯から明らかにすることができる。ハ・ヨニームに埋葬されていた後期ナトゥフ文化期の人々の歯は、前期ナトゥフ文化期の先祖のそれと比較して、形成不全の状態を示している頻度がはるかに高い。彼らが死んだときに残されていた歯の本数もさらに少なくなっており、その歯も虫歯が多く、これは、いずれも健康状態が悪かったことを示している。

出典:スティーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p100

上の書籍の同ベージによれば、アイン・マラッハでは身体の成長不良が見え、男性の体格が女性のそれとほとんど差がなくなっていた。

文化崩壊により迫られる3つの選択肢

多くのナトゥーフ人がアブ・フレイラと同じような状況に陥り、彼らは以下の3つの選択肢から将来の生活を選ぶように迫られた。

  1. 故郷を捨て、遊動(非定住)狩猟採集民になる。
  2. 故郷を捨て、他の定住先に引っ越す。
  3. 故郷に居続け、あらゆる手段を使いまたは手段を創出して生き残る。

ナトゥーフ文化以外の地域は定住と無縁であったことを思えば、「1」を選ぶことはそれほど無理な選択では無かっただろう。

「2」の移住先は、ムレイベト(Mureybet)やレヴァント渓谷などが候補地になった。移住先になった地域は新石器時代まで途絶することなく続いた。

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A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*5

  • 上記の「Hayomin」は「Hayonim」の誤記。

「3」に関して「Tell Abu Hureyra<wikipedia」ではアブ・フレイラは少数の集団が居続けたと書いてあるが、『氷河期以後』*6では「廃墟」とあり、『農耕起源の人類史』*7では「2000年の明白な居住放棄期間」とある。他の村も同じような環境だったのかもしれない。

どの選択肢を採るにしても、人びとは生きるためにあらゆる手段を模索した。アブ・フレイラに残った人びとは食用にあまり適さないが乾燥に強いクローバーやウマゴヤシに手を出した*8。さらに彼らは食物栽培あるいはそれに似た行動を行っていた。当時の遺跡から植物栽培化されたライムギの種子が発見されている(ただし この努力は実らずに村は廃れてしまった)*9

また獣肉に頼る人びとは個体数の少なくなった獲物を高確率で仕留めるために「ハリーフ尖頭器」なるものを開発した。それだけではなく、前期では食肉はガゼルのみでも賄われていたが、後期はそうもいかず数多くの小型の動物も食べるようになった*10

最近の論文

ネット検索によりナトゥーフ文化後期に関する論文を見つけた

その1:Hunted gazelles evidence cooling, but not drying, during the Younger Dryas in the southern Levant

2016年の2月に公表された。この論文のautherには有名なOfer Bar-Yosef氏の名前もある。要旨は以下の通り。

・ヤンガードリアス期は寒冷化だけでなく乾燥化も進んだとされているが、レヴァント南部では寒冷化はしたが乾燥化はしなかった。
・レヴァント南部と他地域の環境の差は、比較的温暖で安定した気候を保った(レバント南部にある)ヨルダン渓谷(北のガリラヤ湖と南の死海とそのあいだのヨルダン川で構成される渓谷)に移民が集中を促し、後の穀物の生産つまり農耕の誕生に影響を及ぼした。

この論文では研究材料としてHayonimの狩られたガゼルの歯を用いている。この論文が正しいとすると、上で引用した『氷河期以後』の文章「ハ・ヨニームに埋葬されていた後期ナトゥフ文化期の人々の歯は、前期ナトゥフ文化期の先祖のそれと比較して、形成不全の状態を示している頻度がはるかに高い」をどう解釈すべきなのだろう。ちなみにこの著者ミズン氏のソースは1991年のSmith氏の論文。

その2:Nahal Ein Gev II, a Late Natufian Community at the Sea of Galilee

2016年1月に出版された。こちらにもOfer Bar-Yosef氏の名前がある。要旨は以下の通り。

・エン・ゲヴ遺跡のナトゥーフ文化後期の層(the site of Nahal Ein Gev II (NEG II) )を調査した結果、ヤンガードリアス期においてもエン・ゲヴの住人は遊動(非定住)型狩猟採集民になることを迫られるようなことはなかった。
・エン・ゲヴ遺跡からはナトゥーフ文化と新石器時代をつなぐ橋渡し的な段階も見出すことができる。

この論文は「その1」の論文と合致する。エン・ゲヴ遺跡はヨルダン渓谷にある村だ。

  *  *  *

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ナトゥーフ期・続旧石器時代、PPNA期、PPNB期における遺跡の分布(Hour et al.1994など多数の文献にもとづく)。この地図はヒルマンによる。ヤンガードリアス乾燥寒冷期のはじめ(紀元前11,000年頃)の野生穀類の自生地分布もしめしている。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p71(図3-1)

上の2つの論文が正しければ、ナトゥーフ文化前期に拡大した範囲が、後期になって縮小して「核地域」の範囲に戻った、と言えるかもしれない。

まとめ

寒冷化・乾燥化の影響でヨルダン渓谷などに人口が集中して、そのストレスが農耕社会への移行を促したという説がある。上の論文もそのような説を前提としていると思われる。

これが正しいのかどうかは分からないが、ヤンガードリアス期が終わって安定した温暖期(完新世)になったから農耕社会が劇的に繁栄したといえるだろう。もしも寒冷のままでいたら、農耕という技術は狩猟採集社会を補完するだけのものとして存在し続けたかもしれない。



  • ヨルダン渓谷は、ケバラン文化、ナトゥーフ文化の最重要地域だった。おそらく新石器時代や文明開化以降も重要な地域であったと思う。これから順々に調べよう。

  • 以上の論文は2つともAbstractしか読んでいない。補足のために関連のニュース記事は読んだが。研究方法の妥当性など(アイソトープとかエナメル質とか)分かるわけがないし、そもそも英語を読むことが苦痛だ。

*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:Tell Abu Hureyra<wikipedia

*4:ステォーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p96

*5:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg

*6:上巻p101

*7:ピーター・ベルウッド/京都大学学術出版/2008(原著は2005年出版)/p78

*8:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p136

*9:氷河期以後/上巻p109

*10:氷河期以後/上巻p108-109

先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」

先史の最大のイベントは農耕の誕生(農業革命)なので、その手前にある「定住の始まり」というイベントにはスルーされがちだ。近年の発掘と研究の結果、定住型の狩猟採集民の生活が分かるようになってきた。

「定住→農耕の誕生」

以前の歴史の教科書では、狩猟採集から農耕へと移るにしたがって、定住化が起きたとされていたが、すでにその順番は逆転している。

NHKスペシャル取材班/ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか/角川文庫/2014/p279-280

「以前」というのがどのくらい前かは分からないが、私は最近まで上のように「農耕の誕生→定住化」と思っていた。考古学的な証拠が少ない時代に考え出された仮説が何時の日にか定説になって、それに反する証拠が出てきても容易に定説化した仮説を打ち砕くことはできなかったようだ。その提唱者はどうやらゴードン・チャイルド(1892-1957)という考古学者らしいのだが、彼の主張がどのようなものだったのか著作を読んでいないのでよく分からない。

