歴史の世界

兵家(4)孫子(春秋時代末期から戦国時代の戦争へ)

まだ時代背景は続く。

しかし今回はいよいよ『孫子』の著者の孫武の登場。

春秋末期。孫武の戦争

春秋末期。中原の社会秩序は凝り固まったまま崩れていく過程にあった。

この時代に、孔子は新しい秩序を提示し、孫子孫武)は新しい戦争のやり方を提示した。どちらも時代の要求に答えた思想・書物だった。

前回の記事に春秋後半から戦争のやり方が変わり、新しい戦争の要素が現れ始めたことを引用した。以下はその続き。

このような新しい要素は、孫子自身がその計画の作成や実戦での指揮において大きな役割を果たした「柏挙(はくきょ)の戦い」(紀元前506年)で初めて見られたのだが、この戦いで孫子は自らが仕えていた呉の最大のライバル国であった楚に対し、8年間続いた戦争の最後に行われた迅速な軍事行動によって、劇的な勝利を収めている。この戦闘では陸軍と水上艦隊の両方が使われ、作戦全般としては機動や連続作戦によって構成され、呉軍の移動距離は2000里(周時代には1里が約415メートル)を越えており、楚の首都である郢(えい)に侵攻する前に、5回連続して戦っている。したがって孫子の「10万の軍を動員して、千里の遠くに出陣することになれば」(第13 用間篇)という記述は、実際はそれほどの誇張ではなかったのである。[中略] この戦いは、春秋時代の軍事作戦の頂点を示し、孫子の最も偉大な軍事面での成功を示したのだ。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p77

春秋後期の中で旧来の戦争の仕方が崩れ、試行錯誤して新しい要素が生まれ、その集大成が上の戦争で表現されたと考えてはどうだろうか?

この戦争以前にこれより完璧な戦争があったかどうかは知らないが、とりあえず、この戦争は新しい時代の戦争の完成形を示した。孫武の戦争の集大成に近いのではないだろうか。後世の戦争指揮者たちはこの戦争と孫武の兵書(『孫子』の原本)をお手本にしたことだろう。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

戦国時代の戦争

前回の記事で引用したように、戦争は長期化して暴力的に変化していった。その結果として消耗戦に突入するリスクが常に付きまとうことになる。

孫子が強調することの一つに、「最上の勝利は(謀略を張り巡らして)戦わずして勝つこと」(謀攻篇)というものがあるが、戦争の仕方が短期決戦から消耗戦へ変わってしまった初期に、孫子は「消耗戦をしていては、勝っても利益はないどころか損をする可能性が高い」ということを警告している。

以下は呉越戦争(孫子がした戦争)の前後の変化。

f:id:rekisi2100:20190617044511p:plain
呉越戦争を契機とする戦争形態の変化

出典:湯浅邦弘/諸子百家中公新書/2009/p214

戦国時代は「専制君主+富国強兵+国民皆兵」の時代に変わっていった。そして国の存亡を賭けて戦争を繰り返した。

前回に書いた通り将軍という職が現れ、将軍は徴兵された国民を使って「多彩な用兵・戦術」を展開した。

前5~4世紀から、遊牧民が中原の境界に現れる。前4世紀末より、秦・趙・燕は北方に進出して長城を構築する一方、趙武霊王は遊牧民の軍装である「胡服騎射」を採用した(中国史 上/昭和堂/2016/p56(吉本道雅氏の筆) )。

孫子』に書いてあるように、大規模な戦争が繰り返し行われた一方で、に外交交渉が行われていた。蘇秦張儀らの縦横家が有名。春秋時代と戦国時代の外交の違いは、戦国時代の外交官が専門職になり、王室・貴族に代わって蘇秦張儀のような一介の遊説家あがりの人物が中心になって時代を動かしていた。

おまけ:あぶみの話

f:id:rekisi2100:20190617091911p:plain

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p231

話は逸れるが鐙(あぶみ)の話。上の絵にあるように戦国時代には鐙は存在していなかった。

「鐙」という漢字が表現しているように、この器具の起源は馬に登る際に使用したものだった。これが乗馬時に体を安定するものに変わっていった。

体を固定するための鐙の 世界史における出現時期については、「鐙 - Wikipedia」には西暦290~300年頃と書いてあるが、複数の説があるらしい。

鐙で体を固定できるということで馬上の戦闘が容易になる。鐙が無い場合でも幼少から乗馬に慣れ親しんた人々(特に遊牧民)はどうにかなったが、そうではない人は乗馬自体に苦労することになる。

鐙の発明の原因は農民国家の中国が遊牧民の騎馬兵に対抗するため、というのが先程のwikipediaに書いてあった。