歴史の世界

儒家(1)孔子(時代背景)

晋の「覇者体制」が崩壊して無秩序の世の中になった時、諸侯たちは新しい秩序を求めるようになった。その要請に答えたのが孔子であり儒家儒教であった。

これより数回に亘って孔子および儒教について書いていくが、この記事では孔子が登場した時代背景を書いていく。

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湯島聖堂にある孔子

出典:孔子 - Wikipedia *1

国内外における秩序の崩壊

春秋時代は以前に書いた通り、「覇者体制」によって晋が支配し、混乱は少なくなかったけれども、一定の秩序を保っていた。(晋の文公/晋による覇者体制 )。しかし前6世紀後半にこの体制は弛緩し、前6世紀末に崩壊する。この秩序の崩壊により、弱肉強食の戦国時代に突入していく。

さらには、諸侯国間の秩序崩壊と同時に、諸国の国内でも秩序が乱れ内乱が続発するようになった(支配階級の変遷 )。

知識人の増大

弱肉強食の実力主義の時代に入り、負け組は職を失ったり逃亡・亡命しなければならなかった。他方、勝ち組の方も統治機構に必要な人材が不足することとなる。

そして、勝ち組は有用な人材の補充に迫られ、負け組は別の国へ移って職を探したり、あるいは学問集団を作った。

そして負け組ではない人々も職(あるいは権力)を求めて学問集団へ入会したり独自に学んだりして知識を得た*2

こうして知識人の裾野が広がった。

諸子百家の幕開け

諸子百家とは「中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称」だ*3。学問の隆盛は戦国時代に入ってからになるが、春秋時代から始まる。そして諸子百家の筆頭にくるのは儒家であり、孔子だった。

知識人の拡大により、玉石混交のアイデアが世に披露され、その中で秀でたものだけが後世に残る。孔子の思想もその一つだ。

以下は儒教に関する引用。

天の崇拝は中東から中央アジア北アジア遊牧民の間に広く見られます。孔子の時代の中国では、すでに定着農耕が広く行われていましたので、農耕民の間では、天は母なる大地に豊かな稔りをもたらす父の威力と感じられていました。

古代、天は天帝ともいわれる人格神として信仰され、王朝の君主は天帝の意志によって立てられたり、廃されたりするものと考えられていました。こうした天帝信仰を背景として、知識人の間では、天を世界のあらゆる物事を律する法則とみなす思想が生まれてきました。そして、やがては宗教的な信仰とは別に、孔子のように世俗的・非宗教的な道徳思想や哲学が中国に盛んとなっていったのです。

出典:呉善花/日本人として学んでおきたい世界の宗教/PHP/2013/p211-212

天の崇拝は周王朝が中原にもたらしたもので、周王朝が健在だった時には上のような議論をすることはおそらく恐れ多くてできなかっただろう。それが議論できるようになったのは、周王朝の権威の失墜とその権威の守護者を自任していた晋の権力の失墜のせいだろう。

このような学問の自由は、秦による中華統一の中で圧迫され焚書坑儒の号令で煙となって消滅した。もしかすると現代まで続く中国史の中で学問の自由が一番あった時代はこの時代なのではないだろうか。

時代に要請された孔子の登場

周王朝の朝廷では、定まった期日に、天地や祖先神、山川の神霊を祭る祭祀儀礼が行われた。また天子の即位や葬儀、諸侯や使節の入庁などに関しても、煩瑣(はんさ)な儀礼が執り行われた。人々はこれらの儀礼を唯一の行動規範と仰ぎ、それに厳格に従って行動するように求められた。礼法に服従し続ける限り、人々は自己の主体的な意思や感情のままに、好き勝手に振る舞うことを禁じられ、身分制に基づく一定の様式の下に、常に身のほどを思い知らされながら、受け身の言動を取らざるをえなくなる。したがって王朝儀礼の遵守は、人々を天子の権威に服従させ、王朝体制を強固に維持する上で、重要な役割を果たす。体制側の人間、保守的な人間が、決まって儀礼の尊重を口にするのは、そのためである。

だが封建された諸侯の力が強大になって、天子の命令に従わなくなれば、彼らは当然、周の王朝儀礼をも無視しはじめる。特に有力な諸侯は、天子が独占してきた儀礼を自国の朝廷内で勝手に実施し、己の分を超えて、自らを天子に擬す僭越をくり返す。

このように王朝体制の弱体化と王朝儀礼の衰退とは、表裏一体の現象であるかのように進行する。そこで王朝儀礼をもう一度復活させれば、王朝体制の弱体化も阻止できるとの発想が生じてくる。そのために、失われつつある古代の礼制を復元しようとするのが、礼学とよばれる学問である。

出典:浅野裕一/古代中国の文明観/岩波新書/2005/p63-64

儒教は、日本では道徳の教えのように思われているが、その本質は礼学だった。

礼学は上に書いてあるように、TPOにおけるマナーについての学問だけではなく、上下関係を含む秩序の論拠を示す、つまり現状の上下関係を正当化して秩序を築くための学問である。

ただし孔子は周の王族でもなければ、諸侯の系譜ですらない。彼は下級役人か庶人と言われている。結局のところ、孔子の礼学はわずかな断片的な情報を思い込みで繋げたシロモノでしかなかった。

このような人物が教える礼学が採用されたのだから、よっぽどこの時代は混乱していたのだろう。

孔子の人生や思想については次回書こう。



*1:著作者:あばさー - 本人撮影

*2:役人になれば賄賂は取り放題。中国の官吏の生計は賄賂で成り立つ。清官三代

*3:諸子百家 - Wikipedia