しかし、現在は科学技術の進展のために考古学者は遺跡・遺物の年代をある程度特定できるようになり、仮説の精度は20世紀中盤あたりとは比較にならないほど上がっている。放射性炭素年代測定法などの科学技術が世界中の学者に認められ、その上で議論されて研究結果が積み上げられている。

そして近年、先史の本が数多く出版されているので、「定住→農耕の誕生」は一般人レベルで認識されている、かもしれない。そもそも「農耕の誕生→定住化」という誤った知識をインプットされていない人も多いかもしれないが。

定住しなかった人類

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

原初的な人類は、チンパンジーのように、小動物を狩り、昆虫を捕らえていたとしても、果実や種子、若芽などの植物の重要性が、現在の狩猟採集民よりもさらに大きかった時代を経過してきたにちがいない。狩猟採集民以前に予想されるこのような人びとは採集民と呼ぶべきものであろう。[中略]

採集民的な生活は、年間を通じてじゅうぶんな植物食料の得られる熱帯森林においてこそ有効であろう。そして、人類が狩猟具や堀棒をもち、採集狩猟民になったとき、人類は熱帯の森林にもサバンナにも半砂漠にも生活できる高い潜在能力をもったということであろう。

およそ50万年前に絶滅したギガントピテクスは、サバンナに進出した唯一の大型類人猿として知られている。彼らは、乾燥地帯の植物を咬み砕く巨大な歯をもっていた。人類以外の生物一般の適応進化がすべてそうであるように、彼らは体を環境に適応させることによってサバンナへと進出したと理解されている。

これにたいして初期人類は、狩をし、地下の植物資源を利用し始めても、大きな犬歯や長い爪を発達させたわけではない。狩猟採集民の出現はいうまでもなく文化的な現象である。そして、文化というもののもっとも重要な性質は、新しい獲得された行動様式が、遺伝子をベースにした行動よりもはるかに速く同種個体間に拡散することであろう。

出典:西田正規/人類史のなかの定住革命/講談社学術文庫/2007(1986年に出版された書籍の文庫版)/p73-74

以前、ホモ・サピエンスは文化の力でネアンデルタール人との生存競争に打ち勝ったことを書いたが、上の説明では、初期人類も、身体の進化ではなく、文化の力によって、採集民から狩猟採集民になった、という。何時、最初の狩猟採集民が誕生したのかは分からないが、その最初の人類はホモ・エレクトゥスらしい(Homo erectus<wikipedia英語版参照)。火の使用も彼らが最初だそうだ。

狩猟採集民になった化石人類の話を続ける。

低緯度の熱帯森林を出た人類たちは数百万年間低緯度から出なかったが、50万年に中緯度に進出する。つまり出アフリカを達成した。彼らはホモ・エレクトス北京原人ジャワ原人など)で、もちろん狩猟採集民だ。

低緯度と中緯度の環境は低緯度より年間の気温差が激しく冬は可食植物を探すことが困難になる。中緯度に進出した人類は狩猟の技術を高めて克服した。その技術はマンモスのような大型動物まで狩ることができた。

そして、その技術の完成が、後期旧石器時代になって、人類がさらに高緯度にまで分布を広げるための基盤を用意したのである。

文明以前の長い人類において狩猟のもつ意味は大きかったのにたいして、蓄える戦略の採用はずっと遅れて現れる。中緯度以北において、計画的な蓄えの対象となる食料は、おもに秋に落ちる木の実や、サケなどの遡河性魚類であるが、木の実を大量に調理するのに必要な石臼や土器、魚を穫る道具、あるいは貯蔵の施設が現れるのは、後期旧石器時代の終末から新石器時代にかけてのことである。

出典:西田氏/p81-82

そして著者は、人類の蓄える戦略に対する傾斜が定住へと導いたと結論づける。そしてそれまでの遊動(非定住)生活者を「自然の呼吸のままに生きてきた人類」とし定住者と対立させた*1。定住革命は人類と自然との距離を開けたということなのだろう。

定住のデメリット

上の書籍『人類史のなかの定住革命』で「遊動することの動機」をリスト化している。

(1) 安全性・快適性の維持
 a 風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため。
 b ゴミや排泄物の蓄積から逃れるため。
(2) 経済的側面
 a 食料、水、原材料を得るため。
 b 交易をするため。
 c 協同狩猟のため。
(3) 社会的側面
 a キャンプ成員間の不和の解消。
 b 他の集団との緊張から逃れるため。
 c 儀礼、行事をおこなうため。  d 情報の交換。
(4) 生理的側面
 a 肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。
(5) 観念的側面
 a 死あるいは死体からの逃避。
 b 災いからの逃避。

こうしてみると、遊動生活において移動することのはたしている機能は、生活のすべての側面に深くかかわっていることが明らかである。そうであるなら、当然のこととして、遊動生活者が定住するとなれば、遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たすことのできる、新たな手法を持たなくてはならないのである。定住生活が出現するためには、それらの条件が揃っていなくてはならない。

出典:西田氏/p22-24

人類は定住化した後も「遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たす」ことはすべてはできなかった。条件を満たせない点は文化の変更して対応していった。

このようなデメリットがあるのにどうして定住をしたのかは前回の記事「先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化」の「ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説」の見出しのところで書いた(3つの仮説を貼り付けてるだけだが)。

定住と環境の変化

定住生活が、中緯度地域の温暖化による森林化を背景に出現したと説明したが、こうした気候と植生の変化は、人類が中緯度に進出してから何度も起こったことである。ではなぜ、定住生活が、最後の氷河期のあとにしか出現しなかったのか、このことについて説明しておかねばならない。

定住化現象の以上の理解からすれば、それ以前の温暖期には、定置猟具による漁撈や、デンプン質ナッツの大量調理・大量貯蔵を発達させる技術的・経済的な前提条件を欠いていたと考えざるをえない。定住生活は、一面において、自然環境の大変化に応じた適応形態として出現するのであるが、同時に、それを可能にした人類史的前提のあることに注意を向けなければならないわけである。[中略]

定住生活者が採用した生計戦略の性質を見れば、自然や労働、あるいは時間に対する認識の仕方にも、大きな変化の生じたことが予想できる。定置漁具の制作に多くの労力と時間を費やし、1、2ヶ月の間、激しい労働の連続に耐えることなどは、その日の食料だけを考える遊動狩猟採集民の行動原則とは、大きく異なるものである。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、食料を蓄える行為は、いわば、自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。自然のなかで、自然に頼って生きるブッシュマンの自然観とは、おのずと異なる自然観である。漁網を編み、ナッツを大量に拾い、加工するなど、単純な作業の反復を重ねて、自然が制御されるのである。定住生活者に予想しうる自然や労働に対するこうした認識のあり方は、森を拓き、土を掘り、水の流れを変える農耕民のそれと大きく共通するところがあるだろう。

自然に対する認識の変化と同時に、定住生活者とその周囲の植生との生態学的関係が、遊動生活者のそれと、大きく異なることに注意しなくてはならない。[中略]

