武帝治世の朝鮮半島北部に衛氏朝鮮という国があった。衛氏朝鮮の王は漢人で、現地諸民族の併呑と漢からの流入者で国は栄えた。三代目の朝鮮王が漢の言うことを聞かなくなったため武帝はこれを攻め滅ぼした。約1000字。
前108年 衛氏朝鮮、滅亡。「漢四郡」が置かれる。
衛氏朝鮮の興亡
衛満
生没年不詳。衛氏朝鮮の建国者。紀元前2世紀初めの中国、燕(えん)の人で、『史記』によれば前195年、燕王の盧綰(ろわん)が漢に背いて敗れるや、衛満は魋結(ついけつ)(さいづち髷(まげ))をし、蛮夷(ばんい)の服を着て、1000余人を率いて水(はいすい)(鴨緑江(おうりょくこう))を渡り、朝鮮の地に移った。そこで土着民や燕、斉(せい)の亡命者を治め、王険城(おうけんじょう)(現在の平壌(ピョンヤン))に都を定めて衛氏朝鮮を建てた。[後略][浜田耕策]
その後、衛満は呂后治世の時代に漢の外臣となり朝鮮王となった。つまり衛氏朝鮮は外藩(属国)となった。衛氏朝鮮は周辺の諸部族を併合して朝鮮半島の大半を領土とした。
衛満の孫、衛右渠(うきょ)治世の前後より漢の亡命の流入を認め、さらには入朝しなかったばかりではなく、辰国・真番国などの近隣の諸小国から漢に入朝しようとする使者の通行を妨害するようになった。
前109年、漢はこれを詰問するために使者を派遣したが右渠はこれにも従わず、ついに武帝は朝鮮討伐の出兵を命令した。
討伐軍のまずい攻めのために、戦争は長引いたが、前108年に衛氏朝鮮は滅んだ。
その後、漢は朝鮮に漢四郡を置いた。半島南部を除いて漢の直接統治の地となった。*1
その後の半島の変遷
- 紀元前108年 - 漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置く。
- 紀元前82年 - 真番郡、臨屯郡を廃する。
- 紀元前75年 - 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
出典:漢四郡<wikipedia
漢による朝鮮半島経営は成功しなかった。
古代朝鮮半島の歴史は古代日本列島の歴史と絡んでくるのでこの話はいつか別の記事でやる。