歴史の世界

道家(22)荘子(斉物論篇 その2)

前回からの続き。

荘子』の作者、荘周にとって最大の関心事は、……「我(わたし)」という人間の主体性に関する問題を解くことであった。

そして、《人間が主体性を持つためには、万物の支配者(真の主宰者、世界の主宰者)である「道」を体得することである》。

ここまでは前回までに書いたこと。

この記事では、真の主宰者=「道」と『荘子』を代表するキーワード「万物斉同」について書く。

真の主宰者「道」

以上の前置きの後、作者は方向を転換し、世界の主宰者をいわゆる「道」の中に求めて、次々に重厚な思索を展開していくのであるが、究極的な目標が人間としての真の生を定立すること、すなわち人間が自己疎外を克服して世界の主宰者となることに置かれている点は、我々読者もまた重厚に受けとめなければならない。(p6)

では『荘子』のいう「道」とはどういうものなのか?

ここでは西野広祥氏の訳を引用する。

しかし、一般には可とか不可のちがいがうるさい。可を可といい、不可を不可といわなければ気がすまないかのようだ。

「道」はもともとあったものではなく、何人かの人々の行為が「なにか」にかなっていて、その「なにか」が「道」と呼ばれるようになったのである。これとおなじように、何人かのひとが「然り」とか「可」とか言ったものが、しだいに「然り」とか「可」などの概念になったのである。

しかし「然り」とか「可」とか言われるものは、もともと同時にすべて「然らず」「不可」でもあるのである。

したがって、ワラの茎と太い柱、ハンセン病患者と西施(美人の代表とされる)は、いずれもまったく対照的で大きな相違であるが、「道」という観点からすれば、おなじなのである。

破壊することと建設することについてもおなじことがいえる。破壊することは建設することに通じるのであり、建設することは破壊することに通じるのである。

このように、万物はたがいにちがうようでいておなじものだ。

出典:西野広祥/無為自然の哲学 新釈「荘子」/PHP研究所/1992/p58-60 *1

荘子』によれば、可も不可も、人・物の優劣も「道」の観点からすれば同じだ。

これが、「万物斉同」の考えの一部だ。

万物斉同と「道」

さて、池田氏の解説に戻る。

以下の引用は万物斉同の全貌を簡潔に説明すると共に、万物斉同と「道」の関係まで説明している。

作者[荘周のこと──引用者]は世界の主宰者を求めて、哲学史の上に現われて既存の「道」とそれに関する「知」「言」とを次々に批判的に検討していく。探求の過程は以下のとおり。

まず第一に、「愛」や「喜怒」などといった感情的判断を、真の「道」を覆い隠す役割しか果たしていないが故に論外であると言って否定・排除(潑無)する。

次に第二に、あれ「彼」とこれ「是」の間に好い「可」と悪い「不可」の区別を認める価値的判断をも、誤りであると考えて否定・排除する。

されに第三に、あれとこれが事実の上で異なると認める事実的判断をも、「偽り」であると見なして否定・排除する。その結果生じた世界が「万物斉同」であり、この段階の「知」を作者は「天地は一指なんり、万物は一馬なり。」と表現している。

しかし第四に、「万物」が「斉同」であるためには、それが「有」であることは許されず「無」でなければならないとして、ついに存在の判断を否定・排除し、世界の真の姿を「斉同」なる「無」すなわち「一つ」の(混沌たる)非存在と認めるに至る。このことが可能になるのは「我」(わたし)の完全な「無知」「無言」によってであり、この時「我」は世界と「一つ」になっているが、このようにして定立された「斉同」なる「無」こそが「道」と呼ばれるものであった。そしてまた作者は、このようにして世界そのものとなった「我」のあり方は、自己疎外を克服して世界の主宰者となった、人間の最も主体的な生き方でもあると考えるのである。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p6-7

「道」の観点からすれば、人・物の優劣や出来不出来は無きに等しい(斉しい)。これは「人間は神の前では皆平等」という唯一神宗教と同じ考えだが、『荘子』の「道」は もう一段深化して、「馬と鹿」「サルとヒト」の区別さえ否定・排除する。

そういうわけで、「道」の観点からすれば、万物はみな斉(ひと)しい、すなわち「天地は一指なんり、万物は一馬なり」(天も地も一本の指と同じものである、万物は一頭の馬とおなじものである)という考えに到達する。そしてこれが「万物斉同」だ。

さて、最後に『荘子』の「道」の話に入る。

上の引用を私なりに解釈すると、《万物斉同で、個々の区別すら否定・排除された『荘子』が描く世界は「一つ」あるいは「無」であり、その「無」こそが「道」である》。

ここで「一つ」と「無」の関係がわかりにくいので、『荘子』の現代語訳を引用しておく。

天地はわれとともに一つであり、万物はわれとともに一つであるという「道」を体得した者の見地からすれば、比較の対象は存在せず、したがって、大とか小とか、長とか短とかの観念はいっさいないのである。

すべては一つなのである。しかし、すべては一つとすれば、すでに一つという観念がうまれているだろうか。すでに一つという観念が生まれていれば、2つという観念もあるはずである。そして一つと2つがあれば、三つという観念もあるはずであり、さらに、その先となると、凡庸な人間はおろか、算術の名手でさえ数えきれないことになる。

となると、「無」の段階から「有」の段階を考えただけで、すでに少なくとも三つの段階を考えていることになる。

したがって「無」の段階も「有」の段階も考えるべきではない。ひたすらそうした観念とは無縁の「道」の世界にたちかえらなければならない。

出典:西野氏/p67

万物斉同」つまり万物は斉しいという立場からすれば、世界には「有」と「無」の区別の存在しない。よって世界は「一つ」であり「無」であり(「有」は無い)、ということになる。

そして、一つ前の池田氏の引用にあるように、《「斉同」なる「無」こそが「道」と呼ばれるものであった》。

  *  *  *

さて、『荘子』の「道」は『老子』のそれとは随分と違うようだ。『老子』の「道」は慣習・秩序・伝統などと読み代えられることが多かったが、『荘子』の「道」は慣習の中の価値判断を否定・排除してしまっている。人間がこれまで蓄積してきた「知」「言」(知識と言葉)は全て否定・排除されている。

(つづく)



*1:可乎可,不可乎不可……凡物无成與毀,復通為一