遊動生活者といえども、環境に対して何ほどかの影響を与え、それを改変するだろう。だが、狩や採集によって環境が変われば、すなわち、食料や薪が減少すれば、キャンプを移動させる。彼らの立ち去った後のキャンプ地は、自然の回復力に委ねられ、やがてもとの自然にもどる。彼らが環境に与える影響の大きさは、チンパンジーが果実を食べてその種子を分散させ、肉食がシカの生息密度に関係している程度とほとんど変わらない。遊動狩猟採集民は、自然が生産する資源に「寄生」して生きている人びとといえる。

ところが、人間が定住すれば、村の近くの森は、薪や建築材のための伐採によって破壊され続け、そこには、開けた明るい場所を好む陽性植物が繁茂して、もとの森とは異なる植生へと変化する。定住者は、自然としての環境ではなく、人間の影響によって改変された環境に取り囲まれることになるのである。

日本の縄文時代の村には、こうして生じた二次植生中に、彼らの主要な食料であったクリやクルミがはえていたし、ヨーロッパの中石器時代にはハシバミが増加し、西アジアの森林植生中には、コムギやオオムギ、ハシバミ、アーモンドが増加する。これらの植物は、いずれも、伐採後の明るい場所に好んではえる陽性植物であり、しかも、食料として高い価値をもっている。人間の影響下に生長してきた植物を、人間が利用するのである。生態学的な表現をすれば、これは明らかに共生関係であり、人文学的にいえば、栽培や農耕にほかならない。食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した、意外で、しかも人類史上、きわめて重要な現象であった。

出典:西田氏/p48-52

「食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した」というのは大げさだと思うが(縄文時代は食料生産の出現は無かった)、定住によって周囲の環境が変わっていく様子は定住者によって観察されたことだろう。彼らの中にはその様子をただ見ているだけではなくて、故意に変えていこうとした人たちがいた。これらの「実験」の中で成功したものが食料生産の出現につながったのだろう。



次回はナトゥーフ文化後期=ヤンガードリアス期をやる。

*1:p82

先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化

ナトゥーフ文化の期間は、「Natufian culture<wikipedia英語版」によれば、前12500-9500年だが、後期の千数百年間はヤンガードリアス期という亜氷期と重なるため、全く違う文化だと思う。この記事では前期の話のみを書く。

気候

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

前12700年(14700年前)に温暖期(ベーリング/アレレード期、亜間氷期)が始まり、急激に気温が上昇する。この頃が西アジアにおけるナトゥーフ文化期の前期にあたる。

ブライアン・フェイガン著『古代文明と気候大変動』*3によれば、「前13000年以降、2000年にわたって降雨量が増加した」と書いてある。

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A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*4

ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説

一つにまとめられない。3つもあるので書いておく。

その1:「人口集中によるストレス」説

ナトゥーフ文化領域とドングリ

ナトゥーフ式の新たな生活様式が生まれたのは、幾何学ケバラン期末期頃に始まった気候の乾燥化に起因するのではないかといわれている(Henry1989)。それによって、内陸乾燥地を含む広域に展開していた集落が、ヨルダン渓谷に沿った比較的湿潤な疎林地域に集中するようになった。ナトゥーフィアン前期の遺跡分布域は、かなり小さい。そのために生じた人口の集中と資源に対するストレス増が、定住や集約的な穀物利用という新しい生業・集中システムの発生につながったと考えられるのである。ナトゥーフ期に開花する各種の芸術様式も、上部旧石器時代後期にヨーロッパで流行した芸術と同様、近接する集団間の社会関係を円滑にするための表象ではなかったかといわれている(Bar-Yosef and Belfer-Cohen 1989)。定住性や資源の集約的利用、社会関係の保証など、新石器時代文化の基礎となる諸要素のすべてがここに準備されたものと考えられよう。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p55-56

・この本は1997年出版のためデータが古い。

ナトゥーフ文化が起こった地域はヨルダン川と地中海沿岸に挟まれた「丘陵地帯」だ。このあたりは森林ステップ(forest steppe。森林とステップが入り交じる推移帯)になっていた。集落はこの森林ステップに隣接するオークの林地の内部に形成された。*5

その2:「前文化(幾何学ケバラ文化)からの継続的発展」説

私たちは、人々が人口の過剰によってそうした生活様式を強いられていたわけではなかったことをほぼ確信することができる。ナトゥフ文化期の遺跡は、それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない。人口の過剰があったとしたら、それは、ケバーラ文化期に遺跡の数が劇的に増加し、細石器の形式の標準化に拍車が掛かった紀元前14500年の時点だった。その後2000年の歳月が流れて、最初のナトゥフ文化期の集落が出現したとき、人口の増加を示している痕跡は見つかっていない。そればかりか、ナトゥフ文化機の人々の骨は、彼らが適度に健康であり、食糧不足のせいで望ましくない生活様式を強いられていたような人々とはまるで異なっていたことを明らかにしている。[中略]

アイン・マッラーハを発掘したフランソア・ヴァラは、ナトゥフ文化期の集落がたんにケバーラ文化機の人々の特定の季節における集合から生まれたのだと考えている。ヴァラは、世紀の変わり目の頃、北極地方の狩猟採集民たちと生活をともにしたことがある文化人類学者マルセル・モースの著作を想起している。モースは、周期的な人々の集合が密度の濃い集団生活という特徴をもっており、そうした生活が、祝祭、宗教的な儀式、知的な議論、頻度の高い性行為をともなうことを認識していた。それとは対象的に、それぞれの人々が小さな集団を形づくって互いに遠く離れて暮らしている、一年のうちのそれ以外の期間は、いずれかといえば活気がない。

ヴァラは、ナトゥフ文化期以前の移動性の狩猟採集民たちの集合がそれと似通っていた可能性があり、ナトゥフ文化期の人々は、集合する期間を延長する機会を得たその結果として、一年を通してそうした状態を効果的に持続するようになったにすぎないと提唱している。事実、ナトゥフ文化期の集落のすべての基本的な要素、つまり、石組みの住居、石臼、ツノガイの数珠玉、遺体の埋葬、ガゼルの骨などは、ネヴェ・ダヴィッドにおいてすでに存在していた。気候がしだいに温暖で湿潤になるにつれて、植物と動物がより多様で豊かになっていたことから、人々は、冬期の集合場所により長時間滞在し、より速くそこに帰って来るようになり、一部の人々が年間を通してその地にとどまるようになっていったのである。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以後/p91-93

「その2」は「その1」とかなり違う。「その1」がストレスによる急な変化を主張するのに対し、「その2」はケバーラ文化からの連続性を示している。

さらに「その2」の「それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない」に反する主張がある。

紀元前12500年までに、幾何学ケバランの細石器インダストリーはつづくナトゥーフ文化へと発展した。幾何学ケバラン文化とナトゥーフ文化のおおきなちがいとしては、遺跡の数と面積がナトゥーフ期に飛躍的に増加したことがあげられる。「近東考古遺跡地図帳」には、この時代の遺跡としてレヴァントに74地点、またアナトリアとザグロスでは同時期の非ナトゥーフ文化の遺跡として26地点の遺跡があげられている。しかし、数だけではなく遺跡の面積についてもナトゥーフ文化の全域をとおして、幾何学ケバランの平均的なおおきさよりも5倍もおおきくなったとみつもられている。このことはヤンガードリアス期(紀元前11000~9500年)の開始よりも前に、とくにナトゥーフ前期に人口が急速に増加していたことを示唆する。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p76-77

どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか分からない。

その3:「どんぐり」説

以下の引用では、ケバラ人は植物性食物をほとんど食べなかったことを前提にして書いてある。

気温が上がるにつれ、ヨーロッパにいたクロマニョン人の子孫のように、ケバラ人も木の実と種子に関心を向けるようになった。水に恵まれたオークとピスタチオの森がある一帯では、そうした傾向はとくに顕著に見られた。そのころには森はユーフラテス川の流域のなかほどから、ダマスカス付近を抜け、ヨルダン川まで広がっていた。これらの高地にあるけばラジンの遺跡からは、収穫した種子や木の実を加工保存するための擦り石と擦り台が見つかった。降雨が季節的に偏り、周期的な干ばつに見舞われる地域では、食糧の保存は不可欠だ。前11000年になり、量が時代の大型動物のいなくなった世界にヨーロッパ人が適応していたころ、ケバラ人は植物性食物を重要な常食の一部にするようになっていた。

どんぐりがもたらした影響

オークとピスタチオのベルト地帯が、おそらく聖書にあるミルクと蜂蜜の流れる地の着想の源だろう。ここでは驚くほど多様な植物性食物が収穫できた。この地に住んだ人びとは、移行帯、つまり接し合う二つの生態学的領域の境界にある土地を好んでいた。ここなら、一年の別々の時期に、別々の食糧を採集しえたからだ。先人たちとは異なり、多くの集団はこのころには一年中、洞窟を利用するようになった。そこなら雨を防いで、植物性植物を乾いた場所に保管しうるだろう。このころには春と初夏には野草、秋にはどんぐりとピスタチオなど、植物性食物がきわめて豊富になったため、多くの集団は一時的な野営地ではなく、もっと大きな常設の共同体で暮らすようになった。そうした場所で、彼らはかなり広い草葦屋根の丸い住居を建てるようになった。[中略]

毎年、秋になると、ナトゥフ人は何百万個となく、どんぐりとピスタチオを収穫した。どちらの木の実も保存が容易で、昆虫やげっ歯類にやられないかぎり、二年以上はもつという利点があった。収穫方法は単純だった。枝をゆするか、木に登って熟した実を集めればいいのである。[中略]

収穫高に関するデータは、残念ながらなかなか手に入らないが、カリフォルニアのノースコースト一帯では、1ヘクタール当たり590キロから800キロという大収穫も珍しくない。かりにそれほどの生産量があれば、ヨーロッパと接している地域よりも、50倍は多くの人を養うことができただろう。どんぐりは栄養価に富み、炭水化物が70パーセントも含まれ、タンパク質は5パーセント、それに脂肪も4.5パーセントから18パーセント含有する。ただし、大きな難点が一つあった。加工に手間隙がかかったのだ。どんぐりの殻を割り、粉にするのは、野草の種を挽く以上に時間を要する。そうなってもまで、食べることはできない。どんぐりには苦いタンニン酸、つまり渋が含まれていて、時間をかけて水にさらしてからでなければ、調理できないのだ。

どんぐりとピスタチオが充分すぎるほどの余剰食糧を生み出したおかげで、ナトゥフ人の共同体は一箇所に長くとどまれるようになった。だが、その余剰分には犠牲がともなっていた。膨大な労働力が日々費やされたのだ。人類学者のウォルター・ゴールドシュミットがかつて観察したところによると、カリフォルニアでは一人の女性が3キロのどんぐりを砕いて粉にするのに、3時間かかったという。挽き割粉を流水に浸けてさらすのに、さらに4時間が必要だった。7時間の労働のあと残るのは2.6キロの食用の粉で、家族は数日間、それを食べて過ごせる。一方、狩人が鹿の皮をはいで肉をさばくのは、数分ですむ。狩りはどんぐり広いより時間がかかるかもしれないが、食事の用意をするのは簡単で、費用効率も高い。どんぐりが必需食品となると、共同体の生活は大きく変わった。

男も女も木の実を収穫したにちがいないが、それらを保存し加工する作業は全面的に女性の肩にかかってきた。それまでの何千年間も、男は狩りをし、女は野草などの植物性食物を採集して処理してきた。こうした処理も時間がかかったが、どんぐりに必要な作業とは比較にならない。毎日消費するためのどんぐりを挽き割り、さらすには、女性の仕事に大転換が必要であり、その結果、女たちは擦り台と擦り石だけでなく、貯蔵庫にも釘付けになった。何万年も自由に動きまわる生活をつづけてきたナトゥフ人は、この時代になるとどんぐりの収穫のせいで、長期のベースキャンプから離れられなくなった。しかし収穫はおおむね予測がついたし、適切な貯蔵庫があれば、こうしたほぼ恒久的な定住地も充分に存続可能だった。[中略]

貯蔵可能な食糧が豊富に得られるようになると、ナトゥフ人の共同体は急速に拡大した。イスラエルのフーラ川流域にあるマラハ遺跡は1000平方メートル以上にもおよび、初期の狩猟採集社会のどの野営地よりも広大だった。ここの住民は膨大な労力を費やして丘の斜面を壇上にならし、そこに家を建て、上等な漆喰を混ぜて壁を塗り、貯蔵用の穴蔵を掘った。マラハのような場所は、何世代にもわたって人びとが永住した村だった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p121-126

ナトゥフ文化誕生の原因がすべてどんぐりが原因とまでは言わないが要素の一つくらいにはなっていると思う。ムギ類・マメ類などの穀物に話が集中して木の実が軽視されているように思われる。

道具/交易

道具類も多様化し、細石器が着柄された石鎌が登場し、骨角器は釣り針や編み棒、装飾具が発見され、その他 多彩な装飾具も見られるようになった。トルコ産の黒曜石が南レヴァントで発見されるなど、広範囲の交易は行われていることも示唆されている*6

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出典:sickle<wikipedia英語版*7

定住に適応した文化

ナトゥーフ文化は定住に適応するために開発された文化だ。人びとは有り余る過食植物と定期的に現れるガゼルの群れに囲まれてそれまでのどの文化よりも安定した生活を享受できた。

開発に成功した文化はその後2000年に渡って続き、世代交代は50回も繰り返した。*8



次回は定住の重要性について書く。

*1:氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p130

*4:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg

*5:ティーブン・ミズン/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版)/p65

*6:西アジアの考古学/p54

*7:著作者:Wolfgang Sauber、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Sickle#/media/File:Museum_Quintana-Neolithische_Sichel.jpg

*8:ティーブン・ミズン氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年に出版)/p96-97

新石器時代について

新石器時代の一番簡単な説明は「農耕・牧畜の始まりをもって新石器時代とする」というものだ。しかし縄文時代のように農耕・牧畜が始まっていないのに新石器時代とされているものもある(そうしない学者もいる)。

