前6世紀末になると春秋時代もいよいよ終わりに近づく。
この頃、晋の内部では権力争いが繰り広げられ、その間隙をついて楚は北侵を度々するのだが、その楚も呉からの度々の攻撃に手を焼くようになった。
楚が脅威では無くなり、晋が頼りにならなくなる状況で、晋による覇者体制は崩壊する*1。
これと入れ替わるように、春秋時代末期は、呉と越の時代になる。
春秋時代の諸国
呉と闔閭と夫差
闔閭より前の史実はよく分からない。
「昭王 (楚) - Wikipedia」によれば、昭王(在位:前516-489年)の代には「東方の呉による連年の侵攻に悩まされるようになった」とある。
この頃の呉の君主は呉王・闔閭(前514-496年)だ。闔閭は前506年の柏挙の戦いで楚の王都である郢を陥落するほどの大勝をした。しかし闔閭は前496年の越との戦いで負傷し、これが元で死去した。
父・闔閭を継いだ夫差(前495-473年)は前494年に越を攻め大勝し先代の雪辱を果たし、越を属国とした。この後、夫差は中原の方へ関心を向け、覇者になることを目指した。前482年、諸侯を集めて会盟を開いていた時、越が呉に攻め込んで太子・友を捕虜としたが、その後、処刑した。
この4年後(前473年)、呉は越に滅ぼされる。
越と句践
南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる(越 - Wikipedia )。
越が歴史に登場してくるのは允常(?-前496年)の頃で、呉が楚に侵攻している隙に呉に侵攻を繰り返していたようだ。
越と呉の抗争は以上の通り。呉を滅ぼしたのが、允常を継いだ句践(前496-465年)だ。呉滅亡の後、句践は諸侯を集めて会盟を行い覇を唱えた。
ただしその後の記録がほとんど残っていない。句践の代より既に越の衰退は始めっていたとあるようだが、詳しい越の歴史は分からないままだ。
戦国時代に入り、越は前333年、楚の威王により滅ぼされた。
時代の変化の過渡期
冒頭で書いたように晋による覇者体制が崩れ、晋だけでなく、他の諸侯国の内部でも、上級貴族による権力争いが頻発していた。春秋時代を通して有った秩序が崩壊し始めた頃、呉越の活躍が突如として現れた。言い方は悪いが、呉越の活躍は横綱・大関不在の場所での平幕優勝レベルの話だったのかもしれない。
呉越の戦いの物語は大変魅力的で、幾つもの小説になっている。この物語より、臥薪嘗胆や呉越同舟、「会稽の恥を雪ぐ」などの故事が残っている。「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る」は韓信の言葉だと思ったが、韓信の元ネタは越の軍人であった范蠡のセリフだった。
物語の登場人物も魅力的だ。呉の伍子胥・孫武、越の范蠡と傾国の美女・西施。西施の描き方は作家の腕の見せ所だろう。
ただし、この物語から史実部分だけを抽出すると、歴史として語ることが少ない。
*1:前506年の召陵の会・皐鼬の盟以降、諸侯は会盟を行わなくなった