歴史の世界

兵家(3)孫子(春秋時代後期の戦争)

今回も時代背景の話。

戦争そのものの変化

新しい戦い方は、春秋時代後半に次第に広まってきた。ただしその原因や結果は、戦争の規模が拡大したことにあるのかは明確には言えない。いずれにせよ、当時の国々が行った改革のおかげで徴兵軍が一般化したのが、まさにこの時期に当たる。さらに言えば、戦場は河川の多い中国大陸の南部に広がってきたのであり、これによって艦船・水運システムが発展し、水上戦が当たり前のこととして行われるようになったのだ。同時に、軍が直面する地勢状況のおかげで、戦力の中心が戦闘馬車から歩兵へと移り変わってきた(ただし歩兵と戦闘馬車を含む共同作戦は続けられた)。軍事作戦の烈度が新たなレベルに到達すると、戦争はさらに長期化して暴力的なものになってきた。この新しい戦い方により、浸透、連続作戦(continuous operations)、側面方位機動(outoflanking movement)、そして包囲などを可能にするために、軍隊にさらなる機動性が求められるようになった。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p76‐77

  • 著者は歴史家ではなく戦略学専門の人。

上では言及されていないが、春秋後期は次第に中原の秩序が乱れていく時期だった(孔子の登場 その1 時代背景#国内外における秩序の崩壊 参照)。

戦争というものが(スポーツのような)ルールのある戦いから「長期化して暴力的な」弱肉強食のものに変わっていったのは、秩序の乱れが大きく関わっている、と私は考えている。

いずれにしろ、戦争は「長期化して暴力的」で戦場は水上・山中・攻城・スパイ戦なんでもありのものへと変わっていった。現代の私達がイメージする戦争へ近づいたと言ってもいいだろう。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

「将軍」職の発生

古代中国では、戦争が頻発していたにもかかわらず、とくに戦時において部隊の史記を直接担当して戦争を専門に行う「将軍」という存在は、戦争が段々と激しさを増してきた春秋時代の後半になるまで登場しなかった。ところがこれは、それ以前の時期にこのような役職が存在しなかったというわけではない。『司馬法』の中で使われている「司馬」という名は、まさにこの役職を示すために使われていた。たとえばその著者の田穰苴 *1 は、一般的には司馬穰苴として知られていた。「司馬」にとって軍の指揮は、責務のうちの一つではあったが、その他にも軍政全般や非軍事的な案件についても責任を持っていた。政府高官は、戦時には将軍として使えることはよくあることだったのである。したがって、管仲は有名な国家のリーダーであり、斉の改革者でもあったのだが、軍を直接率いることも多かった。この「政府高官」と「将軍」という複合的な役割は、春秋時代初期においてはごく普通のことであり、この二つの役割の間には明確な線引きがなかったのである。結果として、政治と軍事はかなり密接に絡み合っていた。もちろん孫子自身はかなり「純粋」な将軍に近いのだが、それでも『孫子兵法』が、そのデザインや方向性として大戦略的であることは、以上のような状況からもおわかりいただけるはずだ。

政府高官と将軍の役割の明確化は、春秋時代後半から徐々に定着し始めたのだが、そのプロセスは、戦国時代になるまで終わらなかった。この変化の大きな兆しの一つが、軍の幹部が「司馬」ではなく「将軍」という名で知られるようになったという事実である。

出典:デレク・ユアン氏/p80‐81

政府高官は西周初期にはほとんど王族で占められていたが、時代を下るとともに畿内(王都周辺)の大貴族が就くようになった。彼らの多くも(大きくは)王族だったとは思うが、血縁が遠くなれば、利害も一致する部分が少なくなっていったことは想像に難くない。

政府高官から将軍職への分化がなかなか起こらなかった理由は他人に軍(兵)をもたせることへの不安にある。つまり、兵を持つものが敵ではなく自分に向けられるリスクにある。

春秋末期から戦国時代にかけて「将軍」職が当たり前になっていくのだが、上のリスクをどのように防いだのかはよく分からないが、文官であれ武官であれ、官僚は近縁の者から有能な者へと変わっていった。そうしないと国が滅んでしまうからだ。

引用の中で「大戦略」という語がある。私は戦略学は無知なので、翻訳した奥山真司氏の「戦略の階層」の図を貼り付けておく。

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出典:戦略の階層を個人向けに修正 : 地政学を英国で学んだ

ちなみに、『孫子』の後の時代に書かれた『呉子』『孫臏兵法』は基本的に戦術の話が書かれている。



*1:司馬法』は戦国時代に編纂されたものであり、司馬穰苴(田穰苴)の兵法はその一部でしか無い。司馬法 - Wikipediaなど参照