新石器時代はそれより前の時代より複雑なので、少し深く調べる必要がある。

そもそも石器時代とはなにか

関連記事「旧石器時代/中石器時代/Epipaleolithic - 歴史の世界

石器時代とは↓

  • 考古学の時代区分の一つ。
  • 先史・古代の歴史の区分の一つ。
  • 人類の文化の発展段階の一つ。

文字がまだ発明されていない先史・古代では証拠となるものは石器や土器、骨、遺跡などになるが、この中で数百万年前まで遡れて連続性や文化の違いが分かるものは石器だけなので、石器が時代区分の基準になった。

新石器時代の定義

主流の考え方

高校の歴史の授業では「獲得経済」とか「生産経済」という用語を使って新石器時代が説明されているらしい。

つまり、獲得経済(狩猟・採集で野生の食糧資源を獲得する方法)から生産経済(農耕・牧畜で生産して食糧を得る方法)に移行したのが新石器時代だ、という。

(こういう用語を使うと理解したような気になるのが不思議だ。)

こういう考え方が考古学の学界でも主流らしい。ただしこれは厳格な定義ではなく、農耕・牧畜が始まっていない文化でも新石器時代に区分できるとする学者もいれば、できないとする学者もいる。そういうわけで厳格な定義はない。

農耕・牧畜の始まりを絶対条件としない場合の新石器時代の説明

この場合、農耕・牧畜を指標(物事を判断したり評価したりするための目じるしとなるもの*1)の一つとする。指標は必須条件ではなく判断材料。ただし農耕・牧畜の有無は最も重要な指標である。

その他の指標としては↓

  • 磨製石器
  • 土器
  • 定住
  • 織物(亜麻の生産も含む)
  • 巨石建造物(ギョベクリ・テペが有名)

繰り返しになるが、これらは判断材料であって必須条件ではない。学者は指標の有無を手がかりに遺跡を研究してどの時代に割り当てるかを決める。全ての学者が一致するとは限らない。

農耕・牧畜をしていない場合の食料で重要なのは、ドングリなどの堅果類や野生の穀類、あとは魚介類だ。

採集や漁業が可能な場所に定住・半定住することがある。定住型文化では定置漁具を使う場合がある*2

堅果類や穀類を調理する石器の多くは磨製石器だ。

ネットには「磨製石器があるから縄文時代は新石器だ」と書いてあるサイトがあるが、他の指標を見ずにこのように判断するのは間違いだ。

旧石器時代との比較↓

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出典:いっきに学び直す日本史 【合本版】 - 安藤 達朗 - Google ブックス

上にあるように旧石器時代の文化に新石器時代は新しい要素が加わっている。新石器時代は新しい時代だが、旧石器時代の文化は色濃く残っている。連続しているのだから当然だ。

新石器文化

上の指標その他を含めて、新石器時代の文化を見ていこう。

農耕・牧畜

上述したように最重要の指標。

始めはおそらく、狩猟・採集の食糧獲得の不足分の補完的な役割であっただろうが、時を経て農耕・牧畜の需要のほうが強くなり、それらの技術も発展していった。

その結果、生産が急激に増加、それに対応して人口も増加した。

新石器時代より後のことになるが、生産・人口増加により階級ができ、人口を統治するシステムが必要になり、文明社会が形成されるようになる。

磨製石器

旧石器時代打製石器を使っていた。

磨製石器新石器時代より前に発明されたようだが、この時代に種類・用途が増えて新石器時代の指標となったようだ。

代表的な磨製石器は石斧で木の伐採に利用された。もうひとつ、石皿はドングリなどの堅果類を粉砕して、製粉にするための道具。また土器などに塗る顔料を作るため、それ用の石を粉砕するために使われた。

土器

天然の粘土で作った。煮込み、貯蔵、運搬などが用途。

西アジアで農耕が発明された時は土器は無かった。

定住

ホモ・サピエンスは誕生して約20万年ほどは狩猟採集民として移動しながら生活していた。

定住の最初の例は西アジアナトゥーフ文化だ。ナトゥーフ文化は狩猟採集文化で農耕・牧畜はやってなかった(やってたと主張する学者もいるが)。

ナトゥーフ文化と定住については、以下の記事で書いた。

先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化 - 歴史の世界

先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」 - 歴史の世界

農耕・牧畜でなく狩猟・採集で生活をする場合、普通なら定住すれば周囲の食料資源を食べ尽くしてしまう。しかしナトゥーフ人が住んでいた森林は温暖湿潤の環境にあり、一年で食料資源を再生させた。

人々は多種多様な食料資源を持っていた。ノウサギ、ガゼルなどの動物、穀物・マメ類・堅果類などの植物が絶えることなく、ナトゥーフ人の生活を守った。

注目すべきは、彼らが穀物を集約的に(選別・集中して)大量に採取して保管していたことだ。穀物は商品貨幣(貨幣の代わりになる商品)だった。

商品貨幣となる植物。栽培する動機としては十分だろう。

巨石建造物

ギョペクリ・テペの巨石建造物は何らかの宗教的な意味が込められているらしい。ナブタ・プラヤ(エジプト西部砂漠)の巨石建造物は墓という説もあるが、こちらも詳しく解明されていない。

いずれにしろ、これらの巨石建造物は多くの人々の協業なくしては建造できない。

旧石器時代までは人々は小集団でバラバラに生活していたが、新石器時代以降は多くの人々が一ヶ所に集まる、あるいは定住して大集落をつくるようになる。

このように協業ができるようになって初めてあらゆるインフラ事業が可能になる(インフラ事業は文明誕生に不可欠)。

組織・社会

「Neolithic#Social organization<wikipedia」によれば、複数の血縁関係にある人々でまとまって生活していた。つまりは氏族社会だ。

氏族の長がリーダー(首長)で、協業を指揮し、争いごとを仲裁した。

平等社会と言ってよく、階級ができるのはこの後の時代以降になる。

おまけ:縄文時代について

興味深い説明を二つ。小学館デジタル大辞泉三省堂大辞林

しんせっき‐じだい〔シンセキキ‐〕【新石器時代
石器時代のうち新しい時代。本来の定義では、完新世に属することと精巧な打製石器および磨製石器の存在を重視したが、現在では、西アジア・ヨーロッパ・中国などで農耕や牧畜など食料生産を開始した時代をいう。日本の縄文時代をこの名でよぶのはふさわしくない。
出典 小学館デジタル大辞泉

しんせっきじだい【新石器時代
石器時代のうちの最後の時代。磨製石器を用い、土器の製作や紡織などの技術が発達し、一部では農耕・牧畜が行われた。日本では縄文時代がこれにあたる。
出典 三省堂大辞林 第三版

出典:新石器時代(しんせっきじだい)とは - コトバンク

「農耕・牧畜の有無で新石器時代か否か」を決められるか否かが問題となっている。



先史:2万年前~(ケバラ文化/マドレーヌ文化)

