前回からの続きで今回も孟子について。
天命
天命の概念は孟子が作った言葉ではないが、孟子の思想を知る上で重要なものだ。いや孟子だけではなく、中国の思想を知る上で重要。さらには日本の思想にも影響してくる。
天とは?
天
天や天空を崇拝の対象とする民族は少なくないが,そのような信仰形式をもっとも古くから発達させたのは内陸アジアの遊牧民族であった。おそらくその日常生活が天体の観察と切っても切れない関係にあったからと思われる。こうして古代アジアの諸族において天そのものを神とみる観念が生じたが,やがてそこから天をもって世界に秩序を与える力の根源とする見方があらわれた。すなわち古代中国の〈天命〉や古代インドの〈リタ(天則)〉の観念がそれである。出典:世界大百科事典 第2版/平凡社<天(てん)とは - コトバンク
天の神格化の観念を中国にもたらしたのは周族(周王朝)だ。彼らは現在の関中(西安の周辺)に住んでいた牧畜民と言われているが、中央アジアの遊牧民(または牧畜民)からこの思想を受容したのだろう。あるいは周族が中央アジアから流れてきたのかもしれない。西周代を通して天の観念は中国に浸透した。
中国思想と天下
中国人は古代以来近代に至るまで、終始「天」に対する信仰ないし尊崇の念を抱いていた。天は天空であるが、単に自然現象としての天空であるだけでなく、天は造物主ないし造化の根源であって、人およびその他万物を生み出し、自然界・人間界を主宰し、それらの動きはすべて天命(天の意志)に従って営まれるものと考えられた。だから、人間の住む世界全体を天下といい、それを統治する支配者は天子と称し、天子は天命に従ってその地位につき天下に君臨するものと考えた。また天は人間の生活を取り巻く自然環境の最大のものであるから、本来人間は天に順応し天との調和を図りながら生きてゆかなければならないのであるが、天はさらに上記のとおり人間界のもろもろの営みの主宰者でもあったから、人のなすべきことすなわち「人の道」は「天の道」を模範とし、要するに人は天に随順して生きるべきものと考えるのが中国の伝統的な思想であった。なお、「天下」の観念に関連して華夷(かい)思想というものがあった。漢民族独特の民族意識の現れであって、中華(華夏)という高度の文化をもった漢民族に対して、周辺の異民族を夷狄(いてき)と称して文化の低い野蛮人とみなし、夷は華の文化を仰ぎ華に服属すべきものとし、中華の文化の及ぶ限りの地域が天下であって、それが世界のすべてであると意識した。
出典:日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館<中国思想(ちゅうごくしそう)とは - コトバンク
上のような考えは もちろん中華思想にも関連している。「中華の文化の及ぶ限りの地域が天下であって、それが世界のすべてであると意識した」ということだから当然といえば当然だ。
漢民族が古くからもち続けた自民族中心の思想。異民族を卑しむ立場からは〈華夷(かい)思想〉とも。初めは周辺の遊牧文化に対し,自己の農耕文化の優越を示したが,春秋戦国時代以後は礼教文化による,天子を頂点とする国家体制を最上のものと考え,夷は道からはずれた禽獣(きんじゅう)に等しいものとして,異民族を東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ。基本的にこの思想は現代まで続いている。
出典:百科事典マイペディア/平凡社<中華思想(ちゅうかしそう)とは - コトバンク
「三つ子の魂百まで」という言葉があるが、中国では二千年以上も前の思想が今でも深く根付いている。
天命
さていよいよ天命の話。
天命も周族から中国に輸入された概念。『史記』周本紀に周の文王が天命を受けたことが書いてある。これが作り話だとしても、西周の三代目康王の代に作られたという大盂鼎という青銅器に刻まれた文章に「殷の諸侯や百官が酒に溺れたことが原因で天命を失い、代わりに天は周の文王に天命を授けた」という趣旨が書いてある*1。
春秋時代には秦の諸侯が天命を受けた天子と称したことを始め、複数の諸侯が天子と称した。属国以外は彼らを天子とは認めていなかったが*2。天命思想は戦国時代にも受け継がれ孟子が自分の主張にこの思想を採用している。その主張が易姓革命だ。
易姓革命
易姓革命の易姓は「姓が易(か)わる」、革命「天命を革(あらた)める」という意味。別の言葉で言えば王朝交代だが、易姓革命は武力革命(放伐)による王朝交代を指し、合意の上で王朝交代することを禅譲という(ただし禅譲は、魏の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けたように、事実上は簒奪である)。
孟子が言うところによると、殷と周の間の武力革命は殷が天命を失い周が天命を授かった結果だ、ということになる。武力による覇道を否定する孟子が武力革命を肯定することに矛盾を感じるのだが、どういう理屈を展開したのだろうか?
孟子に言わせれば、仁政を施して民衆の生活を保全し、正義を守って邪悪を禁じてこそ君主なのであって、たとえ名目は天子であろうとも、残虐・無道な悪政を行う者は、もはや君主扱いする必要はない。孟子は、暴君など匹夫扱いで構わないと断言する。
したがって、暴虐な天子が君臨する場合、諸侯が兵を挙げてその王朝を打倒し、自ら新王朝を樹立したとしても、それは単に凶悪犯を処刑したに過ぎず、君主を弑逆したことにも、君位を簒奪したことにもならないのである。
かくして孟子は、天子が暴虐な場合との条件付きながら、武力による易姓革命を積極的に肯定した。もっとも湯王や武王による武力革命は、墨家をはじめとして、古代中国の思想家たちがひとしく承認するところであって、当時その是非が論争の的になっていたわけではない。ただ孟子の発言が突出して明快だったので、後世の人々から、孟子の特色として特筆されるようになったのである。
出典:浅野氏/p86
さて、『孟子』盡心(尽心)章句下には「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」とある。
つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。
安定した中国王朝において孟子の易姓革命と上のような主張は危険思想と受け取られたに違いない。秦代は焚書坑儒を行なったが、孟子の思想は宋代になるまで評価されなかった(孟子 - Wikipedia)。
しかし、上にあるように易姓革命つまり庶民に益しない天子・王朝は滅ぼして良いという考えは「古代中国の思想家たちがひとしく承認するところ」であって、現に中国史はそれを繰り返している(現在進行形)。
松本健一氏によると、天皇に姓が無いことは孟子と関係がある、という。
- 作者:松本 健一
- 出版社/メーカー: 昌平黌出版会
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