2万年前は最終氷期の最中だが、ホモ・サピエンスはその寒さを克服しながら文化を創出した。

2万年前

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

2万年前(18000BC)は最終氷期最盛期だが、この頃ようやくヨーロッパ大陸の氷床が後退し始める*3

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

古代文明と気候大変動 -人類の運命を変えた二万年史

古代文明と気候大変動 -人類の運命を変えた二万年史

オハロII遺跡

レヴァントでは栽培化にいたるまでの考古学的変化は、最終氷期のピークである紀元前1万9000年前後からトレースできる。その頃ガリラヤ湖岸のオハローII遺跡(Ohalo II)に住んでいた人々は、野生のエンマーコムギ、オオムギ、ピスタチオ、ブドウ、オリーブを求めて周囲をさがしまわっていた。ガリラヤ湖はリサン湖という更新世のおおきな湖の北の一部である。リサン湖はヨルダン渓谷を常時220キロメートルにもわたって水を満たすほどのおおきな湖であった。オハローIIのキャンプは1500平方キロメートルという、この時期の遺跡としては驚異的におおきいものであった。オハローIIの住民は、柱に草ぶきをした楕円形の小屋をすくなくとも三つ建てて食料を穴に保存していた。死者をおおきな石で囲い込んだ浅い穴に屈曲姿勢で埋葬し、上部旧石器時代的な石刃と玄武岩の石臼と石杵のセットを使っていた。考古学データによると、このとき西南アジアの人口密度は非常に低く、多くの地域は多年生灌木植生の寒冷な気候であったと考えられる。オハローIIはおそらくかなり一過的な「シェルター」というべき環境のなかにあり、穀類はこのような暖かいシェルター地域をはなれては穀類は繁茂しなかったのであろう。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004年に出版)/p74-76

  • 上部旧石器時代は後期旧石器時代と言い換えることができる。西アジアの考古学では「上部」のほうが好まれているのかもしれない。英語ではEpipaleolithic。
  • 『氷河期以後』*4によれば、この年代は19400年前だという。
  • 『氷河期以後』*5によれば、細石器を使用していた。
  • 西アジアの考古学』によれば*6、この遺跡で繊維質のロープの断片が発掘された。網漁の可能性を示している。魚骨も大量に見つかっている。

オハロ遺跡は住居群が火災に見舞われて放棄された後にガリラヤ湖の水面上昇により水没したのだが、その結果 有機物が消失を免れて遺り考古学者が驚嘆するような発見が多く見られた*7

場所の確認↓

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Sea of Galilee in relation to the Dead Sea
出典:Sea of Galilee<wikipedia英語版*8

埋葬や石臼があることからこの遺跡は定住を証明するものだと思ったがどうもそうではないらしい。

彼らが狩猟採集民ではなく農民だったとしたら、火災によって焼失したのは、粗朶を編んだ小屋だけではなかったことだろう。木材を使って建てた住居、家畜の小屋と柵、貯蔵しておいた穀物を火災のせいで失ってしまう確率がきわめて高いばかりか、家畜の群れが逃げ出したり、焼け死んでしまう恐れもあるからだ。農民たちは、焼け跡を放置することなくその場にとどまり、再建を図らなければならない。周囲の土地に、林地を開梱したり、柵を設けたり、穀草を栽培するといった労力を投入しているからである。

出典:ミズン氏/上巻/p50

  • 住居は粗朶を使って建てられていた。

しかし住人は遊動(非定住)性の狩猟採集民なので彼らは修理できるもののみを持って、この場を立ち去った、とミズン氏は推測する。

ケバラ文化(ケバラン kebaran)とその後

ケバラ文化

およそ前18000年あたりから西アジアでケバラ文化が起こる。上記のオハロIIもケバラ文化だ(『氷河期以後』上巻p60)。西アジアはケバラ文化からepipaleolithic(亜旧石器時代、終末期旧石器時代、続旧石器時代。≒中石器時代)に入る。

細石器*9の多用を特徴とする文化。『西アジアの考古学』(p50)によれば、急角度の二次加工を施すことも特徴の一つだ。

「kebaran<wikipedia英語版」には、弓矢の使用とイヌの家畜化に触れている。イヌの家畜化についてはパット・シップマン著『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」*10によれば、すでにイヌの家畜化は36000年前に始まっていた(p193)。弓矢に関しては、『氷河期以後』(上巻p60)によれば、オハロIIの時にすでに使用されていた。

『氷河期以後』(同ページ)には、「[細石器は]アシの矢柄に埋め込んで鏃(やじり)として、骨の柄に埋め込んで小刀として用いられる」と書いてある。

『氷河期以後』(p59)では細石器の制作過程で発生した石の破片の散乱した場面を描写している。これは人類が定住化した後の清潔さとの対比を意図しているのかもしれない。

石臼や網漁の道具など持ち運びにくい道具が使用されている。しかしこの文化は上で書いたように未だ遊動型の狩猟採集民の文化だ。定住するのはこの文化の後なので、ケバラ文化は定住までの移行期または前段階と言っていいのではないか。

「kebaran<wikipedia英語版」では季節によって移住する様子が書かれている。

The Kebaran people are believed to have practiced dispersal to upland environments in the summer, and aggregation in caves and rockshelters near lowland lakes in the winter.

出典:kebaran<wikipedia英語版

(拙訳:ケバラ文化の人々は夏には高地にバラバラに住み、冬には湖に近い洞窟や岩陰に集合体を作って住む習性を持っていたと信じられている。)

  • 上のような習性はおそらく遊牧民に受け継がれていると思う。

その後

その後[およそ二万年前(前18000年)から]4500年にわたって、この地域〔西アジア〕では植物がされに密生し、居住地の密度もしだいに高くなっていた。かつては不毛な沙漠だったアズラクの西の地域も、紀元前14000までには草本、灌木、花々によって被われていた。かつては一望の下に見渡すことができたステップにも樹木が広がっていた。

そうした環境の変化の直接的な証拠物件は、フラ盆地のコア(地層資料)であり、それは、紀元前15000年頃から林地がオーク、ピスタチオ、アーモンド、ナシなどの木々によって彩りを豊かにしていったことを示している。温暖と湿潤がその度合を増していったこの時期は、紀元前12500年、つまり、後期亜間氷期においてその頂点を迎えた。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以前 上/p62

  • アズラク(azraq)は死海ヨルダン川の西方、内陸に位置し、二万年前は寒冷乾燥の地だった。

紀元前15000年より後には、幾何学ケバラン(幾何学という名称は細石器の形態的な特徴からきている)という名でしられる文化が南レヴァントに発達した。幾何学ケバラン文化の人々は、最大で1000平方メートルくらい、多くは300平方メートル以下のちいさなキャンプサイトや洞窟に住んでいた。彼らは季節によって移動したと考えられており、おそらく冬には渓谷の低地に、夏には標高の高いところに住んでいた。彼もまた石臼と石杵をもちい、ガリラヤ湖にちかいエン・ゲヴIII遺跡(Ein Gev III)では礎石をもった円形小屋をもっていた。エン・ゲヴIIIの人々はその先駆であるオハローと同様に野生穀類を収穫していたと考えられているが、つづくナトゥーフの人々とはちがい、石刃による鎌刃をまだもっていなかった。

出典:ベルウッド氏/p76

  • ケバラン(ケバラ文化)と幾何学ケバランの違いはあまり大差ないようだが、形態的な特徴以外はよく分からない。
  • ナトゥーフ文化は幾何学ケバランの後継文化。

マドレーヌ文化

マドレーヌ文化は後期旧石器時代。ヨーロッパが中石器時代に入るのはまだ先のこと。

[マドレーヌ文化は]BC18000年~10000年にかけて、北スペインからマドレーヌ文化の名の元になった発見地ラ・マドレーヌがあるドルドーニュ地方と中央ヨーロッパを越え、ロシアに達した。この文化の有名な洞窟画の80%以上は15000~12000年前に描かれている。例えばラスコー、ペシュメルル(ドルドーニュ)、アルタミラ(スペイン北部)などの洞窟画である。マドレーヌの狩猟民は半遊牧の生活をしていたが、動物の家畜化も始めていたかもしれない。

フランスでは人口が最寒期の三倍の6000~9000人に増加したとはいえ、人口密度はまだ非常に低かった。彼らは現在の遊牧民のように20~70人程度の一族で暮らしていたと想像できる。そのほうが争いの程度も大きくなりすぎないからだ。このグループは組織化され、500~800人ほどのより大きなグループ、あるいは部族になっていたかもしれない。[中略]骨格には物理的な欠損と損傷の後がはっきり見て取れる。おそらくすでに社会的階級、つまり階層はあったのであろう。なぜなら、ロシアとイタリアにある墓からは、象牙や動物の歯から作られたおびただしい数の玉が発見されており、それは被葬者の衣服を装飾していたものに違いないからである。子供に豪華な装飾品が見られるケースでは、子ども自身の功労によるものではなく、単に相続順位によるとみて差し支えない。旧石器時代の間にすでに原始時代の平等社会は終わり、ステータスシンボルの役割はますます重要になっていた。

出典:ベーリンガー氏/p53-54

  • BC◯◯年と◯◯年前が混じっているので注意。
  • 「遊牧」「遊牧民」という言葉があるがこれは遊動(非定住)性狩猟採集(民)の訳し間違いだろう。



*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:Last Glacial Maximum<wikipedia英語版

*4:上巻p579

*5:上巻p60

*6:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p51

*7:ミズン氏/上巻/p49

*8:ダウンロード先はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Sea_of_Galilee#/media/File:JordanRiver_en.svg

*9:「細石器<wikipedia」参照

*10:原書房/2015(原著も2015年に出版)

先史:ネアンデルタール人の文化からホモ・サピエンスの文化へ

少し前にホモ・サピエンスの出アフリカの記事を書いた。「出アフリカ」の前後の西アジアとヨーロッパはネアンデルタール人が「支配」していた。彼らの文化はムスティエ文化(ムステリアン、Mousterian)と呼ばれ、中期旧石器時代に入る。

ホモ・サピエンスはアフリカから独自の文化を持って西アジアに進出し、ムスティエ文化と交わって新しい文化を作った。西アジアではアハマリアン、ヨーロッパではオーリニャック文化(オーリナシアン)がそれぞれ発展した。オーリニャック文化は後期旧石器時代になる。オーリニャック文化の初期、4万年前にネアンデルタール人は絶滅する(ホモ・サピエンスの「親戚」、絶滅する参照。

ルヴァロア技法と石刃技法

両方共打製石器をつくる技術。打製石器の変遷の簡単な説明は「打製石器<世界史の窓」でされている(スケッチ有り)。

ルヴァロア技法

ルヴァロア技法はムスティエ文化の石器をつくる代表的な方法。

「Levallois technique」でyoutube検索したらLevallois techniqueという動画が見つかった。一つの大きい石の端を別の石で砕いて鋭利な刃を作り、それでできた石器を割いた枝に差し込んで石斧を作るところまで「実演」している。おもしろい。

石斧に使われた石器を石核石器と言い、石核から剥ぎ落とされた石を石器として使う場合剥片石器と言う。「剥片石器<wikipedia」によれば、これらは「尖頭器・石槍、石鏃、石匙、石銛、石篦、石錐、石鋸など」として使われた。

石刃技法

石刃技法はブレード技法とも言う。

打製石器<世界史の窓」にある石刃技法に一番近い動画は「Blade Core Technique」だ。手を怪我しそうでこわい。それとこの動画には無いが石核を作るまでが大変そうだ。

ブログ『雑記帳』の紹介

雑記帳

先史関連の事項をネット検索する時、高確率で検索されるのがこのブログ。ブログタイトル通り雑記帳なのだが、Natureなどの最新の論文の情報を紹介して解説までしてくれる。私は先史関連の本を読み始めたのが数ヶ月前なのでこういうブログがあると本当に助かる。ただし私には理解できない部分も少なくない。

「出アフリカ」後の西アジア

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

上記の『雑記帳』で大津忠彦・常木晃・西秋良宏『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社、1997年)が紹介されていた。記事タイトルは「旧石器時代の西アジア」。

詳細はリンク先参照。私には理解できない部分が多い。

同ブログの記事「現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」も踏まえて、一番単純な流れを書こうとすると

ムステリアン+アフリカ由来の文化→エミラン→アハマリアン→ケバラン(ケバランはepipaleolithic続旧石器時代)。

ちなみに、wikipedia英語版だと

Mousterian(600,000–40,000BP)→Emireh culture(circa 30000BCE)→Antelian(c.30,000–c.18,000BCE)→ケバラン(c.18,000–c.12,500BC)

となっている。Antelianアンテリアンはアハマリアンの時期に相当するらしいがよく分からない。アンテリアンもしくはアハマリアンはヨーロッパにおけるオーリニャック文化(オーリナシアン)の時期の文化だが、西アジアにもオーリニャック文化が「外来種」として存在した。

現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」のリンク先のナショナルジオグラフィックの記事から引用。

道具作りの観点では、古代から現代へ人類の行動が移り変わる過程は、約5万年前の「エミラン」と呼ばれる石器の様式にはっきりと現われている。だが、1951年にイスラエルガリラヤ湖付近の洞窟で、尖頭器や石刃、削器をはじめとするエミランが初めて発見されて以来、高度な道具作りがどこで始まったのか、考古学者らはずっと頭を悩ませてきた。 [中略]

ローズ氏とマークス氏のシナリオによると、7万5000年前、アラビア半島の気候が急激に変化し、干ばつに見舞われた結果、道具を作る人々が北部の中東地域へと押しやられた。

一方、中東は6万年前からより湿潤な気候へと変化し、動物や狩猟民は北部に集まっていった。そこで現生人類は大きなブレイクスルーを成し遂げる。祖先のヌビア人がしていたように石を上から下へ一方向に砕いて1つの石から1つの道具を作る代わりに、上下両方向に砕いて1つの石から複数の細長い石刃を続けて作る方法を編み出したのだ。それは、エミランとそれに続く上部旧石器時代における決定的な特徴である。

出典:ネアンデルタール人と人類の出会いに新説<ニュース2015.03.02<ナショナルジオグラフィック日本語版

上は数ある仮説の中の一つ。通説ではない。

アハマリアン(アンテリアン)の時期については詳しいことは分からない。関連資料が少ない。

ヨーロッパの文化の変遷

欧州におけるホモ・サピエンスの初期の文化といえばオーリニャック文化(オーリナシアン)が有名だが、ムステリアンとオーリナシアンの間に「移行期文化」というものがあり、これらのうち幾つかがホモ・サピエンスの最初期の(ヨーロッパ進出の最初の)文化とされる。

別のシナリオとしては西アジアの前期アハマリアン文化がヨーロッパに伝播してプロト・オーリナシアン文化になった*1

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出典:Aurignacian<wikipedia英語版*2

  • 「26」のレヴァントの辺りに飛び地のようにオーリナシアンがある。

ブログ『雑記帳』の記事「7000年前頃までのヨーロッパの現生人類の遺伝史(追記有)」に「47000~7000年前頃の51人のユーラシアの現生人類(Homo sapiens)のゲノムを解析したゲノムした研究」とその報道が紹介されていて、それによると、

オーリナシアン(~34000-26000年前)→グラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)(34000-26000~19000年前)→マグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)(19000~14000年前)

14000年前になると、「現代の中東の人々と遺伝的により密接に関連した集団がヨーロッパに広範に進出する」とのこと。この研究結果はゲノムの解析によるものだということを注意しておこう。

気候変動と文化の変容

最終氷期というと長い間続いたと一般には思われているが、実際は短い周期(氷床コアの研究において発見され、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれる)で気候が激しく変動していたことがわかってきた。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。最寒冷期の直前は多くの地域では砂漠も存在せず、現在よりも湿潤であったようである。特に南オーストラリアでは、4万年前から6万年前の間の湿潤な時期にアボリジニが移住したと思われる。

出典:最終氷期wikipedia

「Dansgaard–Oeschger event<wikipedia英語版」によれば、この現象は北半球において顕著だった。ネアンデルタール人はこの気候変動の激変に翻弄され、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出によりとどめを刺されて滅亡した(4万年前)。

ホモ・サピエンスももちろん影響を受けた。この激変の中で新しい文化を創出していった。

オーリナシアン期にはすでに石器の他に骨角器*3が使用されるようになった*4

グラヴェティアン期に入ると以前より小さくて鋭い石器が使われるようになった*5。さらにこのころは、季節で移動するアカシカが通る 峡谷にキャンプを張って大量の獲物を狩猟したり、小動物を狩るために網を利用した*6

さらにグラヴェティアン期の話だが、毛皮のためにホッキョクギツネやノウサギを狩り*7、大量の食料を得るためにマンモスを狩った。特にマンモスは非常に効率的で新しい狩猟法を編み出し大量に狩猟することができた*8。この頃にはすでに針があり裁縫技術があった。

こうして寒冷期でも人口を増やす傾向にあったようだ。

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出典:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p101

もう一つ貼り付け。

f:id:rekisi2100:20170722091419p:plain
出典:シップマン氏/p183

中緯度まで広がるステップ・ツンドラ

f:id:rekisi2100:20170722091033p:plain
最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生。灰色は氷床に覆われた地域

出典:最終氷期wikipedia*9

上のように北半分のヨーロッパは「ステップ・ツンドラ」だった。

steppe-tundra
A very cold dry-climate vegetation type consisting of mostly treeless open herbaceous vegetation, widespread during Pleistocene times at mid-latitudes of Eurasia and during some phases in North America.

出典:steppe-tundra<wikitionary

拙訳:ほとんどが木が育たず草原が開けた植生の地域。過半の更新世のユーラシアの中緯度、または北米の幾つかの時期に見られた。

  • 上述のシップマン氏の本には「ステップ・ツンドラ」ではなく「マンモス・ツンドラ」と書かれている。この地域はマンモスが生息する地域だからこう言われているらしい。そしてこの地域に住んでいたホモ・サピエンスは生活のかなりの部分をマンモスに負っていた。

ミズン氏の『氷河期以後 (上)』(p28)やフェイガン氏の『古代文明と気候大変動』(p42、p53-57)でもその地域の厳しさを叙述していたが、以下の引用だと少し異なる。

最終氷期の頂点だった約二万年前に、大河の水は涸れた。氷河は水分を凍らせ、地面は奥深くまで凍りついた。こうしたことは、恐ろしいように思える。しかし、最近の研究では驚くような好ましいイメージが示されている。ヨーロッパでは人類の生活条件は非常に快適ですらあったのである。気候はきわめて安定していた。天気は今日に比べ、はるかに変わりにくかった。夏には穏やかな好天が続いていた。冬は一貫して厳しい寒気が居座っていたが、最低気温でも極寒にはならず、乾燥した気候だった。氷期の冬は、冬のさなかでも日光浴ができる今日のアルプスの晴れ上がった冬にたとえられよう。平均気温は今日より4~6℃低かったが、乾燥していたため、不快ではなかった。春の訪れは遅かったが、夏には気温はおよそ20℃に達した。

気温が低かったため、植生は著しく制限されていたが、氷期の中部ヨーロッパのツンドラは、極圏のツンドラとは全く異なる。この緯度では日光の照射は常に変わることなく強く、夏は暖かく、雪解け水に育まれて植生は豊かで、それが動物に豊富な植物を提供していた。氷期ツンドラは、大型獣が豊富という点では東アフリカのサバンナに引けを取らなかった。そこでは大型動物相を形成することができたが、それには装飾のお大型哺乳類のマンモス、毛サイにとどまらず、オーロクス、ヘラジカ、シカ、ホラアナグマ、そして大型肉食獣のライオンやハイエナも含まれていた。肉食獣と同じように初期の人類も屍肉を食べて生きることができた。そのうえ「天然の冷蔵庫」の中で、それは簡単に冷凍保存されていたのだ。さらに初期の人類は新しい能力を発達させた。大型動物の狩猟である。

出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p50

上の記述が本当かどうか分からないが載せておく。

ちなみにミズン氏・フェイガン氏の記述だと、寒い時はマイナス30℃に達し、9ヶ月の寒気に耐えなければならない、とのこと。ちなみにミズン氏の記述は1985年の参考文献を用いている。

とにかく、ホモ・サピエンスは「奥深くまで凍りついた」地面つまり永久凍土層の上で暮らしていた。こんなに寒い場所で暮らせたのはホモ・サピエンスが「針」を使うことができたからだとフェイガン氏は主張していた。*10



*1:人類進化史を更新―石器に見る「技術革新」にヒント―/名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部/2015/06/10

*2:著作者:Hughcharlesparker ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Aurignacian#/media/File:Aurignacian_culture_map-en.svg

*3:骨角器<wikipedia

*4:オーリニャック文化<wikipedia

*5:Gravettian<wikipedia英語版

*6:Use of animals during the Gravettian period<wikipedia英語版

*7:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p170-171

*8:シップマン氏/p179/ただし狩猟法の中身には触れていない。p174では「マンモスの狩りが高い頻度で成功するようになったのは現生人類の出現による」と書いてある。

*9:ダウンロード先はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%B0%B7%E6%9C%9F#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.pnghttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Last_glacial_vegetation_map.png#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.png、改変

*10:フェイガン氏/p54